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外伝36話 北条『娘の父』氏康

 この話は、5章 天文18年(1549年)甲斐武田、相模北条、駿河今川の三国同盟が成立した後の話から始まる。


 時は戦国時代。

 貴賤を問わず生きていくのも困難な時代。


 権力者は自国の民を保護し、戦って食い扶持を確保し、問題を解決し、先の先まで読んだ戦略を常に立て続けなければならない。

 お陰で領民は、戦に普請に食料の生産に従事し、その光景を見た南蛮宣教師をして『この国の農民は、我が国の奴隷より扱いが酷い』と言わしめる生活を強いられる。


 だが、そんな中でも一際大変なのは領主の娘だろう。


 過酷な肉体労働や戦場で命を懸ける事など稀も稀だろう。

 だが、男尊女卑の極みの様な時代に女として生まれてしまえば、農民から権力者まで政治道具以上になれる事は無い。

 自由恋愛に至っては、まだ農民の方が可能性があり、権力者の娘は顔も性格も才能も知らぬ、望まぬ相手に嫁ぐのが常である。

 それでも父の影響下にある自国の配下に嫁ぐならまだマシだが、身一つで他国に嫁ぐとなると、あらゆる面で命懸けの生活を迫られる。



【相模国/小田原城 北条家】


 ここに、相模の北条家から今川家に嫁ぐ事が決まった女と、その父がいる。(42、43話参照)

 父は北条氏康。

 その脇には北条の知恵袋たる北条宗哲(幻庵)と、もう一人知らない老人が居た。


「涼春(早川殿)。お前には今川に嫁いで貰う事となった。相手は今川義元の嫡男、今川氏真だ。さて、お前の役目は分かっているか?」


 北条氏康は神妙な面持ちで娘に問うた。

 娘には出身家と嫁ぎ先を繋げる重要な役目がある。


 世継ぎを設けるだけが仕事ではない。


 夫が外で安心して戦える様に、内側をまとめ世継ぎ争いや寵愛争いが無い様に管理し、家臣の奥方との付き合いをしたりするのは当然だ。

 その上で、裏では実家に内部情報を漏洩したり、夫と実家が争った際には人質として利用され最悪の場合は処刑され、血の一滴までその存在に利用価値があり、そこに幸福等の甘えた理由はない。


「はい。父上。北条の為、私は命を捧げます」


 それが常識として育った以上、疑問を挟む余地など無い。

 涼春はキッパリと答えた。

 死ぬ事も織り込み済みの涼春の覚悟に、氏康は一瞬顔を(かげ)らせた。


「うむ。その通り。その通りなのではあるが……では、婚姻を祝して父から最後の教えを授ける。北条の為に命を捧げる必要は無い」


「えっ?」


 自分の覚悟を、真っ向から否定する氏康に涼春は戸惑った。


「この同盟は特殊でな。相模、駿河、甲斐の3ヵ国がお互いを守りつつ監視する特殊な同盟。1対1の同盟とは違い、誰かが裏切れば、他の2国を敵に回すが故に裏切りを許さぬ不壊(ふえ)の同盟じゃ」


「は、はい……? えーと、それは虫拳(むしけん)の様なモノでしょうか? 蛇、蛙、蛞蝓(なめくじ)の三竦みの如き……?」


 虫拳とは日本最古の拳遊びで、ジャンケンの様に三竦みを利用した遊びである。

 蛇は蛙に勝ち、蛙は蛞蝓に勝ち、蛞蝓は蛇に勝つ。

 蛇は人差し指を立て、蛙は親指、蛞蝓は小指で表現するが、ジャンケンの普及で姿を消したらしい。


 涼春は普段の遊びで知った事で例えたが、まさにその通りである。

 どこかの蛇が、蛙が、蛞蝓が勝てる相手を食べようとすれば、それは自分の破滅につながるのである。


「その通り。その上で、お前は今川との繋がりを果たす重要な役目がある。三竦みを維持する為にな。故に命を懸ける必要がない。むしろ懸けてはならぬ」


「命を懸けてはならない……そ、そうなのですか?」


 その時、またしても氏康は顔を翳らせたが、涼春は気のせいであろうと即座に忘れた。


「所で、娘は嫁ぐ際に()()()()()として間者としての役割もあるのは以前から教えておるな? では優れた間者とは何だと思う?」


「そ、それは情報を探って、時には工作をし……」


 北条家に限らず、権力者が娘に期待するのは相手の情報である。

 それを事前に仕込んでおくのは当然の事であろう。

 事実、氏康も娘たちには、その様に教育してきた。


「それが間違いとは言わん。まさに今まで教えてきた通りなのだが、先にも言った通りこの同盟は三竦み。故にこれからのお前に必要なのは、誠心誠意今川家に尽くす事だ。そうだな爺? 小太郎?」


「その通りじゃ」


「今川に尽くす事こそが、北条にとって何よりの行動となりましょう」


 2人の老人が、今まで教えてきた事を真っ向から否定してきた。


「それは何故……え? 小太郎……風魔!? ではこの方があの……!?」


 片方の老人は北条宗哲なので当然知っているが、同席する見知らぬ皺くちゃの妙に声の響く老人には涼春も驚いた。


 何故なら、北条家の関係者に風魔忍者がいる事は周知の事実だが、ではその頭目たる風魔小太郎の顔を『風魔小太郎と認識した上で見た事がある』と限定すれば両手で足りるだろう。

 しかも伝え聞いた外見とは掛け離れている。

 筋骨隆々の偉丈夫で、鋭い牙を持ち、箱根の鬼とも言われている風魔小太郎が、こんなお爺さんだとは想像の範囲外であった。


 話題を逸らしに逸らした、話し合いの場としては有るまじき脱線であるが、風魔小太郎の特殊性故にそれも仕方ないであろう。


「お初にお目に掛かります。某は風魔小太郎の名を()()()()()。涼春様には嫁ぐにあたって諜報の極意をお伝えします。とは言っても此度は何も難しい事はありませぬ。殿の仰る通り誠心誠意尽くす事が全て。むしろ怪しい行動は絶対にしてはなりませぬ」


 次いで宗哲も語り始めた。


「通常なら、無理して強奪しなければならぬ情報もあるが、それは通常でも最悪最低最後の手段。涼春にそんな事は求めぬし、絶対にやってはならんぞ? お主が考えねばならぬのは『どうしたら今川が栄えるか』じゃよ。北条を忘れろとは言わぬが、心掛けに配分が有るとすれば、今川9に北条1で丁度よい……いや、むしろ北条は1以下でも構わぬよ」


 小太郎と宗哲は、今まで教わった知識とは全く逆の事を話した。


「なるほど……理屈はわかります。私が下手な真似をすれば、それは北条所か三国の不利となってしまうのですね。だから命を掛けて無理する必要は無い、と。しかし、今までの教えは何だったのでしょう?」


 涼春は今まで無駄な事を教わってきたと思っているのか、顔に出すまいと努力はしているが、やはり幼さ故の未熟か、不満な気配を出してしまっていた。


 人は誰でも、身に着けた技は披露したいものだ。

 例えば、空手や柔道や剣道の技術を習得して、試合ではない実戦想定をした事が無い人など居ないだろう。

 苦労して身に着けたなら猶更だ。


「お主の憤りも理解できるが決して無駄ではない。良いか? お前には一通りの間者の心得を仕込んだが、心得を知ると知らぬでは天地ほど差がある。知っていれば自制も出来ようが、知らなければ先走ってしまうだろう。今まで教えてきた事は普通の婚姻同盟ならやって当然の事だが、今回は今まで習った事を『絶対にやってはならない事』として胸に刻め。そうすれば無駄にはならぬ。披露するだけが報われるのではない。披露せぬ事も結局報われるのだ」


 現代でも横行する詐欺事件。

 手口を知らないから騙されるのである。

 だからこそTVでは盛んに手口を紹介し自己防衛に役立てるのだが、そこで『引っかかる奴は馬鹿だから』と一笑に付していると、後々大変な目にあってしまう。


 とあるフランス皇帝ナポレオンの名を冠する手品コンビが言った言葉に(彼らが初出の言葉かどうかは不明だが)『見抜けない手品がある人は絶対に詐欺に引っかかる』がある。

 詐欺と手品を同列に語ると怒る人もいるかもしれないが、どちらも高等テクニックを駆使した騙しの技である。


 そんな技術を知っているからこそ防ぎ、見抜く事ができるが、知らなければ大火傷をしてしまう。

 氏康は『教えを戒めとして活かせ』と言ったのである。


「さっき、『優れた間者』について問うたな? その答えはこうだ。優秀な間者と言うのは『諜報先に有用と認められた者』じゃ。本当に尽くせばこれ以上の擬態は無い」


「な、なるほど……」


「しかしお主には、その優秀な間者以上の注意を払ってもらう。それ故に危険な事など一切する必要はないのじゃ。ただ、それでも偶然手に入れた判断に迷う情報が出た場合も想定される。その時は風魔が引き継いでくれる。その生活と任務を支える為に、お主の侍女に追加を付ける。小太郎」


 氏康が小太郎に目配せをした。


「はっ。涼春様には風魔から厳選した娘を3()()を侍女として派遣します。年若く涼春様も接しやすいでしょう。もし北条への伝達の必要性が出てきたなら、彼女らを通じて下されば自動的に殿に伝わりますのでご心配なく。逆に北条の現状は彼女らから伝わるでしょう」


「わ、わかりました。しかし今川様を支えるとして、何をすべきでしょうか?」


 涼春の問いに氏康は難しい顔をした。

 その脳裏には、先の三国同盟の折に顔を見た今川義元を思い浮かべていた。


「それは本当に難しい問いだな。心技体、仁義礼智信……後は何があるかな? 考徳力勇剛……まぁ何でもいいか。人として備わっていればいる程に素晴らしい能力を考えた場合、あ奴はその全てを高水準で備えた傑物だ。そんな怪物の息子である氏真が、同じく怪物の太原雪斎の教えを受けておる。そんな氏真が盆暗などと言う事は万に一つも無い。そうなるとお前が出来る事は限られる―――」


 三国同盟の会談で氏康は自分と同格同等の力を内包する今川義元、武田晴信に驚いた。

 だが、極めて優秀と言っても過言ではない義元と、その息子氏真が、史実において馬鹿にされ嘲笑される存在になる姿は想像の範囲外である。


「―――と、思うかもしれん。だが、今川ほど強大で優れていても戦であっさり滅ぶ可能性がある。奴は織田と決戦に挑むつもりだが、勝敗は時の運とも言う。そう考えると出来る事を尽くしても報われぬかもしれぬ。じゃからこそ支え慈しめ。『これだけやっても駄目なら仕方ない』と思えるぐらい後悔しない手段を選べ。さっきの話では無茶な事をするなと言ったな? 矛盾しているかもしれぬが、何も矛盾していない。お前がお前であるなら自然と全てが上手くいく。その上で不都合があるなら、それはもう天命じゃ」


「は、はい……」


 まだ幼い涼春には難しすぎる話だった様で、少々頭がパンク気味だが、それでも懸命に飲み込もうとする姿勢には、氏康も小太郎も感じ入るモノがあった。


「あー……。まぁ、なんじゃ。色々言ったが、誤解を恐れずまとめるならば、お主が幸せであればワシに文句は無いと言う事よ」


「うむ。赤子の頃から知っておる涼春が不幸になるのは爺としても忍びない。こんな時代だからこそ幸せになって欲しいモノよ」


「そうですな。此度の御縁、誠に御目出たき事にございましょう」


 女の待遇が極端に悪いこの時代、奇跡的に理解のある北条の首脳陣に送られて涼春は隣国の大国に嫁ぐ事になった。


「ありがとうございます。それでは色々と準備をして参ります」


 涼春が退室した部屋では、残された3人が難しい顔をしていた。


「……殿の懸念は今川と織田の繋がりですな?」


 小太郎が周囲の気配を探り、絶対安全を確認してから呟いた。


「そうだ。奴らが衝突し織田が衰退すれば良し。それは三国共通の認識だからな。しかし万が一が起きて今川が衰退する事態になったらマズイのは間違いないが、それはそれで織り込み済みの結果でもある。しかし最悪は衝突した結果、両者の結びつきが強くなる場合だ。そうなると今川が三竦みを無視した上で我らと武田を駆逐できてしまう」


 氏康は、父の顔から戦国大名の顔になり、冷徹に今川の行く末を分析した。


「滅ぶ栄えるだけが、戦の結果ではないからのう」


 戦国時代の最初期に生まれた宗哲が、数多の知見から得た可能性を示唆した。


「三国同盟に関しては、涼春が嫁ぐ事で既に成果が確約されておる。それ以外で何か成果がでたら儲けものだが、直近で成果があるとすれば織田と争った今川に変化があるかどうかじゃ。涼春が誠心誠意今川に尽せば変化を感じ取るかもしれん。涼春には悪いが、何も知らないまま全てを純粋に見てもらわねばならん」


「優れた間者は他家にも有益と思わせる人材ですが、間者として完璧な者とは、間者として自覚無き者。自覚が無いなら露見などあり得ませぬ。姫様の献身が完璧な擬態を作り出し、後は6()()の侍女が上手くやってくれるでしょう」


 涼春には今回3人の風魔侍女が()()された。

 それは嘘ではないが、これで総勢6人の風魔侍女になる事は知らなかった。

 北条首脳陣は、娘に真意を気づかせないまま完璧な間者として仕立て上げ、婚姻の晴れの日を冷徹に利用するのであった。


「……我らがただの町人なら、自ら罪悪感を背負う事などしなくても良いのだろうなぁ。こんな企みを仕掛けておきながら、娘には幸せになって欲しいと願う自分もいる」


「この密議は墓まで持って行くがよかろう。早雲の親父も、氏綱の兄上もそうやって乱世を渡ってきたのだ」


「まさに業ですな。風魔は地獄までお供しましょう」


 心の苦痛を吐露する3人であった。

 半ば涼春を騙す形で今川に送り出す事になった婚姻に、氏康は度々顔を翳らせていた。

 冷徹ではあっても、娘の不幸を望んでいる訳でもない。

 苦痛を感じる心がある分、彼らも人間なのであった。


 そんな涼春から今川家の変化が伝えられた時、氏康らは困ってしまうのであった。


「こ、これは一体……?」


「う、うーむ?」


「涼春が幸福で何よりだ……?」

2021/7/14 追記


早川の名前を『涼春すずはる』と改めます。

理由として『早川』とは敬称であり、本名ではないからです。

帰蝶の本名が帰蝶、敬称が濃姫と同じ理屈です。


当初早川をそのまま使ったのは、史実での本名が不明だった為、また『早川』の名称の認知度も高い傾向にあると判断したため早川をそのまま名前としました。

ただ強い違和感を感じる意見もございました。


筆者もその意見を尊重し、早川から涼春とオリジナルの名前を付けさせていただきます。

紛らわしいかもしれませんが、よろしくお願いします。

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