外伝40話 北条『限界と臆病の先へ』氏康
外伝39話直後の話になります。
【1557年 尾張国/北条涼春軍】
「さて、三好との結びつき、硝石の情報と破格の成果を挙げたが、ここまで来たら貪欲に狙うか」
「貪欲? 何を狙うのですか?」
三好との密約、織田の硝石と大きな成果を上げた北条綱成と北条氏政。
幸運にも織田はその軍勢の大半を飛騨に派遣しており、その留守を預かる事になったのが北条涼春の夫である今川氏真で、更に強運な事に、どう言う訳か妻の涼春も軍を率いる立場になっていた。
この僥倖を、ここで打ち切るのは勿体なさすぎると、綱成は判断した。
「織田と武田の行く末じゃ。いつ本格的に争うか分らぬが、今川軍は準備しておると聞く。決戦は近かろう」
現在、織田は飛騨で武田を跳ね返し、信濃に向かって進軍中である。
今川家本体は、どんな状況でも対応出来る様に、三河に集結し待機中だ。
「長く北条本家を空けたくは無いが、ここは残って今川軍に紛れて活動すべきであろう。いざ決戦の折には殿も武田の援軍に行く予定。何か援護できる情報を得たい」
だが、残念ながらこの狙いは大した成果を得られなかった。
得られたのは、一部分ではあるが石畳にて舗装された道と、何故か武家の者が運搬している稲の苗であった。
石畳の舗装された道には北条一向は感心せざるを得なかった。
土の道、砂埃の舞う道、雨でぬかるむ道の常識が木っ端微塵に吹き飛ぶ衝撃である。
ただこれは遅かれ早かれ伝わる情報であり、思いついてしまえば誰でも実行できる。
しかし、運搬される稲の苗は意味が分からなかった。
「今、武家の者が何やら植物を運んできたが、あれは一体何なのかのう?」
警備の担当の今川軍に紛れた綱成と氏政は、農民出身の兵を装って農民に尋ねた。
「あぁ、これは織田の殿様が配給している苗だよ」
「配給? なぜ?」
「さぁ? それはオラにも分からんけども、この苗は病害に強く実りも良く、良いこと尽くしだぁ」
「ふーん。詳細は分からぬと」
種籾の水選別は、この時点では武田に漏洩した以外、手法も謎の技術である。
信長にごく近しい者しか意味も分からぬ技術なので、北条一行や風魔忍者にも、警備の片手間に詳細をつかむ事はできず、織田武田の決戦後、信長から氏真に伝えられた情報が涼春に漏れ、その涼春からの情報で『あの時の苗の事か!』と後に合点が行く事である。(131話参照)
「戦も近い。動ける内に何か土産になる情報を得るとするか」
綱成と氏政は、敵国の治安維持に精を出しつつ、情報を集めるのであった―――
【信濃国/北条氏康軍】
ついに激突した織田と武田の決戦。
予定通り飛騨から武田軍が撤退する手筈で、またそれが順調だと情報を入手している北条氏康は自ら援軍として信濃に陣を構えた。
「此度の戦、嫌な予感が拭えぬなぁ。いや、良い予感がある戦場の方がどうかしているか?」
氏康は嫁がせた北条涼春、派遣した北条綱成らから寄せられた情報を反芻していた。
その中でも一際大きな問題である三好長慶の要請。
『さて北条殿への要請だが、中立を貫いて貰いたい』(外伝38参照)
「三好派として今まで通り中立を貫けと来たか。この戦いが終わったら機を見て上洛せねばなるまいな。その為にも判断材料は沢山拾わねばならぬ」
綱成と氏政、氏照が密会の後に受けた要請は『今まで通り中立』であった。
味方を増やしたいなら頭を下げてでも頼み込みたいのだろうに、自らは『別にどちらでも良いぞ?』とでも言いたげな態度は三好長慶のプライドなのか、余裕なのか、虚勢なのか、戦略なのか、実物を見なければ判断は付けられないと思った。
「三好は何か思惑があるのだろうが、中立の許可は得た以上遠慮はせぬ。立場を貫けと言うなら希望に沿ってやろう!」
この戦場、即ち飛騨信濃の戦い(121-125話参照)は、織田信長と武田晴信の思惑から始まり、長尾景虎の思惑で全てが大混乱に陥るのであるが、当然、北条氏康にも思惑はある。
この世の中、世を統べる方策と道筋を見つけたい思惑が。
同盟者の要請だから戦うなど、そんな次元の低い戦いは氏康の中ではもう出来ない。
三好と天下を意識した以上、出来る物ではない。
もちろん、表面上は要請により出陣した律義者を装うが、中立として北条は独自に意思をもって動く。
つまり、武田に与し織田を殲滅するのも自由であるし、武田が情けない戦いをするなら寝首を掻く。
氏照を人質に取られた弱みは一応あるが『中立で居ろ』と言われたならば自由に動くだけである。
その結果、三好派が衰退しようとも、氏康には与り知らぬ所である。
「さて晴信の策が順調なら今頃、織田の連中を引き付けているはずだが? ……噂をすれば影ってのは本当じゃな」
遥か遠方に淀みが見えた。
氏康の的確な読みが故に噂の影が見えたのであるが、宗教が絶対の世界では、これも一種の言霊や霊的な現象なのであろう。
「あれは弟の信繁軍だな。予定通り敵を引き付けて深志城に向かっておるな。まずは第一段階は成功と見てよかろう」
武田晴信の策の全貌は、飛騨で偽装撤退をし、織田連合軍を堅牢な飛騨の城から引きずり出し、信濃の深志盆地にて一網打尽にする事になる。
織田連合軍は武田に北条が与しているのは把握しているが、長尾家までは把握していなかった。
武田、北条、長尾による一斉包囲攻撃である。
どんなに悪い結果であっても織田連合軍は大打撃、うまく行けば、この地で息の根を止められるかもしれない。
「三好の要望通り我らは中立だからな。そういう結果になった所で仕方あるまいなぁ」
だが、この戦略予想は覆される事になる。
敵の奮戦によってでは無い。
よりにもよって味方のチョンボによって。
「ご注進!! 長尾が、長尾が抜け駆けをしております!!」
「何じゃと!?」
北条氏康には独自の思惑があったが、長尾景虎の抜け駆けによって、その思惑は木っ端みじんに砕かれた。
賢い者、特に将来をも見据えた戦略を考えられる頭脳を持った者は、より大きな戦略で動くのであったが、この戦場で一番大きく広い戦略眼を持っていたのは、織田信長でも武田晴信でも北条氏康でもなく、長尾景虎であった。
「抜け駆けだと!? 馬鹿な! これでは一斉包囲もままならぬ! 油断を誘う事も出来ぬ! 何を考えておる!?」
景虎の戦略を知らない氏康には、功を焦った暴走にしか見えない。
当然ながらそれは違う。
長尾景虎は独自の目的で、三好と接触し、本願寺を動かし、武田の飛騨侵攻を止め、飛騨での一向一揆を誘発させ、織田連合軍をこの信濃の地から逃がし、飛騨の争いに巻き込みたい思惑がある。
その戦略を成就する為の偽装抜け駆けである。
その後、遅れて深志に到着した武田晴信軍と、追ってきた織田信長と朝倉宗滴軍は、両者共に予想外の戦場に驚き、結局、先に到着していた織田信秀と斎藤道三軍を信長と宗滴が逃がしつつ飛騨に撤退する。
その際、爆裂する玉により武田の騎馬隊が足止めされる事になるが、更なる追撃はやろうと思えば出来たが結局追撃は中止となった。
長尾景虎が、太々しいにも程がある態度で戦場を混乱に陥れたワビをするでもなく、いや、正確にはワビているが、とてもそんな殊勝な態度には見えず味方として信頼できなかったからである。
【信濃国/武田晴信軍本陣】
武田晴信の本陣で、晴信、長尾景虎、北条氏康がこの後の対応を協議していた。
協議というか、長尾景虎追及の場となっており、景虎も抜け駆けは申し訳ないと謝罪釈明する。
謝罪釈明するが―――
飛騨で一向一揆を発生させ、織田を窮地に陥れるのが目的と言わんばかりの釈明になっていない釈明を宣う。
余りに余りな釈明に晴信は怒りで口が回らないが、この戦の主役ではない氏康は幾分冷静に判断する事ができた。
「……そうか。織田連合軍は殆ど専門兵士しか居らんらしいな? 江間や三木は農兵かもしれぬが、此度は戦の殆どを連合軍に任せておったのじゃろう。従って一揆に加担する民は飛騨に溢れておったわけじゃな?」
氏康は今回のカラクリの一端を掴んだ様である。
「流石相模殿。その通り。甲斐殿も織田も飛騨の民に隙と一揆の口実を与えてしまった訳じゃ。織田としてはこんなハズでは無かったのであろう。しかし強い国特有の力を持たぬ者の実情を図り損ねた事が最初の失敗じゃろう」
景虎の言い分には腹も立つが、それよりも余りに壮大で迂遠な策なのに成功に導く戦略眼には、氏康も舌を巻く思いであった。
(コイツ! こんな一歩間違えば破滅しかない策を描いて何が目的なのじゃ!? 足利将軍家の再興!? そんな戯言信じられるか!)
景虎は将軍家を建て直すと言っているが、言ってる事はともかく、成し遂げた成果が将軍派の晴信の邪魔をした様にしか見えない。
氏康の疑問通り、ここまでは『飛騨で一揆を発生させ、一揆と武田軍で織田を殲滅する策』としては成し遂げられたが、晴信の策だけでも『織田の殲滅』は出来た可能性は高く、何の目的でより楽で確実な晴信の策を蹴ってまで、自身の危険な策を成したのかが不明であった。
事実、武田は織田の追撃を諦めた。
このまま織田を討っても、本願寺が飛騨での発言力を持ちすぎて、しかも長尾や将軍にも借りを作り過ぎて支配に悪影響が残ると判断した為である。
「ほう? この絶好の機会を逃すと? 織田連合軍の退路は塞がれているのじゃぞ?」
晴信が怒りで爆発しそうな分、氏康には冷静に状況を確認出来た。
しかし確認は出来ても、理解が追い付かない。
そうこうしている内に景虎が決定的な一言を言い放つ。
「さて、ワシは軍に戻るが……。所で長尾と武田の同盟関係はあと半刻程で解消でよろしかろう? この様子ならな」
「何だと!?」
「上等じゃ! この落とし前、キッチリ付けさせてもらおう!」
晴信は今にも飛び掛かりそうな猛虎の如く怒鳴るが、氏康は晴信と景虎の間に身をねじ込みつつ問い返した。
「ま、待たれよ越後殿! 貴殿の狙いは一体なんなのじゃ!? 飛騨の一向一揆の件はまあ良かろう。しかし、今、我等との同盟を解消するのか!? この状況は将軍派が望み達成した絶好の機会なのであろう!? なぜ自らその有利を捨てるのだ!?」
今ここで景虎に裏切られては、何が何だか分からない。
一体自分が何に参加させられ、何を手伝わされ、この先何が起こるのか?
知らねばならぬ事が山ほどある。
「……!」
怒りの晴信も、それは確かにと思い幾分か冷静さを取り戻した。
「貴殿は将軍派なのであろう!?」
「将軍派? あぁ、そうじゃったな。ではそれも破棄し北条殿と同じく中立を取らせてもらおう」
ついさっき、将軍家の再興を宣のたまった口で、中立に付く事を景虎は宣言した。
「何故!?」
「今の貴殿らでは分かるまいよ。ワシの理想と野望が。貴殿らにはワシは蝙蝠の如くフラフラと身を翻して居る様に見えよう。しかしそれは違う。ワシは最初から何もブレておらぬ。いつか真に理解し合える時が来れば分かるだろう。その時は手を携え共に歩もうぞ。ではな」
それだけ言って景虎は陣を後にし、予告通り半刻後には長尾軍と武田北条軍は激突する事になる。
【信濃国/北条氏康軍本陣】
「ワシら北条と同じ中立!? どこが同じというのか!? ワシらは三好公認の中立! 対して奴は単なる暴れまわる狂人! 同じ中立な訳があるか! ……あるのか?」
飛騨を武田に奪わせない。
織田を滅ぼさない。
東の戦況を決定付けさせない。
将軍と面会したが将軍派と三好派の勢力争いを維持する。
本願寺と面会したが一向一揆という膿をなるべく早く顕在化させる
飛騨に加賀の一向一揆を流入させ局地的な一向一揆を分散させ弱める。
これらが今回の景虎の目的であり、その為に色々お膳立てをして回ってきたのであるが、こんな規格外の事は、どんなに考えても簡単に答えがでる疑問ではない。
そもそも景虎が、三好長慶と面談済みなのを知る由もないが、それにしたって中立という言葉で一括りに出来るとは思えない態度である。
そんな困惑の状態では、指揮采配にも陰りが出て当然だろう。
武田晴信が、景虎の一騎駆けをまたしても許す情けない采配をしたと同様、氏康も長尾軍に散々に痛い目に合わされた。
成果があるとすれば、『弩』を鹵獲した事ぐらいであろうか。
ただし、これも長尾景虎が故意に流出させた疑いが拭えぬ代物である。
「天下の治め方に気が回るのは我らだけでは無い……か。ワシは他家に、中央に、引けを取らぬと自惚れていたのか? まだ何か足りぬと言うのか?」
もはや、今回の戦で痛い目を見た事などどうでもいい。
それよりも、思考と覚悟と天下への思い、全てにおいて長尾景虎に及ばぬと思い知った事が何よりの苦痛であった。
「ワシでは時代に付いて行けぬと言う事か? そうか。ここがワシの限界か……。新九郎(氏政)が帰還したら家督を委譲するべきなのだな」
この時、1557年時点で北条氏康43歳、氏政20歳。
人間50年の時代で考えるならば、氏康は寿命間近なのだろう。
ただ、実力で考えるならば、氏康は日本屈指の為政者にして武将なのは間違いない。
総合力で考えれば5指に入る所か、1位有力候補と言っても過言ではない。
過言ではないが、優秀だからこそ自分では駄目だと理解してしまう。
史実では1559年に家督を氏政に譲っているが、誤差なのか信長の歴史改編の影響かは、史実の氏康にでも聞ける奇跡でもなければ分からない。
ただ、そこにある事実として、氏政の家督相続が人知れず決定したのであった。
「そう言えば、新九郎は左衛門(綱成)と共に涼春の軍に紛れておったな。今川が織田領地の警護を任されているとか硝石の自力生産とか冗談みたいな情報を寄こして来おったが、時代は動いていると言う事か。しかしこれも僥倖か。義元がこの機に動かんハズがない。そうなれば飛騨の状況、織田連合軍の状況、この混乱の結末全てを次の当主が直に見てくるのだ。北条にとっては幸先が良いのだろうな」
北条早雲、北条氏綱、北条氏康。
稀代の傑物が3代連続して続く北条家。
その4代目が、幸運にも時代の激戦区を直に見るのである。
それは必ず、北条にも利益をもたらすと確信する氏康であった。
【三河国/岡崎城 今川家】
今川義元は自嘲気味に呟いた。
「悪い予測は当たる物だな……。いや当たってはおらぬな。予想外すぎたわ」
織田が飛騨で武田を追い返し、武田が信濃で織田を追い返した。
ここまでは想像の範疇であったが、長尾景虎の策で飛騨一向一揆が発生したのは予想外であった。
「まさか本当に一向一揆とはな!! しかしコレは好都合!」
ただし、事前準備は万全である。
武田に嫁いだ娘からの情報で、長尾が関わっているのは把握していた。
ただ、武田との同盟の都合もあり、大手を振って織田に加わる事は出来ないので、義元は今川の役目として、両家の落としどころとして停戦の仲介ぐらいはと思っていた。
しかし相手が一向一揆ならば話は変わってくる。
大手を振って飛騨への援軍が可能となる。
「だがこれなら誰に憚る事もあるまい! 一揆軍を突き崩し、朝倉を越前に、織田と斎藤を美濃に導く! ここが今川の存在感の見せ所よ! 彦五郎(今川氏真)は次郎三郎(松平元康(家康))と共に入道洞城へ行け!」
場合によっては織田を見捨てる戦略も考えていたが、これなら見捨てる必要もないし、むしろ今川の力を見せつける絶好の好機である。
「は! 勿論です!」
「承りました!」
一方、氏真や元康は織田の救援が全てであり、まだまだ世を見渡せる者の目を持ち合わせていないので眼前の脅威の排除が精一杯であるが、それはまだ発展途上なので仕方ない。
「涼春殿は……ワシと共に本陣の備えとして同行せよ。其方の護衛も忘れるでないぞ?」
「は、はい!」
義元は涼春に対しては場当たり的な救援より、もっと効果的な使い道を考え同行を命じた。
それにこの頃には、北条綱成が紛れ込んでいる事には流石に気が付いていた。
やたらと強い足軽が居ると噂になっており、遠目で確認したら綱成だったのだが、これも丁度良いと見て見ぬ振りをした。
なお、面を知らない氏政の存在には流石に気が付かなかったが、後に『あの時に!?』と発覚するのは別の話であるが、北条に現状を見せるには涼春は当然、綱成がいるなら文句の付け様が無い人選である。
「ワシらは囲いを破り脱出の支援をする! 行くぞ!」
この今川軍の乱入のお陰で、織田斎藤朝倉連合軍は窮地に一生を得た。
ただし、無傷ではない。
一生を得られなかった者もおり、特に斎藤道三、織田信秀の討ち死には衝撃が走った。
だが、それは仕方ない部分もある。
余りに早い救援は武田が今川の態度を疑いかねず、義元としてもギリギリまでタイミングを見極めた乱入であった。
武田晴信が野望の一端を見せ、織田信長が己の野望で対抗し、北条氏康が己の野望で関わり、長尾景虎が更なる野望で全てを支配したこの一連の争い。
今川義元も己の野望を理由に信長を助け、北条に情報を流すべく乱入する。
綱成と氏政は、戦の詳細と中央の争いの代理戦争とでも言うべき、争いの結末を知る為に。
涼春は、長年の疑問に決着をつけるべく。
何故か氏真の周囲にチラつく女の影。
斎藤帰蝶の存在を確認すべく。
(あの時、三河一向一揆の時の白甲冑が織田の中に現れたならもう確定! だけど……それは今川が随分前から織田と接触している証! いまさら暴いてどうこうなる事は無いかも知れないけど、私の疑念は晴れる!)
一切の証拠も根拠も何もない、ただただ女の直感を行動原理にして今まで辛い訓練も耐えた苦労が報われるかもしれない、いや、報われると信じてやまない涼春。
だ涼春は、衝撃の光景をそこで目にする事になる。
「あ、あれは!?」
顔を負傷し流血しながらも、男相手に全く引けを取らない赤備えの女武者を。
片目を負傷しながらも、全く怯む事無く戦う帰蝶の姿を。
兜や面頬は破壊されたのか身に着けておらず、まとめ上げられた髪を振り乱しながら戦う狂乱の武者を。
咆哮が敵を怯ませ、殺気が敵を委縮させ、薙刀が敵を一振りで屠り、足を一歩前に出せば敵が一歩引く、鬼神の如き帰蝶を。
殺意で歪んだ戦場の空気の、一際歪みが際立つ中心で猛威を振るう血濡れの武将を。
浮気の確証を得る為に態々遠くの飛騨まで、太原雪斎に弟子入りしてまで掴んだこの機会。
『しかも残念ながら女は男より強くなれないのです。どんな理想や幻想を抱こうとも勝手ですが現実は非情なのです』
雪斎の教えが脳裏に蘇る。
雪斎をして解明できれば悟りに繋がると言わしめた帰蝶の武が、眼前で繰り広げられている。
貧相な装備の農民とはいえ、男を纏めて薙ぎ倒す、理想の光景で現実をぶった斬る帰蝶の姿を捉えた涼春。
その瞬間、涼春は疑念を忘れた。
疑念を晴らしたのでは無い。
忘れてしまった。
あまりの非現実的で鮮烈な光景に、すっかり魅了されてしまった。
「あの白武者は今川の隠密部隊で間違いなかった。織田の姫武者は赤備え……」
これは勘違いである。
白い甲冑に大量の返り血と己の血で紅に染まっただけであるが、例え白いままだったとしても涼春にはもうどうでも良かった。
むしろ、今川と織田が結んだお陰で、自分もこの現場を目撃する事が出来た。
今後は氏真共々稽古に出向くのも思いのままだろう。
「孫九郎!(綱成) 新九郎!(氏政) あの赤備えのお姉様を援護して!!」
「は!? ハッ!」
「おう!?」
綱成、氏政も理解が追い付かない帰蝶の戦いに戸惑いつつも、援護に入るのであった。
【相模国/小田原城 北条家】
信濃での戦が終わり小田原城に帰還した氏康。
ほぼ同時に、数年ぶりに北条に帰還した綱成と氏政は、各地で見てきた情報を報告していた。
「織田と武田は痛み分けか。しかし一向一揆まで操る長尾は面倒な存在になりそうじゃが織田のしぶとさも尋常ではないな」
飛騨での詳細を知らない氏康は、景虎の策を信長が破った事をたった今知った。
「それにしても信濃のあの窮地から生還する信長か。斎藤道三、織田信秀は討ち取ったらしいが、別に体制にヒビが入るわけでも無かろう」
戦果と言えば確かに戦果ではある。
大戦果と言っても過言ではないが、では将軍派に何か得る物があったかと言えば、特に目立った物はない。
例え軍の支柱が失われたとしても、後継者に悩んでいる勢力ではない。
信長の実力は実際に体感したし、道三の後継者である斎藤義龍は、北条綱成が直接刃を交えて討ち取れなかった相手だ。(55話参照)
むしろ後継者の方が厄介かもしれない。
「朝倉宗滴は悠々越前に帰還し、武田信虎も織田に与しておる」
両者とも極めて厄介な人物なのは周知の事実。
両者とも老境ではるが、宗滴の怪物性は当然、信虎にしても武田での扱いはともかく、氏康の目には優秀過ぎて追い出されたと見えている。
宗滴がこのあと老衰で死ぬ事など知らないのは無理もないが、いずれにしても関東と朝倉の越前ではそもそも距離が遠すぎて関わる事が少ない。
「あと、戦場で荒れ狂う信長の妻か……。俄かに信じられんが」
「信じてもらえぬのは百も承知。しかし! こればかりは信じて貰うしかありませぬ!」
「そ、そうか……」
これが一番信じられない情報だったが、娘の涼春も手紙で絶賛していた。
同じくその現場を見た綱成と氏政も、口を揃えて言った。
氏康は改めて娘の手紙に目を通す。
『織田家に白武者なる化け物が居るとの事でした。当初、今川にも白武者が存在し、同一人物かと勘繰りました。最悪、織田と今川は繋がっているのかと思いましたが間違いでした。白武者は今川の隠密部隊ですが、織田の武者は紅武者とでも言うべき、まさに気長足姫尊の化身がいました。正体は織田信長の妻の斎藤帰蝶様であり、片目を失いながらも獅子奮迅の激闘にて活路を切り開く傑物であります』
北条氏康は改めて困惑した。
「紅武者……しかも斎藤帰蝶。さらに気長足姫尊の化身ときたか」
気長足姫尊とは神功皇后の事であり、第14代天皇仲哀天皇の皇后とされる人物で、現在では実在、非実在の説があるが、当時の武士の時代では、八幡神の母でもあり武芸の神とも称えられ人気の高い神様である。
日本に軍神と称される神様は数あれど、女の軍神となると天照大神と神功皇后しか居ない。
人権など存在しないこの時代、女の扱いが極端に悪いこの時代、宗教が絶対のこの時代、女の身で神に例えられる事など最大級の賛辞である。
「その斎藤帰蝶が白武者か紅武者はともかく、武芸が並外れているのは間違いありません。根も葉もない噂では、自ら織田家への婚姻を提案し、斎藤家の家臣を全員叩き伏せて出て行ったとの噂ですが、あながち嘘では無い凄みは確かにありました」
「それは誇張が過ぎる、と言いたいが、涼春は何故か戦場で本人を目撃した上でこの文を寄こしておるからな。神の化身かどうかは判らぬが。と言うか、何故涼春は戦場に? まぁそれは後じゃ」
氏康は一旦、帰蝶の情報を頭から追い出すと、残りの情報を整理し考え込んだ。
「爺、今後の展開はどう読む?」
氏康が同席する北条宗哲(幻庵)に尋ねた。
氏康の心の中では今後の展開など読めているが、それでも一応尋ねてみた。
「そうじゃな。長尾は我らが追い払った関東公方を保護しているとの事。関東に繰り出すのも時間の問題かと思うぞ。奴らは織田と武田と我らと争っても大した損害は無い。近隣の武田は傷を癒す為に防備と内政に力を入れるだろう。防御が固い武田より、我らの影響が手薄な関東北部を狙うのは間違いあるまい」
「やはりそうか。今回の戦は長尾にとって、関東に出向く為に周辺地域を疲弊させて大人しくさせる狙いがあったのかも知れぬ」
氏康はそう考えを纏めると、氏政の顔を見た。
「新九郎。お主に家督を譲る」
「……え?」
「ワシでは限界が見えておる。次世代の戦いには付いていけぬ。しかし次世代のお主なら活路がある!」
あまりに唐突に超重要事項を話し始める父に、氏政は言葉が出なかった。
「京で中央を、堺で三好を、尾張と飛騨で織田を見たな? ここで何も感じぬお主ではあるまい」
「か、感じるモノはありますが、だからと言って父上で付いていけぬ時代に某が務まるハズが……」
急すぎる要請に氏政は困り果てる。
父が相手でやっと互角の怪物と、今度は自分が自力で相手をしなければならないのは、恐怖でしかない。
「務まらなければ北条は終わるだけじゃ。安心しろ。この数年、他所で揉まれて来たのは顔を見ればわかる。お主は決して弱くない。むしろ、今、虚勢を張らなかった事をワシは評価しておるぞ? ワシは今でこそ相模の獅子だの虎だの言われておるが、若いころは武芸の訓練を見ただけで卒倒した臆病者じゃ。それが今は大身を預かる身と成った」
氏康は元服前、鉄砲の調練を見学した際、轟音に驚き卒倒したと言われている。
余りにも不甲斐ないエピソードだが、これこそが氏康の真骨頂とも言えるエピソードである。
「ここでお主が『奴らなど蹴散らして見せましょう』なんて言った日には、ワシは不安で夜も眠れぬ。家督を取り消したかもな。いいか。自分を正しく見る事が出来る人間でなければ為政者は務まらぬ。それは臆病者でしか出来ぬ。臆病であれば考える。臆病であれば試行錯誤し無謀を捨て堅実を取る。臆病で良いのじゃ」
「……!!」
「それに今すぐ奴らに肩を並べられるとは思っておらん。家督は譲るが、ワシが居なくなる訳でもない。隠居もしない。何なら知恵は貸すし、軍も率いよう。しばらくはワシとお主の二頭政治になろうが、それはお主が独り立ちする準備期間と捉えよ。その間に成長し奴らと張り合えばよい」
「わ、わかりました!」
「と言う訳で、爺、小太郎、左衛門。いずれ正式に布告するが、北条の4代目はこの新九郎氏政じゃ。皆頼むぞ」
「はッ!」
「よし。ではこの北条の虎の印判を預けておく。必要な文書に使うがいい」
虎の印判は、北条氏綱が用い始めた北条家の力を示す印判である。
この印判が無い命令は無効とされ、年貢の不正徴収や民の統制に効力を発揮してきた。
信長の天下布武印に先駆ける、現代では無くす方向に進んでいる印鑑の、力と武威、名誉と信頼、公正と誠実を併せ持つ、非常に重い意味がある印である。
これを渡された以上、氏康の覚悟は本物であると受け止めなければならないのは、氏政に限らず北条家臣が肝に銘じなければならない。
「さて、直近でやらねばならぬ事は、硝石製造の再現だが、これは風魔に任せる。実験に必要な資材は最優先で用意させるので何としても製造方法を割り出せ」
「はッ!」
風魔小太郎が小さく鋭く返事をする。
「次。さっき爺が言うた通り、長尾が関東に来る可能性が高い。新九郎は当主として必要な防備と対策を整えよ。分からぬ事は周りに聞いて補助を頼め!」
「は、はい! その言い様ですと父上は如何するのですか?」
「ワシは単身で上洛する。とりあえずは北条の当主として三好に会い真贋を見極める。聞いていない部分を確かめる為にもな」
北条家としての上洛は綱成を名代にしたが、三好長慶から全てを聞かされた訳ではない。
家督を譲った以上、多少身軽に動けるので今の内に確かめるつもりでいた。
「さて、こんな所か。……おっと上洛の前に―――爺よ、コレが何だか分かるか?」
重要な話も終わった所で、幻庵に尋ねようと持ってきた物を前に出した。
「……これは? ……む!? 造りは木製……横倒しの弓……銃の引き金に似た構造……。うーむ、これは恐らく『弩』の一種ではないか? 伝聞にて聞いた事があるのう」
長尾から鹵獲した武器を弩であると推察する幻庵。(126-1話参照)
北条家としてこの武器を研究し、また北条家の方針も決まったが、場が開きかけた所で氏政がポツリと呟いた。
「この弩に、織田が使った爆発する玉を付けて飛ばしたら、良い武器が出来ませんかね……?」
氏政は今川に紛れて行動している時、現場を見た訳ではないが、火薬を用いて爆発する玉で武田騎馬隊を退けた話は聞いていた。
むしろ、織田の硝石製造がこの武器の為と誤解しているぐらいである。
その誤解と信長の戦術が、弩と結びつき新たな兵器案を呟いた。
「……ッ!? な、何と言った!?」
氏政以外のこの場にいる人間が、驚愕の表情で固まる。
「い、いや、あの!? 爆発玉を遠くに飛ばそうにも扱いが難しい弓では、発射に失敗して足元に落としたら大惨事ですが、この弩なら多少の改造で比較的安全に遠くに飛ばせるかと思いましてッ!?」
氏政は自分の発言が、よほどアホな事でも言ったかと慌てたがそうではなかった。
氏政の発想力に驚いて固まったのである。
「さ、さすが次代の者。発想が豊かよな!」
「火矢なら足元に落としてもそれほど事故にはならんから弓でもいいが、台座のある弩なら……!!」
「どのみち火薬の大量確保は難しいから鉄砲の数を揃えても意味がない! しかし織田が用いた爆発する玉だけなら、散発的な鉄砲よりも効果は見込めるか!?」
信長が歴史改変を期待し、織田信行を明に派遣した結果、長尾家に弩が伝わり、さらに北条家で『火薬弩』に進化する可能性が生まれたのであった。
とにかく氏康は氏政に家督を譲り、新たな北条家が動き出す。
各地の先を見る目を持つ大名に対抗し生き残る為に。
この先、北条家には永禄の飢饉と言う、困難が待ち受けるのを知る由もないが、その代わりに、来年には涼春より種籾の水選別の技術が送られてくる。
この先、史実よりも強力になった北条家が、天下や信長とどう関わってくるのか?
史実でも氏政の時代で最盛期を迎える北条家。
味方であれ敵であれ、手ごわい相手になるのは間違いないのであった。
ここ数年の北条家の動き、涼春の暗躍、三好長慶との接触、硝石情報の流出、飛騨信濃の戦いの別の顔、氏康の家督委譲、氏政のパワーアップイベント、火薬付弩の開発着手……。
『まぁ一話で表現できるやろ!』
大甘な見通しで書き始めた北条大長編が終わりました。
次は信長の話を書いて今回の外伝は終わりです。
その話は個人的に愕然とした事を書きます。
しばらくお待ちください!
今後出番があるかわかりませんが、涼春の侍女をを務める風魔忍者の名前です。
なんとなく設定してみました。
上三人は涼春に忍者として認識されている侍女です。
風狐:ふうこ
摩狸:まり
偑烏:ふうう
䫸苅:とうか
摩狡:まこう
鳩摩:くま




