2話 ファラージャ
(――暗い。ワシは死んだ……のだな――)
真っ暗な闇の中でふと自分の死に様を思い出した。
人生における最大の危機に遭遇し『最早これまで、屍など晒してやるものか』と、最後の抵抗とばかりに火を放ち腹を割って果てた。
(……? 果てた……? そうだ、ワシは果てたのでは無いのか?)
果てた日の空と同じく真っ暗な闇の中で、今の状況を確認出来る自分の思考に驚いた。
(死ねばそれまで、散々他人を死に追いやって来たワシは、誰よりもそれを理解しているのでは無かったのか? 今、この考える事が出来る状況は何なのだ? 割った腹はどうなった?)
確認しようとして、それが出来ない事に気が付いた。
(目は……開いている……のか?)
何も見る事が出来ない。
あの時、新月の夜にも劣らぬ、目に墨をぶちまけたかの様な黒であった。
(耳は?)
闇夜の戦場でも有り得ない程の静寂。
(鼻は?)
匂いは無い。
土煙、血はおろか、あの炎と煙の匂いが嘘の様に無い。
(声は?)
出ない。
出そうとしても音が聞こえないので出ているのか判別出来ない。
それに喉が震えたり呼吸をしている感覚が無い。
(手は……足は……?)
力を入れようと足腰に意識を向けたが、そもそも自分が立っているのか寝ているのか判らなかった。
(何だこの感覚は? 鳥の様に空を飛べたらこんな感覚なのだろうか)
無論、浮いた事など有ろうはずが無い。
つまりは、五感の全てが狂っているとしか思えない事を察知した。
(こんな状態で生きているとは言えぬ。だが、考える事は出来る。死んではいないのか? ワシは何故果てた? そもそもワシは誰なのだ?)
(上様……! 織田三郎信長様……!)
――!!
声が響いた。
しかし耳から聞こえた訳では無かった。
(オダ……サブロウ……ノブナガ……??? 誰だ? ワシに話し掛けるのは?)
(私を思い出して!)
(私? 思い出す?)
(私の名前を!)
その時意識の中に光る羽がヒラヒラと舞っているのに気が付いた
(帰ってきて下さい!)
(これは何だ? は……ね……蝶? ……帰る? ……チョウ……帰蝶……)
瞬間――闇に光が差し込んだかの様に、五感の全てが脳に情報を送り出し、一人の女を思い出した。
「うおぉッ!!」
漲る力と共に男は跳ね起き急いで周りを見渡す。
(光秀の軍勢はどこだ!? ここは炎の本能寺……では無い!?)
周囲は白とも黒とも光とも言える薄く輝き、天井も地面も壁も近くにある様な無い様な奇妙な空間であった。
本能寺なら今頃は業火に包まれているはずであったが、熱くも寒くもなく、周りの環境が自分の知りうる何とも合致しない、未知の場所にいる事に気が付いた。
ふと自分を見ると、妙な棺の様な所に立っていた。
更に背後に気配を感じて振り返ると、妻の帰蝶が涙ぐんでいた。
「於濃……か?」
「上様……!」
上様と呼ばれた男は自分の胸に飛びついた、於濃と呼んだ女を抱き抱えた。
(本当に於濃か!?)
そう思う程、力強い抱擁を受けた。
妙に若々しく元気だ。
(何だこれは? 夢なのか?)
その時――
「おぉ信長よ! 死んでしまうとは情け無い!」
「っ!?」
背後から声が聞こえたかと思うと、妙な小僧が良く分からない事を言っていた。
男は棺らしき物から出て歩み寄った。
「……」
男は小僧の顔をじっと見つめた。
「なーんちゃって! ……ん? あれミスったかな?」
小僧は神妙な顔付きから、おどけた顔になり、更に難しい顔をしうんうん唸っている。
「……」
「おーい」
小僧は手を男の前にかざしてヒラヒラと振って見せたその瞬間――
「ぬん!」
「ぐぺぇ!」
「明智の手の者か! ワシの屍を渡す訳にはいかぬ!」
電光石火の見事な首投げで地面に小僧を叩き付け、これまた見事に投げられ情け無い悲鳴を上げた小僧に止めを刺そうと思い、そこで割腹の為に用意した刀が無い事に気が付いた。
と言うより何も着ていない。
よく見れば帰蝶も一糸纏わぬ姿であった。
「小僧! 話せ! ここはどこだ! ワシを助けたのか? 今どうなっておる! ……む?」
「離せ? 離すのはアンタでしょぉぉ! ぐっ痛だだだ! どぉい〝ぃ〝でぇぇぇぇ……!!」
「上様!? その者は敵ではありませぬ!」
夫の目にも止まらぬ早業に驚愕しつつ帰蝶は叫んだ。
男は苦悶に歪む小僧の顔を見て、貧弱な胸部の上に乗せた体をどかし、一歩下がった。
「……」
「……起こしてくれないの? レディに対して……」
ムッとした顔で憎まれ口を叩く。
「さっさと起きぬか小僧!!」
雷鳴の様な怒声が小僧の体に叩き付けられた。
「はひぃぃ!」
条件反射のスピードで直立不動になりながら小僧は思った。
(流石は織田三郎信長。曰く戦乱の申し子にして救世主。当時は元より後世の人間と比較しても、その最先端の思考は疑い様が無いわ)
まさに人類史上最高と言っても過言では無い男が、自分の前に居る――小僧はそう思っていた。
しかし――
「……って小僧!? レディに対して何て事を……!!」
いきなり地面に叩き付けられた事よりも、憧れの気持ちよりも小僧呼ばわりに憤慨した。
戦国時代の人間、しかも、死地から目覚めたばかりの人の眼前に不用意に立つ己の失策は棚に上げた。
「大丈夫ですか?」
帰蝶は小僧の背中をさすって助けている。
「れでぃ? 貴様、南蛮の娘か。それは済まぬな。しかし流暢な日ノ本の言葉よな」
見れば年の頃10代半ば、どこか懐かしく馴染みのある、しかし奇天烈な服装の南蛮人を見て男は自分の非を詫びた。
(詫びるんだ!? あの投げた時の反射神経もそうだけど、こんな未知の世界であろう現実を目にしてなお、流石は信長。やはり歴史資料は当てになら無いわ。本人じゃ無いとね)
一方、小僧の様な娘は、そんな事を思いながら乱れた衣服を整え、オホンと咳払いし口を開いた。
「南蛮人ではありません」
『では傾奇者か』と言い掛けた信長を手で制し、違う人物、と言う事は無いだろうが、記憶が備わっているか念の為に聞いた。
「私は……えーと、ファラージャと申します。信長様からしたら変な名前なのは重々承知していますが正真正銘日本人です。ですがその前に、あなたは尾張出身の織田信長様で間違い無いですね?」
ファラージャと名乗った小娘は快活に話し質問をするが、男は諱を平気で口にする事にムッとしつつ答えた。
「ふあらあじゃ? 不破羅阿邪? 奇怪な名前よの。ワシは確かに織田信長である」
男は己が信長である事を認める。
生気に溢れる体からは天下人のオーラが立ち昇る様であった。
「貴様に言っても詮無き事じゃが、ワシは命を狙われておる。貴様、安土の方角は判るか?」
「安土ですか……。分かると言えば分かりますけど、近付く事は出来ませんよ?」
男は――信長は明智軍が安土城を占拠しているのを想像した。
本当は違うのだが、ファラージャはその勘違いを察しつつ訂正はしなかった。
「是非もなし……か」
信長は信長で、本能寺から2度目のセリフを吐いた。
(この小娘は明智の者では無さそうだ。もしそうなら既にワシは死んでいるハズ。と言う事はワシに反逆する者では無さそうだ。大体敵対する者を前にして不用意過ぎるし、隙だらけでは無いか。少なくとも害を成そうとする様には見えぬ。ならば話す事で情報を得て活路を開くべきか?)
その様に信長は判断しファラージャと名乗る小娘に話し掛けた。
「ふあらあじゃとやら。ここは本能寺では無くワシらは助けられ、貴様も敵では無い。この認識に間違いは無いか?」
「私達はあれから……どうなってしまったのですか?」
帰蝶も不安げに追随する。
(二人とも記憶に問題無し……それにしても流石と言うべきか、信長はとんでもなく頭の回転と行動が早い人なのね)
ファラージャは改めて思った。
少なくとも自分が同じ立場なら危害を加えるかは兎も角パニックになる自信がある。
(これなら今から告げ様としている事も、それに対する答えも期待出来るのでは?)
ファラージャはそう思いつつ痛む背中に身をよじり、ニヤリと口角を上げた。
レディがする顔では無かった。
「はい、とりあえず、ここは本能寺ではありません。近くに明智軍もいません。身の安全は確保されています」
「そうか。では改めて問う。ここはどこじゃ、何故ワシを助けたのか? 明智軍は? そもそも貴様は何者じゃ?」
そう言いながら信長は胡坐をかいた。
帰蝶はそれに倣って途中で固まった。
「その前に、まずは着替えを用意します」
素っ裸の信長は、別に隠す事もせず、堂々と胡坐をかいている。
ファラージャは恥ずかし気に身をくねらす信長になってたらどうしよう、イメージが崩れるとか妙な心配し、そうでは無くて安心してはいたが、見慣れたとは言え、目のやり場には困ったので申し出た。
なお、帰蝶は今の今まで裸である事に気付いていなかった様だ。
色んな所を手で隠しぺたりと座り込んでしまった。
「フーティエ! 二人に例の物を」
《はい》
妙に響く声が聞こえた。
それと同時に、少し上方からすっと2つ箱が現れて、信長と帰蝶の前に音も無く移動して来て、帰蝶は驚いて信長の背後に隠れていた。
信長は慌てる事も無く、(それでも目は驚愕で見開かれていたが)泰然自若としているのは流石と言うべきか。
そんな戦国時代の人間の反応を他所に、箱は勝手に開かれて、中からはド派手な仰々しい物体が表れた。
「どうぞ着替え……いやお召し物です。サイズは丁度良いハズです」
「(さいず?)こ、これが召し物と申すか……!」
信長は仰々しい着物を手にとり困惑しながら訪ねた。
「あ、済みません、『着衣』と言って頂けますか?」
「ちゃくい?」
すると、渡された召し物が勝手に動き出した、と思った瞬間、信長は着替え終わっていた。
そんな信長と帰蝶をみてファラージャはようやく世間のイメージ通りの2人が出来上がったと思い頷いた。
「うん、イメージ通りね」
「……!??!!!?! ……いめぇじ!? ……ッ!!??」
これは流石に信長と言えど驚き戸惑った。
帰蝶は気を失い掛けている。
情けない声は辛うじて飲み込んだ。
(まさか勝手に動きだし、自動的に着替える事が出来るとは!)
その凄まじい体験をした驚きと共に、生来の興味心が湧き出した。
湧き出したのだが――
かつて『尾張のうつけ』と言われた信長から見ても度し難い着物は、最初は光沢かと勘違いした胸と背中の織田家の家紋部分は、蝋燭の灯よりも明るい勝手に明滅する着物だった。
黒が基本の色ではあるが、生地の皺や折れ曲がった所は金色に淡く変化して、裃の肩から何故か垂れている布は宙を漂い、よく見ると小さな雷を放射している。
袴は袴で黒色と灰色の模様がうねりを上げて動いている。
首に巻かれた深紅とも言えるマント(?)は風も無いのにバサバサと動く。
その動く布は触れると池に石を投げ入れた時の様な波紋を描く。
奇怪過ぎるデザインの着物は、あの日の本能寺や災害を思わせる……いや、信長がかつて冗談で名乗った第六天魔王の方が相応しい。
ともかく、うつけ者と言われる悪い身なりや、南蛮渡来の着物、主張の激しい鎧など、当時の最先端を纏った信長と言えど顔をしかめた。
帰蝶に至ってはもっと酷い。
布なのか分からないが、右手左足には蛇らしきモノが絡み付いている。
化粧も凄まじい。
美人に見えるのは間違いない。
間違いないが、過剰なまでに切れ長に見える目の周りの化粧、頬には鱗の様な模様、蛇の舌を思わせる真っ赤な紅。
左右非対称の胸の開いた着物は若葉の様な明るい緑で一見爽やかに見えるが、至る所に蛇が描かれている。
更には、全ての蛇の目は色鮮やかに輝きを放ち、背中から湯気では無く瘴気と表現するしか無い気体の様な物が立ち上り、良く見ると揚羽蝶の羽を思わせる形を描いている。
確かにマムシと呼ばれた斉藤道三の娘だが、酷いにも程がある装いである。
「……ふわらあじゃよ。色々言いたい事や聞きたい事が溢れて来るが、取り合えずもう一度、先の問いに答えて貰おうか」
奇怪ながらも今まで経験した事の無い上質な肌触りに驚愕しつつ、いつの間にか表れていた座布団に座り、ひじ掛けに持たれながら聞いた。
「お答えします。まずここは私の研究室です。先程声だけしたのはフーティエです。……いやそれよりも、うーん……今は上様の時代から1億年後と言えば良いのか」
「うん?(何か妙な事を口走ったぞ? 1億年後? 未来の世界? 坊主の言う極楽浄土や伴天連の言う天国や地獄を疑ったりしたが……)」
まだ夢の中と言われた方が説得力がありそうな所に連れて来られては、信長と言えど戸惑うしか無かった。
帰蝶に至っては半開きの口で呆けている。
「それに付いては後程に説明するとして、正確には私はお2人を助けた訳ではありません。お2人は本能寺の変、あ、本能寺の変とは明智軍が信長様を討ち取った出来事を後世の人が名付けた出来事なのですが、ともかく明智軍に間違い無く殺されました。それを1億年後の今、科学技術……えーと医術の発達によって復活させる事に成功しました。今、お2人は記憶は死の直前までですが肉体はとりあえず二十歳の年齢です。後は、奥方様の病は治療させて頂きました」
眩暈は起こらなかったが、理解が追い付かなかった。
(何か凄い事をサラリと言ってのけたぞこの小娘!? 確かに言われてみれば肌の張りが違うし、戦場での傷も見当たらない! しかし死んだ記憶もある! しかも於濃の病が治った?)
信長は帰蝶を見た。
「確かに! 色々驚き過ぎて忘れていましたが息苦しさが一切ありません!」
帰蝶は帰蝶で自身の体を触って確認している。
素晴らしい笑顔である。
こんなに顔色の良い帰蝶を信長は見た事がなかった。
酷い化粧が無ければ、さぞかし美しい表情で有ろう事は想像に難く無い。
「ふわらあじゃ殿! 感謝してもしきれませぬ!」
ファラージャの手を取ってブンブン上下に振り回している。
溢れる力を抑え切れない様だ。
(さもありなん。生まれ付きの病が完治したのだからな。ワシだったら走り回っているかも知れん)
そんな感想を抱きつつ信長は考えた。
(しかし……ワシは死んだ? では織田軍は? 秀吉は? 生き返った? 光秀は? 勝家は? 本能寺は? 一益は? 信忠は? この1億年の出来事は?)
あふれる疑問を遮って重要な事を聞いた。
「於濃に関しては礼を言わねばなるまい……しかし何が目的だ?」
内心は分からないが、余り動揺が表に現れない信長を見て、改めてファラージャは凄い人だと思った。
「信長様にもう一度人生を戦国時代でやり直して貰います」
まじめな顔をしてきっぱり告げた。
「……」
(人間50年 下天の内を比ぶれば……)
敦盛を思い出しながら信長は思った。
決して口にはしなかったが童の頃も、戦の後も常に自問自答した。
『もし結果が違ったら』
勿論、違った場合の結果など分かり様が無い。
分からないからこそ、自分の判断が最良の結果であると信じて来たし、最良になる様に粉骨砕身の努力した。
反省はしても後悔はしない様にして来た。
その努力が否定された気がして背中のマントが少し持ち上がった。
「……何の為に」
ファラージャは、機嫌の悪くなった信長には気づかなかったのか言葉を続けた。
「えっと……もし『天下布武』が成されていたら、この日本や世界はどうなっていたのか? とでも言いましょうか。そんな世界を創りたいのです。信長様の死が歴史に重大な結果をもたらしたのは間違いありませんから」
「つまり今に続く世はワシが討ち取られた後の、天下布武が成されていない場合の世の中なのだな?」
「その通りです」
寂しげにファラージャは答えた。
(理由は判らぬが、織田軍では日ノ本を統一出来なかった、と言う事か……?)
「……ワシの復活や人生のやり直しは、そんなに簡単に出来るモノなのか?」
「簡単ではありませんでしたが、その為の技術は確立されました」
「……」
(やはりワシは本能寺で就寝中なのでは無いか? 大体、あの十兵衛(明智光秀)が裏切ると言うのも信じ難い。しかし今のこの状況が夢なら分からんでも無い。納得だ。大体、ワシが慮外の事で消えたとしても、城介(織田信忠)には後継者として教育を施したし、軍団長達にもワシの考えをしっかり教えた。多少形が違ったとしても天下布武が成され無い何て事があるのか? あの時、織田軍に対抗出来る勢力があったとも思えぬ)
夢である――
そう断言したかったが、奇妙な現実感が夢と断言させる事を許さなかった。
信長が身に付ける裃が激しくスパークし、模様がうねり、マントが巻き上がりだした。
「ふわらあじゃと言ったな。ワシの今の心情が判るか? 夢だと断言されたく無ければ、今の状況を正直に話せ。とりあえずワシの復活と1億年後の世界が事実であると言う前提で話を聞いてやる」
「は、はい!」
満面の笑顔でファラージャは返事をした。
信長は信長でコロコロと表情の変わるこの娘の口から、どんな驚愕の事実が出てくるか、言葉を受け入れる覚悟を決めた。
しかしその前に――
「……所で先程、着替える時『いめぇじ』と言ったな。『いめぇじ』とは南蛮の言葉で貴様が思い浮かべるワシの想像の姿と言う事だな?」
質問を否定して欲しい――そう願いを込めて聞いた。
「はい! その通りです!」
ファラージャは機嫌よく答え、アッサリ期待は裏切られた。
「……是非も無し」
本能寺から3度目のセリフをつぶやいた。
裃は放電を止め、うねりも収まり、マントは重力に従った。
(ワシって一体……1億年の間にワシはどんな評価を受けたのだ……? 少なくともコレが似合う人物である、と言う事なのか……?)
ここまで多少は驚きこそすれど、狼狽える表情を見せる事の無かった信長が、初めて複雑な表情を見せた。