外伝2話 織田『稲作』信長
この外伝は2章天文15年(1546年)の信長と帰蝶が婚姻した頃から始まる話である。
尾張領地のある農村を信長と帰蝶が親衛隊数人を連れて歩いている。
「三郎様! これが水田なのですね!?」
帰蝶が言う水田には水が引かれ、膝下まで育った稲が青々と育っていた。
一方で、農民たちがせっせと草取りをして、管理をしているのが見えた。
「そうじゃ。今はまだ青々として背丈が低いが、時期が経てば倍以上に育って稲穂をつけ始める。充分育ったら水を抜いて枯れさせて、刈り取って稲を穂と藁に分別する。藁は草鞋や米俵、牛馬の餌や建物の屋根など捨てる部分が無い程重要な資源じゃ。穂も当然もみ殻、米糠、米に分けられ、もみ殻は肥料や保温材、米糠は漬物に利用でき肥料にもなる。米は言うまでもないな」
帰蝶は転生前、生涯病に臥せっていた為、水田の存在は知っていても実物は数えるほどしか見た事が無いし、見たとしても水田について何か考える余裕もなく、すぐに記憶から忘れ去られていた。
しかし今は違う。
健康な体を手に入れた帰蝶は見る物、触れる物が全てにおいて新鮮であり新しい発見の連続で楽しくて仕方なく、信長を質問攻めにしていた。
信長も持てる知識をフル稼働して帰蝶の質問に全力で答えていた。
「それにしても、この一面の稲、圧巻ですねー」
「ここから得られる収穫が年貢となり兵糧となり、尾張に生きる人間全ての腹に収まるのじゃ」
「……そうなると、こんな無駄になる所が無い水田を攻められるのは、敵対者にとっては致命傷になるのですね」
「そうじゃな。我らは農民から米をもらう代わりに、民やこの水田を全力で守らなければならぬ。それが出来なければ領主失格じゃ」
戦国時代は現代の価値観とは違い、水田は勿論、領地が荒らされれば、恨まれるのは侵略者ではなく地域の守護者である。
侵略者に成すがままでは、自分たちが何の為に年貢を納めているのかわからない。
領主は地域を守ってこそ領主であり、それが出来なければ出来る者に取って代わられるのだ。
かく言う信長も、何度か兵たちに混ざって侵攻した土地で刈田を行った事がある。
刈田とは文字通り田を刈る、つまり稲を刈るのである。
稲穂が実る前の稲を刈れば敵対者の収入が無くなる。
収穫直前の稲を刈ってしまえば敵対者の収入を無くす所か、自分たちの臨時収入にも繋がる。
長期戦では効果絶大の戦法であった。
「それにしても、意外と乱雑に育てているのですね? 草取りとか大変じゃないですか? 三郎様、私手伝ってきます!」
帰蝶はそう告げて、裾をまくりあげて水田に飛び込んでいった。
その田んぼの所有者はまさか信長の妻がそんな事をするとは思わず仰天してあたふたしている。
信長は溜息をついて水田の管理者に言った。
「すまぬが気の済むまでやらせてやってくれ。下手な事したら叱っても良いぞ」
帰蝶はキャッキャとはしゃぎながら泥だらけになっていた。
「……まぁ、たまには良いじゃろう。よし! ワシもやるぞ! 於濃! 勝負じゃ!」
信長までも水田に飛び込み草を引き抜きだした。
水田の管理者は踊っているのかと勘違いする程あたふたしだした。
その日の夜、信長と帰蝶とファラージャは今日の経験を話し合っていた。
といっても殆ど帰蝶が一方的に興奮気味に話すだけであったが。
《あの足が沈み込んでいく感覚は楽しかったですわ!》
《お主は豪快に泥だらけになっておったのう……ま、元気なのは良い事じゃ》
《私も戦国時代の稲作は初めて見ましたけど、皆で協力して作業するのは楽しそうで良かったですねー》
1億年後に生きるファラージャにとって、食料は必要な分が瞬時に自動的に生産され、調理すらオートメーション化しているので帰蝶同様、実物を見学するのは新鮮で楽しい光景であった。
《未来の技術からすれば児戯の様かもしれんが、あれが日ノ本の農業じゃ。そう言えば、於濃たちは5年間未来で生活したな? 訓練や教育をしたのは知っているが、普段の生活や食事はどうしていたのじゃ?》
《極力未来の生活はしませんでしたよ。研究室に可能な限り戦国時代の生活様式を再現しました。食事も戦国時代に合わせた物です。元の時代に戻った時、ギャップが強すぎると大変ですからね。ストレス解消に街を出歩いたりはしましたけど、なるべく戦国時代に還元できないと判断した場所だけです》
仮に1億年後の生活にドップリ浸かってしまったら、戦国時代の生活など出来るはずが無いとの判断である。
《それもそうか。未来の生産技術は知ってみたいところではあるが》
《残念でしたけど、それも仕方ないのは判ってましたので。本格的な見学は、寿命を使い切った後の楽しみにしますわ》
《その時は信長教が存在しない素敵な世界になってるといいですねー》
《そうじゃ! 生産技術といえば、於濃は今日初めて農業を経験したわけじゃが、何かこう不思議に思った事は無いか? ワシや今を生きる人間には当たり前すぎて違和感を感じない事も、お主なら不思議に思う事はあったのではないか?》
せっかく転生したのなら、出来る限りの改革をしたい信長は帰蝶の意見を聞いてみた。
《ありますよ!》
力強く帰蝶は言った。
《ほう、例えば?》
《稲が乱雑に並んでいるから草が取りにくいです! 最初から整列して植えれば良いんじゃ無いですかね?》
《他には?》
《常に中腰で腰が痛いです!》
《ふむ》
《あと、稲の生長にバラつきがありますね。植物って日の光が当たらないと育たないんですよね? 密集しすぎじゃないですか? これも整列して育てれば回避できるのでは?》
《ほう。そう言えば前々世の人生で経験した刈田で見覚えがあるな。妙に密集した稲が散見しとったわ》
《あと、逆に不自然に間が空いた所があります。その場所にあった稲が枯れたのでは? 命の弱い苗でも植えたのですかね?》
《なるほど》
信長は帰蝶の観察眼に感心した。
常識とは恐ろしいもので、例え常識の破壊者信長と言えど、違和感を覚えずに常識に縛られている部分は多々ある。
なので、病気故に信長以上に常識から隔離されて生きてきた帰蝶には及ばなかったのだ。
《よし! 今年は暇さえあれば村に行って稲作を見る。ワシには思いつかぬ案も於濃になら思いつくかも知れぬ。すぐに対策は出来なくとも、問題点を集めて研究する事にしよう!》
その後足しげく農村に通った信長と帰蝶は実際に作業を行ったり、農民に聞き取りを行ったりして問題点を集めていった。
問題点は大別して3種類あった。
・育成中における草取りと害虫対策
・育成後の刈り取り作業関連の重労働
・稲の植え方や弱い稲の存在
「幾つかは案があるが、効果があるかは実験してみるしかなさそうじゃ。一足飛びに解決する問題では無いな」
「そうですね。それが良いでしょう」
「よし、農村に向かうぞ」
次の年、信長は一つの村に指示を出した。
・この村の全ての水田を使って実験を行う
・指示には従ってもらう
・その代わり、年貢は3公7民で大幅に免除し、食べきれない、保存できない分は織田家で買い取る。
・仮に大失敗し凶作となれば織田家が補填する
農民としては逆らうつもりは無いし、信長が自分達の為に色々対策をしようとしていた事は理解しているので協力的であった。
なにより、どんな結果であっても飢える心配がないので特に不満は無かった。
「よし、まずは田については例年通り植える為の準備をせよ。どの田も差が無い様に均等に管理せよ」
田の状態に差があると、効果のバラつきや信頼性が分からないので、可能な限り均等にする必要があった故の指示である。
この時、親衛隊の農作業身経験者は、体力向上と農民の苦労を知る為に積極的に作業を手伝わせた。
平行して種籾選別が始まった。
現代においては種籾の塩水選別の方法があるが、戦国時代に望むべくも無い未知の技術なので種籾の大きさで選別し、大小の差で違いが出るのか実験する事にした。
「え、種籾の大きさを選別するんですかい!?」
小さな種籾の山を見て、気が遠くなった親衛隊の一人がつい弱音を吐いた。
「そうか? お主は人力で仕分けるのじゃな? 我等はこのザルの通過有無で仕分ける。頑張れよ? ハハハ!」
「い、いや、俺もソレを使ってやります……」
大小に仕分けられた種籾は苗床に植えられていった。
田に直接種籾を撒かないのは、発芽しないものを選別する為、また実験結果に影響を与えない工夫である。
「ハッキリ差がでるといいですねー」
「そうじゃな」
その後、苗と呼べる程の成長を遂げた苗床の前に信長たちは集まった。
「あまり差はありませんね……」
帰蝶はガックリしている。
どちらの苗も育ちの良し悪しがあり、大小選別は育ちに関係が無さそうであった。
「種籾の大小は苗の育成に関係ないかもしれないが、それは稲穂を付けて見るまで何とも判断は出来ぬな。仮に稲穂にも差が無ければそれは種籾の大小は関係ない事が実証されたと言う事じゃ。無駄ではないぞ?」
信長はそれほど気落ちはしていなかった。
「三郎様、苗はどの様に植えていくのでしょうか?」
村長が信長にたずねた。
「うむ、この様に進めていく」
信長の示した方法は以下の通りであった。
・例年通りの乱雑種まき
・距離を決めた整列植え
・整列植えは6寸(約18cm)から15寸(約45cm)間隔の10種類を試す
・大小選別と苗の育成良し悪しで分類して植え付ける
「例年通りはともかく、整列植えは目印でもないと難しいのではないでしょうか?」
「考えてある。縄に各間隔毎に目印を付けてある物を用意した。その目印に沿って植えていけばよい。初めての試みだから不都合があるかも知れぬが、それはその都度考えていく」
「さぁ! 皆で頑張って田植えをやりましょう!」
帰蝶の号令で親衛隊と農民たちは持ち場に散っていった。
しばらくして。
「おおお……腰が……!」
親衛隊の面々が腰痛を訴えている。
「こ、これはキッツイわね……!」
「舐めてた訳では無いが、こ、腰にくるな!」
「問題点に1つ追加しましょう。負担の無い田植えを考えるべきです!」
農業未経験の親衛隊当然ながら、草取り経験のある信長と帰蝶も長時間の中腰には悲鳴を挙げ、農民の偉大さを骨身に染みて理解したのであった。
人海戦術で行ったとは言え種籾のばら蒔きに比べて時間が必要な作業であった。
「さあ、とりあえずは様子見じゃな」
「少しでも結果が出るといいですね」
信長の農業改革は始まったばかりである。