157-1話 若狭湾海上 陶晴賢
157話は2部構成です。
157-1話からご覧下さい。
【若狭国/若狭湾 尼子水軍】
(何故だ!? 斎藤はこの展開を読んでいたのか!?)
(信じられませぬ……! まさか遭遇戦に持ち込まれるとは! こんな読みは晩年の父元就でも出来るかどうか……!)
数ある安宅船の一隻に乗る陶晴賢と小早川隆景。
2人は信じ難い状況に唖然となり、しかし、それを軍目付に悟られない様に聞こえない様に話す。
晴賢の目には長い筒が手で添えられていた。
かつての主君である大内義隆が、フランシスコ・ザビエルより献上された遠眼鏡である。
2人の視線の先、遠くに見える若狭の陸が蠢いている。
勿論、蠢いて見えるのは陸ではなく、海岸で慌しく動いている斎藤軍である。
その遠眼鏡に映し出される風景は、陶、毛利にとっては非常に都合の悪いものばかりである。
(陶殿。如何される? このまま睨み合いでは主命に背きます)
(……。軍目付もいるから成果無しで撤退は出来ぬ。困ったな。元就公と互角か……。斎藤軍には信じ難い兵法者が居る様だな。読まれた奇襲に何の価値も無い。さて……どうしたものか……?)
晴賢は悩みつつも心が躍る。
かつて晴賢は自害寸前まで毛利元就に追い詰められた。(108-1参照)
元就が死して毛利とは紆余曲折あって昵懇となった今、その雪辱はもはや叶わぬ願いだが、その果たし先を、元就と互角の智謀を持つ斎藤家と定める。
晴賢は昨年末に下った、主君尼子晴久の命令を思い出す。
【昨年末 出雲国/月山富田城 尼子家】
尼子家の本拠地、月山富田城に尼子晴久他、陶晴賢、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景が集まり軍議を行っていた。
『尾張守(陶晴賢)に対し申し付ける。船団を率いて若狭に向かい港を破壊せよ。毛利にはその補佐を申し付ける』
『港を破壊……? 若狭国と言えば斎藤。斎藤への牽制……? いや、これは……六角の援護の為ですか?』
主君の唐突過ぎる命令に、陶晴賢が考えられる可能性の一つを述べた。
『ほう? 鋭いな尾張守。若狭への攻撃から六角の援護を読むとは流石だ』
陶晴賢は、尼子家に敗れて従属した身であるが、毛利への降伏勧告成功の功績により何かと重用されている。
今回もその手腕を期待されての命令であった。
『六角が朽木を残して近江の拠点から叩き出されたのは知っての通り。じゃが、この残った朽木が六角、斎藤双方にとって急所になりうる厄介な地じゃ』
晴久は地図を示しながら説明する。
朽木は京に対する楔になるし、北近江の喉元に刺さった棘でもある。
斎藤家として放置したままに出来る土地ではないのは、この場に居る武将ならば実際の土地を見ずとも、図面だけで十分感じ取れる実力がある。
『斎藤、それに同盟国の織田は専門兵士を揃えておる。次の農繁期には残した仕事を完遂する為に必ず朽木を攻めるだろう。だが、そうはさせぬ』
『成程。そうはさせないが、かと言って六角には余力が無いし朽木に直接の干渉は不可能。それ故の若狭湾攻撃ですな?』
小早川隆景が今気が付いたと言わんばかりに納得する。
主君を立てる為に。
晴賢は今が売り込み時なので智謀を隠す必要は無いが、己はまだ出しゃばるには早いとの判断だ。
ただ、主君を立てるが、晴久の計算に感心したのは本当である。
『まさにその通り。朽木に兵を送る道は存在しないが、朽木を守るに朽木で戦う必要も無い。朽木に辿り付かせなければ良いのだから。後はそうだな。若狭が危険な水域となれば商船も寄り付つかなくなる。三好を援護する織田斎藤の首を絞める事もできよう』
尼子晴久は遠く中国地方に居ながら、近江周辺の凡その状況を掴んでいた。
流石に完全把握とはいかないが、多少の齟齬があったとしても大筋の結果は変わらない。
まさに中国地方の覇者として君臨するに足る眼力であった。
『我等は天下を目指しておるが、その障害は京に居座る六角ではなく三好じゃ。寧ろ六角は座して死を待つに等しいが、なればこそ生かして三好の背後に居続けて貰った方が価値がある。その為にワシは奴に援助を申し出る。尼子が京に達した時の明け渡しと我等への臣従を引き換えにな』
『そう言う事でしたか。六角は勢力を保っているのが不思議な状態と聞きまする。しかし、その要請を受け入れるでしょうか?』
吉川元春が顎に手を当て考える。
こんな屈辱的な扱いを受けるなら、己なら玉砕覚悟で死に花を咲かせるだろうと思う。
なお、現在の毛利家も中々に悪い扱いではあるが、それは元就の策の内なので例外である。(137話参照)
『別に断るならそれでもいい。滅びるだけじゃ。じゃが、十中八九受け入れるじゃろう。舞い降りた希望の糸じゃ。生き残りたいなら罠と分っていても掴まざるをえまい?』
事実、六角義賢は尼子の提案を神仏の加護に準えて喜んだ。(152話参照)
『確かに。それに他に助かる手段があるのに死を選ぶ御仁であるなら、当の昔に近江の地で既に滅んでおりましょう。それに、仮に本当に我らの救いの手を払ったとて、六角を存在させる価値を考えれば、朽木攻略妨害は意義がありますな』
毛利隆元が主を褒めつつ、その眼力に恐れを抱く。
一応、元就の策で尼子に従っているが、晴久の冴えは半端では無い。
この中国地方の覇者の睨みを避け、獅子身中の虫として潜むのは骨が折れるどころの話ではないと感じた。
『しかし懸念が一つ。三好も若狭の隣国である丹後に強い影響を及ぼしています。丹後一色家は一応の勢力はあれど、隷属同然で従っているとの事。丹後周辺の海域を通過するのは、特に若狭に辿り着いた後、帰還路に蓋をされる恐れもあります』
腹に一物ある毛利家として、捨て駒にされる様な戦略には従いたくない。
隆元は晴久の機嫌を損ねない様に慎重に尋ねた。
『お主の懸念は分かっておる。任せておけ。ワシが軍を率いて長慶の妨害を許さぬ様に立ち回る。一色への工作と同時期に陸側で三好と対峙するからな。これで妨害があったとしても本腰は入れられまい。元々三好相手だけなら尼子本家の力だけで能う。中国地方を制覇したからこそ若狭への攻撃が可能な二面作戦よ』
そこまで語った晴久が、間を置いて陶、毛利の面々を睥睨する。
眼光は極めて鋭い。
『その上でだ。若狭を攻撃し帰還が出来ぬならお主らに存在価値は無い。……当然分かっておるな?』
『……!!』
冷酷な様だが、これが従属をせざるを得ない家の弱みである。
弱者は命を途して己の価値を示さねばならない。
これは尼子家だろうが三好家だろうが、それこそ織田家でも同様だ。
『……成る程。承知しました。仰る通りここで役に立たねば我らに価値はありますまい。必ずや存在意義を示し、尼子家に必要な人材と証明して見せましょう』
晴賢は大口を叩いた。
しかし体に脂汗が滲む。
本来、軽弾みに約束できる内容ではない。
しかし、この場で『無理』と言えば、それこそ尼子家からの扱いが悪くなる所か粛清の対象にすらなり得る。
一族の旧新宮党を粛正した晴久であるからして、決して脅しだけでは済まない。
陶、毛利両家とも覚悟は備えていたが、更に背水の陣で挑まねばならない事を十分に察し、晴久は陶、毛利両家から無理やり覚悟を引き出した事に満足する。
『よし。では改めて申し付ける。斎藤、織田が専門兵士を揃えている以上、次の農繁期に再度攻めるだろう。陶、毛利の両家で若狭を攻め立てて朽木攻略を妨害せよ!』
【現在 若狭国/若狭湾 尼子水軍】
苛烈な主命を思い起こした晴賢と隆景。
非情にマズイ展開故に眉間に皺が寄る。
(読まれた奇襲には価値はありますまい。ならば撤退するのも手ですが、尼子家の軍目付がそれを許さぬでしょう)
(そうだな。仮に目付を無視して撤退しても、目付けから報告を受けた晴久からの制裁が待っているからな)
晴賢が如何に重用されていると言っても、尼子家の内部に食い込んでいる訳ではない。
尼子家一族が会社の経営陣とするなら、陶家、毛利家は精々が派遣社員か、どんなに良くても係長が限界で、並みの手段では決して経営陣には食い込めない。
従って、尼子家にとっては手足となる存在だが、不要なら容赦無く切られる存在である。
(船の総力戦ならば分がありますが、こちらは帰還も計算しなければなりません。対してあちらは湾内に居座るだけでも成果がある上に、陸兵も多数配置している模様)
(全くもって忌々しい。この用意周到さ。若狭攻撃を読んでいたとしか思えぬ。斎藤義龍の知略侮り難し)
(某も智謀には自信がありましたが、今回の奇襲を察知できる智謀を持つ者が居るとは思いませなんだ)
晴賢と隆景は、止むを得ない勘違いをしている。
まず、察知したのは義龍ではなく信長であり、義龍はそもそも参陣していない。
更に、誰よりも早く察知したのは、弱冠13歳の斎藤龍興、と言う事になっている。
(しかし、奇襲は失敗として報告する事に問題はあるまい。事実は事実であるし誰の責任でもない。だが、やれる事をやらないのは怠慢よな)
(それは?)
(まず、船の数は此方がやや勝る)
陶、毛利両家は尼子家の支援も受けつつ、安宅10隻に関船50隻を用意した。
小早も20隻程用意したが、これらは戦力としては数えていない。
船の操作運航を担当する非戦闘員を除くと、純粋な戦闘員3500人が今回の若狭遠征軍になる。
(対して斎藤軍は良くて我らの7割程。問題なのは陸に近付き過ぎると小早に取りつかれる。これは避けたい)
船の戦は陸よりも戦闘形態の切り替わりが激しい。
基本は遠距離からの弓矢鉄砲の応酬だが、接舷した瞬間、移乗攻撃となり途端に乱戦となる。
接舷移乗攻撃とは、敵の船に乗り込んでの近接攻撃であるが、狭く揺れる船内での立ち回りは陸専門の兵には到底実行不能の海賊たる海兵しか行えない。
戦国時代の戦船は大まかに分けて3種類。
現在の軍船に例えるなら―――
戦艦に相当する安宅船。
巡洋艦に相当する関船。
駆逐艦に相当する小早。
ただし、例えば安宅船が現代の戦艦と同様の戦いをするかと言えば、そうではなく、あくまで規模と大きさから現代の戦艦に無理やり当て嵌めただけで、それぞれが同じ役割だと断言する訳ではない。
安宅船は大型鈍重だが、戦闘員の多さと、高さを活かした攻撃力と、楯板装甲での防御力を兼ね備える。
関船は安宅より小回り機動力を備えた戦船で、通常の攻撃は当然、速度を活かした接舷移乗攻撃なども行う。
小早は小型快速だが、防御力皆無であり小型故に戦闘員も少なく、一撃離脱や攪乱、奇襲、伝令偵察を主目的とする。
その上で、晴賢の懸念は、敵の小早を活かす機会を作ってしまう事であった。
船底に取りつかれて破壊工作でもされては帰還も危うくなる。
(確かに。ならば、陸に接近せず、かつ、敵船の船だけを射程に収める距離に近付くだけなら数の利を活かせますな、それに、斎藤軍がここに集結しているならば、尼子の目的としては達成しているとも言えましょう)
理由はどうあれ、斎藤軍が集結している以上、朽木の防衛策は成っている。
なお、斎藤軍が朽木攻略に明智光秀を派遣した事は知らないが、陶、毛利としてもそこまで策の成就は責任は持てない。
あくまで、朽木攻略を妨害する為に若狭に来た。
その策に掛かるかは相手次第である。
結果としては、9割は成功したと言えるが、斎藤軍が朽木攻略を諦めなかったのは結果論であろう。
(うむ。従って、若狭湾攻撃は折を見て諦める。敵船を適当に破壊して終了としよう。深入りし過ぎては帰還も叶わぬ。ボヤボヤしていては帰還海路を三好に塞がれる恐れもあるし、上陸出来たとて孤立して後も続かぬしな。……よし!)
「船頭! 潮の満ち引きはどうなっておる?」
「へい! 今は潮が満ちていやすが、もう二刻以内(約4時間)には引き潮に変わりやす!」
「厄介な潮目はあるか?」
「この季節とこの地点なら特に問題はありやせん。ただ、陸に近づきすぎると思わぬ潮目に引っ掛かるかもしれやせん。あと帰還する時は海流に逆らう事になりやすので、被害が大きいと苦労する事になりやす!」
船頭の言う海流とは対馬海流で、日本海側九州北部から東北地方に流れる海流である。
「波風はどうだ?」
「この時期は夏に向けて波が穏やかになりやす。ただ今日は珍しく陸に向かっての風が有りますが、いつ風向きが変わるかは断言が難しいです。今の現時点に限って状況は有利ですが、この後も絶対に有利とも言えやせん! あるいは急に波が立つ事がありやすんで油断はしないでくだせえ!」
日本の海は、夏に波が大きいのが太平洋側、小さいのが日本海側となる。
勿論、日によって、あるいは地形や波の重なりによって例外はあるが、夏の日本海は比較的穏やかである。
冬になるとは波の荒さは逆転するが『夏だから荒波にならない』と言う訳ではない。
例えば、某映画会社の岩に打ち付けられる波の映像は日本海ではなく、思いっきり太平洋側は千葉県の犬吠埼だそうで撮影時期は穏やかとされる冬らしい。
何事も例外はあるのだろう。
「成程……」
晴賢は考え込んだ。
陸ならば考慮しなくても良い千変万化の潮目が故に、タイミングを誤ると陸なら単独で逃げれば助かる可能性のある壊滅も、海上では正真正銘壊滅する恐れがあるのが海戦の難しさであろう。
「如何されます? 遭遇戦とは言え、それでも準備も陣形も万全な我らに対し、敵は出航こそしているものの陣形は取れておらぬ模様」
隆景が最終確認を取る。
確認を取ると言いつつ、暗に『攻めるは今』と眼は語っていた。
「……よし! 数で勝るなら勝つのが道理。潮の満ち引きに合わせ、攻撃し撤退する。船頭は引き潮に変わったらワシの合図を待たず撤退の合図を鳴らせ! 他、波風に変化があれば随時知らせよ!」
「へい!」
晴賢にしても潮の満ち引きを読む事は出来ない。
ならば餅は餅屋。
専門家に任せるに限る。
「治部殿(吉川元春)の船を先頭に敵船を射程距離ギリギリに収めるまで進む! 次の合図があるまで隊列を乱さず櫂を漕ぐのだ!」
晴賢は進軍を命じた。
元々は奇襲にて湾に被害を与えて、朽木攻略どころでは無い状態にするのが目的である。
斎藤軍を引き付けられたのなら、それはそれで目標達成でもある。
ただし、晴久の狙いとは若干逸れている。
その逸れた狙いの埋め合わせをするべく、晴賢は斎藤水軍に戦いを挑む。
こうして史実には無かった尼子との戦いが、しかも海で始まる事になるのであった。




