泥かぶり
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ううう……鼻水が止まらない。
これ、たぶん花粉症だよね? 熱っぽさとか気持ち悪さとか全然ないし、去年まではこんなこと、全然なかったし。
うわあ、勘弁してほしいな。手術とかしないと、ずっとこのままなんだっけ、花粉症? 身体の花粉に対する許容量がオーバーしちゃうと、起こるとも聞くんだよね。
昔の人は、花粉ごときで反応していられないと、身体が気張っていたせいか花粉症の人って少なかったみたいだけど……これもまた平和のあかし、と前向きにとった方がいいのかな?
いついかなるときに、体調を崩すのか。予測がつかないのが厄介なところだ。あまりに自分にとって不利益なもんだから、僕たちはとっとと治そうとする。おそらく、そこにある意味を知らないまま、解決してしまうこともあるだろう。
僕の父親の話なんだけど、聞いてみないかい?
父は小さいころは、身体を動かすのが好きで好きでたまらなかったそうだ。
晴れた日に、友達を誘って球技その他のスポーツをすることはもちろん、雨の日でも屋内で。そうでなくとも、濡れるのお構いなしで外へ飛び出し、あちこち泥はねをくっつけては祖母の手を煩わせていたとか。
たびたび無茶をすれど、父は風邪を引くことは全然なかった。万年、無遅刻無欠席を無理なく達成できる自らの身体を、父はひそかに自慢に思っていたそうなんだ。
しかし、その牙城をおびやかす……とまではいかないまでも、ケチをつけてくるような出来事があった。
先に話したように、父が外で汚れをひっつけてくることは、珍しくない。だがそれは、遊んでからのこと。
それが今日は、学校に着いた時点で汚れていたそうなんだ。つまり家を出てから、学校に着くまでの短い間でね。
父親はスイッチのオンオフをしっかりする人だ。登下校中に道草を食うような真似はしないという。その日だって真っすぐに学校まで来て、どこかに寄ってきたわけじゃない。
ただ、少し風に吹かれただけだ。だけど、それだったら近くにいた他の人や物だって、同じ目に遭っているはずだ。
なのに、汚れているのは父だけ。
その日の下校から、父は自分の汚れに気を払うようにした。
遊ぶときばかりでなく、自分に汚れを引っ付けようとする、あらゆるものへ目を凝らしていったんだ。
都合よく、毎日来てくれたわけじゃない。それでも、検証の時間を重ねていくうち、それは原因を問わず、自分の身へ風が吹き寄せるときだった。
被害の受け方もおかしいから、確かめるとすぐに分かる。この汚れは服をすり抜け、肌へじかにくっついてくるんだ。
長袖、長ズボン、パーカー、カッパ……様々な重ね着をし、肌をさらすようなすき間は、すべて潰したはずなんだ。
そのことごとくをスルー。服を脱いでみる肌は、泥遊びをした直後のごとき汚れよう。全身を汚されることもあれば、かたよって泥がひっつく場合もあった。
いい加減にストレスが溜まっていた父は、いっそうひどい格好で帰宅したおり、タオルを持ってきた祖母に、とうとう愚痴ったらしいんだ。
祖母は目を丸くした後、「それは『命の洗濯』だねえ」と教えてくれたとか。
本来、命の洗濯といえば、寿命が伸びるかと思うくらい、存分に羽を伸ばす様子を指す言葉。しかし祖母は文字通りに、命が洗われていく様を表しているのだとか。
「自分は洗濯機なのか」と問い返す父に、祖母は当時、買い替えたばかりの洗濯機のもとへ、手を引いていく。
大きく口を開いた、円筒型の洗濯槽。その一角を祖母は指さしてくれた。
フィルターだ。服についている、汚れやほこり、髪の毛を引き受ける役目を担う部分。
「まさか、自分はそれに?」と見上げる父に、祖母はゆっくりうなずく。
明らかな汚れ役と分かったうえで、それを受け入れるのには、父はまだ若かった。機あらば輝かしく、華々しく、皆の中心にいたい父は、どうにかその役目から逃れられないかと、祖母に掛け合ったのだとか。
祖母は、「できる限り、我慢した方がいいと思うのだけどねえ」と前置きしたうえで、少し早い虫よけ薬を、肌に塗ってくれたそうなんだ。特徴的な刺激臭がして、蚊にくわれたところを引っかいた後などで塗ると、飛び上がるほど痛んだりする代物だ。
実際、これを塗るようになってからは、風が吹いても身体が不可解に汚れることは避けられた。
こんな簡単なことだったのかと、父は当初、飛び上がりそうなほど喜んだらしい。
しかし、それもつかの間。
功を奏し始めて数日後、クラスメートが落ち込んだ顔をして教室へやってくる。長い間、飼っていた犬が急死してしまったらしい。
予防接種を受けさせたばかりだし、ほんの少し前まで身体に異状もなかったのにと、突然の別れに憤っている様子だったとか。
それを皮切りに、クラスメートの飼っているペットが次々に亡くなる報告を、父は耳にすることになる。いずれも健康体だったのが、急に最期を迎えてしまったとか。
その間も、父はずっと虫よけの薬を肌に塗り続けていたけれど、不可解な一致にすっかりおののいてしまった。
試しに、その日の学校帰りにあえて薬を塗らずにいると、道半ばで久方ぶりの風を受ける。
待っていましたとばかりに、吹きすさぶ風がしばし身体をなでていき、通り過ぎた折には父の身体は、こんび太郎もかくやという、まっくろくろすけぶりだったとか。
父がしっかり身体を洗って、登校した翌日。クラスメートが、自分の祖父の急な入院を告げてきて、胸がどきりとするも、どうにか大事には至らなかった旨を聞いて、ほっと安心したらしいのさ。
それから父は、風が吹いても身体が汚れなくなる三カ月後まで、あえて汚れを引き受け続けた。
すると、不幸な報せもその間、ぴたりとなりをひそめてしまったのだとか。