179-2話 武田義信 武田伝統行事
179話は3部構成です。
179-1話からご覧下さい。
【信濃国/木曽福島城 城門前 武田軍】
信玄は歩兵は当然、己の護衛たる馬廻衆すら置き去りにする勢いで飛騨を通り過ぎ信濃に入る。
今向かう木曾福島城こそが美濃の斎藤家や飛騨との最前線拠点。
武田信玄を出迎える為に武田義信が指定した合流場所だ。
「太郎(義信)の軍は元々南信濃におったからか? この近隣では目立った混乱は無さそうじゃな?」
報告による混乱地域は、主に甲斐や信濃東部だ。
この周辺には武田軍が25000人も待機していたのだから、一揆を起こしたとて即鎮圧されるだけ。
信玄は、義信軍が一揆と交戦している最悪すら想定したが、そうでは無かったと一安心し木曽福島城に辿りついた所で声が掛かった。
「父上ッ!!」
城の城門で待っていたのは武田義信本人であった。
こんな出迎えは門番が対応するのが普通だが、義信が伝えた書状の内容を考えれば、当然の出迎えであろう。
「太郎か! 良くぞ知らせた! 最初に黙読を指示したのは見事だ!」
「書状の通り、甲斐ではせっかく拵えた堤さえも破壊されたとの情報もあります! 躑躅ヶ崎館にも民が迫っているとの報告もございます!」
信玄に黙読させたのはコレが理由だ。
こんな情報が全軍に伝わっては軍の統率どころではない。
今従えている兵のほぼ全ては農民なのだ。
知られれば村の、家族の安否確認に気を取られ、浮足立つこと間違いないだろう。
「こうなっては致し方あるまい! 足元が揺らいでいては帰る場所が無くなる! 根こそぎ兵を動員したのが仇となったか!」
本願寺の後押しを受け、今年の年貢減産を容認してまで男手を総動員し、農繁期含めた侵攻を計画したが、それが完全に裏目に出た格好となった。
「遺憾ながら。手薄な所を狙われた模様です。後続軍は……まだの様ですな?」
義信は信玄の背後を確認するが、人影は当然、馬の駆ける音も、砂煙も見えない。
「うむ。ワシも飛び出してきたからな。もう間もなく典厩(信繁)辺りが二番乗りで来るだろう」
「わかりました。では時を無駄にせぬ為にも今後の行動を練りましょう!」
「うむ! (緊急時にも落ち着いた手配よ。これならワシと典厩、太郎で軍を分けて甲斐の暴徒を鎮められるだろう)」
義信は木曽福島城の一室へ信玄を案内する。
山城なので階段も多く独特な作りをした、いや、せざるを得ない城で、上り下りが激しい場内を義信と信玄は大股で歩いて行った。
「父上、ではこちらへ」
「うむ。……うん? 今更じゃが―――」
信玄の言葉に義信は笑って答えた。
【信濃国/木曽福島城 城門前 武田軍】
「典厩様!!」
木曽福島城の城門で待っていたのは飯富虎昌であった。
義信は信玄と対応を協議している為、次に来るであろう重臣を時間ロス無く対応する為の処置だ。
武田義信の傅役として、飯富家の長として、武田家に忠誠を尽くす宿老である。
「兵部(飯富虎昌)か! 一揆の件は聞いたが書状の件をワシらは把握しておらん! 一体何が起きておるのだ!?」
「そうですか、大殿は黙読のまま動いたのですね。後続兵はまだ追いついて居らぬようですな? ならば好都合。少々聞かれてはマズイ事が起きております。実は―――」
義信は周囲を伺いながら声を潜めて今回の事情を話し始めた。
「何じゃとッ!!!!」
信繁はこの遠征所か人生最大の大声で驚きの声を上げた。
「躑躅ヶ崎館襲撃もアレじゃが、堤を破壊って……信玄堤の事か!?」
「左様に御座います……!」
信繁も一応の確認をとる。
虎昌も自分で口にしながら信じられない気持ちであるのだろう。
冷ややかな山岳地帯にも関わらず、吹き出す汗が地面を濡らす。
甲斐国で堤と言えば『信玄堤』が共通認識の生産と治水のシンボル。
苦労して作り上げた、甲斐の生命線だ。
これが破壊されたとなれば、それはもう国が死んだも同然の事態だ。
「ば、馬鹿な! 民はそこまで愚かか!?」
一揆を起こしたのはともかく、堤は自分達の生活基盤でもあるのだ。
これでは自殺と同じだ。
「いや? 潜り込んだ扇動者や乱破(忍者)共の可能性が高いのではないか……?」
「その可能性は十分考えられますな」
信繁も民がそこまで愚かとは思わない。
動員兵力を限界まで出撃させた隙をついた攪乱破壊工作なのだと判断した。
「兄上が黙読して飛び出したのも納得したわ。あの書状を口に出して読み上げておったら軍が瓦解していたかもしれぬ!」
武田軍は100%農兵だ。
信濃兵はともかく、甲斐を出身としている者にとって『信玄堤破壊』は致命的非常事態だ。
現代で例えるなら原子力発電所が爆撃されたに等しい国家非常事態宣言級の壊滅的打撃だ。
皆、我先に故郷に帰って家族の無事を確かめに行ってしまうだろう。
特に今、末端の兵は何故信濃や甲斐に戻っているのか理解していない。
信玄堤の破壊は帰還理由の答え合わせも同然であり、瓦解を食い止めるのは不可能だ。
「これが上杉の策の全容か!!」
武田信玄が上田盆地と佐久の一揆扇動を上杉の策だと断定したが、ここが大本命であり策の全容だったのだとようやく信繁も思い至った。
この策でもってして、退却を促し労せずして蟹寺城を奪う。
信玄が黙読で内容を漏らさなかったのもあるので仕方ないが、ようやく合点がいった。
自分ぐらいには教えてほしかったが、確かに聞かせられない最悪な内容だ。
色々マズイ、マズ過ぎる―――
だが、最悪にマズイのは―――
その予測は全て間違っている事―――
信玄も信繁も間違いに気が付いていないのが最悪だった―――
この一揆や堤の破壊には七里も上杉も関わっていない。
七里頼周はあくまで武田の5000の軍勢を退けただけで良しとし、地形的にも武田がまさか30000で反撃がくるとは思っていなかった。
30000で再来したら流石に驚きはするが、かと言って蟹寺城は数に任せて落とせる城ではないのだ。
上杉政虎などは、蟹寺城を漁夫の利で落とすのが真の狙いで一向一揆と武田軍を戦わせたいのだから、むしろ武田に引き返されては面倒が増えるだけで困る。
故にこの武田領内の混乱は一向一揆でも上杉の仕業では無いのだ。
では誰の仕業なのか?
織田信長や斎藤帰蝶が間者を使って扇動と破壊活動行ったのか?
しかしこの二人は織田信忠と武田松との婚姻同盟を、歴史改変の意味も込めて挑んでいる。
確かにお互い敵と見なしながらの危うい同盟とはいえ、結んでいる勢力にここまで致命的な破壊工作を仕掛けるのは、信忠と松の婚姻による歴史改変を望む行動に反するので、首謀者は信長と帰蝶ではない。
では三国同盟を結ぶ今川と北条の仕業なのか?
それも違う。
彼らは同盟維持を望んでいる。
武田の暴政は目に余るし、いざ何かあれば付け入る隙と認識しているが、同盟を組んでいる間は交易にて甲州金という特産物を手に入れられるメリットと共に、今川、北条にとっては北の防壁だ。
北条が上杉に襲われた時には武田の援助もあった。
現時点では武田の勢力に対し、今川と北条は頭1つ2つ所では無い程に武田に対し抜きんでているが、まだまだ武田の利用価値は認めている。
このタイミングで同盟を反故にして、武田を混乱に陥れる意味がない。
朝倉などは策を仕掛けるにしても遠すぎるし、やるならやるにしても、それは他の近隣の誰か、それこそ北条や今川に頼むべき事だ。
つまり、今回の北陸一向一揆関係者の誰も、武田に対し計算上封じ込める戦略を取る勢力はいても、本拠地に対する謀略で手を打った勢力はいないのだ。
だが現実問題として謀略により被害が出ている。
考えられる可能性は3つ。
勢力の主君は手を出していないが、重臣クラスが主君に内密に気を利かして独自に手を打った場合。
あるいは、今回の北陸一向一揆に全く関わりない第三勢力が偶然介入してしまった場合。
そして―――
「本願寺の援助を活用し過ぎ根こそぎ兵を動員したのが仇となったか!?」
本願寺の後押しを受け、今年の年貢減産を容認してまで男手を騒動紳士、農繁期含めた侵攻を計画したが、それが完全に裏目に出た格好となった。
「『敵もさる者引っ掻くもの』、と言う奴ですな。まさに手薄な所を狙われ引っ掻かれた模様です。所で後続軍は? 典厩様の馬回りも見えませぬが?」
「うむ。兄を追いかけ飛び出してきたからな。もう間もなく追い付く頃だろう」
「わかりました。若殿も大殿も先に協議しています。時を無駄にせぬ為にも先に合流しましょう。南信濃の諸将もお待ちです」
こうして木曽福島城内の目的の部屋に移動を始めた2人であったが、信繁が途中で足を止めて考え込んだ。
「如何されました? 急ぎましょうぞ!」
「今更じゃが……何かおかしくないか?」
「何がですか? 大殿もお待ちですぞ?」
緊急事態の今、信玄と義信の他、信濃で待機していた重臣達と合流するする事を差し置いて考え込む事など無いはずだ。
急かす虎昌の声が聞こえていないのか、考え込んで逆に聞き返した。
「一揆が起きてしまったのは仕方ない。敵の策略だとしても隙を見せた我らが愚かだった。だが……一体一揆の規模はどの程度なのだ?」
「どの程度、と申されましても……。第二報が届けば詳細も判明しましょうが……」
それはこれから確認する事だ。
まだ第一報しか入っていないので答えようが無い。
虎昌は歯切れ悪く答えるしかなかった。
しかし信繁の思考は止まらなかった。
考えれば考える程、妙な点が浮き彫りになるからだ。
「我らは領内の男手を根こそぎ動員したのだぞ? その為の本願寺からの援助でもあったのだ。その上で一揆が起きているとは辻褄が合わなくないか?」
「……」
「女子供老人や戦えぬ体の人間が一揆の主体なのか? 男手を根こそぎ動員した事に対する不満か? それなら理解はできる。だが報告では、信濃東部や甲斐本国で大規模広範囲で一揆がおきている、と来たな? そうなると人口的にも随分と密度の薄い一揆になるのではないか? 城の留守居はそんな者達に討ち取られ、非力な女子供に信玄堤が破壊されたのか?」
「……」
疑問が疑問を呼び、新たな疑問が作られては矛盾点や無理筋な道理が見えてくる。
明らかにこれは異常だ。
信繁の脳内には猛烈な嫌な予感が渦巻いている。
ある文字が頭から離れない。
それは第三の可能性である『謀反』だ。
信繁は虎昌から一歩離れ、左手の親指を刀の鍔に掛けた。
「太郎や兵部程の者が、それに気が付いていないのか? と言うよりも、ここに25000の兵がいるのだから、ワシらを待たず5000程割いてさっさと鎮圧に向かえば済む話ではないか?」
信繁の言葉に虎昌は笑って答えた。
「流石典厩様。大殿も見事に看破してしまいましたが……気が付くのが遅すぎましたな! 囲めぃッ!」
虎昌の号令で護衛や城の警護をする為に点在していた兵達が、一斉に槍を構え信繁を包囲した。
ご丁寧に屋根には弓兵まで配置されていた。
絶対に逃がさない強固な囲いと、何かあれば殺害も辞さない意思すら感じる完全包囲であった。
「なッ!? 正気か己等!! 何をしているのか理解しているのかッ!?」
信繁は嫌な予感が当たった事を思い知った。
頭の中に描いただけで言霊の『謀反』が発動してしまったのだ。
「正気も正気。正気でなければこんな事は出来ませぬ。正気を保たねば異常者は止められぬのですよ。叔父上」
囲みの兵の後ろか声が届き、一人分通れる隙間が空いた。
現れたのは武田義信である。
もちろん最前線までは歩み寄らない。
信繁は家中でも武の使い手。
死を覚悟したなら、何を犠牲にしても義信を討ち取るだろう。
「太郎!! 何をしている!? 兄上をどうした!?」
「牢で喚いておりますよ。父上の命を考えるなら、大人しく縄を受けてもらいたいですな?」
今まで目を掛け散々可愛がって来た、生まれた時からその成長を知っている太郎義信とは思えぬ冷酷な瞳に、兄の信玄を重ねてしまい、信繁は頭を振り払って問い糺す。
「なっ……! い、一体どうしたのだ!? 誰ぞの謀略に唆されておるのか!?」
義信は間違いなく聡明だ。
唆される可能性は万に一つも無いと信じているが、万が一との言葉もある。
「まさか。もう一度言います。私は正気ですし誰も私を操ってなどいない。これは私の意思!」
「い、意思!?」
唆されていない。
つまり自発的謀反と言う事だ。
「そうです。私は武田の伝統に則り家督を奪います。晴信が信虎から奪ったように、信玄からこの義信が奪うのですよ!」
「馬鹿なッ!! お主はもう武田次期当主当確なのだぞ!? 米増産の秘事も授けた! 家督など奪う必要が無い!」(169-3話参照)
「そうですな。待っていれば何れは転がり込んできた家督でしょう。……それでは遅いのだ!」
「お、遅い!? まさか焦ったが故の行動か!?」
「違いますよ。……いや? 確かに焦りはある。武田滅亡への焦りですがね。そもそも家督の相続したとて、信玄はどうせ権力は手放せないでしょう? それでは傀儡君主の誕生であり何も変わらぬ」
「い、いや、そうかも知れぬが、それはお主の経験不足を補助する期間であって……」
信繁も義信の言いたい事は理解できるが、こんな事はどこの家でも同じ事。
家督を継いだ瞬間から全権委任される方が珍しい。
そんな場合があるとすれば、戦や不慮の事故や病気で当主が亡くなった場合や、家督を渡したら本当に完全隠居してしまった伊達輝宗の場合。
そして今回の様な簒奪の場合も当てはまろう。
他には、この歴史の信長が家督当確の時点で全権委譲まで受けたが、これは例外中の例外だ。(22、26話参照)
だが、大抵の場合は譲っても後見人として背後に控えるのが普通だ。
義信はその慣例を拒否した。
「それでは意味がない! 信玄も信虎から何か補佐を受けましたか? 受けてないでしょう? ならば私にも必要は無い! 武田信玄は一刻も早く権力から切り離さなくてはならないのだ!」
義信の決意と迫力に、信繁は思わず怯んでしまった。
「さぁ。事態が呑み込めたなら武装を解除してもらいましょう」
「……ッ!!」
信繁は絶句するしか無かった。




