1話 織田信長
「はぁ~。死んでしまうとは情けない」
特大の溜息と共に心底ガッカリした様に女が言った。
「クッ……! 喧しいわ!」
青筋を立てながら男が口答えした。
「『やり直せるんなら天下統一したも同然じゃ!』と言って勇ましく出て行ったのはどこの誰……おっと失礼を致しました」
全くもって失礼とは思っていないのが、童でも読み取れる言い方でその女は謝罪した。
「ぐぬぬ……!!」
男は怒りと羞恥の余り中空でもがいている。
女の名は帰蝶(濃姫)。
斎藤道三の娘にして信長の正妻である。
男の名は織田三郎信長。
たった今2回目の人生が終わった所であり、この『時間樹』がある5次元空間に舞い戻った所だ。
「まぁ……確かに、あの羽柴筑前殿が裏切るとは私も思いもよりませんでしたわ。上様が討ち取られてしまうのも致し方ありませんね」
帰蝶は腕を組み顎に手を当てて映像を眺めていた。
「それよ! ハゲネズミめがぁ~! 誰のお陰でその地位まで登る事が出来たと思っておるのか!」
信長が吼えながら映像に殴り掛かるが、拳は音も無く空間と映像を貫きすり抜けた。
「その『誰のお陰』で油断したのでは?」
帰蝶は容赦無く言い放った。
「ウヌヌヌッ……!」
辛辣な帰蝶の言と、確かに感じる己の人望の低さを恥じ、信長は唸り声を上げ手応えの無い映像に今度は頭突きをして、体を半分程すり抜けさせた。
その映像は爆発炎上する本能寺と、多数の五三桐の家紋の旗がひしめき合う光景を映していた。
そんな屈辱の映像をよそに信長は帰蝶を横目で見た。
(それにしても変われば変わるものよ。あの病弱だった於濃が、こんな毒舌女だっとは、1回目ではついぞ気づかなんだわ!)
己の失態に対する怒りとは別に、妻の意外な一面を発見した信長は、1回目の人生が終わった時の事を思い出していた。
【天正10年6月1日(1582年6月20日) 山城国/本能寺 信長Take1(史実)】
毛利と相対する羽柴秀吉の後詰の為、また、病弱な帰蝶のたっての頼みで京の本能寺を訪れた夜。
「上様、此度は私の願いを聞き届けて頂きありがとうございます」
寝所で上体を起こしながら、苦し気に、しかし、それでも凛とした声で帰蝶が話し始めた。
「何も気にする必要は無い。お主はずっと体が優れぬ状態が続いていたからな。たまには気晴らしに出るのも悪くはなかろうて」
そばに寄り添いながら信長は優しく答えた。
「私も余り長くは無い身です。今生の思い出を……」
「たわけが。気弱な事を言う出ないわ。明日は城介(織田信忠)も見舞いに来る。余り長い時間は取れぬが、筑前(羽柴秀吉)めの後詰が終わったら、京の名所でも見物しようではないか」
毛利を平定すれば一段落付く。
多少の時間は作れるはずであった。
正に儚いと言うべき病弱な帰蝶の為に、信長はさっさと毛利を潰す事を心に誓った。
「ありがとうございます。……ただこの先何かあった時は私を思い出して下さいまし」
帰蝶が不意に妙な事を口走った。
病による気の迷いであろうか、何とも不可解で弱気な事を言った。
「……む? わかった。約束しようぞ。さぁ、今日は疲れたであろうから横になると良い」
「はい、お先に失礼致します」
こんな取り留めの無い話をしつつ日は暮れていった。
この時の『何かあった時』と言うのが『明日をも知れぬ帰蝶』では無く、『自分』である事に信長は気付かぬまま――
【6月2日 明け方】
(嫌な予感がする――)
信長は胸騒ぎを感じて目が覚めた。
気配を探ると遠くで足軽らしき兵の喧噪が聞こえた。
(兵が騒いでいる? ……こんな明け方に?)
(金ヶ崎の時と同じ感覚だ――)
そう思った矢先に廊下から足音が響いて来た。
信長は刀を手に取り立ち上がった。
(何だ!? 何が起こっている!?)
まるで緊急事態を告げる様な、礼儀作法も何もあったものじゃ無い、下品な足音が部屋の前で止まり――
ずばぁん!
普段であれば絶対にそんな無作法はしない森乱丸が、襖も砕けよとばかりに勢い良く開け放った。
「上様! 一大事にございます!」
顔面蒼白な乱丸に、危機を察した信長が怒鳴った。
「誰ぞの謀反か!? 十兵衛(明智光秀)か!? 城介(織田信忠)の企てか!?」
もし謀反なら、近隣に居るのはこの二人だけだ。
――だけなのだが、その可能性は限り無く低いと思う程に信頼する二人でもあり、自分で二人の名を叫びながら『まさか』と思う信長であった。
しかし、乱丸は信長の思う『まさか』の人物の名を告げた。
「はっ! き、桔梗紋、明智殿にございます!」
(じゅ、十兵衛じゃと……!? 何故じゃ!?)
「クッ……! ならば是非もなし! 応戦する!」
信長がそう決意を固めたその時、後方の襖が開いた。
「上様、何かあったのですか?」
帰蝶が騒ぎを感じ取って信長の元にやって来た。
「む、於濃か。いや何でも……隠し立てはするまい……。どうやら十兵衛の謀反らしい」
於濃とは帰蝶の事で、帰蝶の通称が濃姫である。
美濃国の姫なので織田家では濃姫と呼ばれ、信長は『於濃』と呼んでいる。
「明智殿が……! 何故……」
困惑の表情で帰蝶は当然の疑問を口にした。
「ワシにも分からぬ。このまま奴の下まで突き進んで問い質してやるわ! ハッハッハ!」
信長は威勢よく笑った心算であったが、ちゃんと顔が笑顔であったかは自信が無かった。
「……十兵衛の事じゃ。生半可な覚悟で企てた訳でもあるまいし、ワシを逃がす様な甘い戦をする事もなかろうて。……済まぬな、京見物は別の機会になりそうじゃ」
「いいえ、私は十分幸せな人生でした。……ご武運を」
「良し! 乱丸! 行くぞ!」
表に出た信長達は少数の不利を物ともせず、勢いよく明智勢に立ち向かって行った。
しかし、幾ら信長と言えど多勢に無勢。
ついに自害を決意する事になる。
「乱丸! 寺に火を放て! ワシは奥に行く! ワシの首、奴らに渡すで無いぞ!」
「はっ! あの世でも必ずお側に仕えまする!」
あの世など存在しない――信長はそう言い掛けたが、この期に及んで無粋な真似をして忠臣の忠節を汚す事もあるまい――
そう思った信長は一言――
「今まで大儀であった!」
こう言い放って奥に消え、信長は一息付いた。
「クックック……信長ともあろう者が、何たる油断と失態よ」
自嘲気味に呟いた所で奥から声が聞こえた。
「上様?」
「おぉ、於濃か。やっぱり駄目じゃ。流石は十兵衛じゃ。逃げ出す隙など無かったわ」
「左様で御座いますか……」
病弱なので普段から余り生気の無い顔だが、この窮地に至って全く顔色が変わらぬのは、流石斎藤道三の娘である。
「直に火が放たれる。焼け死ぬ前に自害して果てる事になるであろう。お主は……残念ながら逃げる事も叶うまい。仮に体調が万全であっても、奴がワシの正室を逃がす理由も無い。だから……」
その先の言葉を信長は言い淀んだ。余りにも無情な死の宣告を言えなかった。
「私も一緒にお供致します」
静かに、しかしハッキリした口調で帰蝶は言い放った。
手には父の斎藤道三から織田家に輿入れする際に持たされた脇差が握られていた。
「……済まぬな」
(何と言う強き女よ……。病弱な身で政略結婚で織田家に嫁いで、何か幸せな事があっただろうか?)
信長は改めて帰蝶を見据えた。
子を望めず側室を取る事に嫌な顔しないどころか、自ら勧めて来る女、それが帰蝶と言う女であった。
(もし男だったら、いや、病弱でなかったらきっと後世に名を轟かす逸材だったに違いない)
信長の帰蝶に対する率直な評価であった。
「ならば参ろうか!」
信長が刀を抜き放つ。
「その前に!」
(今更臆する女でもあるまい。何事か?)
「昨日……眠る前に言った言葉を覚えていますか?」
決意も新たに凛とした顔で帰蝶は尋ねて来た。
「……む??? …………あの何かあった時……と言う奴か?」
「そうです。今がまさに何かあった時の様です。信じられぬかも知れませんが、先日夢の中でお告げがあったのです。本能寺で何かあった時は私を思い出させる様にと」
「夢? 何じゃ? 伴天連共の神でも現れおったか?」
この人生で神仏の存在など無い事を確信した信長であったが、今更徹底論戦をするつもりなど無い。
最後位は信じる物に殉じさせてやるのも夫の務めである――そう思っていた。
「いえ、伴天連の神でも御仏でもありませぬ。ただ言葉だけが聞こえたのでございます。『炎の本能寺で何かある』と。まさかこんな事が起こるとは思えず、ましてあんな夢の話を事細かに伝えるのもどうかと思い一部伏せておりましたら、この有様でございます。申し訳ありませぬ」
申し訳なさそうに帰蝶は頭を下げる。
「いや……。そんな夢ワシが自分で見た所で少しも信じぬであろうよ。謝る必要など無い。しかし、『何かあった時』何じゃ?」
「『私を思い出せ』でございます」
「今、目の前にお主がいて何も起こらぬと言う事は……残念ながら奇跡は起きそうに無いな」
信長がフッと自嘲気味に笑ったが、それでも帰蝶は何か言いたげであった。
「それは……そうなのですけれど……余りに今の状況と夢が一致してしまいますので……」
「まぁ、事今に至っては果てる瞬間までお主の事を思い続けようぞ!」
「上様……」
二人は抱き合い、――自害して果てた。
燃え盛る本能寺が爆発炎上する少し前の事であった。