62話 義龍の野望
【美濃国/稲葉山城 斎藤家】
織田家が急速に拡大した版図を治める為、領内の内政に力を向け始めた頃、斎藤家では領土拡大の機運が高まっていた。
信長の快進撃に触発されて、負けては居られないとの思いがある。
その機運が高まるのには理由があった。
ある日の事、義龍は斎藤家の現状を考えた。
(斎藤家と今川家を吸収した織田家とは、桶狭間のでの勝利の立役者にて同格の同盟国としてその地位を不動の物とした)
そんな考えが脳裏をよぎった時に違和感を感じたのである。
6ヵ国の大勢力を誇る織田家に対し、斎藤家は美濃1国の大名に過ぎないと。
だが、『同盟国としての地位を不動の物とした』とは、よくよく考えれば『織田家が有るからこその地位』である事の裏返しでもある。
いつの間にか織田の威光にすがる斎藤家として、精神的に後塵を拝する事に、違和感を感じなくなっている自分に気がついたのだ。
勿論、信長はそんな事は思ってはいないが、このまま時代が進めば『斎藤家は虎の威を借る狐、いやマムシ』であると気付く民衆がいるかもしれない。
後世でそんな評価が下され様モノなら死んでも死にきれない。
「いか~んッ!?」
そんな訳で義龍は叫んだ。
「ど、どうした新九郎!?」
当主を譲ってすっかり丸くなった道三は、己の天職とも言える商売活動を整備する為に、日夜励んでいたが、義龍の叫びに驚き尻餅をついた。
2m近い大男の叫びは迫力満点であった。
「父上! 斎藤家はこのままで良いのですか!?」
「このままって……何がじゃ?」
義龍は道三に、このままでは斎藤家の存在意義が無くなる未来を予測し、打って出るべきだと主張した。
「なるほど。お主の言わんとしている事は分かる。じゃがどうする? 我らが進める方向となると西か北……あとは東か。言うまでも無いが無計画に進出しては痛い目を見るだけじゃ」
現在の美濃周囲の主な勢力は以下の通りである。
・西の近江は六角及び浅井
・北北東の飛騨は三木及び江馬
・北北西の越前は朝倉
・東の信濃には武田と村上
これらの勢力が鎬を削って争っている。
こうして見ると目標には困る事は無いが、相手にすると困る事が多発する国ばかりである。
何に困ると言えば―――
北の飛騨国の三木と江馬は小粒ではあるが、飛騨は土地の旨味が少ない上に、仮に制圧した場合、百姓の持ちたる国、一向一揆が盛んな加賀国、越中国に面する事になる。
西の近江国の浅井を攻め立てると、浅井自体は大した事が無くとも、浅井を支配下に置いた六角家と構える事になる。
現在の六角当主は六角義賢だが、六角の先代である定頼は、信長に先んじて楽市楽座を実施する確かな政治力で六角を育て上げた強力な国だ。
北西の越前国の朝倉は当主が延景(義景)に代替わりし、未だ実力は未知数で不気味であるが、だからと言って気軽に攻めると、実力が絶大な怪物朝倉宗滴が立ち塞がる。
また越前も一向一揆に面する国である。
東の信濃国は武田と村上が争っているが、やはり土地の旨味が少ない上に、遠くの強者とわざわざ戦って勝ったとしても、何もかも割に合わない。
「東はあり得ませぬな。すると西か北ですが……どちらも相手をするのに―――」
義龍は『骨が折れる』と言葉を続けようとして思いとどまった。
義弟の信長は『骨が折れる所ではない相手』である今川家との争いを制しているのである。
それなのに、自分が強敵相手に尻込みをする様な事を言いかけて、かろうじて言葉を飲み込んだ。
その言葉を言ってしまったら、この先、信長に一生頭が上がる事は無いだろうと察し思いとどまったのである。
「……今の言葉の先、よう飲み込んだ。じゃが、だからと言って誰彼構わず戦いを挑むのは、愚か者のする事じゃ。当主たる者、頭のどこかでは必ず冷静な部分が無くてはならぬ。相手の強さを認めるのも、ある意味強者たる者の資質。婿殿はそういう意味では己の弱さを冷静に認め、今川の強さを認め、分析し研究して長い時をかけて対策を練った。じゃが、それは婿殿が忍耐力、発想力、戦略眼など何もかも飛びぬけて優れておったからじゃ」
「親父殿はそこまで義弟を評価しますか……」
息子の目の前で、他人の息子を絶賛されるのは流石に面白くない。
道三はそんな義龍の思いなど百も承知で言葉を続けた。
「誤解の無い様に言うが、お主は斎藤家の当主として文句の付けようが無い。しかしそれでも婿殿は人とは思えぬ程に規格外じゃ。専門兵士の計、うつけの計、濃尾街道、楽市楽座、対宗教、天下布武法度……。一体何を経験したらあの様な発想ができるのか不思議でならん。まだ20にも満たない小僧が今川仮名目録を参考にしたとは言え、あの法度を考え付くなど、例えワシが一回生まれ変わったとしても辿り着けん領域かもしれん。ある意味化け物じゃ。だれも並び立つ者がいない傑物じゃ。あんなのと比較したら焦る所か自滅するのがオチじゃ」
「親父殿……」
信長の実績は転生故の物もあるが、転生前でも本当に何を考えて編み出した考えなのか分からない物も多数あり、道三の感想は最もであった。
「そんな婿殿とその能力を知った上で争う? そんな恐ろしい事はワシなら絶対に選択しない。今川治部も恐らくその思いで臣従しておるのじゃろう。今では帰蝶の提案に乗って婚姻同盟をして大正解じゃったと思うわ」
正確には『帰蝶の提案に乗って』ではなく、『帰蝶に論破された』のであるが、そこは無視した。
後世に残る斎藤家の資料にもそのように記載されているし、半ば記憶も改竄しつつある。
「じゃが、婿殿と勝負するのは愚かだとしても、お互い切磋琢磨するのは間違っておらぬし、六角、朝倉、浅井、村上、武田、三木、江馬と争うのは、お主の実力を考慮しても全く愚かとは思わぬ。勝算も十分ある。あとは奪う土地の将来性で判断すればよい」
「義弟はともかく、ワシはその他の名を馳せた大名と張り合えると?」
思わぬ高い評価に義龍は驚いた。
「あたりまえじゃ。このワシの息子にして、かの桶狭間武功第一位のお主じゃ。少なくとも武田晴信や今川義元に匹敵する才があると確信しておるわ」
義龍にその自覚は無いが、桶狭間で果たした役割は決して小さくなく『マムシの後継者』として内外に名が知れ渡っている。
「良い機会じゃ。この先の斎藤家の在り方について考え、その上でどうするか決めようか。お主は当主じゃ。方針を決める権利がある。後日で構わぬから皆の前で語って聞かせるがよい」
そう道三は語ってその場を去り、後に残された義龍は複雑な思いで父を見送った。
あの武田や今川と比較して尚、負けておらぬと評価してくれた事は素直に嬉しい。
しかし、信長の評価はその遥か先である。
武田も今川も父の道三ですら並び立てないとの評価だ。
その評価には嫉妬してしまう思いもあるが、納得も出来てしまうのがさらに悔しい。
そこまで考えて義龍はその思考を頭から振り払った。
(イカン! こんな嫉妬に狂った考えでは必ず足元を掬われる! 義弟がどうこうではない! ワシがどうするかじゃ!)
義龍は己の承認欲求を振り払い、織田家の方針を踏まえた斎藤家の立場を改めて考える。
ただ、信長の様に天下統一のビジョンが有るわけでは無い。
しかし、信長の野望を知ってしまった上で、その協力者として単なる領土欲や支配欲で『私戦』をする訳にはいかない。
進出するなら緻密な計算と根拠が必要である。
ならば、どこの何を目指せば協力者として信長のアシストをしたと言えるのか?
天下統一を目指す国の同盟者として相応しい行動とは何か?
義龍は自室に籠って考えに考え抜き、同時に親衛隊の間者を多数周辺国に放って情勢を手に入れた。
義龍は、1ヶ月の熟慮の上に結論を下した。
(斎藤家として……天下万民の為に……!! コレしかない!!)
後日、稲葉山城には道三、美濃三人衆等の主だった家臣、織田家との繋がりで互いに派遣しあっていた丹羽長秀、明智光秀、斎藤利三が出席した。
なお平手政秀は桶狭間の戦いでの負傷で療養中である。
「よくぞ集まった。これより我等斎藤家の方針を申し渡す。まずは西の北近江の浅井、更にその先の北、越前朝倉を攻略目標とする」
いきなりの爆弾発言に家臣達はどよめく中で、父の道三が尋ねる。
「飛騨でも信濃でも無い理由と、何故北近江と越前なのか聞こうか」
家臣が動揺する中、半ば予想していた道三が悠然と訪ねる。
「色々ありますが……。そうですな。国と民の発展、及び、天下布武法度を考えた末の結論です。まず、東への侵攻は論外です。信濃など苦労に苦労を重ねて手に入れにるに見合う価値などありませぬ。村上、武田、更に信濃に面する越後の長尾。奴等を相手にするなど、他にする事が無いか、攻め込まれた時で充分です。それまでは外交であしらって置けば良いでしょう」
「ハハハ! 村上、武田、長尾を外交であしらうときたか!」
道三が愉快そうに笑って続きを促した。
「飛騨も同じ理由です。三木や江馬は小粒ですが、放って置いても問題ありませぬ。我等が力をつければ戦わずとも手に入れる事も可能でしょう。それに一向一揆が盛んな加賀、越中面しますからな」
飛騨に関しては全員同じ意見であったので特に何か言われる事は無かった。
史実にて道三の娘の一人が三木氏改め、姉小路頼綱に嫁ぎ同盟をしているが、今はまだ何の関係も無いし、史実と違って背後の織田と関係が良好なため、三木に対して何か対策を講じる必要は無かった。
それに飛騨にしても信濃にしても、鉄壁の山々が連なる場所である。
攻め取る苦労に見合う土地も無ければ、優先順位は限りなく低い。
「それで、まずは第一目標の北近江の浅井ですが、現在、六角と争い疲弊し臣従しております。後ろ盾を得たとも言えますが、しかし、あと数ヵ月で農繁期にもなります。親衛隊を持つ我等なら、横から掠め取るにはこれ以上無い程の絶好の機会です」
「成る程。六角も兵を揃えられぬ時期ならば、指を咥えて見ているしかあるまいな」
「加えて、浅井久政は内政はともかく戦には向かない御仁との事。一年掛からず北近江を切り取る事も狙えます」
義龍の言うように浅井久政は内政にはその手腕を発揮するが、父の亮政や息子の長政に比べ著しく武勇に劣っていた。
しかしその政治は信長に対する外交戦略は誤ったが、内政に関しては善政を敷いており決して無能ではない。
三国志の曹操を言い表す言葉に『治世の能臣、乱世の奸雄』とあるが、久政は『治世の能臣、乱世の不佞(才能が無いこと)』とでも言うべき、生まれる時代を間違えた人物である。
「弱い所から確実に手に入れる。実に理に叶っておるな。しかし、浅井の後に南下せず北に行くのか? 南近江の六角は良いのか? 手強いのは分かるが、奴等を無視して越前にいく理由は?」
「単なる領土拡大ならそれも良いでしょうが、織田殿の目指す天下布武を考えた時、南近江より、越前の方が重要だと判断しました」
「ッ!? 何故?」
この答えは道三も予想外であったらしく戸惑いを隠せなかった。
「大陸に……明に直接繋がる港が手にはいるからです。越前も一向一揆に面しておりますが、天下布武法度を推す以上、どうせ将来的には敵対するなら、その苦労を差し引いても釣りが来るであろう越前の港は手に入れるべきです」
「成る程。だが海という点であれば若狭国でも良いのでは無いか?」
越前国の西方に位置する若狭国。
そこも良質な港がある。
海を求めるなら越前にこだわる必要はない。
「若狭も考えましたが、仮にそこを狙うと、若狭武田と越前朝倉、近江浅井に六角まで同時に相手にする事になります。一方で、若狭武田が越前に侵略する力も無い。それに……」
「それに?」
「若狭武田は親将軍派閥です」
「!!」
若狭武田の当主は12代将軍の娘を娶っている。
その将軍は三好に押され弱っているが、色々と面倒な事に巻き込まれるのは間違いない。
「いかに将軍に力が無いとは言え、中央の騒乱に巻き込まれるのは時期尚早で得策ではない。ならばやはり越前です。若狭はその後で良いでしょう」
越前の敦賀湾は天然の港として古く から栄え、史実では朝倉義景が明との貿易拠点として活用し財を築いていた。
日本の貿易拠点は堺や博多が有名であるが、越前もそんなに負けてはいない。
将来的に濃尾街道を繋げて熱田、津島、伊勢と言った商人と連携すれば、堺や博多商人を頼らず銭を得る事が可能である。
「経済を何より重点に置く織田殿が必要としない筈がありませぬ。今は商人を通じてでしか入手出来ない物も直接手に入れる事が叶いましょう。元商人の父上ならばこの利点は理解して頂けるはず」
「た、確かにな! 濃尾街道と繋げるに相応しい地じゃ。しかし、それでも六角も攻め滅ぼしてからでも良いのではないか?」
道三は近江全てを手に入れて越前に行くと思っていただけに、動揺を隠せない。
「近江を、特に南近江を手に入れる事だけは、織田殿でなければなりません。織田殿と共に真に天下布武を目指すのであれば」
近江より東側、特に太平洋側を拠点とする者が京を目指すなら、絶対に通過する必要があるのが南近江である。
そのルートを斎藤家が奪ってしまうと、同盟しているとは言え関係が悪化する可能性があるし、六角を引き付ければ織田にも利点がある。
内政に集中できるし、いざ南近江が必要になった時、東と北から挟み込む事も可能である。
「お主、そこまで考慮して此度の計画を考えたか! ……天晴れじゃ!」
道三は、決して義龍の事を無能とは思わないし、むしろ極めて優秀な部類だと思っていたが、今の義龍の説明した方針は道三の予想を上回る、信長の考えに迫る思考の上で考えられたものであった。
(まさか、新九郎がここまで成長しておるとは! 婿殿に触発されて一皮剥けたか! ……老いては子に従えというが、まさにその通りじゃな。最早斎藤家においてワシの出番は終わったか)
家督を譲って隠居しても、相変わらず影響力を残す前支配者が多い中、斎藤道三は今、息子の義龍に完全に道を譲る事を決意した。
頼まれれば戦うし、意見を求められればアドバイスはする。
しかし、出しゃばる事はしない。
その様に決めて息子の成長を喜ぶのであった。
こうして斎藤家の領土拡大の機運が高まると共に、浅井、朝倉攻めと言う、史実では織田が担当した侵攻を斎藤家が行う事になった。
後にその計画を聞いた信長は援軍を約束し、かつての強敵達の事を思う。
【尾張国/那古野城 織田家】
《浅井長政に朝倉義景か》
《浅井長政さんはまだ幼児ですよね? もし浅井と何らかの関係を持ったら、於市さんを嫁がせますか?》
ファラージャが信長に尋ねた。
今までも数々の歴史が変わってきたが、今回は織田家が関わるのは精々援軍で、積極的に関わる事は皆無である。
転生の影響による歴史改変の波が、大きな変化をもたらしたのである。
《それよな。長政は死ぬ可能性もあるが。前々世の奴はワシを期待させるに充分の、だが、失望させるにも充分の事をしでかしおった。何が影響して性格や考えが変わるかどうかわからぬが、コレばかりは見守らねばなるまい》
信長はかつて己を絶体絶命の窮地に追い込んだ宿敵の事を思いつつ、斎藤家の侵攻を手助けする準備に入るのであった。




