169-2話 雪解け前の軍議 斎藤帰蝶の判断ミス
169話は3部構成予定です。
169-1話からご覧下さい。
【美濃国/稲葉山城 斎藤家】
評定が解散された広間。
場には帰蝶、斎藤龍重、稲葉良通、安藤守就、氏家直元、明智光秀、仙谷久盛、竹中重治、河尻秀隆、遠藤直経、武田信虎ら首脳陣が残った。
「ふぅ……。疲れたわ……!」
帰蝶は足を投げ出し天を仰ぐ
肺から大量の息を吐きだし、ようやく重圧から解放されたのか、だらしない姿を晒す。
「殿、お見事でした」
だが残った家臣はそんな帰蝶を咎めない。
家督継承以来の、しかも斎藤家の行く末を占う年始の軍評定。
ここで情けない姿や噛みまくる様な不安要素を見せては家中も揺らぐ。
斎藤家は史上初の女大名が支配する家なのだから、隙や失態は男の大名以上に警戒しなければならない。
それが何の問題もなく終わったのだから、首脳陣としても安堵の思いが強く、だらしない姿を咎めるつもりもなかった。
そもそも、一見だらしなく見えて、仮に襲い掛かったとて返り討ちに遭いかねない、だらしなくはあっても覇気は十分な帰蝶の佇まいには、女だという事以上に感心せざるを得ない。
そんな感情を知ってか知らずか、帰蝶はもう一度足を組み直し姿勢を正す。
「父も兄も織田の殿も毎回こんな視線を浴びて良く平然としてられるわね……!」
帰蝶の当主就任から時も経過したが、内政評定は行ってはいても本格的な戦評定は初めてで、やはり武将達の緊張感も格段に違ってくる。
その緊張感を伴う諸将の視線を一心に受け止めた帰蝶は、戦場で渦巻く殺気とは違う別種の疲労を感じてしまっていた。
「まぁ……慣れなのでしょうね。お陰でほらコレ」
帰蝶は拳を突き出した。
小さく可憐なのにオーラさえ漂う、矛盾を極めたその拳は小さく震えていた。
これは闘志ではなく緊張の賜物だ。
緊張し過ぎて握った拳が意思に反して開かないのだ。
『あの美濃の大妖怪にして京にも轟く独眼姫にも人間らしい感覚があるのだな』
―――とは言わず、優秀な斎藤家家臣達は配慮あるコメントを一瞬で考える。
「ハハハ。その通り、慣れですな」
「殿は織田時代では別に領地を得ていた訳ではありませぬからな。仕方ありますまい」
「然り。某も最初は緊張で言葉を噛んだりしましたからな」
「むしろその程度で済んでいるのが殿の凄さなのでしょう」
「……? ありがとう。さて評定も終わった所で、アレをどうするか改めて対処しましょう。右門、持ってきて」
「はっ」
帰蝶に呼ばれた小姓の右門(仙石久勝)が恭しく書状を差し出した。
アレ、とは信長が帰蝶に伝えた、本願寺が武田家へ援助したとの情報である。
「まさか本願寺から武田に援助とは。寝耳に水にも程がありますな」
安藤守就が溜息交じりに吐き出す。
一揆に領国経営とやる事が多いのに、面倒な武田の出現には辟易している様であった。
「武田は織田と結ぶ約束をしたばかり。斎藤はその仲介役。そんな我等に牙を向くとは流石に思えませぬ」
氏家直元は当面の心配は無いと踏んではいる様だ。
だが表情は曇っている。
武田への信頼感からか、牙を向かれる可能性も考慮していた。
「いかに愚息といえど、そんな事をしたら周りから袋叩きに会うと解らぬ程のうつけ者ではありますまい。ならば答えは一つしかありますまい」
一方、武田信虎は実父の立場からか、信玄の動向を一つに絞る。
「そうね。これで我等に襲い掛かってきたら逆に凄過ぎて感心するわね。ならばこれは―――」
帰蝶が『上杉との川中島』と言おうとした所で信虎が後を継いだ。
「飛騨……でしょうな」
「ッ!? そ、そうかも知れないわね……!?」
帰蝶も信長同様、武田の次の戦いは川中島だと歴史的事実で判断してしまったが、この次元だけを生きる他の武将は違った。
この歴史での評価で冷静に判断した。
他の武将はその可能性に辿り着いていたのか信虎に同意していた。
一方、帰蝶は信虎の発言に頭をブン殴られたかの様な衝撃を受ける。
「そ、あ、他の可能性は無いかしら? 飛騨と断定するには危険かも知れないわ」
帰蝶は言葉に詰まりつつ、体裁を整えつつ、飛騨以外の可能性を忘れていないかソレっぽく尋ねた。
「例えば北信濃は無いと踏んで良いかしら?」
「可能性が皆無とは言いませぬが、愚息は上杉に過去3度に渡って徹底的にやられましたからな」
(あっ!?)
帰蝶は信虎ら諸将が飛騨だと断定する理由にようやく気が付いた。
この歴史でも武田と上杉は川中島で戦っている。
史実では睨み合いで終わった時もあったが、この歴史では3回とも激戦だった。
その3回とも決着こそ付いていないが、武田は上杉にボコボコにやられてしまっていた。
ただし負けてはいない。
だが、何をどう間違って解釈したとしても絶対に勝ってはいないし、お世辞にも優勢に終わったとも言い難い有様であった。
「北信濃を諦めたかと言えば絶対に諦めておらぬでしょう。あの強欲の塊たる愚息ですからな。ただ、次も上杉相手に劣勢を演じては、もう武田は勢力として保てないでしょう」
武田は初期の頃には家臣の統率に苦労し、その隙を突かれたりもしたが、風林火陰山雷の戦法を取り入れてなお上杉には翻弄させられた。
「だからこそ、本願寺から援助を受けて信濃で上杉と決着を付けるのだ、との可能性も否定はしませぬが、愚息にとってもここが正念場であるはず。ならば、そんな危ない橋を渡る位なら、まず本願寺の威を借りて飛騨を制し力を蓄えた後での話では? と思った次第であります」
信虎の話は理に適っていた。
信玄の実父として、武田の前当主として、元戦国大名として甲斐の事情に詳しい信虎である。
今の威信を失いつつある武田の内情は手に取るように分かる。
その言葉は重く、説得力抜群であった。
斎藤家の家臣一同も同意した、よりも『やっぱりな』といった感情が強く出ていた。
「可能性の話で言えば、関東出兵もあるかもしれませんが―――」
信虎は他の可能性も話すが、帰蝶は聞いていなかった。
ようやく気が付いた衝撃の事実でソレどころでは無かったからだ。
《も、もしかして……この歴史の武田信玄は相当に侮られている!?》
《そ、そうみたいですね……ちょっとビックリです……》
その通りであった。
歴史を知る信長と帰蝶、ファラージャだけが武田の強さを、信長に至っては異常に警戒しているが、この歴史の人間にとっての武田の現在評価は相当低い。
何せ武田は小さい戦はともかく、大きい戦では目立った結果を残していない。
周囲もドン引きレベルの政治を行っておいて、成果は南信濃一帯をようやく制した程度だ。
上杉には軽く捻られ、織田との戦いでは飛騨侵攻に失敗した挙句、深志まで侵略を許してしまった。
深志への侵略は、本当は策による誘い込みであるのは関わった者なら周知の事実だが、事情を知らない他の勢力からの視点では飛騨侵攻失敗と撤退の隙を突かれた深志の戦いに過ぎない。
上杉の関東侵攻では北条への援軍を送ったが、活躍したのは今川義元であった。(164-2話参照)
そんな歴史改編の結果、世間の武田の評価はかなり落ちている。
信長転生当初の武田に対する評価は、間違いなく『あの今川と北条と五分の条件で同盟する武田』であった。
しかし今の評価は『何でか解らないけど今川と北条と五分の条件で結ばせてもらっている武田』との評価が主流だ。
甲斐と南信濃を治める強力な大名には違いないが、他の大物大名とは扱いに明確な隔たりがあった。
《あ、あれ? ひょっとして無理して武田と織田を縁組させる必要は無かった!?》
帰蝶は己の勇み足に気が付いてしまった。
帰蝶にしても信長が異常に恐れる光景を見ては窘めた。
恐れすぎだと。(116話参照)
だが、そんな帰蝶にしても歴史を知るアドバンテージが足を引っ張り、武田は強者と無意識に認識してしまった。
《い、一応、信忠さんと松姫さんの婚姻成就という歴史変化が目的でもありますから、無意味ではないですよ!?》
《そ、そうだったけど、五分の条件にする必要は無かったかもしれないわ!》
今川義元の無茶ブリに応える意味でも、歴史改変を狙う意味でも必要だった奇妙丸と松姫の婚姻。(164-2話参照)
『……。言っている意味が分かっているのか? いや、今更その言葉撤回は出来ぬぞ?』
世間はこの五分の同盟に驚くが、当の武田信玄も驚いた程だ。
同席した北条氏康、氏政、今川義元も当然驚くし、織田と斎藤の家臣さえも『譲歩しすぎ』だと思ったが、そこは主君の考えがあるかと考え黙っていた。
だが、今の武田の状態で、こんな好条件を提示するなど『尾張のうつけの妻もうつけか?』との噂も立っている程だ。
武田に対する評価は信長が最大として、帰蝶は若干落ちるが、世間は格段に落ちていたのを今知ったのだった。
余談だが、後世の歴史学者も帰蝶の判断ミスとして評価する動きが主流だ。
帰蝶は、認識を改め信虎の説明に聞き入った。
「―――そんな訳で、愚息の性格と甲斐の現状を考えれば、飛騨が一番可能性があると存じます」
信虎は甲斐の現状も説明した。
信虎自らも圧政だと理解しながら、それでも自らの首を絞める政治をせざるを得ない甲斐。
戦で然したる成果を挙げられていない武田の現状、威信を保つ為にも飛騨が一番可能性が高いのは納得するしかなかった。
「一応、最後に確認しておきます。左京(信虎)。それでも敢えて信濃に進軍する可能性はあるかしら? 上杉殿や朝倉殿に誤った情報を流す訳にはいかないですからね」
もう帰蝶も飛騨が危ないと認識しているが、これから他国との認識共有を図る上では最終確認は必要だ。
飛騨と信虎の確認を。
「例えばですが、飛騨侵攻を隠す為の信濃に向けた偽装出陣はあるやもしれません。ただ、本格的な北信濃侵略など愚息にそこまでの根性はありますまい」
信虎が憎しみのあまり嬉しそうに断言する。
その表情に帰蝶も苦い顔をする。
「……。気分を害したら御免なさいね? 左京。憎悪の感情を抜きにしたらどうかしら?」
義龍が健在で帰蝶がただの武将なら、こんな突っ込んだ質問はせずに、『信虎の様子がおかしいと』耳打ちするだけで済んだかもしれないが、斎藤家当主として気が付いてしまった以上、再確認しない訳にはいかない。
信虎の憎悪に巻き込まれ判断を誤る訳にはいかないからだ。
武田の評価には心が乱されたが、帰蝶はもうすっかり大名の姿を取り戻した姿となった。
「……ッ! 失礼しました。申し訳ありませぬ」
信虎は己の醜態に気づき謝罪した。
信虎にとって息子の窮地は蜜の味。
帰蝶の発する大名の圧に我に返り、年甲斐もなくはしゃいだ事を反省した。
「ただ、それでも不可能でしょう。某は腐っても甲斐の前支配者。あの地の特殊性は良く知っております。ならば愚息にはもう後が無いのは確実です。己より強い勢力など相手にできますまい。ならば飛騨です」
憎悪は憎悪として、それでも信虎は飛騨と断言した。
「流石は実の父ね。説得力のある推測だったわ。成程。本願寺の威光で一向一揆を取り込みつつ勢力を広げる算段ね……。うーん、武田の進路が飛騨だとしたら問題は大きいわね」
帰蝶自ら提案した織田武田の同盟が、斎藤家の動きに制限をかけてしまっていた事に内心苦い顔をする。
「武田が我らに手出ししない代わりに、我らも武田に手出しはできない……ですな」
その理由はついさっき氏家直元が口にしていた。
『武田は織田と結ぶ約束をしたばかり。斎藤はその仲介役。そんな我等に牙を向くとは流石に思えませぬ』
武田に襲い掛かられる心配は無用だが、それは織田との同盟仲介者として武田に襲い掛かれない事を意味する。
「こうなっては飛騨で武田とかち合うは必定。しかしお互い仕掛ける事は叶わず。なれば勢力的にも、地理的にも、戦略的にも、上杉殿に動いて貰う他ありませんな。まだ時はありますから対処は可能でしょう」
明智光秀が斎藤家として出来る事は他勢力に頼む事しか無いと判断した。
「そうですな。武田の進路は甲斐も含めて豪雪地帯。ならば対応を考える時は十分にあります」
側近の仙石久盛が答える。
「甲斐や信濃の山々をこの時期に超えるなど自殺行為に等しいでしょう。一向一揆攻略に不確定要素が入り込みますが、こんな時の為の連携同盟でもありましょう」
竹中重治が追認する。
「……そうね。我らも一揆対応で連携が必要な以上、不測の事態に備えてもらいましょう」
己の失策に動揺する帰蝶に反して、この次元の歴史的常識で生きる武将たちは冷静だった。
斎藤家が動けないなら動ける勢力に頼むだけである。
「では至急書状を朝倉殿と上杉殿に送ります。右門、墨と紙を!」
帰蝶は急いで2通の書状を書き上げた。
初めて斎藤家当主として他国宛に書く書状。
本来なら重圧と責任を感じながら書くのだろうが、緊急事態なので筆も荒い。
帰蝶は蝶と蛇を模した花押を最後に印し書状を完成させた。
後世において、焦った様子が伺える、歴史的価値が非常に高い帰蝶による自筆の書である。
「右門、これを朝倉殿と上杉殿に渡る様に手配しなさい!」
「はい!」
右門が駆け足で広間を退出する。
方針が決まり、場の雰囲気は覚悟が固まったピリついたモノとなる。
「皆の覚悟は決まっているようね?」
「はッ!」
「よし。ならば、先ほどは雪解けに向けて動くと言いましたが、それでは遅い! 我等だけでも先に動きます! 奥美濃に行き周辺を探り少しでも武田に先んずる! 軍は動かせずとも出来る事はやります!」
今回の一向一揆対応がどう転ぶかは武田の存在により未知数となった。
雪で軍が動けないのは仕方ないが、偵察は可能である。
その為の信長直伝の親衛隊が斎藤家にも存在するのだから。
「左京、半兵衛は改めて今回得た可能性から、起こりうる不都合と出来る事を協議します!」
「承りました」
「平右衛門、源太郎、十兵衛には先ほど領地の守備を命じましたが、変更される可能性を念頭に置いておきなさい!」
「ハッ!」
こうして斎藤家の方針は固まり、雪解けに備え武田を出し抜くべく動き始めるのであった。
169-3話はしばらくお待ちください。




