ここでもお祖父様の名前ですか。
マイルミーズ湖で昼食を摂った後、アレリラ達は交易街に向かった。
本来であれば、一度本邸の方に帰って翌日改めて訪れる予定だったのだけれど、翌日が悪天候になる可能性があるようで、視察を前倒しした上でタウンハウスの方に泊まるように勧められたのだ。
着替えなどの必要最小限の荷物と、身の回りの世話をする者だけ、本邸から早馬で先に来るように手配されたので、イースティリアとアレリラはお言葉に甘えることにした。
「今頃、お義母様がてんてこまいなんじゃないかしら〜?」
街に向かう馬車の中でアーハが首を傾げて、そう話しかけてくる。
男性とは馬車が別になっているので、この場にいるのはアレリラとアーハの二人きりである。
「もしそうなら、申し訳ないですね」
「あら、でもそれはアレリラちゃんが気にすることじゃないわよぉ〜!」
「ですが、お迎えする相手がイースティリア様ですから」
仮にも一国の宰相である。
こちらも急な来訪であることから、イースティリア様もお気になさらないだろうけれど、前ペフェルティ伯爵夫人からしてみれば、万一にも粗相があってはいけない相手なのだ。
来賓を迎える際には、基本的に客間の掃除などを事前に済ませておくものだが、急な来客だとその時間が少ないのである。
向かうのはおそらく日が暮れてからなので、そういう意味では本当に突然来られるよりはまだ良いだろう、とは思うけれど。
そうこうする内に交易街に着くと、慌ただしく出迎えの者達が動いている中に、前ペフェルティ伯が近づいていく。
すると、恐らく水道工事の責任者らしき頑固そうな老人が、ギロリとこちらを睨んできた。
いかにも職人という風体で、髪の毛も蓄えた髭も真っ白だけれど、その辺の騎士よりもよほど鍛え上げられた肉体を持っているように見える。
土木工事のスペシャリストに多い、現場からの叩き上げタイプなのだろう。
「いきなり予定を変えてきたのは、そちらでしょう。完璧な対応をしろって言われても無理ですよ」
言葉こそ丁寧だが、かなり気が立っているのだろう、圧が凄い。
「重々承知しているが、ソリオ殿、相手は宰相閣下なのだ……!」
前ペフェルティ伯は声を潜めているつもりなのだろうけれど、丸聞こえである。
イースティリア様に目を向けると、特に何かを感じた様子もなく、そのやり取りを眺めていた。
ーーー口を挟むつもりはなさそうですね。
すると、意外なことにそこで口を開いたのはボンボリーノだった。
「ソリオのじっちゃん、機嫌悪いねぇ〜?」
アハハ、と何故この状況で笑えるのかよく分からないが、ジロリとこちらを見たソリオ氏は、フン、と鼻を鳴らした。
「悪くて悪いかよ、伯爵様。こちとら仕事の邪魔されてんだぞ? 明日は雨だってんなら、それこそこっちは壊れの補修とかあるってのが分かんねーか?」
「言われてみれば、そうだねぇ〜」
前伯爵に対する敬語すら消えたソリオ氏の口調を気にした様子もなく、ボンボリーノは頷いた。
ーーーソリオ氏は、貴族、ではないと思うのですが……。
普通、平民がこんなぞんざいな口の利き方をしたら、相手によっては即座に投獄されるのではないだろうか。
平民の地位が向上して来ているとはいえ、貴族法は未だに根強い影響力を持っている。
近代の国王陛下や民主派の貴族が尽力したことで、理不尽過ぎる法は徐々に撤廃されて来ているものの、露骨な不敬は未だに罪に問われる行動なのだ。
「宰相閣下、どうしますぅ〜?」
そうボンボリーノが首を傾げると、イースティリア様はあっさりと答えた。
「出直そう。ソリオ氏の言に理がある」
「さ、宰相閣下!?」
前ペフェルティ伯が驚いた顔をすると、ソリオ氏も同様に驚いたように片眉を上げる。
イースティリア様は、真っ直ぐに彼の顔を見て、淡々と言葉を重ねた。
「交易街での衛生状況の向上については、報告を受けている。管理者の一人として名を連ねている彼の、尽力あってのことだろう。交易街の人の流入が増えていることを鑑みれば、上水ならまだしも、雨の影響で下水が氾濫してしまえば疫病蔓延の危険がある。視察を優先すべきではない」
前伯爵とソリオ氏がポカンとするのに構わず、イースティリア様はこちらに目を向けた。
「どう思う、アレリラ」
「妥当な判断かと。元々視察は明日の予定です。延期も考慮してスケジュールを組んでおり、ダエラール領の滞在日数を減らすことで明日以降になったとしても対応可能です」
交易街の上下水道の視察は、旅行の中でも最優先事項である。
旅程だけで言えば、最初にダエラール領へ向かい、滞在をするのが最も効率の良いルートだった。
それを曲げて最初にペフェルティ領に赴いたのは、こうした事態を想定して確実に視察を行う為なのである。
さらにイースティリア様は、ボンボリーノに声を掛けた。
「前ペフェルティ伯の行動は、我々への善意によるものだと理解している」
ーーー流石でございますね。
このままでは、予定を前倒しにしようとした前伯爵が悪いことになってしまうので、あえて口になさったのだろう。
「では、ペフェルティ伯爵。少し早くなってしまうが、別邸に案内して貰えるか?」
「良いですよ〜!」
イースティリア様が踵を返すと、ソリオ氏が何か物言いたげな顔をしているのを、アレリラは視界の捉えた。
しかし声を上げない、ということは、自分がイースティリア様に声を掛けるのが不敬に当たると理解しているからだろう。
前ペフェルティ伯やボンボリーノへの態度は、気安さの裏返しなのだと察する。
となれば、不機嫌そうに難色を示したのは予定が崩されたからではなく、本当に仕事のことを案じているからだ。
そこまで推察し、アレリラは助け舟を出すことにした。
「何か? ソリオ氏」
アレリラは、ウェグムンド夫人である為、この場で二番目に位が高い。
疑問を一言投げれば、彼が口を開く許可を出したことになるのだ。
「いや……えらくあっさり、お引きになるもんだなと」
「ソリオ氏の発言が、正しいものであるからです。それとも、詭弁でしたか?」
水道の管理業務を口実に、面倒くさいことを回避しようとしたのなら、それは問題だけれど。
しかしアレリラの問いかけに、ソリオ氏はキッパリと否定する。
「事実ですよ」
「では、何一つ問題ありませんね。他に何か?」
イースティリア様も足を止めて、目線だけで振り向いている。
ソリオ氏は、まじまじとこちらの顔を見比べてから、頭を掻き……軽く腰を折って、手を腹に添えた。
「感謝いたしますよ、宰相閣下、それに、ご夫人。平民の仕事に理解を示してくれるとは思わなかったんで」
「身分に関係なく、功績と妥当性を常に評価するように心がけている。可能なら、後日の案内も氏にお願いしたい」
「ええ、もちろん。誠心誠意ご案内させていただきますよ」
「楽しみにしている」
イースティリア様が再び歩き出すと、ソリオ氏がポツリと呟くのが聞こえた。
「……まるで、タイア子爵だな」
ーーーここでも、祖父の名を……。
開発に名も連ねていないのに、ソリオ氏までもが知っている。
祖父は帝国の発展に関して、深く関わっているのではないだろうか。
帝王陛下も、名をご存知だった。
タイア領のある北西部は、様々な事業が展開されており、話題にも事欠かない地域だ。
何せ北西部には、ロンダリィズ伯爵領がある。
タイア領は、北国との戦争の終結、交易再開に国家間横断鉄道の開通を成し遂げた英傑のいる領の、真下に位置しているのだ。
さらには、ボンボリーノが食べさせてくれた甘薯の種をもたらしており。
発案こそウィルダリア王太子妃であるものの、これから行われる大街道整備計画も、ペフェルティ領を経由してウェグムンド領とロンダリィズ領を繋ぐもの。
ーーー祖父は一体、どこまで……?
それまで、何年も会うことも名前を聞くこともなかった祖父。
イースティリア様暗殺計画の報を聞いてからこっち、幾度も耳にするようになったその名に、どこか底知れない気配を、アレリラは感じ始めていた。
現場の責任者も、当然のように知っている相手、サガルドゥ・タイア子爵。
まぁ読者の皆様はご存知ですし、イースティリアも知っているのですが、アレリラは知らないというちょっと可哀想な状況ですね。