始まりの日ー後編
「失礼しますよ。……あれ? 古閑? おかしいな、今は起きてる筈だけど」
青い扉を開けながら、時雨はそう声を上げた。
ゆっくり室内へ入る彼と一緒に、ちずなと澪も救護所の中に入った。
救護所の中には白いカーテンで囲まれたベッドが幾つか置かれていて、微かに薬品の匂いが漂っていた。
どこか学校の保健室っぽい雰囲気だなと学生の二人が考えていた時、時雨は足を止めた。
「二人とも今すぐ外に出なさい!」
何かを見てしまったのか、声を荒らげた時雨は急いでちずなと澪を外へ押し出そうとした。
しかし時雨の後ろを見てしまったその瞬間、ちずなは中の異状に気づいた。気づいてしまった。
どこから来たのかは知らない、けど、救護所の中には見覚えのある小さな丸い物がコロコロと転がっていた。
しかも、その黒い丸から伸びた細長い黒い糸が蠢き、その糸は誰かを絞めつけていた。
時雨に追い出される前に、ちずなは少し膝を曲げて、すっとその体は時雨の横からすり抜けていった。
そして、カバンの中にある水筒を取り出したと同時に、近くの棚に置いてある消毒液に気づき、手を伸ばして、ちずなはその消毒液をも掴んだ。
「ちずなくん、止せ!」
「っっ、すみませんが澪を頼みます!」
時雨にそう言って、ちずなが膝を動かしたその瞬間、足に痛みが走った。
けど、ズキズキする痛みに堪えて、ちずなは水筒の水で自分の手を濡らした。そして消毒液の蓋を開けて、そのままちずなは倒れてる人の方へ駆け寄った。
丸い物の注意力を引き付ける為に、ちずなはわざと蓋を投げて、ついでに大きな声を出した。
「おいお前ら、これが怖いだろう!」
小さな丸たちはちずなに気づき、もぞもぞしながら、丸は倒れている人を締め付ける糸を止めた。
ぐにゃりと丸い物が動いた。そして丸の蠢きが止めた時、その体から出した糸はちずなの方へと飛んでいった。
黒い糸を目にした瞬間、人が飲み込まれた場面が脳を過ぎり、ちずなの体がビクッと止まった。
けど、水で大きいな丸い物を追い払った経験を思い返して、ちずなは瓶を握る手に力を入れた。
息を吸い、ちゃんと前にある物へと狙いを定めて、ちずなは瓶の中身を広く撒いた。
恐怖のせいでちずなの手は少し震えていた。けど、大半の丸い物は消毒液を被り、まるで劇薬を浴びせたように、丸い物たちは激しく暴れた。
ぐにゃりと黒い丸が暴れているのを見て、気持ち悪さと怖さをやはり感じるけど、丸い物が着実に萎んでいくのを見て、ちずなはダメ押しに残った水を掛けた。
液体を浴びて、人の首や体に絡みついた糸が引っ込められて、やがてそれらは消えていった。
「良かった……あぐっ」
動けなくなった丸たちを見て、ちずなの体から緊張が解けて、その瞬間に忘れていた痛みが一気に襲かかった。
いよいよちずなは自分の足で立つが出来なくなり、そのままちずなは倒れた。
けど、その体は地面へではなく、誰かに受け止められた。
ビックリしてちずなが顔を上げると、どこか怒ってるような時雨の表情が目に入った。
「……時雨、さん?」
「どうしてこんな無茶をッ……いや、君に助けられた僕に、僕たちに、この言葉を言う資格は、ないかもしれません……」
「えっ、いやあの、実際戦った経験があるの僕だけだから、とりあえず動きを止めないと、そこの人が危ないと思ったわけで、その、時雨さん、気にしないでください」
ちずなの声を聞き、時雨は泣きそうな表情になったが、一度目を閉じて、次にちずなを見る時、彼の顔は優しかった。
「……情けない話だが、確かにどう動けば良いのか分かりませんでした。……助けてくれてありがとう、ちずなくん」
そう言って、時雨はゆっくりとちずなを地面に座らせた。そして、一度ちずなの足の様子を確認した後、彼は改めて丸い物の状態を観察した。
濡れたせいなのか、人の首を絞めていた糸は大体消えかかっていて、操作していた力もなくなり、なんとか丸い物の元へ戻ろうとそれらは蠢いた。
けど、消毒液まみれになった本体に近づく事も出来ず、藻掻く糸も丸い物自身もどんどん凹んでいった。
もしかしたら、『液体だったら』どれでも丸い物を撃退できるではないかと、丸い物の変化を見て、時雨はそう推測した。
丸い物について時雨が考え込んでいる間に、ちずなはゆっくり倒れている人に近づき、その体に巻き付いてる糸を解けながら、真っ白のその顔を見て、少し震えた声でちずなはその人に話しかけた。
「あの、あの! 大丈夫ですか?」
声を掛けられたからか、それとも喉を縛る糸が解けたからか、倒れた人は目を開けて、そして大きく咳き込んだ後、その人は勢いよく体を起こした。
「ッハア! 死ぬかと思った!」
そう言い放つと、何度も首を摩りながら、その人はふらっと立ち上がった。
眉間に皺を寄せながら、その人は室内の状況を見て、大きくため息をついた。一度伸びをした後、ゆっくりとネコ背になり、面倒くさそうにその人は指示を出した。
「時雨さん、あの凹んでる変な物を奥にある汚い水槽の中に突っ込んでおけ、ついでに松葉杖も持ってきて。扉の方にいる嬢ちゃん、怪我を見てやるからこっちに来なさい。で、あたしを助けた君は大人しくここで待ちなさい」
「あっ」「えっと?」
「確かにそうした方がいいだろう。二人とも、古閑にしっかり見てもらうんですよ」
いきなりそう言われて、明らかに戸惑う澪とちずなと違い、時雨はそう答えた後、近くにあるバケツを持ち上げた。
古閑に言われた通りに時雨は手を伸ばし、凹んでる謎の黒い物を摘み、それをバケツに入れた後、時雨はそれを持って奥の方へ向かった。
そんな風に冷静に動く時雨を澪はぼーと見ていたが、視線を外すと、指示を出した古閑からの視線に気づき、澪は慌ててちずなの方へ歩き、その後ろに隠れようとした。
けど、澪が向かってくるのを見て、古閑はネコ背のまま澪へ向かって歩き、そしてパッとその手を掴んで、苛立ってるように古閑は澪に言った。
「君ね、医者の話は聞いたよね? こっちに来いって言っている」
「やっ、やあ!」
「ふーん、嫌ならいいさ」
抵抗する澪を見て、意外とあっさりと古閑は澪の手を放した。そして澪から視線をそらし、振り向いた古閑はちずなの方へ視線を向けた。
数歩進んで、古閑はちずなの前で屈み、ちずなの足を見ながらそう古閑は淡々と話を始めた。
「君は、えっと……」
「ちずなです」
「ちずなさん、君の足、いつ怪我したのか覚えてるかい?」
「えっと、多分……三十分前くらいに、かな」
「なるほど。でもさこれ、無理して走った上で、蹴りとかもした感じだね。でないと、三十分くらいでこうなるのはおかしい」
「あっ、えっと、その……はい」
否定しなかったちずなの返事を聞き、古閑は少し呆れたようにため息をついた。
そして、ちずなの足を触り、もう一度様子を見た後、確認するように古閑はそう聞いた。
「じゃあ、手当するから靴を脱ぐけど、自分で脱げる?」
「はい、脱げます」
「よろしい、なら、あっちのカーテンのあるベッドに行きなさい。もし歩けないなら、そこの嬢ちゃんに協力して貰いなさい。少し離れるから、ちゃんとした治療はあたしが戻るまで待ってください」
「はい、ありがとうございまっうわ!」
まだちずなのお礼の言葉が終わってないうちに、いきなり何枚ものタオルを投げつけられて、驚きながらも、ちずなはタオルを全部受け止めた。
そんなちずなを見て、古閑はゆっくりと息を吸い込んだ。そしてだるそうな声ではあるが、先程と打って変わり、結構真面目な態度で古閑はそう言った。
「そうだった、ちずなさん、濡れた服を脱ぎなさい。君の場合、風邪と捻挫と他の怪我の合わせ技で熱出す可能性がある」
「えっ、でも」
「濡れた服を着ているだけでも、体温は奪われ続けられる。着替え持ってくる前に、そのタオルでも巻いて、ベッドに潜ってなさい」
「そう、ですか。はい、分かりました」
「良い。それと、もう聞いたかもしれないが、あたしは古閑だ。何があったら遠慮せずに呼びなさい、出来る範囲ですぐ駆けつけるから」
「こが、古閑、先生?」
「うん。君、なかなかいいね」
ちずなの返事を聞き、満足そうに古閑は頷いた。そして少しだけ白衣が揺れ、古閑は違う部屋へ歩いていった。
古閑から投げられてきた何枚ものタオル片手で抱えて、ちずなは少し考えた後、空いた方の手でゆっくりと靴を脱ぎ、一緒に靴下も脱いた。
ちずなが濡れている靴を脱いてるその間、澪はどうすればいいのかわからず、ぼーとちずなを見る事しか出来なかった。
そんな澪の視線に気づき、少し恥ずかしそうに笑って、ちずなは澪にそう頼んだ。
「悪いけど、手を貸してくれないか、澪」
「ふえっ? あ、はい!」
照れくさそうなちずなのお願いを聞き、慌てて澪は手を伸ばした。
澪の手を掴んで、ちずなはできるだけ澪を濡らさないように気をつけながら、二人はカーテンのあるベッドの方へ歩いた。
古閑に言われたベッドの前に立ち、ちずなは背負っていたリュックを置き、そして靴と靴下を干すようにベッドの下で並べた。
そして、やや濡れていたタオルで自分の手を拭いた後、ちずなは綺麗で濡れてないタオルを澪の方に差し出した。
ちずなが自分の目の前まで差し出したタオルを見て、澪は少しビックリしたように目を見開き、どういう事なのかと彼女はちずなを見返した。
そんな澪を見て、ちずなは呆れたように笑い、まだ濡れている澪の服と髪を指して、ちずなはそう言った。
「あのな、お前だって濡れてるじゃん? だったらこれで体を拭け」
「え、でも、ちずなちゃんがまだ濡れているのに……」
「と言うかさ、お前古閑先生が苦手だろう? だったら、先生の世話にならないように、自分の体を大事にしなよ」
「そ、それも、そうね」
ちずなにそう言われて、不服そうではあるが、澪は渋々タオルを受け取り、彼女は自分の体を拭き始めた。
大人しく澪が髪を拭いてるのを見て、小さく笑いを零した後、ちずなは手を伸ばし、ベッドの横にあるカーテンを閉めた。
ベッドに乗る前に、ちずなは濡れたジーンズとシャツを脱いた。そして、少しだけ考えた後、ちずなは下着も脱ぎ、タオルで体をきちんと拭いて、ちずなはベッドの中に潜った。
カーテンの外にいる澪は中の物音を聞き、中に入りたい気持ちもあったけど、他の人が来たらすぐにちずなに教えられるようにと思い、澪は隣の椅子を引っ張って、カーテンの外に座って、のんびりと澪は自分の長髪を乾かしていた。
しばらくすると、戻ってきた古閑は二人分の服を抱えて歩いてきた。
彼女は真っ直ぐにカーテンが閉めたベッドの方へ歩き、横に座っている澪を見て、古閑はそう話した。
「二人分の着替えを持ってきた、サイズが合わなかったらちゃんと言いなさい。そうだった、お嬢ちゃん、名前は?」
「み、みお、です」
「水に零で澪の方かな、まあ呼べるならどの文字でもいい。君とちずなさんの濡れた服を洗ってきてもらえる?」
「えっ、そ、その……」
「洗濯機はあっちね、ついでに言うと、今のうちに洗っとかないと、君たちの服は他の人と混ぜて洗う事になるがそれでいい?」
「それは嫌です!」
ハッキリそう答えると、澪は古閑から服を受け取り、恥ずかしがる事なく、澪は素早く着替えを済ました。
そして、カーテンの向こうにあるちずなの服を取り、自分の服と一緒に抱えて、澪はどこか不満そうに古閑を見た後、振り向かずに洗濯機の方向へと歩いていた。
そんな澪の背を見送り、古閑は呆れたようにため息をつき、そしてカーテン越しに彼女はちずなにそう聞いた。
「で、ちずなさん、入っていいかい?」
「はい、大丈夫です」
「では」
そう言って、古閑は静かにカーテンを開けて、ちずなに着替えの服を渡した。
「ありがとうございます」
「いやいい、これぐらいはやって当然だからね」
「当然って事はないと思いますけど」
「君は忘れたのかもしれないが、あたしの命の恩人だよ、君」
「あっ、いやその」
「はいはい、とりあえず着替えな」
「分かりました。……ありがとうございます」
「律儀だね、君は」
ちずなの声を聞き、古閑は苦笑いを零して、そしてカーテンを閉めた。
横にある椅子を引っ張り、それに腰を下ろして、シーツの中で着替える物音を聞きながら、古閑はちずなに聞いた。
「あっ、もう服を着てたらそれでいいけど、まずは体の様子を見ていい? パッと見たけど、怪我してる場所、足だけじゃないよね」
「そう……ですね、分かりました」
既にちずなは下着は着てしまい、服をどうするべきかと少し迷ったけど、結局ちずなは素直に頷き、それを返事として受け取った古閑はシーツを持ち上げた。
まだ服を着ていない裸のちずなを見て、古閑は優しくその手を引き、腕や肩、背中に残る鬱血と擦りむいた足の傷を観察した。
「なるほど、分かった。少し待って」
一通り確認した後、古閑は慎重にシーツを戻して、一回カーテンの外を出た。
ちずなの傷を見て、古閑は呆れと一抹の不安を覚えた。
無理をしたのは会話で知っていた。しかし、怪我の仕方を見ると、ちずなはどうやら自分の為ではなく、他人の為に動いてるようだ。
こういうタイプの子供は体だけでなく、精神的なケアも必要だと言うことを知っている古閑は聞かれないようにため息をつき、そしてまずは体のケアをするために、薬品棚の方へ歩いた。
「み、よ……これは要補充っと」
棚の方から必要な物を取り、補充のメモを取って、ちずなの治療をしようと古閑はカーテンの中に戻ろうとした時、扉の外から大きな声が聞こえてきた。
声の中に聞き覚えのあるもの混ざってる事に気づいた瞬間、思わず「ッチ」と舌打ちをした古閑は、音を立てないように扉に近づいた。
一応外にいる連中の予想はつくが、それでも確認する為に、古閑は僅かに扉を開けた。
『まだ……怪我も……』
『……だから、信用…………』
『子供…………必死に助けた……』
『…………所詮外の人……』
「クソジジイめ、こんな時でも地位に拘るとかくだらん……本当、時雨も大変だな」
外から聞こえた時雨と他の人の言葉を拾い、古閑はこれから何が起こるのか察した。
都会に行った事がある人なら知っている、閉鎖的な地域は排他的だ。
そして、その排他的な思考は、自分の命の恩人であるちずなに危害を及ぼす可能性が高い。
それを非常に、とっても嫌だと思って、古閑は大きくため息をつき、こっちの向かってくる人たちの事を考えながら、古閑はベッドの方へ戻った。
持ってきた物をベッドの横に置くと、古閑はカーテンをキツく掴み、その外側から彼女はちずなにそう話した。
「ちずなさん、これから結構な人が来る。すまないけど、少し話に付き合ってやってくれ、カーテンは閉めたままにするから」
「えっと、話って何の話ですか?」
「予測だが、君と澪さんがどうやってここまで来た話になるかな。質問自体は止められそうにないから、いっそ面倒事になる前に全部話して、一気に終わらせた方がいいと私は思う」
「そうですね、分かりました。伝わるかどうかは分かりませんが、頑張って話します」
「悪いね、大人の都合に付き合わせてしまって」
素直すぎるちずなの返事を聞き、古閑は少し眉間にしわを寄せた。
聞き分け良すぎるのもどうかとか、もっと異論を唱えてもいいとかと古閑は話そうとしていたが、扉が開けられた音を聞いた瞬間、古閑はすぐにカーテンを閉じ、そして振り向いた。
時雨の横へ視線を向き、そこにいる人たちの姿を捉えた時、敵意を明らかにして、古閑は口を開いた。
「救護所に入ってくる前にはノックしなさいと何度も言っているだろう。それに、今は怪我人がいるんだ、急ぎでないなら、お引き取りを」
「だから、その怪我人に話があるんだ。外の様子も気になるし、話くらい良いだろう?」
「病人じゃないなら、感染の可能性があるから一刻も早くここから出て欲しいが……まあいいだろう。しかし、重要な証人とやらが怪我をしてるからベッドから出られない。このままで話を進ませてもらうよ」
「いやいや、ここはやはり顔を合わせて話さないと。聞けばここの人じゃないだろう?
ここまで来れたって事はつまり、まだ動けるはずだよな?」
「改めて言うけど、怪我した状態でここに来たんだ! どこに怪我人を無理に動かす医者がいる? それに、話くらいと言ったのはそっちでは?」
「うっ、そ、それなら、カーテンを開けたらいい! どうせ中にいるんだろう?」
そう言いながら、一人のおじさんが近づき、カーテンを開けようとしたが、直ぐに時雨がその手を止めて、他の人を警戒しながら、カーテンの前に来た時雨は声を上げた。
「最初も聞いたと思いますけど、『救護所のベッドのカーテンを気軽に開けるな』と先生達はそう言いましたよ」
時雨の言葉を聞き、おじさんは何か言おうとしたけど、先にカーテンの中からちずなの声が聞こえてきた。
「あの、僕なら大丈夫ですので、ベッドから出ます」
「こら、医者の言う事は聞きなさい、その状態で起きることを許せると思うのか?」
「話の後で休めば大丈夫と思います、けど……」
「あのな……」
『ギー』
他の人には聞こえなかったが、カーテンから一番近い古閑は起き上がろうとした動きで、ベッドが軋む音が聞こえた。
その音を聞き、呆れたように古閑はため息をついた。そして手を伸ばして、古閑は横に置いてあった松葉杖を手に取り、そ武器を構えるようにそれで他の人に指しながら、ややキレ気味な声で古閑はそう言った。
「本人が答えてくれるなら止めはしないが、患者だからな、医者として会話時間を管理してもらうよ。速やかに話を終わらせるように!」
「わっ、わかった」
古閑の勢いに圧倒されたのか、それともただ彼女が握ってる松葉杖が怖いのか、他の人がこくこくと頷いていた。
周りの人の反応を確認して、やや不満はあるものの、古閑はカーテンの中に入った。
その後、中を覗かれないように、時雨は音を立てないようにカーテンの外に立った。
カーテンに入ると、既に服を着たちずなを見て、古閑は仕方なさそうに松葉杖を渡した。
そして、ベッドの横にある椅子を脇に抱えながら、ゆっくりと耳打ちをして、彼女は小声でちずなにそう話した。
「もし痛むならすぐ言うように、無茶はするな……あたしも時雨も君の味方だからね」
「ありがとうございます、古閑先生」
古閑の言葉を聞くと、困ったように笑い、ちずなは松葉杖を使って立ち上がった。
そんなちずなを見て、古閑は深く息を吸い、勢いよくカーテンを開いた。
そして、ベッドから少し離れた場所で椅子を置いて、他の人を睨みながら、古閑はそう言った。
「いいか、この子は怪我人であたしの患者だ、妙な真似をするな。時雨、君もこの子の話を聞いただろう? サポートしなさい」
「分かってますよ、平良くんからも話を聞いたから……皆さんも、それでいいですね?」
時雨と古閑の視線を受けて、他の人は仕方なさそうに頷いた。やや不満げに古閑の眉は釣り上げたが、仕方なさそうに手招き、ちずなを椅子に座らせた後、落ち着いた声で古閑はそう聞いた。
「という訳で、思い出せる範囲でいいから、君と澪さんがここに来れたの時の事を話してみなさい」
「ショッピングモールにいる時から話す事になりますが、まずは……」
今まで遭ったことを思い出しながら、出来るだけ落ち着いて、ちずなは口を開いた。
最初はショッピングモールに入ってからしばらくして、突然大きく揺れた事。
次に上から何かが落ちて来た事に気づいた事。平良と出会った事。噴水で丸い物から逃げた事。
そして、ついさっきここで凹ませた丸い物の事を、ちずなは出来るだけ詳しく話した。
ちずなの話を聞き、他の人が信じられないようにざわついてる時、時雨は大きく咳払いをした。
周りの顔を見ながら、時雨はちずなの側まで歩き、大きく息を吸った後、時雨はそう言った。
「実際、私もちずなくんが丸い物を無力化したところを目撃しました。使ったのは水、そして消毒液。推測ですが、その謎の生き物は液体に弱いと考えられます」
「いや、しかし……」
「子供の言葉だから信じられない? それとも私の言葉だから信じられないと言うのです?」
時雨の低い声をカーテン越しで聞き、ちずなは少し驚いた。
けど、古閑はこっそり指を唇に当てて、最後の手当を終わらせて、古閑はカーテンの外へ出た。
「信じられないなら、あたしの首筋を見なさい。これさ、あの変な丸い物にやられた跡なんだぞ」
「うそ!?」「どうやって入り込んでいたのだ!」
「あんたらが『確認しなくていい』と言った金田のおじいさんの荷物に紛れていたんだけど」
その言葉が終わる途端、突然地面が強く揺れ始めて、何かが倒れたような、巨大な物音がした。
他の人かが慌てている時、古閑は苛立ったように舌打ちをして、彼女は今まで一番大きな声を出した。
「時雨! 洗濯ルームにいる澪さんを任せた! ちずなさん、危なかったらベッドかサイドボードの影に隠れなさい! ほらお前らもってもういない!」
古閑の言葉を聞かずに、パニックになっている他の人たちは既に慌てて外へ逃げて行った。その様子に気づき、古閑はキレそうになるのを堪えて、指示の言葉を続けた。
「もうこうなったら仕方がない、時雨! 澪と合流したら、洗濯機から出る廃水を出来るだけ集めてここに来い。危なかったら、自分たちの体に被りなさい!」
「分かりました……けど、その間の君はどうするの?」
「患者の様子を見てくるわ。それに、あたしには消毒液とアルコールがある、最悪の場合、ライターで焼いてみるから」
「出来るだけ無理しないでくれ、古閑」
「あんたもね、時雨。そうだ、ちずな」
時雨との会話が終わった瞬間、思い出したかのように、古閑は一台のスマホをちずなに渡した。そして、ちずなの顔を見て、少し苦い笑いをしながら古閑は言った。
「もし状況が危なかったらこれを鳴らすから、音を聞いたら、時雨とここに逃げ込んだ人たちと一緒に奥の道を使って、別の避難所へ移動しなさい」
「えっと、古閑先生?」
「まあ、もしかしたら、一番怖いのは丸い物ではなく、人かもしれないと思う」
「待ってください、古閑先生!」
離れていく古閑の声を聞き、慌ててちずなはカーテンを開いたが、その時の古閑は既に救護所から出て行った。
カーテンから顔を出して、周りを見渡すと、時雨も澪を迎えに行ってしまって、救護所にはちずなしかいなかった。
慌ててちずなは体を起こして、ちずなは古閑を追おうとした。けど、焦りすぎたせいで、うっかり地面まで垂れてたシーツに足を絡ませて、ちずなは横のベッドに体をぶつけた。
あまりの激痛にちずなは悶絶し、今まで耐えてきた痛みと疲れも相まって、ちずなはそのまま気を失った。
「な……ちずな!」
再びちずなが目を覚めると、ベッドの横に泣きそうな平良と澪の顔が見えた。
少し驚きながらも、ゆっくりと両手を伸ばして、ちずなは体を起こした。
その時、平良も澪もちずなが目覚めた事に気づき、二人はすぐに嬉しそうな声を上げた。
「良かった、あんたが無事で」
「もう! ちずなちゃん、私、心配してたんだからね!」
二人の反応を見て、ちずなは少し戸惑ったが、古閑からもらったスマホの事を思い出して、ちずなはそれを取り出した。
今の時間を確認すると、既に日付が変わり、ちずなは自分が半日以上寝ていた事を理解した。
地下にいるせいで、朝になってもそういう感覚は一切なかった。
普段よりも重い体でちずなは周りを見渡し、電灯に照らされた室内を観察して、ちずなは気づいた。
救護所の中はいつの間にか他にも人が増えて、その大半は自分と同じようにベッドに横たわり、もう半分の人はタオルや毛布を被って、床で寝ている。
もう少し周りを見ておこうとちずなは思っていたが、平良たちが騒いてる声を聞いたのか、時雨はベッドの方へ走ってきた。
「ちずなくん! 良かった、ベッドに倒れたのに気づいた時、すごく驚きましたから」
「す、すみません」
「謝らないでください。元々溜まっていた疲れもあるでしょうし、怖かったはずなのに、色々話をさせてしまって、その上、一人にしてしまって……本当にっ」
「いえいえ、むしろ色々助けてもらってたし感謝しきれませんよ! あの、古閑先生は?」
時雨の口から話という単語を聞いた時、古閑の事を思い出して、ちずなは思わず視線を動かし、古閑の姿を探した。
そんなちずなの行動に気づいた時雨は苦笑いし、少し離れてる場所へと彼は指差した。
すると、時雨が指しているその先に怒ってるように話しながらも、誰かの腕に包帯を巻いてる古閑の姿が見えた。
その光景を見て、ちずなは安心したように息を吐いた。けど、その時また痛みを感じて、仕方なさそうにちずなは横になった。
大人しくしていても、分かりやすい程の不本意な顔をするちずなを見て、平良、時雨と澪の三人は一緒に笑った。
けど、互いが顔を合わせると、すぐに表情がまた重くなり、そこで時雨は息を吸い、彼は口を開いた。
「ここは私が話すのが道理でしょう。平良、澪くんも、二人とも少しの間、古閑の手伝いをして欲しい」
時雨にそう言われた時、平良も澪も、ちずなから離れたくなさそうな顔をしていた。けど、時雨の表情を見ると、二人は大人しく立ち上がり、古閑の方へ行った。
平良と澪を見送りながらも、ちずなは時雨は大事な事を伝えたい事を理解し、真面目に聞こうとして、ちずなはもう一度体を起こそうとした。
その時、すぐに時雨が手を伸ばし、彼は起き上がろうとするちずなの肩を優しく抑えた。起き上がらなくてもいいのかと一瞬だけちずなは驚いたように目を丸くして、けど、すぐに大人しくちずなは横になった。
どこまでも素直なちずなの反応を見て、時雨は迷った。それでも一度深呼吸をして、覚悟を決めて、時雨はちずなにそう教えた。
「実は、ちずなくんと澪くんがここに来るまで、避難所には六十人くらい居ました……」
時雨がわざわざ過去形で話すのに気づき、ちずなは何か悟った。
そして、話を続きを聞く決意を固めて、真っ直ぐに時雨を見て、ちずなはそう聞き返した。
「何が、あったのですな?」
「簡単に言うと、ここに丸い物、とりあえず仮にボールと呼ぶけど、そのボールが、ここに入り込んでいました」
「そう言えば、古閑さんが言っていた金田と言う人の荷物に入ってた、という事でしょうか?」
「それもあるけど、地震の時、どこかの配管が崩れたせいで、そこからボールが入ってきた」
そこまで言うと、時雨はスマホを取り出して、ちずなに写真を見せながら、時雨は説明を続けた。
「もう原因を突き止めたから、更にボールが入ってくる心配はなくなったが……そのボールに、たくさんの人が食べられました」
「そう、ですか」
「ああ、君と平良が言った通りの光景でした……」
時雨の言葉を聞き、ちずなはショッピングモールで経験した、女性が食われた時の事を思い出した。
と同時にちずなは目を見開き、心配そうに時雨の顔を見ていると、時雨は大きく頭を横に振り、落ち着いて深呼吸をした後、時雨はちずなにそう教えた。
「だから、今のこの避難所には君と澪くんも含めて、二十人くらいしかいません。動ける人となると、更に減っていきます」
かなりショックな事実を聞いたけど、時雨の顔を見て、ちずなはその話がまだ終わってない事に気づいた。
そして、時雨が強く手を握りしめている事に気づき、少し考えて、ちずなは口を閉じ、静かに、ちずなは時雨を待った。
時雨も同じように、ちずなの反応を待っていた。けど、ちずなの揺らがない覚悟を見て、状況を受け入れる覚悟が出来ていたんだと、時雨は理解した。
(すごいな、子供なのに、大人の僕よりも落ち着いてる……支えなければ)
そう思い、時雨はもう一度深呼吸をして、ちゃんとちずなの目を見た後、真剣な声で、時雨は話した。
「実は私たちは別の避難所へ行こうと考えている、そこの設備はここよりずっといいでしょうから」
「ここから移動した方がいいのですか?」
「ああ、いつかまた地震でボールが入ってくるとは限りませんから、安全な方へ行こうと思います」
「それもそうですね。では、いつ出発するんですか?」
単刀直入にそう聞いたちずなを見て、時雨は開けた口を閉じ、スマホのメモを確認した後、時雨はそう答えた。
「古閑の話によると、全員のコンディション、えっと、つまり体調が戻るまでは簡単に移動できないから、少なくとも一ヶ月は必要だそうです」
「なら、ここで一ヶ月暮らす事になるのですね。もしかしたら、何か仕事分けとか、そういうのが必要ですか?」
「……思っていましたが、君はなかなか鋭い子です」
思わず時雨はため息をつき、スマホを閉じた彼は少し寂しそうに目を伏せて、ひと呼吸の間が空いた後、時雨はちずなにそう言った。
「簡単に言うと、食事と治療は出来る人がメインでそれらを担当し、一部の人を除いて、みんなで洗濯、掃除、と、見回りを交代でやっていく事になります」
前半の部分は迷いなく言えたのに、何故後半の部分で時雨が言い淀むのか、今の状況を考えると、ちずなはなんとなく察しがついた。
見回り、それはつまり、謎のボールの驚異がまだ存在している事でしょう。
そして、万が一の時、見回りの人がボールを対処する事になるだろうとちずなは予測した。
「でも、ちずなくんは怪我人だから、今は回復に専念……しないで欲しい気もします」
「担当が回れば僕だ……えっ、え!?」
予想外の言葉にちずなは声をこぼしたが、時雨の悲しそうな顔を見て、ちずなは口を閉じた。
真っ直ぐに時雨はちずなを見つめて、そして、ちずなの頭を撫でた後、彼はちずなにそう言った。
「君は平良に似ています。何かを諦めて、何かを背負い込もうとしている。そのせいで、自分自身を大事にできない、そんな風に感じます」
「時雨さん……」
「ちずなくん、どうか、自分を大事にしてください」
時雨の言葉に、ちずなは少しだけ真剣に考えた。
けど、しばらくしたら、ちずなは苦笑いで時雨にそう答えた。
「ごめん。僕には『自分を大事にする』と言うのはなんなのか、全くわかりません」
「ちずな、くん?」
「僕にはわからないんです。誰かに何を言われたから誰かを助けたと言うわけじゃないのに、どうしてそれが自分を大事にしない事になるのか、僕にはわかりません」
「そう、ですか。ちずなくんには、わからないですのか」
「だって、僕はただ出来る事をしただけですから」
「はあ……なかなか損する性格ですな、君も」
ちずなが仕方なさそうに笑ったのを見て、時雨は諦めたように頭を横に振り、そう言葉を返した。
そして、深くため息をついた後、時雨はちずなにそう聞いた。
「なら私の聞くべき事はこうですね。……ちずなくん、料理、洗濯、掃除、君はどれなら出来る?」
「全部出来ますよ」
「ほう、それは助かります、今食事班にいるのは私と他二人しかいませんし、それに、私だってあまり得意ではありません」
「あれ? 澪は食事班じゃないのか?」
「ん? 澪くんも料理が得意なのか?」
時雨にそう聞かれて、ちずなは驚いたように目を見開き、ほぼ反射的にちずなは時雨にそう聞き返した。
けど、少し考えた後、澪が人見知りである事を思い出して、ちずなは時雨にそう話した。
「あー、すみません、気のせいだったかもしれません。先の話は聞かなかった事にしてください」
「ま、まあ、誤解とか誰にもありますから。であれば……」
そうつぶやきながら、時雨は一度ポケットに手を入れ、スマホを取り出した。そしてスマホのアプリを開けて、時雨は振り分け表を確認した後、彼はちずなにそう話した。
「古閑の話によると、君の足は二週間くらいで治るそうです。だから、それまでは食事だけに専念して、治ったら、少しずつでいいから、見回りを手伝って欲しい」
「分かりました、ちなみに皆はどんな感じですか?」
「そうですね、一応説明しときましょう」
そう言って、時雨は少しだけ椅子を動かし、ちずながスマホの画面を見れるように移動した後、時雨は説明を始めた。
「古閑はあの通り医者だから、彼女と他二人の医学生が治療班、ちなみにリーダーは古閑です。あと、治療班が倒れるとほぼ全員に被害が出るから、彼女達だけは他の役割分担はない事になります」
「まあ、確かに、治療出来る人を外に出せませんよね」
「とは言え、緊急時なら、古閑たちの負担が一番大きい……と、君なら説明しなくてもわかるんですね」
失敗したなと少し照れたように笑い、時雨は次の振り分けへ進み、彼はまた説明を続けた。
「次に食事班です。君と私と、あと定食屋のお兄さんと大学生の女の子。ある意味こっちの方も生命線に直結しているから、他の担当スケジュールは自由に選べられる事になります」
「この大人数を四人で回せられるのでしょうか?」
「衛生管理と栄養管理もあるから、時々治療班も参加するとの事だそうです。現状料理は定食屋のお兄さんが一人で回している状態だから、少しでも協力してくれたら助かります」
「分かりました。では、他に自分できる手伝いがあれば言ってください、やりますので」
「おお、それは心強い。分かった、皆にも伝えておきます」
本当にホっとしたように笑い、時雨は別の振り分け表を開いて、さっと内容を確認したあと、時雨はちずなにそう話した。
「ええと、洗濯と掃除なんだけど、洗濯の方が重労働だから、基本は男性が担当しています。が、下着などの個人的な物は、自分で洗うようにお願いします」
真顔で時雨はそう言ったが、段々とその顔が赤くなり、そんな時雨を見て、慌ててちずなはフォローを入れた。
「そ、それもそうですね。プライバシーは誰にとってもかなり大事です。グッジョブ時雨さん」
「あ、あはは、ありがとう、ちずなくん。あっ、干す場所も分けているので、後で教えます」
「はい、分かりました!」
「で、掃除なら、毎日する場所と時々する場所があるから、担当が回った時まだ教えます」
「了解です」
ちずなの返事を聞き、時雨は一度微笑みで返して、そして、スマホの画面へ視線を落とし、時雨の目が変わった。
それまでの空気は穏やかなものだったのに、見回りの表が時雨の目に入った瞬間、彼を纏う空気が一気に変わった。
深く眉間にしわを寄せて、時雨は見回りの表を開くと同時に、その一番上に、既にちずなの名前があった。
時雨の顔を見て、ちずなは仕方なさそうに息をつき、少し考えた後、リストにある人数を見て、ちずなはそう言った。
「そう言えば、二十人くらいだって言われましたが、表との数が合いませんね」
「はあ……そこに気づくか」
大きくため息を吐き、時雨の声は落ち着こうとしていたが、それでも、時雨の声は震えていた。
担当の振り分け表のファイルを一ページ目に戻し、それをちずなに渡した後、時雨は拳を握り、彼は悔しそうに言った。
「すまない、君は怪我しているのに、君が外の人だからって、言って……」
「あー、そういう事ですね」
改めて振り分け表を見ると、見回りの分担だけが極端に偏っていた。
若い子だけというのも不思議だし、何より、ちずな気絶する前に聞いた金田という苗字は、どこにも入ってなかった。
持っているスマホを時雨に返して、ちずなは天井を見上げ、少しだけ、ちずなは真剣に考えた。
避難所という場所は初めて来たけど、書籍やテレビで見た話では、地元の人間は外から来た人に好感を抱かないとよく描写される。
むしろ、今のように、時雨や古閑が助けてくれる事自体が、とてつもなく幸運だったのかもしれない。
(まあ、生きている方が勝ちと、前向きに行こうか)
そう思うと、ちずなは時雨の方へ顔を向き、かなり真面目な声で、ちずなはそう言った。
「まあ、ここで暮らすための代金と考えればまあまあ安いし、それに、見回りだって、何かが起こるわけではないでしょう?」
「……君は本当にそれにいいのか?」
時雨にそう聞かれて、ちずなは時雨と目を合わせた。
心配そうな時雨の顔を見ていると、ちずなはニヒルな笑みを顔に浮かべて、深呼吸をした後、ちずなは時雨にそう答えた。
「だって、帰る事も出来ませんし、ここで生活するしかない以上、受け入れなければ、何も始まりません、そうでしょう?」
ちずなの顔とその真剣な目を見つめて、時雨は一瞬だけ言葉を失った。
少しだけ時雨はちずなの目から視線を逸らし、彼は項垂れたけど、考えていると、思わず時雨はそう言葉をこぼした。
「君は、強いんですね」
「違いますよ、僕はただ、今できる事をやるだけですって」
「それが言える事自体が、とても強い証拠ですよ」
「そうなんですか? ……ありがとうございます、そう言われるの、案外嬉しいですね」
そう言って、ちずなが照れたように笑ったのを見て、時雨は突然顔を覆った。
(駄目だ、時雨、この子の気持ちに甘えちゃいけないんだ。本当は僕が守らなければならないのに、こんなのは駄目だ)
自分には何もできない事と、子供にまで責任を背負わせた事実に、時雨は耐えられないようだった。
何度も深呼吸を続けて、頭を何度も振って、やがて時雨は勢いよく立ち上がり、椅子から離れた時雨はちずなの前で跪いた。
いきなりの行動にちずなは驚いたが、時雨が泣いてる事に気づき、ちずなは慌ててしまった。
どうして時雨が泣いてるのか、ちずなには全くわからなかった。けど、なんとなくだけど、時雨は今色々悩んでいるだろうと、ちずなはそう思った。
「時雨さん、色々考えてくれて、本当にありがとうございます」
「ちっ、ちずな、くんっ」
「僕なら平気ですよ、こういう事は、こういう扱われ方は慣れてますから」
「ちずなっくん、それは、それは! 慣れちゃいけない事ですよ!」
ゆっくりとちずなは手を伸ばし、時雨の震える肩に触れて、ちずなはそう言った。そして、時雨の言葉を聞いた瞬間、自分を大事にしてくれなかった家族を思い出して、少しだけちずなは泣きたくなった。
けど、それをぐっと堪えて、笑顔を作りながら、ちずなはそう時雨に答えた。
「そう言ってくれて、ありがとうございます、時雨さん。でも、僕は大丈夫です」
ちずなの返事を聞いて、時雨はまた表情を歪めた。
そんな悲しそうな時雨を見て、自然とちずなは手を伸ばして、時雨の手を握った。
そして、時雨を自分の腕で抱きとめて、どこか呆れたような声で、ちずなは時雨にそう言った。
「時雨さんの事をよく知らない僕でも、時雨さんの方こそ、もっと休んで、もっと自分を大事にするべきだと思いますよ。隈もひどいし、顔色も悪いですし」
まさかちずなにそう言われて、それに、自分よりも年下の子に背中を叩かれるとは、時雨は思いもしなかった。
少し驚いたけど、段々と時雨は落ち着き、何回か深呼吸を繰り返した後、顔を上げて、時雨はちずなの顔を見た。
目と目が合い、ちずなの心配そうな視線に気づき、時雨は少し照れたように笑った。
そして、少しちずなから離れて、恥ずかしそうに頭を下げながら、時雨はちずなにそう言った。
「すまない、私の方がお兄さんなのに、またちずなくんに助けられました」
「いえいえ! 困った時はお互い様って言うし、気にしないでください!」
真面目に時雨に頭を下げられるとは思わなくて、慌ててちずなはそう返した。そんな風に狼狽えるちずなを見て、思わず時雨は笑いをこぼした。
久々に笑う事が出来て、時雨は少しだけリラックス出来たような気がした。
そうして改めて気合を入れて、他にもやる事があるからと時雨はゆっくり立ち上がり、深呼吸をした後、時雨はスマホを握り締めた。
ちずなの様子を観察し、適当にちずなに当番を任せると言われたけど、痛々しいちずなの姿を見て、時雨は決意に満ちた声でちずなにそう言った。
「ちずなくんはもう少し休みなさい、古閑の言うように、あと三週間は必要なはずだ」
「えちょっえッ?」
「いくら外地の人だからと言って、治療が必要な期間に動かしていいはずがありません。攻めるのなら、体裁を大事にする奴はきっと……」
「あの、もしもーし?」
「ッハ! ええと、私は他の仕事をしてきますので、ちずなくんはゆっくり休んでね」
「あっおいちょっと!」
なにか思いついたのか、急いでどっかへ行ってしまった時雨を見送り、ちずなは固まっていた。
一体これからはどうなってしまうのか、ちずなには分からない。
けど、再びベッドに体を預けて、天井を眺めているうちに、ちずなは眠りについた。
「おい、どうすんの……」
「聞かないでよそんな事……」
ベッドの近くの物陰に隠れて、平良と澪は気まずい顔のまま、お互いを見ていた。
古閑に言われた事が終わり、ちずなと時雨がどういう状況なのか気になって、二人はこっそり近くまで身を隠した。
カーテンと距離があるせいで、時雨とちずなの話の内容は、そんなにハッキリ聞こえてこなかった。
けど、時雨が泣いてる事と時々断片的に伝わる二人の言葉を聞き、平良は拳を握って、彼はそう呟いた。
「クソ、やっぱ俺じゃあ兄貴の役に立てねえのか」
「ちずなちゃんは強いんだからね、そりゃ誰にでも頼られるわよ」
「はあ!?」
得意げに澪にそう言われて、平良は思わず目を見開き、少し怒ったように彼は澪を見た。
けど、澪は平良と目を合わさず、ただスカートを握り締めて、悔しそうに澪はそう言った。
「私だって、ちずなちゃんの役に立ちたいのに……」
澪の言葉を聞き、平良は少しだけ首を傾げた。そして、澪の顔を観察した後、平良は澪に直球な質問を投げた。
「最初からずっと思っていたけどさ、お前、ちずなの何なの?」
平良の質問を聞いて、思わず澪は激怒した。
澪の細い体が震えて、平良の顔を見上げると、澪はちずなを起こさないほどの声で平良にそう言った。
「ちずなちゃんを呼び捨てるなんて! あなたこそちずなちゃんのなによ!? 簡単に呼び捨てにしないで!」
「ちずなが呼び捨てでいいって言ったんだ。文句なんの!?」
「っく、ちずなちゃんがそう言ったのなら、仕方がない」
心底悔しそうに澪は下唇を噛み、彼女は一度そう言ったが、平良の言葉を聞くと、すぐに澪は両手を組み、彼女は平良にそう言った。
「でも、覚えてなさい! 私だけがちずなの親友だからね!」
「はあ!? ガキかお前は! てか俺だって一瞬でちずなと親友になれるし」
「なーに!?」
「やんのか!? いたっ!」「痛い!」
そうやって平良と澪が喧嘩していると、二人の頭は誰かの拳に殴られた。
痛いと声を上げた後、ゆっくりと二人が顔を上げて、すると、そこには無表情に仁王立ちしている古閑の姿があった。
怒っている古閑の顔を見て、平良と澪は体を震わせたが、古閑はただニコッと笑い、手を伸ばして、古閑は二人の襟を掴んだ。
そして、平良と澪を引っ張りながら、静かな燃やした怒りを声に表しながら、古閑はそう話した。
「病人の近くで喧嘩する程の馬鹿だったとは思わんかったが、どうやら違ったらしいな。さって、次は何を手伝って貰おうかのう」
「先生、本当にごめんなさい!」
「私も悪かったから、包帯交換の手伝いだけは嫌ですぅぅ!」
「ふーん、ちょっとだけ考えてやらんでもない」
一瞬で青ざめた平良と澪を見て、古閑は悪そうな顔で笑った。
そして、その場から離れる前に、彼女はもう一度だけちずなのベッドの方へ目を向いた。
カーテンの向こうで、起こされることなく、ちゃんと寝ているちずなのシルエットを見て、古閑を小さく息をついた。
安心したあと、両手で平良と澪を引っ張って、古閑は二人を薬品保管庫まで案内した。
「では、ひと仕事をして貰おうではないか」
『いやあああああーー!!』
まだ普通に騒いていた少年少女達は知らなかった。
地球と呼ばれている世界は着実に破滅な道へ辿り、未来への道も段々と暗くなっていく。
しかし、そんな絶望的な未来も、もうすぐで変われるチャンスを迎える。
そう、それは全ての始まりで、奇跡な出会いだった。