~消えない~
一
繁華街の賑わいは、高校時代とあまり変わらなかった。まばゆいほどの看板がうるさくて、居酒屋のオヤジたちがやかましい。金曜日だからって浮かれるなよ。
そういう俺も、わざとらしく千鳥足で街をさ迷っていた。行くあては決まっていたのに、少しだけ、この世界にいたかった。でも、それはきっとできないから、一筋の光も入り込まない裏路地へと消えた。ヒト臭さが漂う裏路地へと消えたのだ。
高校時代からこんなだった、この裏路地は。先生から「通るなよ」とお達しを受けるほどにはこんなだった。しかし、部活と勉強に励んでいた俺は、そんなことを聞いていられなかった。この通りを走り抜けた。露出の多い、魅惑的な女性が現れようと走った。究極のミニスカートをはいたJKが、腕を引っ張ってこようとも走った。しつこいときには、罵ってしまったこともある。
俺は、くだらない小芝居をやめた。もう、俺の居場所が現れたのだ。
看板の電飾は昔から切れていた。手動の扉には、いつも「closed」の札が提げられている。店内の様子など、札で隠されているから見えない。誰もが営業していないと思っていた。もちろん、高校時代の俺も。
俺は、扉を開けた。カランコロン、と陽気なベルを鳴らした。「closed」の札を揺らした。ただの日課のように。
「いらっしゃいませ。」
俺のちっぽけな気配に、赤いライトがじわりと点灯。そこに浮かんだのは、死んだようなバイトの目。カウンターの奥で、そいつはスマホをいじっていた。スマホをしまう気配は、どうやらなさそうだ。
「AとBどちらにしますか?」
「Aで。」
黒々とした瞳に、思い切りにらまれた。Bの方が、店の儲けになる。こういう時だけ、俺はにらみ返すという術を持っていた。
「時間は、何分にします?」
「30分で。」
バイトの男は、呆れたようだった。別に、彼を怒る上司も、客もいないのだろう。
「誰にしますか?」
「メイは、今日いますか?」
「いますよ。たぶん。」
「じゃあ、お願いします。」
「1500円になります。」
すべて、小銭で出した。バイトは呆れて、ため息くらいつくかと思ったけど、そんな無駄なことはしなかった。
「105号室になります。5分前に、電話します。」
渡された黄色の札は、それなりに汚れていた。そのことに胸を撫で下ろす。もう見捨てたはずの現実に、まだ、俺は「わかってくれる」人間を探していたのかもしれない。
Aは、手繋ぎお散歩コース。Bは、膝枕コース。2年も前から変わっていない。1500円という料金には、500円のサービス料が含まれているらしい。後の1000円は、よくわからない。わからない方が、俺のプライドは幸せだった。
カウンターを右に曲がって、一番奥の部屋。部屋番号の上のまん丸の覗き穴。高鳴る鼓動が手を急かす。
俺はドアノブを引いた。そんなに、力も勇気もいらなかった。ほのかに溢れ出した、爽やかな、オレンジの香。
「おかえりなさい。千弘さん。」
目の前が、黄色く染まる。淡く、儚く染まってく。少し、目線を下げて見つけた。
大きなピンクのリボンが胸元で揺れる。白い足を大胆に魅せる、究極のミニスカート。大きく、透き通った黒の瞳。
「ただいま。」
その一言が、体の奥にまで染みる。やっと、生きた心地がした。やっと、微笑むことができた。
そっと、メイを引き寄せて、その細い体を抱きしめた。いくら力をいれても、彼女は怒らない。
「千弘さん、あったかい。」
「酒を飲んできたから。ごめん・・・。臭いよね。」
「ううん、早く中に入って。」
メイが、俺の手を引っぱった。俺も引っ張られた。
高校生の俺に言ってやりたい。君は笑うかもしれないけれど、俺は今、不幸なんかじゃない。幸せだ。君が思っているほど、こっちの世界は悪くない。
四畳半ほどの密室に、俺とメイが座る。その傍らには、ベッドもあった。少し乱れたシーツが嫌だった。
俺からは、メイの素肌に一切触れなかった。何度触れようとしたことか。店のルールでは、触れていいのは足だけだし、彼女だって、手招きしたりはしなかった。
「千弘さん、ずっと来ないから、もう来ないのかと思ってたの。」
長い髪が俺の頬をかすめ、切れ長の目が意地らしく笑った。3日も空けて来なかったのは、初めてだった。
「そんなはずないだろう?ただ、仕事が立て込んでいただけだよ。」
「フフフ、うれしい。」
メイの右手は、ずっと俺の左腕を掴んでいた。他のことなんて興味がないらしい。でも、そんな態度をとられる方が、心の底をくすぐる。
「・・・仕事、やめちゃおうかなぁ・・・。」
「また、何かあったの?」
「ううん。だって、メイに会えなくなっちゃうから。毎日、毎日、君に会いたいんだ。」
俺はメイを直視した。他の女子高生だと、網にかかった魚のように目を泳がせた。苦笑いをする子だっていただろう。でも、メイは笑って、わからないどこかを見ていた。そしていつも、ただ一言だけ答える。
「ありがとう。」
部屋の冷房は、先月くらいから壊れているらしく、気温の上昇は著しい。ネクタイを緩めて、腕を捲る。メイもまた、はつらつとした真っ赤なリボンを外して、制服のボタンを二、三個開ける。オレンジの香りが、鼻にまとわりついて離れなくなった。それらは、道端の魅惑的な女性と変わらなかった。
今頃になって、酔いが回ってきたのだろうか。耳に髪をかけるとき、空いた右手で、白くて長い足をなでるとき。それらに、煮立つ欲情はとても抑えられそうにない。何度も、何度も手を握り返すことを我慢した。きっと、彼女の手を引っ張ってしまう。
それに、どれだけ耳を澄ましてみても、彼女の鼓動は聞こえなかった。彼女はただ、仕事として、俺の手を握っていたのだ。
何故だか今日は、いつもと違った。冷房がついていないことだけに帰結するものではない。メイがそっぽを向いているすきに、彼女を見回した。
「千弘さん。」
「は、はい。」
メイは、その目を俺に戻した。もう、笑ってはいなかった。
「仕事はやめちゃだめですよ。あなたは、そっちで生きているんだから。」
「・・・どうしたの?」
メイは俺に、反論なんてしたことがなかった。いつもなら、先月までなら、少なくともそうだった。「仕事を辞めたい」という俺に、同情するだけだった。
「千弘さんの職場環境が良くないのは、高校生の私にだってわかります。でも、あなたにはそっちの方が似合います。というより、こっちに来る勇気はあっても、住みつく勇気はないんでしょう?」
メイの言葉に嫌味なんてない。素直な、やっと見えた、18才のメイだった。
それなのに、勝手に俺が作り出してしまった。
「なんだよ。どうしたんだよ?俺、お前に何かしたかよ?」
「何もしてません。」
「じゃあ、どうして・・・」
「何もしてないからだよ。」
その言葉は、柔らかかった黄色のライトを切り捨てた。見事に真っ二つだ。
「何もわかってないよ。そんな中途半端な気持ちで立ち入ろうとしないで。」
そして、追い打ちをかけられる。年下からの説教に、俺のプライドはは黙っていなかった。
「そういうお前は、恥ずかしくないのかよ。こんな惨めで、自分の人生も他人の人生もめちゃくちゃにする世界で生きるのは・・・あっ。」
ハッとした時には遅かった。開いたままの口が、本当にふさがらなかった。自分の中身が空洞と化していた。
俺は、メイの手を力いっぱいに振りほどいて立ち上がる。見下ろしたとき、彼女の小さな体はわずかに震えていた。
俺には勇気がなかった。その上、見栄っ張りなところもある。彼女の素肌に触れないのは、決してメイを思ってのことではない。結局、頭の片隅に、ろくでもない上司の顔が浮かぶのだ。
ドアノブを握ったとき、俺の手は激しく震えていた。たった18才の女子に、見透かされたのだ。
晴れない。窓の外が、見えない。青空なんて、ないのではないかと思った。
ここ一週間、俺は自分の部屋のベッドで体育座りをしてる。そろそろ、根っこが生えてもいいだろう。唯一、体を動かしたことといったら、洗濯物を干しては、すぐに取り込んでを繰り返していることくらいだ。天気予報がハズレることはなかった。連日、雨。どこのテレビ局でも変わらない。しかし、俺は無駄なことを繰り返していた。それくらいしか、平日の昼間の暇潰しは存在しない。
俺の部屋は、あの店の部屋よりは大きい。ただ、子供のときに集めていたミニカーとか、チョコのおまけのフィギュアとかが、足の踏み場も占領している。壁に掛けられたバスケ部時代のユニフォームは、汗など忘れて色褪せていた。
昔が眩しいなんて、思わない。今だって、十分、眩しい。
勉強机の上には、教員試験の参考書や教科書がネコにでも遊ばれたような状態だった。破れた箇所は、一番好きな漢文の一ページだった。
「千弘、いるんだろう?下に降りてきなさい。」
父の声だった。怒っているのか、笑っているのか、わからない。
「早く来なさい。」
俺は返事もしないで、部屋の扉を開けた。どうせ、怒っているのだろう。父はいい父親でもなければ、ダメな父親でもない。
俺は、老朽化した階段を降りる。キーキーとバカみたいな音を立てた。そんなに急ぐ必要はない。父の言うことが変わることはないのだから。
リビングの扉を開くと、案の定、父がソファに横になっている。まだ、朝の10時だというのにポテトチップスを頬張っている。3年前に定年を迎えた父にとっても、平日の昼間というのは、それくらいの価値しかないようだった。
「何?父さん。」
「おぉ、来たのか。そこに座りなさい。」
父は、慌ててソファに座り直した。俺も、父に指差された向かい側に腰を下ろす。父の顔には、ずいぶんとシワが増えた。それも、固いシワ。まだ、俺が小学生の頃・・・それでも母が高齢出産だったから、他の親よりは老けていたが・・・父にはもっと、柔らかいシワがあった。
「仕事、辞めたのか?」
「・・・まぁ。」
父は「はぁ。」と軽くため息をつく。
「次の就職先は決めてるのか?」
「まだ、決めてない。」
父はまた、「はぁ。」と同じため息をついた。
「おいおい、しっかりしてくれよ。高校も大学も私立出したんだ。それが、お前、どういうことだかわかるだろう?父さんだって、もう、年金とパートしか稼ぎがないんだからな?」
父は眉間に力を込めた。般若よりは、弱々しい。
俺は目をそらし続けた。怖さからのものではない。単に、居心地の悪さのせいだ。
「・・・まぁ、父さんと母さんも知り合いに尋ねてみるから。でも、一番大事なのはお前が何をしたいかだからな。焦らず、探してみなさい。」
「ありがとう、そうする。」
就活の時にも聞いたようなことに、適当に相づちを打つ。そうやって、就職した企業が俺にはどうも合わなかったけれど。
父と母には、やっと生まれた息子がまだ可愛いらしい。その愛情が大人になろうとする俺をいつも邪魔する。父はまた、ソファに横になって俺の曇りきった瞳を見て笑った。
「千弘も食べるか?薄塩だぞ?」
これは父にとって、重要な儀式だった。また、親と子の関係に戻るための。
俺はポテトチップスを受け取らなかった。
「大丈夫。ちょっと、出掛けてくる。」
「・・・そうか?雨降ってるから気を付けるんだぞ。」
父は少し不安そうにうなだれた。不思議なことに、罪悪感みたいなものは生まれなくて、さすがに親不孝な息子だと反省した。
人の目を伺うのは、父に似て。何の気なしに、思ったことを言ってしまうのは、母に似て。結局、それらの要素が社会では役に立たなかった「あの通り」から追放宣言を出された俺に、残された道など、もうない。
なんとなく、台所に立ち寄った。コンロの上に黄色い鍋があった。俺の好きなカレーが、3人分を優に越えて入っていた。窓を打ち付ける雨音は母の声になぜだか似ている。
白い布に包まれた包丁らしきものを見つけた。布を広げてみても、間違いなく包丁だった。それを、近くにあった買い物袋に入れた。玉ねぎの香が手に絡み付く。振りほどこうとしたのに、それだけは俺を離さなかった。
近所の公園に向かった。最近できたばかりの公園だった。そんな公園では忍びないかとも思ったけれど、どうでもいいんだ、と何度も何度も言い聞かせて、買い物袋を大事に抱え込む。
どしゃ降りの雨の中、シーソーが上下に揺れる。豪雨で楽しげな音は聞こえない。滑り台は、砂場に雨水と憂鬱だけを溜め込んでいる。
俺はブランコに腰を掛けた。冷たかった。かき氷を掻き込んだときのような痛みが伴った。パンツにまで水が染み込んで、気持ちい。
・・・まぁ、いいか、もう、どうでも。
「何やってるの?」
雨の音に紛れて、微かに聞こえた声。ゆっくりと視線をあげると、小学生くらいの少年が突っ立っていた。傘もささずに。
ほとんど、反射的に買い物袋を後ろに隠した。
「君こそ、何やってるんだ?こんなところにいたら風邪引くぞ。」
「友達、待ってるの。今日、仲直りしようと思って。」
雨が降っているせいなのか、少年はぼやけて定まらない。
「そうか、うまくいくといいな」
「お兄さんは?」
「・・・」
少年が無垢な表情で尋ねているのだろうと予想はついた。でも、妙に心がざわつく。
「お兄さんは君を殺したい」
「お兄さんには殺せないよ」
少年はびくりともしなかった。その声は、震えていたりはしなかった。
「じゃあ、お兄さんが死のうかな。うん、っていうか本当はそのつもりだったし」
「お兄さんは死ねないよ」
雨の隙間をぬって、聞こえてくる感じがしない。雨と同時に降り注いでいるようだった。隣にだれもいないから確かめようもないけれど。
俺にも、子ども心みたいなのが伝染したらしい。すっかり、俺の後ろ手に携えている凶器のことを忘れていた。
「お前の友達、約束忘れてるんじゃない?ってか、お前のこと忘れてるんだよ、きっと」
「来るよ」
「だって、こんな雨だぞ。約束してたとしても、ふつう」
「来るよ」
「だいたい、お前が素直に謝ればよかったじゃ」
「来るってば。だって、達斗は僕と違って優しいから」
少年の言葉の方が、よっぽど鋭利だった。間髪をいれずに飛んでくる。ナイフに近い。少年は容赦なく続けた。
「お兄さんの方こそ、謝ったら?」
「・・・誰に?」
「彼女だよ」
「は?」
「誰かに咎められたわけでもないみたいだけど、自分が悪いことしたな、って思ったら謝るんだよ」
頭の中に、「彼女」というのがすぐに浮かんだ。ここ最近で、酷い言葉をぶつけてしまったのは、その「彼女」だけだ。
そう言われたときに、彼女の視線が腕を掴んで離さない。でも、「彼女」の声がまるで聞こえない。俺の名前を呼ぶ、儚い声が聞こえない。雨のせいにはできなかった。
「・・・メイのことなのか、お前が言ってるのは。でも、メイが言ったんだぞ?出ていけ、って。」
「お兄さんは、後悔したんでしょ?彼女を傷つけてしまったと思ったんでしょ?だったら、謝らなきゃ。人の気持ちなんて、わからないんだから」
やっぱり、少年は話していないような気がする。というより、少年が話していてほしくはなかった。もう、自分より年下のヤツに見透かされるのはゴメンだ。
「じゃあ、君も仲直りするんだぞ?」
「当たり前だよ」
澄ましたような口調が気にくわない。でも、俺は謝る、という選択をした。心のなかの重荷を早く、下ろしたい。
空を見上げてみても、雨がやむ気配はなかった。買い物袋はもう、びしょびしょ。そろそろ立ち上がらなければ、包丁の切れ味が悪くなりそうだ。
「君の友達、早く来るといいな」
視線を戻すと、そこでは雨だけが地面を打ち付けていた。少年の影の一つも残っていなかった。悪い夢でも見たかのような感じで、胸のあたりがムカムカとした。
俺は立ち上がった。夢か現かもわからないのに、また、「あの通り」へ向かうことにした。
でも、これが最後だ。
雨の繁華街は静かだった。スーツを着たサラリーマンはいるわけもなく、道端に寝転ぶご老人だっていなかった。全ての店がシャッターを下ろしているから、当然と言えば当然なのだろうけど、なんとなく物足りない。
俺はコンクリートで跳ね上がる滴を恨めしく思って、地面を蹴飛ばした。ぼろぼろの革靴も、すっ飛ばしてしまいそうだ。
ただし、路地裏だけは例外だった。一歩「あの通り」に踏み入れると、すぐに、雨の臭いなんか吹き飛んだ。鼻が痛くなるほどの、香水の匂い。耳を塞ぎたくなるほどの、女性の猫なで声。それらが呼び起こすのは、俺が笑っている記憶で、メイが微笑んでいる記憶。
今日も「closed」の看板だ。俺は、迷わずに例のベルを鳴らした。
「いらっしゃいませ。」
また、無愛想なバイトの声がした。今はそれが心地いい。相変わらず、スマホをいじっていても、悪い気はしなかった。
「AとBどちらにします?」
「今日は、そういう・・・」
「あっ」
一瞬、どきりとした。冷えきったバイトの「あっ。」は、俺に向いていなかったけれど。
「この前、取り替えたばっかなんスけどね」
赤いライトは、瞬時に消えてしまった。俺の薄い影にも反応していた、唯一のライトが消えた。足元がはっきりしないことに、少しだけ、おののいた。
ただし、こういうときでも、俺は惜しみ無く、見栄を発揮した。
「停電では、ないかな?」
「あぁ、たしかに。ちょっと、各部屋に電話してみるっス」
バイトの男は、世紀の大発見でもしたかのような清々しい表情だった。懐中電灯をカウンターの棚から取り出して、電話に当てる。青白い明かりは、彼の火照った頬を照らし出す。男はくるりと、俺に背中を向けて、軽快に番号を打つ。その間は、ずっと、バイトの男を注視していた。1、0、5、とその番号を打つのを待ちわびた。
しかし、その瞬間は、俺に訪れなかった。
「停電・・・では、ないみたいッス。やっぱり、ここだけッス。今、取り替えるんで待っててください」
「ちょ、ちょっと待って」
カウンターから飛び出した男の腕を掴んだ。まるで、寂しい腕だった。温もりも、柔らかさもない。振り返った男は、迷惑そうに眉をひそめた。
「なんスか?」
「あの・・・105って押さないの?」
「・・・何で?」
「何でって・・・」
「あぁ」
バイトの男は、頭の片隅、いや、頭の外にあった記憶を、数十秒で手繰り寄せた。速かったことに喜べばいいのか、気にもとめていなかったことに怒ればいいのか。そんな思考も、彼が適当にあしらった言葉には、機能しなかった。
「門宮芽衣なら、こないだ死にましたよ。なんなら、今日、お通夜ッスよ」
真っ暗闇のなかで、青白い明かりがゆらゆらと揺れた。バイトの発した言葉は、いまだに俺の耳まで届かない。青白い明かりのなかで、静かに踊っていた。
後ろ手の包丁が落ちた音がした。その間抜けな音は、衝撃と驚きを表すのに十分だったし、干からびた心から、多すぎるほどの言葉をすくいとった。その中から選択できるほど、悠長にしている暇は、俺にはなかった。
メイの名前を知らなかったことを俺は笑った。笑いたくはなかった。笑うことでしか、もう、取り返しがつかないのだ。
別れって、本当はそういうことだ。