54話 桶狭間攻防戦 王手
【織田軍/斎藤義龍軍】
斎藤義龍が飯尾乗連を突き崩そうとする所に、信長軍が横槍を入れて更なる攻勢を仕掛ける。
信長がここを突破できれば義元までの道が開けるのは、義龍も戦場と戦況で把握している。
「義弟が来たか! 義兄として負けるわけには行かんな! どうりゃッ!」
家臣に窘められて一時は指揮に専念していた義龍であったが、またもや前に出て大身槍を振るう。
その義龍の攻撃に続いて斎藤軍がさらなる追撃を行い、さらには信長軍の突撃が加わり飯尾軍もまた瓦解寸前であった。
その義龍の軍に信長が自ら乗り込んできて伝える。
「義兄上! このまま前進をしてください! ワシは義元の本陣まで戦場を駆け抜けます!」
「おう義弟よ! 任せい! 者共前進じゃ!」
義龍の号令の下、斎藤家の援軍は一歩ずつ前進し、ついには駆け足になって飯尾軍を突き破る事に成功したのである。
それに続いて信長軍も並走する。
今川本陣までもう阻む者は何もない―――ハズだった。
【今川軍/北条綱成軍】
「あれが斎藤軍か? 元気な事だ。だが元気なだけではワシは抜けんぞ? 弓隊構え! 放てッ! 槍衾構え! 突撃を受け止めろ!」
北条軍の兵達は、やっとの参戦に待ちわびていた。
戦が始まっても、ずっと義元本陣の前に鎮座して全く出番が無い。
このままでは、遠い関東から何しに来たのか分からないほど暇で退屈だったが、待ちに待ってやっとの事で見せ場が来たので、力も有り余っており、二つの軍を破った義龍の攻撃を容易く受け止め進軍を阻む。
「今川の大将の所に行きたいのだろうが、この地黄八幡を素通りされては困るのだよ!」
そう言って綱成自身が前線に乗り込み、斎藤家の兵を薙ぎ倒していく。
義龍と同種の豪傑にして指揮官の綱成は、今が正に脂の乗った働き盛りの武将である。
斎藤家の当主となったとは言え、まだまだ若く未熟な義龍の攻撃の呼吸を即座に感じ取り、ただ単に力に頼るのでは無く、相手の力を着実に受け流して、自分の攻撃は最良のタイミングで行う。
それを綱成個人も当然ながら、北条軍全体でそれを成し遂げる用兵の妙技は、ただ単に軍の強さとして見たら、この戦場でも1、2を争う武将である。
先ほどまでの戦いで勢いに乗っていた斎藤軍はあっという間に劣勢に持ち込まれてしまう。
何とか打開しようと義龍と側近が奮闘するも、まともに相手すらさせてくれない。
「まだまだ戦を知らぬと見える。どれ、少し相手をしてやろう」
綱成は義龍が目視できる場所まで行き、強弓を構え矢を放った。
うなりをあげて飛ぶ矢が義龍の兜に当たり弾かれた。
「む、上に逸れたか」
綱成は狙撃失敗に顔をしかめたが、止まっている的ならともかく、動き回る義龍の頭部に命中させるだけでも相当な腕前である。
「そこな猪武者よ! この地黄八幡が相手をしてやろう!」
そう言って綱成は、前線に躍り出て大身槍を突き出して攻める。
義龍も頭に感じた衝撃から狙撃され、今、正にその狙撃犯が向かって来ているのに激高し、雄叫びと共に大身槍を振り下ろす。
「ぬっ!? ぐっ! 力は猪じゃなくて熊か! だがそれだけではな!」
綱成は自身が『熊』と表現した義龍の猛攻を、絶妙にポイントをずらして受け流す。
更に、義龍が疲れて動きが鈍ったところに、すかさず攻撃を加えていく。
「ハッハッハ! 常に全力ではどんな豪傑も動きは止まる! よく覚えてあの世に行け!」
そう咆哮した綱成は、必殺の突きを義龍の顔目掛けて放つ。
「ッ!! ぬぐあぁ! 帰蝶ォォ!」
絶叫する義龍は、半ばスローモーションに見える綱成の槍の突きに死の予感を感じ、全身全霊で槍をかち上げる。
弾かれた綱成の槍は勢いを失ったが、それでも義龍の兜に一撃を加えていた。
前立てがひしゃげて弾け飛ぶ一撃を食らった義龍は、朦朧とする意識の中、絶叫する!
「今じゃ! 行けぇ!」
「キチョウ? ……行け?」
すると綱成からみて右手側の大外回りを駆け抜ける一軍がいた。
義龍の影に隠れていた信長軍である。
義龍一つだけの部隊と誤認させるため、旗は全て捨ててある。
「これは図られたか! ワシも油断しておったか!」
綱成の選択肢は二つある。
信長を追うか、義龍を相手し続けるかである。
(この猛獣の様な男を背にしてあの軍を追う? 無理じゃ!)
「さ、さぁ北条の地黄八幡とやら! 2回戦を始めるぞ! 者共! 北条をこの地に押し留めよ!」
義龍はそう叫んで一旦奥に下がる。
代わりに出てくるのは側近と親衛隊の精鋭である。
「下がりながらよく言うわ! チッ、仕方ない。所詮は少数じゃ。治部大輔殿(今川義元)には頑張ってもらわねばならぬな」
もし綱成が義元の家臣なら何が何でも信長を追ったのだろうが、綱成は北条の家臣で、しかも綱成の父は、今川家の家督争いに関与し義元と敵対して討ち取られている。
今でこそ武家の宿命として受け入れているが、かと言って、心の奥底では悔しい気持ちもある。
少なくとも全力は尽くすが、命を賭して義元を守る気は更々無いのが綱成の本心であった。
それは武田の馬場信春も同様であって、そこまで積極的に信長の進軍を阻んでいない。
太原雪斎が信春に背後を担当させれば信長の進軍を防げたのであろうが、信長の強運なのか、天の悪戯か、歴史の修正力なのか、いずれにしろ信長が義元の元へたどり着く道が、今完全に開いたのであった。
【今川軍/今川義元本陣】
櫓から北条綱成が抜かれた事を義元は見ていた。
「抜かれたか。中央の部隊は呼び戻す事は出来ぬな。信長は退く気は無し、か」
中央の今川軍は織田軍に釘付けとなっており、もし信長を阻みに行ったら即座にその場所から織田軍全体に突き破られて、一気に今川軍全体が瓦解する恐れがある。
かなり日が傾いた桶狭間で、義元は最終決戦に入る覚悟を決める。
「仕方ない。相手してやるとしよう! 柵、逆茂木準備は良いか!? 槍衾と弓隊は北方より来る軍に備えよ! 手隙の者は投石準備! あれは旗印がないが総大将信長じゃ! 討ち取ったり捕らえた者には褒美は思うが儘じゃ!」
戦が始まって長い時間が経過したが、決着の時を迎えるべく義元が動き出した。
自身も櫓の上で強弓を準備し、信長軍との距離を測る。
まもなく射程距離に入る所で弓を構え狙いを定める。
「信長の姿は確認できぬが、頃合いは……今か! 弓斉射! 放てぇッ!」
義元の号令の下、一斉に矢が放たれていく。
駆け足の織田軍では矢を射返す事が出来ないので、盾で矢の雨を掻い潜りながら、柵と逆茂木を撤去するべく取り付こうとする。
当然、のんびりとそれを見逃す今川軍ではない。
矢の雨の内側に入った織田軍は、次々と槍の餌食にし付け入るスキを与えない。
「見たところ1000程か。よくもまぁ、そんな数でこの桶狭間を縦断突破してきたものよ。褒めるべきなのであろうな」
そう言いつつ自身も強弓を構え3本の矢を番えると、同時に放ち3人の兵を打ち倒した。
弓は一本まともに射るのも相当な訓練が必要なのに、驚異的な武芸である。
「この長き戦いもこれまでじゃ。信長よ。生き残ったら家臣に取り立ててやる故に死ぬでないぞ?」
もちろん義元は、この混戦で本気で信長が生き残るとは思っていない。
あくまで万が一の話である。
「別動隊! 左右から迂回して信長を押しつぶせ! これで王手じゃ!」
義元がそう号令すると、3000の内1000ずつが左右から挟撃すべく移動を開始する。
桶狭間という盤面で、信長と義元が駒を動かしながら一進一退の攻防を繰り広げていたが、ここにきて信長は三方向から攻められる事となった。
「さて、間もなく日も沈む。今日という日は歴史の転換期となるであろう!」
義元はそう呟き、潰されて飲み込まれていく信長を想像した。
しかし義元はまだ気づいていない―――
もし史実通り、あと10年後に桶狭間の戦いが起きたなら、義元は背後から忍び寄る敵意に気が付いたかもしれない。
しかしそれも仕方ない―――
今の義元も若く史実よりまだ未熟とはいえ、この戦いは多少の苦戦はすれど桶狭間の盤面は殆どが義元の思うが儘の展開。
信長がすぐ傍に迫っていても、まるで問題ない対応をしている。
このまま決着がつくのは誰が見ても明らかであった。
だが、今まさに盤面の外から攻撃を仕掛けようとしている、部隊がいる事に義元は気づいていない。
【桶狭間某所 帰蝶隊】
「さぁ……。みんな準備は良いかしら? 与四郎殿(河尻秀隆)は半数の指揮をお願いします」
「はっ!」
「小平太(服部一忠)と新介(毛利良勝)、貴方達が私と一緒にこの戦いを決めるのよ!」
「了解!」
「浄隆君(九鬼浄隆)は、私達を今川本陣に送り届ける援護を!」
「……はい!(く、君……)」
帰蝶率いる部隊は、今ようやく遠方に戦場を確認できる場所まで来ていた。
帰蝶は一体どこから現れる事が出来たのか?
それは今日この日の為に、信長が最後の秘策として長い時間をかけて、それこそ転生直後から考えて練った今川対策の作戦であった。
話は少し遡る。
今川軍の西進が報告されたときである。(47話参照)
『於濃! お主には計画通り策の為に動いてもらう!』
『はい!』
信長は帰蝶にある策を託した。
その策とは、海上からの兵員輸送と背後からの奇襲作戦である。
信長の命を受けた帰蝶は、服部一忠、毛利良勝を引き連れてそのまま伊勢湾を南下し、志摩と知多半島先端の拠点で九鬼兵と河尻秀隆と合流し、三河湾から上陸し桶狭間の今川軍の背後から迫ったのである。
義元は信長との戦いで将棋の盤面で例えたが、信長の策は盤面の外からいきなり王手を仕掛けるかの様な、超特大の奇襲を敢行したのである。
信長は元服直後に転生した時から、いずれ来るであろう今川軍対策を練っていた。
史実を再現するならば、偶然をあてにする危険な戦術をとらねばならない。
それに史実通りに歴史が動く保証もない。
何せ、転生直後から、歴史が逸脱しているのを経験している。
(ならば取るべき手段は一つ。絶対に勝てるまでに戦力増強と策を練る事だ)
とは言え、尾張と美濃の戦力で親衛隊を揃えた所で、何度シミュレーションしても義元に勝つ策が思いつかない。
地力が違いすぎるし、普通の奇襲では簡単に察知されてしまう恐れがある。
改めて信長は前々世で義元に良く勝ったものだと、自虐せずにはいられない程に悩んだ。
そうこうしている内に、尾張内乱が勃発し、自軍の勝利で幕を閉じたあの戦い。
今川軍と和睦し、数年の猶予ができた時、天啓の如く閃く事があった。
それが伊勢侵攻作戦である。
ちょうど北伊勢の北勢四十八家は、歴史が『奪え』と言わんばかりに、タイミングよく消耗している時期であった。
信長は親衛隊の本格的運用と自身の器の証明の為に、短期間で北伊勢を攻め取り、九鬼一族と繋がる事に成功した。
更に、南伊勢の北畠も倒して吸収したが、最大の目標は志摩の九鬼一族を味方に引き入れる事、第二目標は北畠親子が聞いたら激怒しそうであるが、ついでに伊勢の平定なのである。
伊賀などは、関係を結ぶ事が出来たのは想定外の結果であり、信長は伊勢を手に入れる事よりも、九鬼一族を臣下に出来た事の方を喜んだぐらいなのである。
《これで……これでようやく! 義元に食いつける準備が整った!》
喜びのあまり帰蝶とファラージャに興奮気味に話す信長は、まるで少年の様に甲高い声が、より高くなっていた。
《準備とは……一体どの様な?》
《於濃、お主には大任を与える。今川が進軍してきたら、すぐさま伊勢湾を南下し九鬼一族を率いて三河湾より戦場に進軍して参れ。義元の背後を突くのじゃ。陸を奇襲部隊がどれ程迂回しても奴には察知されるだろうが、海ならば可能性はある!》
《なるほど! でも、義元さんが背後を固めていたらどうします?》
ファラージャが当然の疑問をして帰蝶も同意する。
《それも可能性はある。しかし、此度は兵数の上では互角の軍勢を率いる事ができる。全軍を使って今川軍と対峙させる故に、義元が背後に回す兵を残せない程、接戦にするつもりじゃ》
《なるほど……。では私はどのタイミングで奇襲を仕掛けるべきでしょう?》
帰蝶が当然の疑問を口にした。
今川軍が揃っている時にノコノコ出て行っても、随時討ち取られるだけである。
《もちろん、序盤では早すぎる。一番隙が出来るであろう終盤戦が一番であるが、いつが終盤になるかは展開次第。そこは物見を放って見極めて欲しい。伊賀忍者を少数付ける故に間違いのない判断をせよ》
《わかりました! お任せを!》
《あと、服部と毛利を連れていけ。前々世で義元を討ち取る功績を挙げた者じゃ。此度もきっと働いてくれるであろう》
《ところで信長さん。もし義元さんが自ら軍を率いて前線に行った場合はどうするんです?》
ファラージャが奇襲作戦の根幹を揺るがす疑問を口にした。
《そこは、賭けじゃな。十中八九後方で指揮をとるであろうとは思う。それが王者の戦い方と言うもの。ただし万が一もある。その時は、そのまま待機し夜襲部隊として活動してもらう事となろう》
《わかりました!》
《よし。あとは見落としが無いか細部を詰める。何か疑問があったら遠慮なく申せ》
こうして、信長が練りに練って考えては壊し再構築し、ようやくたどり着いた今の桶狭間戦場が下記である。
予想外の沓掛城落城の知らせもあった。
攻撃力が優れる先陣五部隊をもってしても今川軍を突破できなかった。
それでも、その都度あらゆる事態に対処し、運も味方に付け、薄氷の如く脆い戦場を駆け抜けてようやく義元を挟撃する段階にこぎつけた。
しかし信長は今、三方向から囲まれ絶体絶命の危機である。
後は帰蝶が、どれだけ静かに迅速に今川軍に気づかれないように近づいて、攻撃を仕掛ける事ができるかにかかっていた。
信長が力尽きて倒れるか? 義元が奇襲に飲まれるか?
日が沈みかけた桶狭間は間もなく決着を迎えようとしていた。




