暴挙に出ました。
「あの……イースティリア様?」
ペフェルティ伯爵家のタウンハウスに戻った後。
客間で後ろから抱き締められて、アレリラは戸惑っていた。
「イースだ」
「あの」
「イースだ」
「……イース」
「何だ?」
「この状況は、何なのでしょう……?」
頬に熱が集まっているのを感じながら、アレリラは恐る恐る問いかけた。
夫婦になってから、肌を重ねはするものの、イースティリア様はスキンシップに近い行動が多い方ではない。
なので、突然こうした行動を取られると、やはり緊張するし戸惑ってしまうのだ。
「交易街に向かう馬車の中で、ペフェルティ伯爵が『夫人に名前を呼ばれた! 笑ってた!』と興奮していた」
ーーー彼は何故、そういうことをすぐに言ってしまうのでしょう?
ボンボリーノの、どうしても理解出来ない部分である。
そして、どことなく拗ねているような気配のするイースティリア様もよく分からず、アレリラは思案した。
「申し訳ありません。それに関しては事実ですが、イースティリア様の行動の理由が不明です」
「イースだ」
「…………イース」
そう呼ぶまで質問に答える気がなさそうだったので、アレリラは羞恥に耐えながら名前を呼ぶ。
あまりにも親しみを込めたその呼び方は、未だに恥ずかしさが拭えない。
「記憶にある限り、私への愛称を、君が自発的に呼んだことはない」
「……わたくしも、ございません」
「君は、私の妻だろう。他の男に対してよりも、私に対して親しみを見せるべきだと考える。間違っているか?」
「いえ、正当な主張である、と、思います、が……」
「異論があるのか?」
「………………恥ずかしいのです………………」
自分でも驚くほど、それを伝えるのに蚊の鳴くような細い声が出た。
思わず両手で顔を覆うと、肩を掴んで振り向かされる。
乱暴な手つきではなかったけれど、力は篭っていた。
「君の気質は、理解している。しかし、君は同様に、私の心情も考慮すべきだ」
「具体的には、どのような話でしょうか……」
正面を向いているのに目を見ないのは失礼に当たる、とは思っているのだけれど、どうしても顔を覆ったまま目を上げられない。
すると、つむじの辺りに向かって、予想外の言葉が降って来た。
「私は嫉妬している」
ーーー!?
嫉妬。
言葉として知ってはいるけれど、まさかイースティリア様の口からそのような言葉が出るとは思わず、アレリラは固まった。
ーーー嫉妬?
「例え話をしよう。君は以前、私が贈った香水を調合しに行った際に、嗅ぎ慣れない香りに戸惑ったことがあったと思う」
覚えている。
それ以前は檸檬の香りを好んで使っていたが、イースティリア様に、もう少し甘みのあるオレンジに似た匂いの香水を贈られたことがあった。
「君の様子がおかしくなったことには、しばらくして気付いた。種明かしをするまでの間、不安を覚えたのではないだろうか」
「事実です」
「他者に心を移したのではと、疑った覚えは?」
「……」
「素直に答えていい。それは原因のあることであり、君に咎のある話ではない」
「信じたい、と、思ってはおりました……」
「君とペフェルティ伯爵の話を聞いた私が、先に述べた理由で類似の気持ちを抱いた、とは想像できないだろうか」
そこまで言われて、ようやくアレリラは腑に落ちた。
顔を上げ、謝罪する。
「申し訳ありません。浅慮でした」
「私は怒っているのではない」
「その……努力致します……」
ボンボリーノに親しみを表したことを怒っているのではなく、イースティリア様に同様の親しみを示していないことが問題なのだ、とアレリラも理解している。
「厳格な面も、貞淑な面も、君の美徳ではあると思うが。……夫として、君に親しみを込めて呼ばれたいという心情は、理解して欲しい」
「十分に伝わりました。ですので、努力致します……」
アレリラは決して、イースティリア様に距離を置いている訳ではないのだ。
イース、という愛称を呼ぶのが、自分でも分からないけれど、どうしても恥ずかしいだけで。
今すぐにどうこう出来る問題ではないので、アレリラは目を泳がせて、他の方法で好意が伝わらないかと考え……後に思い返して身悶えすることになる、無謀な行動に出た。
冷静に考えれば、どう考えてもそちらの方が恥ずかしいのだけれど、やはり混乱していたのだ。
ーーーちゅ。
首を伸ばし、イースティリア様の頬に口づけをすると、間近の青く美しい瞳が、真円になるほど見開かれる。
「………こ、これで、伝わるでしょうか。わたくしがこのようなことをするのは、い、イース……ティリア様に対して、だけ、です」
やっぱり、愛称では呼べなかった。
再び顔を両手で覆う前に、イースティリア様にそのまま抱き寄せられる。
「あ、の」
「機嫌が直った。とても良い気分だ」
耳元で囁かれたあまりにも率直な言葉に。
アレリラは自分が何をしたのか、ようやく理解が追いつき……しばらく、顔から熱が引かなかった。
※※※
結局、視察日は雨が降ったことで延期になった。
翌日の昼にソリオ氏の案内で設備を査察した後は、ボンボリーノ達と少し露店や商店を冷やかし、その日の夜。
「な、何をしてるの?」
「今日の査察に関するレポートの纏めと、資料の写しの整理、そして旅行後の予算取りまとめについての審議です」
歓談室を間借りしたイースティリアとアレリラは、晩餐後に運び込ませた大量の書面をテーブルに広げていた。
魔術の明かりをつけてもらい、昼に近いくらいに明るくしてもらっている。
いつも執務を執り行う際の定位置通りに正面に向き合い、話し合いをしながら資料を要、不要、保留に分けていく。
「実施可能かどうかに関わらず、下水道の整備は急務と捉えます。以前に目を通したこちらの資料と照らし合わせると、貴族街よりも中流層の住む地域から着手する方が対費用効果が大きいかと」
「上水の水質改善とどちらが益があるかは、検討の必要がある。対費用面で言えば、この魔法陣式浄水機構を設置する方が即効性が高いだろう」
「おそらくダムを建造する必要があるのでは? 逆に長期的な計画になる可能性が高いかと」
「それも検討はするが、帝都の水源であるレイティル渓谷の上流にまで遡る必要はない。フィスコ大河の水質改善だけでも国庫で負担すれば、水価格の抑制に繋がると同時に、現在汚水を煮沸して口にしている層の健康被害を防げるだろう」
「なるほど……ですがそれでは、短期的な措置の域を出ませんが」
「ある程度の改善が行われた後に、ダム建設を行えば良い。並行して中長期的な効果が見込める下水関連を君の言う通り進めてくれ。審議に掛ける」
「では、こちらの集合家屋上階に関する問題は、後々ということですね」
「ああ」
資料を目で追い、それぞれに仮決めした大まかな流れに必要なものだけ抽出し、その傍らに口頭で別の議題を進めていく。
いつもの、落ち着くやり取りである。
そう、一昨日のような話し合いや暴挙よりもよほど……。
と、事あるごとに思い出しそうになるそれを、アレリラは強引に意識から外す。
そんな時に、横で眺めていたボンボリーノとアーハが顔を見合わせ、ポツリとつぶやいた。
「全然、何してるか分からないねぇ〜。手の残像が見えるんだけど!」
「ご飯食べてお腹いっぱいになった後に、眠くならないでお仕事って出来るのねぇ〜……」
言いながら、アーハが大きくアクビをしたので、アレリラは目を上げないまま伝える。
「アーハ様。親族でない殿方の前でその振る舞いは、少々はしたないかと」
「ひゃい!」
慌てて口を押さえたアーハに一つ頷きかけてから、アレリラは審議に戻った。
という訳で、イースティリア様の初嫉妬でした。
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