177-2話 猛襲! 七里頼周その弐
177話は3部構成です。
177-1話からご覧下さい。
【越後国/勝山砦 上杉軍】
まだ斎藤軍も朝倉軍も行動を開始し始めた頃の話である。
上杉家もまた動き始めた。
今、上杉政虎(謙信)が居るのは越中に対する最前線の勝山砦。
一揆から越後を守る最前線の砦であり、唯一の越後への進入路。
つまり、越後から越中への唯一の進入路でもある。
もちろん、行こうと思えば迂回路も無くは無い。
北信濃側に出て西に進軍し、越中の横腹を突けぬ事もない。
問題は3000m級の飛騨山脈が聳え立ち、今は山頂は雪深く、足を踏み入れれば全軍全滅確実なだけだ。
故に、誰であっても絶対に選ぶルートではない。
「……」
上杉政虎は毘沙門天の像を前に瞑想し考える。
(飛騨山脈を越える行軍は自殺に等しい。つまり初戦となる明石城、宮崎城をいかに早く落とし、かつ、越中に雪崩れ込めるかが勝負。斎藤も朝倉も今頃は動いている頃だろう。南西に意識が向いている今が絶好の好機である!)
木箱に納まり懐にもしまえる程のミニサイズな毘沙門天。
政虎の最近のお気に入りで、携帯できるサイズとして重宝していた。
「殿、瞑想中失礼します。約束通り参りましたぞ。総勢2万にございます」
直江景綱が背後から控えめに声を掛けた。
昨年、政虎の暴走の被害に会い、時期を見計らっての軍の準備を任されていたのだが、彼が来たと言う事は準備が整ったと同義である。(169-3話参照)
「実に良い状況で来てくれた。流石だ」
「殿自ら前線を視察した成果は得られそうですか?」
「うむ。何とかなりそうだ。諸将も揃っておるな?」
「はい。では行きましょうか」
政虎は瞑想を解くと、毘沙門天を丁寧に布で包み木箱に納めた。
勝山城の部屋から、広間に入るなり政虎は命令を発した。
「和泉守(柿崎景家)、下野守(斎藤朝信)にそれぞれ5000与える。和泉守には明石城、下野守には宮崎城の攻略を命じる。ただし同時に説得も命じる。その為に臨済宗の僧侶をそれぞれ付ける。説得に困った時は頼るが良い」
武田家、斎藤家、朝倉家同様、上杉家としても、やはり説得は必要なコストとして実行しなくてはならない。
これが無くては、単なる虐殺。
故に説得失敗でも『説得した』という事実こそが重要だ。
「しかし猶予期間は1日だけ。時間稼ぎには一切応じず攻略後の城は破却し2度と使わせるな。またその時、もう一方が攻略中であれば加勢せよ」
上杉家は少々急がねばならぬ事情もあり、説得に何日も猶予をかけられない。
故に、一揆側にも即断即決を迫るつもりである。
「その2城が片付いたら、お主等は沿岸部から神通川までの平地を平らげよ」
「はッ!」
「仰せの通りに!」
越後から越中への海岸沿いを進軍するしかない上杉軍。
明石城と宮崎城は、その上杉軍を見下ろす形で存在する。
上杉軍が素通りなど出来るハズも無ければ、一揆軍が見逃す事もあり得ない。
この道は退却路でもあり進軍路でもあり、最前線の防御拠点である。
ここを攻略せずして上杉軍の一揆鎮圧は始まらない。
「次! 残りの1万は、ワシと共にその2城の攻略の隙を縫って越中に雪崩れ込む。ここからは時間との勝負だ。大和守(直江景綱)とワシで東側から南の山際まで進軍する。だが、やはり説得は行う。大和守の軍にも臨済宗の僧を一人つける。前線の民は疲弊している。説得に応じる可能性は高いだろう」
政虎自身で見てきた状況だ。
多少の抵抗があったとしても、態勢も整っていない今なら散発的な程度の抵抗で済むだろう。
「朗報もある。この越中東側は真宗高田派の残党が多く潜伏しておる。こ奴らも一向宗とは相容れぬ。当然、越中の支配者的立場の勝興寺と瑞泉寺とも折り合いは悪い。保護を名目に武装解除を促す事も出来よう」
史実でも勝興寺と瑞泉寺は浄土真宗系の寺なのだが、加賀が本願寺の支配下だったのに対し、実は越中は本願寺ではなく、系列寺が支配を強める地域であった。
「この山際まで進めば、残りの西側への進軍、つまり先も言ったが神通川を超える必要はない。西へ進めば進む程、勝興寺と瑞泉寺の影響力が強くなる。今奴らに本気を出されても困る。最悪でも睨み合いで済ませたい」
勝興寺と瑞泉寺こそが畠山家を叩き出して越中国の支配者となった寺である。
この二つの寺は越中の北西側と南西に位置しており、上杉軍が西進し過ぎると、余計な圧力を与えてしまう。
何れ滅ぼす寺だが、今回の目的はこの寺の撃破ではない。
「じゃから西側からの攻撃があれば防御に徹し、一切の反抗を許さず迎撃するが追撃は必要ない」
「ならば、今回の最終目標はどこになるので?」
「今回の遠征の目的は、飛騨に繋がる山岳路を抑える事が重要だ」
「なるほど。武田が飛騨の山々を齷齪進軍している所を、無慈悲に蓋をすると?」
「そう。具体的には越中最南端の蟹寺城を目指す」
政虎は越中の地図を指し示し、最重要攻略拠点の蟹寺城に駒を置いた。
「ここが飛騨から越中の唯一の通行路。武田も斎藤も両者目指しておるが、武田が先だったら通す訳には行かぬ」
飛騨と越中の国境近くにある蟹寺城。
両国を行き来する唯一のルートだ。
もちろん、他の道が一切無い訳では無いが、軍や、商売交易としての道として考えるならば、ここを通過出来ねば意味がない。
「その通り。海を欲する武田としては、ここを通過できねば今回の遠征も無意味。だが、ここを先に取られては越中への足掛かり拠点を与えてしまう。これは何としても防がねばならぬ」
武田も今年中に海まで出られるとは思っていないが、その足掛かりの蟹寺城が有ると無いでは今後の展開は雲泥の差である。
「平地の一揆軍を蹴散らし蟹寺城を目指す。忙しい戦になりそうですな」
「うむ。ワシ、大和守、和泉守、下野守のそれぞれ5000の総勢2万。常なら問題無いのだが今回は一応説得はせねばならぬからな」
先にも書いた通り、『説得した事実を作らなければならない』という点が頭の痛い問題で、これを怠れば、去年何の為に政虎が越前、越後側の一揆最前線を視察したのか意味不明だ。
一応のお題目でもあるが『浄土真宗を救う』は嘘でも無い。
対応を間違えれば、また将来再燃しないとも限らない。
故に、急ぎつつも雑では困る戦いを強いられるのが上杉軍だ。
「基本的にはワシが蟹寺城を目指すが、一揆側の迎撃準備が出来ておらぬ序盤はともかく、浄土真宗は団結と殉教が基本方針。態勢が整えば厄介な存在。方針は今言った通りだが、臨機応変を心掛けよ。絶対に都合の悪い事態が発生すると思って動け! では出陣じゃ!」
【越中国/最東端 上杉軍】
普段は『協力』の『き』の字も知らぬ上杉家臣団も、戦となれば『良い悪霊(?)にでも憑りつかれたのか?』と驚く程の協調性を見せる、戦国時代でも屈指の強さを誇る上杉軍。
こうして始まった進軍は、運も良いのか明石城は説得に応じ降伏し、説得に意見が割れた宮崎城は、明石城の兵も合流した勢いと降伏派の攻勢で半日掛からず粉砕された。
実に幸先良いスタートであった。
「まずは説得故に、騎馬隊だけでいい! 歩兵は後から付いてまいれ!」
その城攻めを横目に越中に雪崩れ込む上杉政虎率いる別動隊。
政虎隊の説得は政虎自身が行う。
政虎は臨済宗の僧籍も持っており『宗心』の名を与えられている。
大名との二足の草鞋なので、臨済宗の僧侶として徹底的に修業した沢彦宗恩や虎哉宗乙程に博識ではないが、その代わり為政者としての側面を仏法に混ぜ合わせた独自の説得を行う。
「越後は雪深い以外の難点は何も不都合が無い。約束しよう。其方等にもその恩恵を必ず享受させようぞ。その上で、いずれ訪れる人生の最後を心穏やかに迎え、阿弥陀如来の下に旅立てば良いのだ」
即ち、浄土真宗における真の極楽浄土への案内と、越後上杉に与する経済的利益による、現世での極楽を提示したのだ。
越後は、東日本側では尾張に匹敵する肥沃な土地と、経済地盤を誇る土地。
その上杉家の傘下に属するメリットは絶大で、疲弊した信徒には極楽に見えるだろう。
こうして20000の軍勢が5000ずつに4分割し、越中東部を蹂躙する。
戦国時代でも屈指の戦巧者が揃う上杉家である。
その侵略速度は尋常ではない。
徹底的な飴と徹底的なムチ。
従うなら手厚く、歯向かったり躊躇すれば容赦はしない。
「説得に応じぬならば殲滅するのみ! 火を放て! 家屋を破壊しろ! この場で極楽浄土に送るのだ!」
戦闘態勢の整っていない一揆軍は何も対処できず、最初から追い込まれている真宗高田派残党は上杉に積極的に保護を求め、そんな上杉の方針が広まれば広まる程、民も選ぶ間もなく行動を決めねばならなかった。
戦闘準備と団結する暇も無かった地域では殆ど戦う意思を見せる民はいなかった。
これも政虎の好判断だったのだ。
また、もう一つ理由もあった。
「越後には流罪となった親鸞聖人が滞在した地がある。一揆を止めるなら、そこに案内しようではないか。聖人が越後で悩み悟った地を詣でるのも信心ではないかな?」
越中周辺に越前吉崎御坊レベルの聖地も無いので、死力を尽くして守るべき対象が無いのだ。
自分達が勝ち取った土地も守るべき対象だが、信仰が第一の一揆軍にとって『神聖な何か』の存在の有無はモチベーションにも直結する。
そんな聖地があるとすれば、流罪となった親鸞が過ごした攻め込む側の上杉家領内(上越市)にあるとは何たる皮肉。
一応、越中の支配者たる勝興寺と瑞泉寺が浄土真宗の守る対象と言えば対象だろうが、そこは政虎が神通川を越えての侵略は禁じている。
戦になる予定が無いから守る必要もない。
「では手筈通り、和泉守、下野守には川沿いの拠点で睨みを効かせるのだ」
「はッ!」
「一歩たりとも侵入は許しませぬ!」
政虎は神通川を水堀と見立て、勝興寺と瑞泉寺に対する領地の境目として機能させるのが狙い。
川沿いの奪った城を防御拠点として機能させ、一揆軍の西進を許さない。
地域全体を防御拠点と見立て、膠着に持ち込む。
「次の猿倉城は落とした後に大和守に任せる」
「敵が我らの狙いに気が付けば猿倉城は危険ですからな。万全に守り通してみましょう」
政虎隊と景綱隊で猿倉城を攻略し、さらに政虎が奥の蟹寺城を目指す。
政虎隊単独なのは、蟹寺城が極めて山岳地にある城なので、5000人であっても窮屈な展開になってしまう。
川沿いは、直江景綱、柿崎景家、斎藤朝信が落とした拠点を再活用し守る。
川上流の蟹寺城は政虎が乗り込んで、武田に備える。
理想的な展開を言うならば、一揆軍に化けた笹久根貞直こと武田信虎が蟹寺城一番乗りとなり、一揆側の拠点として武田と戦いつつ、上杉家を招き入れて撃退する手筈をとる事。
信虎は罠を設置しつつ、進路上の全住民を蟹寺城に向かわせている。
全速で逃げを打つ信虎が一番乗りになる可能性はかなり高い。
ただし、武田軍も余計な戦闘はせず、罠の警戒だけに全神経を集中すれば良いので進軍スピードは遅くはない。
一方、丁寧な説得と、反抗にも合っている斎藤軍が蟹寺城に先に到着する可能性は限りなく低い。
ただし、元々武田軍とは同盟を結んでいるので攻撃は仕掛けられないが、上杉が武田を退けた後の飛騨の東部吸収の仕事は残っている。
飛騨には武田の痕跡を一つも残させないのが斎藤家のもう一つの仕事。
蟹寺城への理想的な着順(?)は―――
1着、笹久根貞直(武田信虎)
2着、上杉政虎
3着、武田信玄
4着、斎藤家の稲葉良通
これが理想。
だが、理想は理想。
現実ではない。
『絶対に都合の悪い事態が発生すると思って動け!』
言霊となり現実となったのは、外ならぬ政虎が言った都合の悪い事態の発生。
即ち信虎よりも早かった、0着で到着していた人間が居たのであった。
【越中国/蟹寺城 一揆軍】
「お、お初にお目に掛かります。拙者、笹久根貞直と申す旧武田家臣馬場家縁の者。今は、武田の侵略から民を守る為、この蟹寺城まで逃げてきた次第にございます」
「うむ。武田の支配など冗談ではない。良くぞ民を導いてくれた。この七里頼周、笹久根殿一党を阿弥陀如来の導きだと確信しましたぞ!」
そう言って、頼周は傷一つない手で信虎の肩を掴み感謝の意を伝えた。
「それにしても、聞きしに勝る武田の暴虐から、いかにして逃げてきたので?」
「は、はッ! 我等は旧武田家臣なればその暴政を知り尽くしております。故に―――」
信虎こと笹久根貞直は虚実交えつつ、ここまで逃げてきた経緯を話した。
「成程。笹久根殿は戦略に明るいのですな。お陰で大多数の民が助かった。礼を言いますぞ。この蟹寺城は山岳故に防御は固い。笹久根殿には一部の兵を預けます故、籠城戦をお任せしましたぞ」
「ろ、籠城? どこからか援軍が来る予定で?」
籠城は援軍が来るからこそ有効な戦法。
援軍が来ない籠城は、単なる先延ばしに過ぎない。
「この七里に抜かりはありませぬ。強力な援軍を頼んでおります。それまでの時を稼げば我等の勝ちは揺るぎない。ご安心召されよ」
そう言って七里頼周は快活に笑った。
眼光の鋭さだけは信虎を射抜いたまま。
(こ奴! 七里頼周と申したか! 飛騨からの道中で色々と噂は聞いていたが、激戦区を見極め重要拠点の蟹寺城で待っておったのか!? クソ! 予定は狂うモノだが、少しぐらい慈悲ある狂い方をしてくれ! せっかく愚息から逃げ切ったのに、厄介な事になりそうじゃ……!)
本来、上杉軍到来を機に城兵の統率を乱し内部崩壊させ、上杉軍を招き入れる手筈だった。
その計画に、明らかに支障が出て焦る気持ちを何とか抑えつつ、次善の策を考える。
(笹久根貞直? 民を導いて逃げた? 新浄土真宗に組み込まれて日の浅い飛騨で、そんな信仰の篤い者が偶然居ただと? 武田への恨みが強いのは間違いなさそうじゃが、上杉か斎藤の策略で、この蟹寺城で信徒と武田軍と戦わせる算段か?)
一方頼周は頼周で、この偶然の好機を完全に信頼していなかった。
都合が良過ぎる。
歴史が変わって歴戦の武将となった七里頼周は偶然の好機を信頼しない。
本当に好機でも、偶然を前提に戦略を組み立てたりはしない。
全て終わった後に『あれは好機だった』と思い返せればそれでよし。
間違っても偶然の好機を『阿弥陀如来の導きだ』などと本気で思わない。
信虎と頼周はお互い警戒を緩める事無く、真顔の様な笑顔でお互いの成果と戦略を確認し、表面上で褒め称えあうのであった。
(クソ! どうする!? この城を武田に取られるのはマズいが、一揆が守り切るのも困る! しかも援軍だと!? 冗談ではない!)
信虎は笑顔で必死に挽回策を考える。
(……今こそ解放の時か?!)
解放。
それは武田から誘拐して、連行した本願寺一行の下間頼照、証恵、蜂屋貞次の事。
ここまで丁寧に扱い護送しつつ、民には一切接触させなかった。
説得の機会も邪魔し続け妨害してきた。
だが、今ここに、本願寺関係者にして徹底抗戦派の七里頼周が居る。
ここで戦否定派の頼照らに引き合わせれば、本願寺本家の命令が優先される可能性はある。
方針がどう転ぶかは賭けだが、意見が割れれば団結も綻ぶかもしれない。
信虎はこの可能性に賭けた。
「(吉凶どうなる!?)七里殿、実は、道中で本願寺の使者と思わしき者と接触しましてな。ただ、本願寺の使者と名乗る偽物も多かった為、民とは引き離し来て頂いた者達がおります。下間頼照、証恵とその従者の蜂屋某です。その名はご存じで?」
「ほう! 下間頼照殿とな? 懐かしい名だ。証恵殿は確か今は無き願証寺の住職だったか。蜂屋某は知らぬが成程? 本物なら会う価値はあるな」
「本願寺宗主の顕如承認の書状を持っているとの事ですが、我らには真偽が付かなかった為、連行するに留めておりました。本物だったならば大変失礼でしたが、何ぶん非常事態でしたのでお許しください」
勿論、本物と確信しての拘束であったが、そこは黙って謝罪に徹した。
「仕方あるまいよ。あちら側もその扱いには理解は示しただろう?」
「はい。聡明な御方でした。多分、本物なのでしょうな」
こうして長い間、客分の様でいて虜囚の様な扱いのまま、蟹寺城まで連行されてきた本願寺の使者が解放された。
3人が頼周の待つ部屋に通されると、信虎は脇に退き成り行きを見守った。
3枚の円座が用意されているが、3人は座るでもなく、事態の把握に忙しく身動きが取れないでいた。
「どうぞお座り下さい」
3人はそう言われて初めて円座に気が付いた程に混乱していたが、次に発せられた言葉に、更なる衝撃を受ける事になる。
「ご無沙汰しております。七里頼周にございます」
「……七里? ……ッ!? 七里なのか? 久しい……な……!?」
正面に座る謎の人物の、名前と記憶に残る顔が一致せず、かつて本願寺が派遣した七里頼周だと知った頼照は驚きの声を上げた。
約10年振りに合う頼周は、頼照の想像を上回る迫力と覇気を有していた。
記憶と違いすぎて誰なのか認識に時間が掛かる程の変貌を遂げていた。
「どうぞお座り下さい」
もう一度言われ、ようやく呪縛から解かれたかの如く、ギクシャクとしながら3人は円座に座った。
「本願寺でお別れして以来10年振りですか。某の顔に何か付いてますかな?」
「た、確かに久しいな。見違えたので少々面食らってしまったわ……! 10年ぶりとは言え……その顔つき。随分と苦労したのだな。名乗らなければ誰だか分からないぞ」
「『男子三日会わざれば刮目してみよ』ではございませぬが、10年ですからな。変りもしましょう」
「故事の通り過ぎて驚くしかないわ。だが、ようやく本願寺関係者に会えたなら話は早い」
こうして本願寺の使者は顕如からの書状を見せ、一揆の即時停止を求めた。
「確かに、顕如上人直筆書状ですな。ですがこの命令は聞けません」
「……はっ!? な、何故だ!?」
当然、停戦に動くと思っていただけに、頼照は驚きを隠せない。
頼周は信徒ではない。
信徒を管理する本願寺側の人間だ。
それなのに顕如の意向を拒むなどあってはならない事だ。
「何故って、北陸の支配の後釜には武田家が入るのでしょう? 冗談ではありませぬぞ」
「!!」
いきなり痛い所を突かれた頼照。
『そりゃ誰でも嫌がるよな』
頼照達でさえもそう思うのだから、言葉に詰まるのも仕方ない話であった。
「北陸の歴史はご存じでしょう? 我らは武士に利用されない世を目指しておるのですぞ? それこそが浄土真宗の願い。それなのに王法為本を武田に求める? そんな事を望めると本気で思っておるので?」
「そこは武田とも話し合いがついておる。武田が暴政に走らぬよう、我ら本願寺が目を光らせるのだ」
「それは結構な事。蓮如聖人も願った理想の姿。しかし、理想は理想。夢幻泡影に過ぎませぬ。我らは武家に散々利用され搾取されてきた。支配者は簡単に法を曲げる。蓮如聖人もそれは理解しておられました。特に武田など約束不履行の代表格ではありませぬか。共に歩むなど不可能ですな」
そんな事を話しながら、頼周は懐から一冊の書を取り出した。
それは歎異抄であった。
「これなるは歎異抄。ご存じですな?」
「タンニショー?」
「笹久根殿が知らぬは当然。これには浄土真宗の真の姿が描かれております」
雲行きが怪しくなってきたのに焦る信虎だが、聞きなれない言葉の書物には思わず口をはさんでしまった。
「ば、馬鹿な!? それは本願寺本家の秘伝の書! 何故ここに!? いや、それは……?」
歎異抄は本願寺にとって秘伝も秘伝、それ所か急所にもなりうる禁書中の禁書。
下間頼廉も堀江館で驚いた歎異抄がここにもある。(174-4話参照)
現在、歎異抄が外部に流出した可能性もあり、本当に本願寺に現存するか確認中だ。(170-6話参照)
「御安心なされよ。これは書写本。吉崎御坊で見つけたこれは蓮崇写本」
「れ、蓮崇? た、確か……」
頼周は蓮如と蓮崇の関係を語って聞かせた。
堀江館で頼廉が頼周に聞かされた事とほぼ同じ事を。(174-4話参照)
「蓮如聖人も、蓮崇も歎異抄を読んだ身。そして私も! 法眼様もその様子では読まれましたな? ならば蓮如聖人が何故禁書として封印したのも理解していましょうな!」
歎異抄によって浄土真宗の真実を知る頼周にとって、本願寺本家の意向など関係ない。
皆が開祖親鸞の思想を捻じ曲げたのに、七里頼周だけを非難する資格など無いのだ。
「歎異抄を読んだ私は蓮如、蓮崇の気持ちが痛い程理解できる。この北陸に派遣され私はようやく使命を悟った。この地獄で民を叱咤激励し、救い、助け、逃がし、生活を支え、邪教徒を排除してきたのだ!」
「お、お前は……」
「一揆を解体する? 寝言は寝てから言ってもらおうか! 私こそが蓮如と蓮崇の法脈を受け継ぐ後継者なのだ!」
「い、一体何が目的なのだ!?」
「仏法による管理以外何がある? まぁ、今はこの城を守るのが最優先の目的ではあるがな。民は守らねばならぬ」
「民を……」
先程から頼周の権幕と迫力に押されっぱなしの頼照であるが、説得すべき言葉が思いつかない。
「本願寺は蓮如聖人の掲げる王法為本を勘違いしておる。正しい為政者が居るならソレでも良いが、居なければ王を作れば良いのだ! ならば私が王となろう! 誰も出来ぬなら、この地で10年民に寄り添った私が立つ! 武士共も僧侶共も手前勝手な事ばかり言って現実が見えておらん! そして思い知らせてやろう! 搾取する者共が安全だと思っている場所は砂上の楼閣だとな!!」
「!!」
頼照も絶句するしかなかった。
頼周が本願寺から派遣されて10年。
頼照よりも濃密な時間を過ごしたのだろう。
頼照は本願寺の高僧の立場であるが、急激にその立場が薄っぺらいモノに感じてしまっていた。
「一体何が……いや、何を経験したらそこまで悟れるのだ? 正に下剋上の思想ではないか……!」
頼照は、ようやく言葉を絞り出した。
「色々経験させてもらいましたよ。死なせると分かっている指揮に殉じてくれる民。己の失策で民を犠牲にしてしまった事もある。だが、その尊い犠牲の上に今の私がある。今は正に下剋上。私は死なせた民の為にも下剋上を成し遂げなければならぬ! そうして平和を奪い取り、その時初めて私は民に犠牲を謝罪し感謝し、生き残った民と共に国を作るのだ」
「く、国だと!? それは一体……!?」
「知れたこと。身分に囚われぬ公平な国だ! 誰も飢えず虐げられず安心して暮らせる国。私はそんな国を打ち立てる! 流血の世代は我らで終えるのだ!」
「顕如上人に見いだされたお主は、戦国大名へとなったのだな……」
「法眼殿。本願寺本家の意向は受け入れられぬが、しかし、流血を防ぎたいと言う良心まで私は否定せぬ。私の意思を理解したならば、共にこのままこの北陸で民を救済せぬか?」
「それに答える前に、今、この蟹寺城はそこまで危機なのか?」
「上杉、斎藤、武田が迫っておる。ここは飛騨から越中に繋がる唯一の道。どこの勢力も確保したい城なのだ」
「……わかった。手を貸そう。流血は望まぬが、守らねば流れる血を抑える事も出来ぬのは理解しておるつもりだ。証恵殿は如何する?」
「私も長島で散々思い知りました。敵がこの城を何が何でも確保したいなら交渉すら受け付けてくれますまい。ここは戦うのが最善の道。少なくとも交渉の余地が生まれるまでは戦わなければなりますまい」
頼周に圧倒されっぱなしの頼照であったが、それでも最後の一線は踏み越えなかった下間頼廉とは違い頼照と証恵は戦いへの参加を承諾した。
「思う所はあるだろう。顕如上人の意にも反するが、ここを放棄すれば越中は地獄と化す。ならば全てを跳ね返し、援軍を待って奴らを蹴散らす!」
頼周の言葉に頼照と証恵は覚悟を決めた。
一方、信虎は頭を抱えた。
(吉でも凶でもない! 最悪の大凶だ!)
一応、頼周側の考えに傾く可能性も考慮はした。
だが、こうも一方的に言い包められるとも思わなかった。
少なくとも、中立で収まってくれればと思っていたが、結果は信虎が連れてきた民全てが武士の敵として活動する事となった。
「七里殿。戦うのは良いのですが、先ほどから仰る援軍とはどこの誰なので? こんな山間部にどこの道を使って現れるので?」
「フフフ。心配ない。どこに間者が潜んでいるか分らぬから軽々に口には出来ぬが、武田にも上杉にも織田にも斎藤にも匹敵する力を持つ勢力を呼び込む事になっておる」
(軽々に口にしてくれ!!)
信虎は泣きそうになりそうな顔を無理やり口角を上に持ち上げ、不敵な顔を作った。
「わかりました。ではその時まで耐えれば我らの勝ちですな?」
「その通りよ。笹久根殿にも期待しておりますぞ!」
「お任せを! では某は、この蟹寺城と周辺地域を調べ、戦の流れを予測してまいります」
「うむ」
信虎は、何とか打開策を捻り出すべく、蟹寺城の弱点を探し、周囲の盲点や虚弱な部分を何とか見つけるべく、老体に鞭打って山岳部を歩き回るのであった。
【越前国/堀江館】
一方、丁度この頃、越前堀江館では斎藤帰朝と富田勢源が、堀江館からの脱出時に七里頼周に見つかり、激闘を繰り広げていたのだった。(174-5話参照)




