147-2話 八つ目の関門 高島急襲遭遇戦の決着
147話は2部構成です。
147-1話からご覧下さい。
近江南から帰蝶達が高島に辿りついた時の話である。
【近江国北西/高島 安曇川下流】
帰蝶と共に高島に上陸した北畠具教、柴田勝家、塙直政。
彼らは周囲の安全を確認すると、甲冑を脱ぎ捨てた。
少しでも馬のスピードを上げる事、顔を晒してこの場に居る筈が無い人間である事を、少しでもアピールする為である。
特に、帰蝶は女ながら武芸に明け暮れ最前線で戦う独眼姫の異名を持ち、他の3人は織田軍の中でも五指に入る帰蝶を上回る武芸の達人である。
下っ端の兵士に至る迄、その顔を知らぬ織田兵は居ない。
この極限の危機に至っては、顔を遮る兜は邪魔である。
『濃姫様は一番身軽なれば、安曇川を上流へと遡り、周辺の軍に危機を伝えなされ!』
『はい!』
具教がテキパキと指示を飛ばす。
今この場において、一番指揮戦術眼に優れるのは具教である。
『柴田殿、塙殿、ワシは琵琶湖からも確認出来た戦場へと行く!』
『承った!』
『任されよ!』
勝家と直政が力強く答える。
『誰が殿の軍に辿り着けるか分らぬが、辿り着けなかった者は、各軍の大将に現状を報告し、殿の居場所を聞いて誰かが殿の下に馳せ参ずるのだ!』
具教の指示の下、北畠具教は明智軍に、柴田勝家は京極軍に、塙直政は佐久間軍に、斎藤帰蝶が信長軍に辿り着き、それぞれが緊急事態を告げた。
報告を受けた諸将の衝撃と驚きの顔は、後世に伝わる資料にも書き記される程であった。
信長に至っては、邪悪な笑みと悟りを開いた顔が入り混じった形容し難い顔とも伝わっている。
塙直政が最初に合流したのは、顔見知りの佐久間軍であった。
また運良く、一番信長軍に近い場所に佐久間軍が居たお陰でもあった。
直政は佐久間軍から素早く動ける兵を借りつつ、己は一目散に大混乱の信長本陣に駆け込んで来て目撃する。
帰蝶が絶体絶命の危機に陥っている姿を。
(濃姫様! あれは誰だ!? あの方に膝を突かせるとは!)
これは帰蝶が地面に這い蹲った状態から、流星圏を投げ付けた時の事である。
直政も訓練では帰蝶を圧倒している。
帰蝶の嵐の様な攻撃を凌いで一本打ち込める技量はある。
しかし、所詮は訓練であり本番では無い。
殺気は本物でも、武器は安全を考慮した物である。
見知った顔の相手に対する何らかの感情もある。
だから、誰も帰蝶と『試合』とは違う『死合』を行った事が無い。
どれだけ帰蝶が殺気を放出し様とも所詮は『試し合い』である。
『本気で殺しあったら勝てるのだろうか?』
これが帰蝶より武芸が勝る者達の、共通認識であった。
十中八九勝てるとは思う。
だが『無傷は当然、五体満足で勝てるだろうか』と考えれば『無理かも知れない』と思い至る。
それ程迄に帰蝶の殺気は説得力がある。
だから各々は、その不安を払拭する為に鍛錬を怠らないのである。
それなのに、そんな帰蝶に対し、甲冑を付けていないとは言え、膝を付かせる猛者が居る。
直政が衝撃を受けるのも当然なのであろう。
また、自分も甲冑を付けていない。
今、何の工夫も無く加勢に向かっては、2人揃って討ち取られるだけである。
(頼むぞ濃姫様! 堪えて下されよ?)
だから直政は混乱する本陣で色々準備をして、直経の背後に忍び寄った。
あわよくば槍で首を刺し貫く為に。
帰蝶が今まさに討ち取られるその瞬間、直政は槍を構え首を狙う。
錏に守れた首を貫くには下から突き上げる必要がある。
だがここ迄だった。
直経が異変を察知し、素早く帰蝶の背後に回り込んだのである。
『動くな!!』
『チッ! このまま後ろから貫いてやろうと思ったのにのう?』
【織田信長軍前線】
細川晴元ら信長に向かって突撃する一団は、一歩一歩着実に信長を狙える位置迄に接近する事に成功していた。
むろん、多大な犠牲を払っての事である。
馬を操れる程の腕の立つ武者は義輝と共に太山寺城からの迂回軍に配属されたので、今残っているのは、そこ迄戦える武者では無い。
一歩進む毎に削り取られる様に倒れていく。
それでも近づいた。
人影で見えたり見えなかったりの信長も、今はハッキリと見える。
見えるからには弓で狙える距離である。
「治部殿! 指揮を頼みます! ワシは信長を狙う!」
言うや否や晴元は弓に矢を番え射撃体勢に入る。
晴元の弓の腕前は足利軍№1である。
これは本当に直経も適わない腕前で、もう本当に最後の最後、土壇場も土壇場で掴んだ勝利の瞬間である。
「織田殿! その命貰い受けまする!」
涙で滲む眼ではあるが、それでもハッキリと信長を補足する。
「ッ!?」
その瞬間、晴元は信長と視線が合ってしまった。
その距離50m。
晴元なら外さない。
「いざ!」
晴元の放つ様々な思いが乗った矢は、全ての兵の間をすり抜け、信長に吸い込まれる様に迫り―――叩き落された。
「お待たせしましたな! 殿! ワシ以外の者に討ち取られるなど許しませんぞ!?」
現れたのは北畠具教であった。
刃を一閃させ、信長への攻撃を叩き落したのである。
「良く来た!」
「権六殿も参っております!」
見ると、勝家は側面から騎馬を引き連れて突撃を開始していた。
戦死した兵から奪ったのか、貧相ではあるが胴丸を身に着けている。
無いよりマシな分、乱戦に飛び込んで瞬く間に晴元軍を蹴散らしていく。
「クッ!! 高島の軍が間に合ったのか!」
具教や勝家が琵琶湖を縦断した事を知らない晴元は、仕方いとは言え勘違いをした。
続けざまに第二、第三の矢を放つが、必殺必中で万感の思いを込めた第一矢には遠く及ば無い、何の執念も乗っていない、ただ放たれただけの矢では信長の命には到底届か無い。
簡単に具教に切り落とされる。
「柴田殿! そこに大将がいる!」
具教の指令を受けた勝家が、晴元ら決死隊の側面を突く。
「こ、こんな所で! ワシは若狭に―――」
「ぬんッ!」
武田義統が絶叫しながら勝家に飛び掛かり、鎧と草摺の間を刺し貫かれて果てた。
一応義統は、鎧と草摺の下には鎖帷子を着込み、帯で頑丈に巻いて固めていたが、勝家の腕力の前には無力であった。
勝家は義統の体から槍を引き抜くと、血に濡れた穂先を晴元に突き付ける。
「細川殿とお見受け致す。抵抗は無駄と心得よ」
閻魔の如き勝家が晴元に宣告を下す。
八つ目の関門は開かなかった。
完全に勝負ありであった。
「フフフ……。あの柴田殿に勝てるとは夢にも思わぬよ。我が首取って武功とせよ」
そう言って晴元は兜の紐を切り落とす。
兜が地に落ち素顔が露になる。
「……? 某を知っている口振りですな……?」
「そりゃ知っておるとも。あの猛将柴田に伊勢の雄北畠。短い期間ではあったが、共に飯を食い訓練に明け暮れたのだからな」
そう言って晴元は軽く笑った。
その姿に管領としての威厳や品は感じない。
代わりにどこかで感じた事のある、極めて自然体の晴元の気配が現れ始める。
「……一体何を? ……え? ……あッ!? そ、その顔、その雰囲気は……川元晴乃介か!?」
憑き物が落ちたかの様な晴元の佇まいに、勝家が記憶に残る顔と一致する人物を思い出した。
「えっ?」
具教も突然出てきた、勝家の発する懐かしい名前に狼狽え、ある光景がフラッシュバックの如く蘇る。
「あッ!? じゃ、じゃあ、あの時あの場所に居たのは、将軍と管領!?」
あの時、あの場所とは『那古野』を『人地』と改めた時である。(74話参照)
あの時、具教の父晴具だけが気が付いた。
織田の宴会の場で、末席で貧相な着物で食事を取る2人を。
ただ、流石に本人達が居るはずが無い、晴具の勘違いだと結論付けた。
勝家も具教も、極めて短い期間ではあったが、義輝と晴元に、正体を知らないまま訓練を施した事がある。
若いが荒々しい義輝こと藤次郎に、年齢相応に落ち着き上品なのに何故か親兄弟でもない藤次郎に従う晴乃介の関係を不思議に思ったモノだが、今、全ての合点がいった。
「と、殿、如何致しましょうか? 何か思惑があったのは理解出来ますが……」
例え相手が将軍と管領の軍でも、2人を討ち取るつもりで駆け付けた勝家と具教だが、意味不明な事情が感じられる事態に指示を仰ぐ。
このまま討ち取って良いのか、流石の勝家も具教も迷う。
「そうか。そうだったな。誰にも正体を告げていなかったな。積もる話もあるかも知れぬ。捕縛せよ!」
戦の流れで晴元が討ち取られてしまったなら仕方ないが、生き残ったのなら聞きたい事は山程ある。
この高島の戦いとは何だったのかを、ちゃんと解明せねば次の戦略も練られないのだから。
「勝鬨を挙げよ! 良くやった!」
信長は、様々に複雑な要因が絡まった、当初の想定とは全く違った人生最大の危機を脱したのであった。
【織田信長本陣 後方】
信長が向かった前方から、織田軍の勝鬨が上がる。
勝負が付いた様であった。
前方には細川軍も居るので声だけで断定する事は本来不可能だが、それでも織田軍が勝ったと雰囲気で分かる程に、現場の空気は変わっていた。
「遠藤殿。どうやら勝負は決した模様ですな。其方の負けです。濃姫様を解放なさるなら命の保証は致しましょうぞ?」
直政が槍を担いで、とりあえず戦闘の意思を下げた。
この頃には本陣の混乱も収まり、義輝の奇襲軍も高島から駆け付けた援軍によって、散り散りになって居た。
一方で、直経は帰蝶の首に槍を当てたまま、織田軍に包囲されて居た。
「一つ聞いておきたい。帰蝶殿。まさかこの展開を待っていたのか?」
「……えぇ」
帰蝶は直経との戦いで次善の策として、自分で勝てないなら勝てる人を待つしか無いと思っていた。
とは言え、ただ死なない為に粘った訳では無い。
あく迄、目指すは勝利である。
いずれにしろ遠藤直経は、並大抵の武将では無い。
必死に戦わなければ、即絶命する緊張感の中、時間稼ぎを意識しては戦えるモノでは無い。
それに、いつ援軍が到着するかは分からない。
塙直政がここに駆け付けるのは未知数である。
運は当てにしたが、あく迄も勝つ為の努力が偶然実っただけだ。
「そうか。何とも天晴れな事よ。帰蝶殿とは四半刻にも満たない邂逅であったが、ワシの中での評価は鰻登りよ」
「……光栄です」
「だが! 若も将軍も居ない今、某に帰る場所は無い! このまま華々しく散るのも一興よな!」
直経は獰猛な笑みを見せる。
その笑みは、この場にいる全員が飲み込まれそうになる程、覚悟と殺意が感じられる危険な笑みであった。
包囲している現状で直経を討ち漏らす事など流石に無いが、討ち取った後を生きて迎えられるかどうかの保証が全く無い。
死ぬ事を覚悟した武将は、極めて危険な猛獣と何ら変わりは無い。
「こりゃ参ったな……。遠藤直経。これ程の武将であったか」
そんな直経の覚悟に、直政は手段のランクを一つ下げる事を決意した。
即ち、卑劣な手段である。
「仕方ない。気持ちの良い手段では無いが、そうも言っておれん。連れて来い!」
直政の声に反応して、一人の武将が引っ立てられて来た。
浅井輝政であった。
「……何!?」
「済まぬ……喜右衛門……」
そこには討ち取られたと思っていた浅井輝政が、捕縛されたまま直政の傍に連行されて来た。
「若!!」
「濃姫様を手に掛ければ、この若武者も将軍も殺す。……卑怯とは言ってくれませぬな?」
直政が帰蝶と直経の戦いの間に用意したのは、この2人であった。
義輝はまだ気を失っているが、輝政は流星圏で捕縛されただけである。
つまり直経にとっては、絶対的な切り札になる急所である。
戦場に卑怯もクソも無い。
そんな手段があるなら率先して取るべきである。
「生きておるのか!? 討ち取ったと叫んでおったではないか!?」
一方、直経は足元に伏せている帰蝶に問い質す。
直経が信長本陣に現れて、帰蝶との戦いでも、決着を付けて包囲された後でも尚、優勢な立場を崩さなかった直経が、今初めて気配に揺らぎを見せた。
「……討ち取った訳ではありません。打ち取っただけです」
帰蝶は地面に這い蹲って、呼吸が苦しい中で何とか答えた。
「言っている意味が分からぬが!?」
帰蝶は『討ち取る』と『打ち取る』を生死の違いで考え使い分けた。
実際『討つ』は滅ぼすの意味で、『打つ』は叩く意味がある。
だが、そもそも紙面で会話している訳では無い。
従って耳で『ウチトッタ』と聞こえれば、普通それは死を意味する。
だから当然ではあるが、帰蝶の咆哮を聞いた信長も晴元も、輝政、義輝は死んだと勘違いしている。
「何やら行き違いがあった様ですな? さぁ、判断や如何に? 濃姫様を手に掛けるのであれば、望み通り貴殿の最後の花道として我等でお相手致そう!」
そう言って直政は槍を構え直した。
「……ッ!」
一目で使い手と理解出来る直政の佇まいである。
最低でも己と互角であろう事は察せられる。
しかも包囲されている上に、輝政の生存を知って闘志が萎えて行くのも感じていた。
「……若が生きているのに、将軍の為に死んでやる義理も無い。参った。降参じゃ」
直経は槍を放り投げ、刀も投げ捨てた。
脇差で甲冑の紐を切り自ら武装解除し、最後に脇差も放り投げ帰蝶から離れて座った。
「良い判断です。遠藤殿を丁重に捕縛せよ! 濃姫様を介抱せよ!」
こうして、期せずして前々世も含めて信長最大の危機となってしまった高島の戦いは、辛うじて織田軍の勝利で終わったのであった。




