37話 北畠の決断
【伊勢国/大河内城 北畠家】
北畠具教がようやく立ち上がり歩行可能となり、政務を休んだ間に起こった出来事を小姓より聞かされていたが、その顔は段々青くなり最後には自室を飛び出し、父のいる居城に駆け込んでいった。
まだ傷の癒えない体に鞭打ちながらの強硬訪問である。
晴具の部屋に入るなり具教は怒鳴った。
文化を誇る北畠らしからぬ無礼極まりない行動である。
「父上ぇッ!!」
「すまぬ……織田にやられたわ……」
父は息子を確認するなり詫びた。
無礼に対し何も感じなかったし、仕方ないとも思っていた。
何に対し怒っているのか理解していたからだ。
織田と九鬼が手を結び志摩を制圧したこと。
それはまだ良いが、制圧のタイミングが、北畠の伊賀侵攻を『待ってました』と言わんばかりの、内通者が居ないと説明がつかない程、絶妙で完璧なタイミングであった。
具教は怒りのあまり父を怒鳴りつけたが、その後が続かず思いとどまった。
晴具が己の大失策を悟り、見るからに老け込んでしまった事に驚いたからである。
晴具は先の敗戦の責任を取って北畠家の家督を具教に継承させたが、まずは負った傷を回復させる必要があった為、当面の間は寝込む具教の代わりに政務を代行し、治療に専念させる為に良かれと思って当主の具教の耳には入れなかった。
朗報こそが何よりの薬だと思ったのであったが、結果は最悪であった。
そんな失策が重なり余りにも小さく見える父を見て、長野城での己の失態も思い出し冷静になる具教は、当初の怒りも忘れて父に対峙する。
「父上、過ぎた事を言っても仕方ありますまい。今は織田に対する対策を練らねばなりませぬ! 家督は譲られましたが父上の力はまだ必要です! 完全隠居を夢見ているなら目を覚まし某に力添えを!」
具教は晴具の肩を掴んでガクガクと揺すり、半分呆けていた目にようやく光が戻った。
「具教……! すまぬ!!」
老け込みやつれた晴具はしばらく涙を流した。
しかし、その瞳には巻き返しを図る力強い意志が感じられた。
その涙に気づかないフリをしながら、具教が落ち着いた口調で話す。
「父上。やはり此度の窮地の大元は、情報の判断を誤った事が原因です」
「その誤りはワシの判断が最初であったな……」
晴具に限った話では無かったが、情報戦に敗れ真偽が不明となった為、実際に兵を出して織田軍の真偽を確かめた。
決して軽い気持ちでは無く、長野城の規模と兵数を予測し1万の兵を率いたが、全てが裏目にでて大敗を喫したのである。
「過ぎた事です! それに誰もがその判断に疑いを持ちませんでした! 言うなれば全員の責任です! それよりも全ての情報を洗い直しましょう!」
とにかく正確な現状を把握するには、いつから間違っていたのか検証する必要があった。
「そうだな。……最初に織田と我らが接触したのは、長野家への救援の時であったな」
「あの時は、長野家が臣従を条件に救援の依頼をしてきました。その際、長野家と我らで織田を挟み撃ちにする挟撃策をとりました。しかし背後を取ったと思いきや待ち構えられており、結果長野家は滅び、我らも撤退を余儀なくされました。この長野家の救援依頼が罠だった可能性は考えられますか?」
「それは流石に無い、と信じたい。罠だった場合、長野家は織田と戦ったフリをして我らを釣り出す策だったことになる。いや、まさか本当に織田に臣従し一芝居打ったか? 実際に戦ったお主の判断ではどう感じる?」
長野稙藤がそこまでの役者であったかどうか、実際に戦場に出た具教の判断が唯一の手がかりであった。
「長野は織田を挟んだ反対側に居ましたからな。例えば長野の側で考えると、織田にも我らにも臣従の約束をし、あの野戦で勝った方に仕える、と言う大胆な策を取った可能性はありますが、あの戦以降長野家の動向は表に出てきておりませぬ。やはり我らに臣従し挟撃作戦に敗れ滅んだと見るべきでしょう。それに実際の戦場でも歓声や砂埃等で争いを演出できても、殺気までは演出できませぬ。長野は織田と戦い滅んだハズです!」
演技の戦いで一人二人ならともかく、軍全体で殺気を演技で出すとは考えにくいし、そもそも長野家がそんな事をできる勢力なら、とっくに北伊勢を制圧する勢力になっててもおかしくない。
具教は長野は織田と敵対し滅んだと結論付けた。
「よし。ならば長野の件に罠は無かったと仮定しよう。次は伊賀者の諜報の件だな。あの時の我らは伊賀者の報告に疑念を持ち追加調査結果から、伊賀は織田と通じ虚報を掴まされたと判断した。農繁期に無理して出陣した織田に北勢四十八家は潰せても後が続かない。農繁期に兵を集めた以上、兵糧が足りなくなるか略奪しかない」
「しかし、略奪が無い所か、場合によっては優遇までされておりました。しかも士気が落ちぬ所か万全でした」
「どう考えても矛盾して居ると結論付けたな。もし矛盾してないなら何が考えられる?」
「米を他所から大量購入し賄っているならば、可能性は有るかもしれません。この食糧難の乱世で、尾張が豊かであっても、一国の力だけでそんな事が出来るのかはさて置き」
米の買占め作戦は実際に起こりうる作戦であるが、決して安くない米を買うにはそれなりに銭が居る。
いかに津島、熱田を押さえた織田と言えど、容易な作戦ではなかった。
実際に信長は買い付けているが、それでも北伊勢侵攻が失敗すれば兵糧切れが起こる程度にしか集められていない。
「いや、織田はそれをやってのけたのかも知れん。もちろん違う場合もあるが。探ってみるか」
とりあえずこれ以上の話は情報が集まるのを待ってからとなった。
これ以上考えようにも北畠には真偽の程は分からないし、考えるにしてもやはり情報が足りない。
改めて信頼を置ける間者と商人に厳選し、米の売買を探らせた所、確かに織田が米を買い集めている予測に沿う情報が取れたが、それとは別に尾張には農民が残っている、と言う俄かに信じ難い情報も一緒に届けられた。
「兵が居るが農民も居る!? そんな馬鹿な!!」
常識ではあり得ない報告が舞い込んできて、具教は思わず絶叫した。
「じゃが、それなら全ての疑問が解消できる。農繁期に出陣するのも可能だし兵糧不足になる事も無い。伊賀者の報告にも筋が通る。……どんな手段を使ったのかは全く判らぬがな」
「クッ……!! それが本当なら農民の都合が一切関係なく攻める事ができるのか? あぁっ! じゃから今の織田家は我らに兵が揃う時期に攻め込まず、謀略で戦っておるのか!!」
具教は『専門兵士の計』にたどり着けず完全な正解とはいかずとも、今起きている現実に対しての一つの答えに辿り着き、織田家がとてつもなく強大な力を持った大名である事をようやく認識できた。
「最初の伊賀者の報告が正しく、後から追加された情報が偽であったか。むざむざと織田の罠にハマりあろうことか伊賀まで敵に回した。おそらく伊賀者は織田に付くであろう。われらは織田、九鬼、伊賀の3方向から攻め立てられる事になるな。しかも織田に限って言えば農繁期に攻める事も可能じゃ」
「対して我らは今なら戦えますが、農繁期になったら兵か兵糧どちらを取るか、選択しなければなりませんが……」
具教がその先を言おうとして口を噤んだ。
「どちらを選んでも待つのは滅亡、と言う事じゃな」
「そうです。ただ、滅亡で済めば良いですが……」
「良いですが、なんじゃ?」
「微妙な違いで正しいか分かりませんが最悪、破滅まであると思います。どちらも似たような言葉で厳密な使い分けがあるかどうか分かりませんが、国や家が滅ぶのは滅亡でいいと思います。しかし人は残ります。その気になれば再起も可能でしょう。破滅は、再起すらできない結果に相応しい言葉かとふと思いました」
「なるほど。言わんとしている事は分かった。その理由は?」
「内通者が居るからです」
「ッ!! そうじゃったな」
内通者を放置していては、いつ寝首を掻かれるか分からぬ上に、一切の作戦や計画が立てられなくなる。
あえて放置して故意に作戦を流して利用する戦略もあるが、あくまで内通者目星が付いている場合だ。
目星が付いて無い場合もやり様はあるが、今の北畠がその策を取るには危険すぎた。
「志摩の侵攻作戦はこれ以上無い程の完璧な時期でした。偶然とは考えられません。織田は我らが伊賀を攻めると知っていたからに他なりません。そこで聞きたいのですが、伊賀侵攻を提案したのは誰ですか?」
具教は声高に進言したその人物こそが怪しいと睨んだ。
「ッ!? そんな!? まさか!」
その人物に心当たりがある晴具は露骨に狼狽えた。
「成程、一門衆でしたか」
あまりの狼狽えぶりに具教は難しい顔をした。
ここまで狼狽えるとなると、唯の家臣でない事は十分察せらるからだ。
一門衆ならば北畠の深い所まで当然知り尽くしている。
単なる家臣の裏切りとは訳が違うのである。
しかし晴具は具教の予想を超える名前を出した。
「一門も一門。……お主の弟、具政じゃ」
「何とッ!?」
「い、いや! 確かに提案したのは具政じゃ! じゃが! 伊賀侵攻に無理や無茶があったワケではない! むしろ裏切った伊賀を放置しては体裁が悪いと言う理由はワシも納得した! 結果として伊賀は裏切って無かったが」
「具政が誰ぞに、織田以外の誰かに唆されている可能性はありますか?」
「無い……と思う……。だからと言って具政が率先して裏切るのは信じがたい!」
晴具は具政が裏切る心当たりなど全く無かった。
別に北畠に不満がある様には見えなかったし、北畠で兄の下に付くよりは自由に行動できるよう木造家の家督を継がせた。
感謝されても、恨まれる理由が思い当たらない。
しかし、具教には心当たりがあった。
「父上には理由が思い当たらないかもしれませんが、ワシには心当たりがあります」
「なんじゃと!?」
「勿論、ハッキリ叛意を口にした訳ではありませぬ。ただ、あ奴の目つきが時折殺気を放って感じられるのです」
「殺気!? お主の武芸の腕であれば、殺気を感じる能力に疑いは無いが、それにしても……!」
「常ならばソレも良いでしょう。兄である某を越えんとしてムキになり多少殺気が入っても。しかし此度は常ではありません。父上と某で織田に大敗し、父上はワシに家督を譲られた……」
「……ッ!!」
「動機としては十分過ぎるかと」
「……息子を、弟を討つか?」
命の価値が軽い乱世なので、現代とは違い例え罪が無くても、邪魔なだけで殺される時代である。
むしろ邪魔なのが罪とも言える。
家督継承を原因とする争い経験の無い家など、存在するかどうか怪しい程に少ない。
規模が大きい家なら尚更である。
「……残念ながら具政を討ったとしても変わらないでしょう。多少は抵抗出来ましょうが、結果は変わりますまい。仮に近くの浅井、六角、今川に助けを求めても、我らは無実の伊賀を攻め、救援を求める志摩十三地頭を見捨てました。織田がその失点を逃す訳がありますまい」
具教の言う『失点』とは何か?
以前、国と民の関係性を述べた。
国が他国に攻められ農村や町に被害を負った場合、その責任は攻めた側ではなく攻められた側の責任であると。
では同盟、従属関係にある国を攻めたり見捨てた場合はどうなるか?
全ては国の力次第である。
屁理屈だろうと何だろうと『我等が正しい』と声高に叫ぶ事が出来る力がある国が正しい。
例えば『方広寺鐘銘事件』を経て大坂の陣の引金となった『国家安康』『君臣豊楽』の徳川、豊臣両家の様に。
並び立つ者が居ない程絶大な力を持つ、徳川将軍家だからこそ許される手法である。
翻って今の北畠家はどうか?
北畠が伊勢に名を馳せる力を持っていても、同等レベルの力を持つ大名が犇めき合う乱世では、有無を言わさず従わせる力は無い。
つまり、相手が自分達をどう思うかに全てが掛かっている。
無実の伊賀を攻め、従属した志摩十三地頭を見捨てた北畠をどう思うかに。
具教が言う『失点』とはこの事を指していた。
織田も伊賀も逃げ延びた志摩十三地頭も『北畠信ずるに能わず』と喧伝しないはずが無い。
「そうか。打つ手無しか。停戦、いや、応じてくれるか分からぬが仕方あるまい……」
晴具はようやく北畠が詰んでいる事を悟った。
いや、心の奥底では解っていたが、認めたくは無い故に解らないフリをしていた。
しかし具教はまだ諦めてはいなかった。
「まだです! まだ終った訳ではありません! まだ我等は領地を、村の一つも奪われた訳ではありません! 今だからこそ打てる手があります!」
具教の目は確かな決意が漲っていた。
その決意をみた晴具は、具教が敗戦を機に一皮剥けたと確信した。
「この状況にあって、何か策があると申すのだな!?」
身を乗り出して聞く晴具に、具教は若干驚きつつ答える。
「あ、余り褒められた策ではありませんが。―――します」
「なっ!? 本気か!?」
その予想外の策に晴具は絶句したが、かと言って他に打てる手も無いし、まだ余裕のある今しかないのも理解は出来た。
「では、織田が攻め込まぬ今の内に、徹底的に防備を調えて備えねばならんのだな?」
「そうです」
この策が信長に通用するかが勝負の別れ目であると、北畠親子は不安を振り払うかの様に行動を開始したのであった。