31話 北畠晴具・具教
【伊勢国/長野城 織田家】
長野城の庭で男女が蟇肌竹刀を構え相対している。
お互い隙を伺っているのかピクリとも動かない。
その時、不意に一陣の風に乗り枯葉が舞い上がった。
刹那―――
「どぉうりゃぁぁぁ!」
裂帛の気合いと共に男の竹刀が女に振り下ろされる。
男の名前は佐々成政。
女の名前は帰蝶
佐々成政は帰蝶と剣の稽古をしていたのだった。
蟇肌竹刀とは安全な稽古が出来ないかと帰蝶が悩んでいた所、ファラージャが『この時代にはこんな便利な物がありますよ』と提案した物で『前世で寝たきりの帰蝶さんは知らないのも仕方ないですけど、既に有る物だから教えちゃいます』と言って教えたが、実は信長も知らない道具であり、考案自体は既に成されていた可能性があるが、本格的に広まるのは数十年後の江戸時代である。
一億年後に生きるファラージャにとって、また真に正確な資料が多数紛失している未来人にとって、信長が生きた時代と江戸時代は誤差に等しい故のミスであった。
構造は割った竹を皮で包んで縫い合わせており、衝撃力が分散されるが本物の刀に比べて軽い。
しかし、軽すぎて感覚が狂うと困るので、腕に濡れた布を巻き付けて重さの代わりをする工夫を凝らした。
直に当たれば勿論痛いが具足も着込んでいるので、突き技以外なら治療不可能な程のダメージは滅多に無い。
そんな蟇肌竹刀が猛烈な勢いで帰蝶に振り下ろされる。
主君の妻に対する配慮は一切無い、と言うより、全力を出す事を信長も帰蝶も許しているし、何より手加減なぞしたら永遠に帰蝶は倒せない事を、成政は尾張から伊勢に至る道中で散々思い知っていた。
帰蝶は素早く竹刀を頭上で横に倒し防御の姿勢を取る。
(今度こそ防御諸共叩き潰す! これで『ちゃん』から卒業じゃぁッ!)
帰蝶はニヤリと笑い―――右手を竹刀から離し―――防御の構えのまま左手一本で―――成政の竹刀を受け止め―――その瞬間―――帰蝶は更に左手の力も抜き―――襲いかかる竹刀の力を受け流した。
成政は、予測を遥かに下回る衝撃の無さに体がつんのめり、帰蝶に背後から竹刀でポコンと頭を叩かれた。
「はい、おしまい。内蔵助ちゃん? 力で挑むのが駄目とは言わないけど、何事も時と場合よ?」
「……はい」
見学していた犬千代(前田利家)、九鬼兄弟(浄隆、嘉隆)が掛ける言葉が見つからない程、成政はガックリ肩を落とす。
この勝負で悪夢の50連敗だったからだ。
九鬼兄弟は始めて見る帰蝶の動きが信じられず、目を白黒させていた。
そんな庭先の悲劇を他所に、信長、塙直政、飯岡尚清、あと何故か吉乃が座している。
「まさか吉乃が親衛隊に紛れていたとは……」
「大丈夫ですよ~? ちゃんと末森城の大殿に告げてきました~。『三郎を驚かせて参れ』って仰ってました~」
「親父殿!! ……まぁそれは良い。『まさか』とは具足装備で、親衛隊と共に歩いて長野城まで来た事よ……はぁ……」
信長はウィンクする父親を中空に思い浮かべて、ため息をついた。
「も、申し訳ありません! 誰も吉乃様に気づかず!」
直政も尚清も平謝りだ。
「大丈夫ですよ~? 女性親衛隊の皆さんと楽しくお喋りしてましたし~」
指揮官達は吉乃の同行を知らず、その吉乃とお喋りしていた親衛隊は、当然指揮官たちは把握していると思っていた。
常識的に考えても、そんな重要事項が報連相(報告・連絡・相談)不足であるなど予想外であった。
原因は全部信秀のイタズラ心である。
もちろん、信秀なりの気遣いもあった。
吉乃は親衛隊の訓練に成績優秀とは言えないが体力的には行けそうであったし、婚姻してから直ぐに伊勢遠征が始まったので寂しかろうとの思いと、信長なら大丈夫だと判断した故である。
「だそうじゃ。ワシも別にどうこう言うつもりは無い。……於濃もあんなだし今さら詮無き事よ」
信長はそう言って庭を見る。
ちょうど庭では、犬千代が帰蝶に胴を払われて転がっていた。
幼い嘉隆は信じられない光景に恐怖し、兄の浄隆にしがみ付き震えている。
「虚実をしっかり見極めないとね。そんなんじゃ私には届かないわよ? 犬千代ちゃん?」
「……はい」
恐ろしく高度な事を帰蝶は犬千代に指導していた。
「於濃姉様、流石です~!」
のんびりと、しかし羨望の眼差しで帰蝶を見る吉乃。
信長は吉乃が入室してきた時を思い出す。
【しばらく前 伊勢国/長野城 織田家】
周囲と浮いた独自の感性を発揮する吉乃は、先ほど九鬼定隆が挨拶して立ち去った後に、入れ替わり入室してきた。
小柄な鎧武者となった吉乃が、すいすいと信長の前に歩み寄る。
『……』
全員が全員その独特な雰囲気に飲まれ、時間が止まったかの様に呆然と眺めていた。
帰蝶すら滅多に見せない呆けた表情であり、誰も動こうともしなかった。
少しでも殺気や危機感を感じさせれば即座に動くはずの信長達が、ぎこちなく武者の動きを顔で追うだけである。
そうこうしている内に甲冑装備の吉乃が信長の前に辿りつく。
そこで、ようやく信長は吉乃である事に気付いた。
『まさか……き、吉乃……か!?』
信長もそれだけ言うのがやっとだった。
泣きそうな顔で吉乃が訴えた。
『信様! 具足が外せません~!』
風通しが良い訳ではない室内に一陣の風が吹き込んだ―――様な気がした一同。
その後、全員で具足を取り外して今に至っていたのだった。
【伊勢国/長野城 織田家】
「えー……取りあえず、三郎様と我等で北畠に対する前線を防備する、と言う事で宜しいですか?」
吉乃が原因で何を話していたのか忘れた話を直政が戻す。
「そ、そうじゃな。連れて来た親衛隊を3分割して防備する。よろしく頼むぞ!」
「はっ!」
直政と尚清が退出し、残る吉乃にも信長が声を掛ける。
「吉乃、遠路はるばる来てくれたのは嬉しいが、しばし考えをまとめたい。於濃に混じって稽古をつけてもらえ」
「は~い」
嬉しそうに吉乃も退出した。
《お疲れ様です》
ファラージャがテレパシーのタイミングを計っていたのか、間を縫って話しかける。
《何か凄い疲れたわ……》
《それでも以前の歴史に比べれば今、北伊勢を制したのは凄いですよ!》
ファラージャは疲れた事の意味を勘違いしている。
信長は訂正するのも面倒臭くなり、そのまま聞きたい事を尋ねた。
《北畠の連中について教えてくれ》
《了解ですー。今の時代ですと、北畠晴具が当主で先日戦ったのが息子の具教ですね。信長さんが直接争ったのは息子の方ですね。二人とも文武両道で馬術、弓術、剣術なんでもござれで和歌や茶道も嗜む文化人でした。息子は特に剣の達人らしく著名な剣客に奥義を教わったとか。……何か経歴を見ると凄いですね》
《前々世では大軍で押しつぶしたな。油断できぬ相手故に苦労したわ》
《そう言えば最終的には滅ぼしてますけど、最初は信雄さんを養子に出して家を乗っ取ってますね? 何でそんな事を?》
《将軍と朝廷との都合故にだ。北畠家は名家でな。将軍や朝廷と縁が深い。だから滅ぼさぬ代わりに家を乗っ取る事にしたのよ。これは北畠のマネでもある。やつらは長野家に自分の血縁者を送り込んで家を乗っ取り用が済んだら家の者を始末しておる。良い手段だった故に真似したのよ》
《お、おお……謀略戦という奴ですね……》
《とは言えワシは命まで奪うつもりは無かった。ただ、裏切ったゆえに粛清したまでよ》
《そうですか……具教は信長教でも破壊神の使徒ですね。コレくらいしか話す事が無いのですけど……。今回は前々世に比べて伊勢侵攻が早いですね。どうするおつもりですか?》
《いまは互角の戦力ゆえ北畠も朝廷や将軍に頼る事はせぬだろう。故に戦を始めたらなるべく早く北畠を滅ぼす。今回はワシの息子もまだ生まれてない故に乗っ取りも出来ぬ。将軍や朝廷に介入される前に片付けたい所だな。放置しておくと奴等は次々官位を上げて行き更に厄介になる。ただ人材として北畠親子をワシは評価して居る。具教の子はイマイチじゃったが。家臣に出来れば今後の朝廷工作が楽になるのだが……。そこは展開次第で拘るつもりは無い》
《なるほど……あ、そうか今回の侵攻目的は今川対策でしたね》
《そうじゃ! そもそも公家的な話で言えば北畠も充分条件に当てはまるじゃろう!? なぜ今川だけあんな無残な評価なのじゃ!? 大体じゃな……》
《き、帰蝶さん!! ヘルプ!》
「さ、さぁ場外で騎馬訓練をしましょうか!?《ファラちゃん! 武運を祈るわ!》」
信長はまた今川義元について語りだし、テレパシー故に逃げる事が出来ないファラージャは帰蝶に助けを求めたが、危機を察知した帰蝶は訓練の場を場外に移し難を逃れた。
【伊勢国/大河内城 北畠家】
晴具の前に先の戦で敗戦した3人が晴具の前で平伏する。
「面を上げよ」
当主の晴具が告げる。
「はっ!」
息子の北畠具教と藤方慶由、鳥屋尾満栄も続く。
「経緯は大体把握しておる。勝負は時の運とも言う。この経験を次に活かせば良い」
武芸百般を体現した晴具は、一度の敗戦で取り乱すような凡愚な将ではない。
戦の難しさを知る百戦錬磨の武将である。
「しかし、朝廷に連なる北畠家に歯向かいし織田家を許すわけにはいかん。次は全力で叩き潰せ!」
その上で文化を誇る北畠としてのプライドも持ち合わす、文武両道の武将でもある。
後世において文化を誇る風潮が評価されず貶められる―――
恐らく、力が物を言う乱世に相応しくない生き方が、評価されなかったと推察できる。
しかしそれは大きな間違いである。
本小説の信長も、今川義元が貴族趣味や文化文芸に現を抜かし、評価が過剰に貶められた後世に憤慨している。
しかし、よく考えて頂きたいが、幕府の統制が崩壊し秩序が失われた世界で文化を誇れる、と言う事は、乱世において単独で文化を守れる程の統率とカリスマと秩序を国内に提供できると言う事である。
これは絶大な力が無ければ到底不可能な高度な政治力である。
例えば、某モヒカンが大量跋扈する世紀末を描いた物語で、秩序や文化がある国が作られたら?
それがどれ程偉大であるかは説明するまでも無いだろう。
この様に、北畠家は(今川家も)文化を維持できる力を持った強力な大名なのである。
「はっ! ただ下賤の身ながら中々の手強き相手。瞬く間に北伊勢を切り取った手腕は侮れませぬ」
具教が信長軍の不自然なまでの強さに疑問を持つ。
信長を下賎と断ずるのは身分の低さもあるが、北畠以下の秩序や文化しか持ち合わせていない故の評価である。
しかし強さは認めているので、もう侮る
事はしない。
ただ、それにしても何故農繁期にあれだけの快進撃が出来たのか、それが分からない限り迂闊に攻めるのは危険だと判断している。
晴具はしばらく顎に手を当てて考える。
「うむ……。農繁期に出陣する以上かなりの無理をして出陣した。じゃが、それぞれが小粒の北勢四十八家ならば侵略可能なのであろう」
常識外れの発想である『専門兵士の計』を知らぬ以上、仕方の無い結論であった。
「じゃが、そのツケは決して小さくなかろう。農繁期に出陣した以上、今の奴等は尾張からの兵糧は期待できぬ。恐らく持久戦に持ち込めば、たちまち兵糧切れになるだろう」
今の時期に農民を徴兵した以上、晴具は今の尾張には碌な収穫が無いと予想した。
「よし! 念の為、奴らが持久戦が可能かどうか北伊勢農民の蓄えを探れ! 北伊勢から略奪して兵糧を集めたならば奴らも持久戦が可能であろうが、その場合は民の恨みを買っておろう。扇動して一揆を起こさせよ!」
「なるほど! さすが父上! 内部が慌しくなれば我等だけに注視する訳にも行きますまい。いくらでも隙を伺えますな! よし! 慶由、与左衛門(満栄)は配下に手配して探らせろ! 伊賀者にも連絡を取れ!」
具教の号令により、北畠の総力を挙げて偵察作戦が実施された。
2ヵ月後―――
以前と同じ面子が集まり偵察の成果報告が行われていた。
「偵察の結果ですが……どうも様子がおかしいです」
慶由が困惑しながら話す。
「おかしい、とは何がじゃ?」
「はい。農民に関してですが、特に略奪や乱暴狼藉があった形跡が無いとの事です」
「ん? ならば農民達は略奪される前に自主的に納めたと言う事か?」
晴具は当然の疑問を持つ。
織田には兵糧が不足しているハズなので、足りない分を新規領地から奪うしかない。
しかし、兵糧が無いのに奪っていないなら、現地の農民が自主的に納めないと辻褄が合わない。
「いえ……そう言う訳ではなく、年貢は例年と変わらなかったり、地域によっては四公六民と優遇されております……」
「じゃあ、北伊勢に織田兵が居るのに普段通り以下の年貢と言う事は、兵糧不足と言う事じゃな?」
「そうなります。……いや、そうなるハズなのですが、兵の士気は決して低くありません。むしろ万全な状態と思われるとの事です」
満栄が答えるが歯切れが悪い。
「兵糧が少ないのに士気が高い? 農民にも不満が無い? 矛盾しとるのではないか?」
「は、はい……」
慶由、満栄は間者の報告を聞いて主君に何と伝えるか困り果てていた。
明らかに辻褄が合わず結論が出せないまま報告するしかなく、そんな報告に晴具は一つの答えに辿り着く。
「……伊賀者は既に買収されておるのではないか?」
伊賀者が偽報を流したと晴具考えた。
「それは……可能性が無いとは言えませぬが……以前より付き合いのある我等より、新参者の織田と組むのは考えにくいですが……」
具教が反論する。
北畠の歴史から考えても受け入れがたい考えであった。
「それもそうか。とは言え矛盾を抱えたまま攻めるのは、思わぬ落とし穴に嵌るやも知れぬ。仕方ない。もう一度探ろう。ただし今回は伊賀者は念の為に使わない。もし、もう一度同じ報告なら伊賀者を信用できると判断できよう。……矛盾は残るがな。報告が変われば伊賀者は織田と手を組んでいるが、兵糧は足りていないと結論付けられよう。どちらの報告も一長一短があって素直に喜べぬが……」
北畠家はもう一ヶ月かけて情報を集めた。
その結果―――
・最初と変わらぬ矛盾した報告
・織田兵は飢えており士気が低く矛盾は無いが、それは伊賀者が織田と手を組む事実となる報告
・兵糧の略奪があり民の不満が高く一揆間近と言った、都合が良すぎて信じられない報告
より一層の混乱を促す報告が集められた。
「これは……明らかに織田の間者が流言を放っておる!!」
晴具はここに来て、すでに謀略戦で信長に遅れを取っている事を知った。
信長の『専門兵士の計』が猛毒となって北畠家の思考に幻覚を見せ、真実誤認したままとなり、しかも情報戦で遅れを取ったので、最早兵を率いて自ら探る事でしか事実確認が出来なくなっていた。
しかし、この冬を逃して農繁期に入っては攻める事もできない。
損害覚悟で攻めるしか無くなった事に愕然とする北畠家であった。
「……急ぎ軍備を整えよ。長野城に攻め入る!」
晴具は進軍する決意を固め、真冬の攻防戦が始まろうとしていたのだった。




