121-2話 追撃と退却 正しかった恐怖
121話は2部構成です。
121-1話からよろしくお願いし居ます。
【飛騨国/桜洞城 織田、斎藤軍】
「退却ーッ! 退却せよーッ!!」
信長が追撃を命じる以前の話である。
この判断は武田信繁の退却が、晴信よりも幾分早かったが故にである。
桜洞城でも似た様な戦況と状況になっていた。
遠くの武田信繁軍本陣から鐘の音が鳴り響くと同時に、突撃を図る武田軍の攻勢が急速に衰える。
潮が引く様に敵兵が去り消える。
その様子を場内から確認した織田、斎藤軍は色めきたった。
「これは!? 今までの日没による攻勢休止ではない!?」
戦況を見定める織田信秀が、今までとは違う雰囲気を敏感に察知した。
「諦めたのでしょうか!?」
帰蝶もその様子を驚愕しつつ尋ねる。
武田晴信本人ではないが、その絶対の信頼を置かれる武田の屋台骨とも称された武田信繁を退けるなど、普段の信長の言動と様子からすれば奇跡の光景だ。
帰蝶は前々世を知る者として、その光景を他者以上に強い感覚で見るのであった。
「そう見て良かろう。しかしこれは好機じゃ! 斎藤殿! 織田は先に追撃に移ります! 後詰をお願いしたい!」
「良かろう。後ろは任せられよ。帰蝶は織田殿と共に行け!」
戦を知り尽くした者同士による、阿吽の呼吸とでも言うべきか。
信秀と道三は即座に役割を決めると行動を始めた。
「伝令! 入道洞城に向かい三郎(信長)に報告せよ! 我等は追撃に移るとな!」
桜洞城では、信長が守る入道洞城よりも一足早く、織田信秀と斎藤道三による迅速な判断により、武田軍の撤退に対して今まさに追撃が行われ様としていた。
「濃姫殿! 先陣部隊を率いる準備は……いや、愚問でしたな」
今の展開になる場合など既に想定済みの帰蝶は、満面の笑みで信秀を見据えていた。
「ならば追撃部隊先陣をお任せする!」
「はい!」
信秀の確認に帰蝶は即座に了承した。
桜洞城にて防衛準備を開始した時から、全方位に向けてアピールしてきた。
いやアピールというならばもっと前から、それこそ転生を果たした時から、帰蝶はその能力を全方位に向けてアピールしてきた。
野盗討伐や関所襲撃に始まり、合戦においても、個人武芸においても、政治の場においても能力を示した。
今回も、父の道三と朝倉宗滴と手合わせし、力を証明した。
最早、一軍を率いる将としてなんら不足は無いし、父の斎藤道三も、義父の織田信秀も、淑女に育てるよりも武将としての資質を伸ばす事に躊躇は無い。
と言うより、とっくに諦めた。
斎藤家に残された資料にも『その溢れる才能を見抜いた道三と義龍が、最初期から武将となるべく育てた』と改竄されている。
じゃあ『なんで姫として嫁がせたのか?』という論争が、後世の歴史研究家達による議論の対象になっているのは未来の話である。
そんな猛将帰蝶が、親衛隊の部隊長に指示を飛ばす。
「河尻殿! 内蔵助君!(佐々成政) 五郎左衛門君!(丹羽長秀) 親衛隊を揃えて追撃するわよ! 私含めて4部隊で敵を穿つ!」
河尻秀隆は親衛隊関係者から、帰蝶の副官を長年務める抜群の実績と、奇跡と根性で尊敬を集める人物である。
佐々成政は、武田が来襲する前の余暇で帰蝶から刀で一本取る事に成功し、『敬称:殿』までリーチとなった。
同じく丹羽長秀も、長年斎藤道三に鍛えられたお陰で、その実直でそつの無い采配が評価され部隊長として不足無く働ける。
君呼びなのは、成政と同じくこの冬に一本取る事に成功したからである。
織田信秀、柴田勝家、森可成らは率いる兵が多い為、比較的身軽な4人が追撃の先陣を進む事になった。
「武田信繁は晴信の懐刀にして武田を支える功労者! 討ち取れば武田を滅ぼしたも同然よ! 突撃!」
前々世では、ほぼ寝たきりの帰蝶でも知っている名将武田信繁。
もし『武田信繁が第4次川中島の戦いで戦死していなければ?』とは、武田家が国難に直面する度に悔やまれてきた事である。
信玄と息子義信の対立も上手く取り持ち、武田の家を正しく導き、結果、長篠の戦いも変化したかもしれない。
それほどの可能性を秘めた人物であり、帰蝶がいう『討ち取れば滅ぼしたも同然』は、間違った認識と言い切れない。
「武田信繁! 覚悟!」
「くッ! 小僧が! その派手な白甲冑を己の血で染め上げるがいいッ!」
一時は武田信繁を捕捉したした織田軍は、逃げる武田軍を突き破り、帰蝶と信繁は直接切り結ぶまでに肉薄した。
信繁も帰蝶の破天荒な噂は耳にしていたが、今まさに眼前に迫る相手が該当人物だとは思わず『名のあるどこかの傾奇者の小僧』と認識している。
この直接対決は、数合切り結ぶ程度で終った。
武田軍を中央突破し戦線が延びてしまった織田軍と、体勢を立て直した武田軍が側面から反撃し、一旦距離を置いた所で逃げ切られてしまった。
「あの妙に声の甲高い白武者は何者だ!?」
撤退中の信繁は側近に確認を取るが、明確な答えを出せる者は居なかった。
「次出合った時は確実に討ち取ってくれる!」
帰蝶の苛烈な突撃は『姫鬼神』の名を確たるものにさせる凄まじさであり、武田信繁にとっても予想外の出来事であったらしく、後に女で信長の妻であったと知った時は驚愕の表情で困惑した。
本当に理解不能だったのであろう。
後世に残る資料に『ワシともあろう者が死を覚悟した。斎藤帰蝶、悪鬼羅刹の類也』と言わしめるモノであった。
後世にその言葉が残るからには、武田信繁は無事逃げ切ったのである。
そう―――
逃げ切った先が存在するのであった。
【織田軍】
馬を駆り武田晴信を猛追する信虎は、敵の殿部隊を確認すると素早く指示を飛ばす。
武田殿軍は退却路にキッチリと馬防柵を拵え、万全の状態で待ち構えていた。
ただし、城への攻撃失敗で半数以上の兵を失っており、備えに対して兵は少なかった。
「盾を前面に出せ! 弓兵! 敵兵に攻撃の隙を与えるな! 怯んだら一気に柵を引き倒せ! ここであのクソ息子を殺せ!」
信虎の号令と殆ど同時に親衛隊が動き出す。
親衛隊は指揮官の指示を聞いてから準備を始める、などというノロマな判断では動かない。
この展開から予測される命令を、末端の兵まで頭に叩き込まれている為に可能な動きである。
更に、念入りに練兵訓練を行っている織田軍にとって、敗走中で、しかも寡兵の軍など、まるで取るに足らない障害である。
傭兵は勝ち戦にこそ最強になる。
有って無い様な障害―――とまでは言わないが、甲斐の田舎侍に恐れを成す兵など居ない。
そんな勝ち戦の勢いから真っ先に醒めたのは、やはり信長であった。
武田相手に優勢に進む程に違和感が心を支配する。
《……やはり、どう考えても変だ。あの武田信玄がこんな容易く敗走するとは》
信長は武田と戦うと決めた後、もう何度思ったか判らぬ違和感をとうとうテレパシーではあるが口に出した。
《信玄じゃなくて晴信ですよ?》
ファラージャも、もう何度訂正したか思い出せない間違いを指摘する。
《わかっとる。今の晴信は信玄ではない。実力も晩年には及ばぬやも知れぬ。しかしそれでも妙じゃ》
遥か未来にまで伝えられる信長の、その余りの臆病さに、ファラージャはうんざりする気持ちを何とか押さえ込み質問をする。
《じゃあ追撃は止めますか?》
《そんな訳にはいかん。その為の信虎じゃ。奴には悪いが露払いとして動いてもらう。しかし嫌な予感が拭えぬ……!》
《もう! それは武田アレルギーですってば!》
《そうかも知れん! しかし可能性を感じたら備えない訳にはいかん!》
《可能性? 何の可能性です?》
《我等が釣り出された可能性じゃ!》
《う、うーん……。策って事ですか? 確かに武田信玄は破壊神の使徒の中でも別格中の別格ですが……》
その可能性を提示されファラージャは唸った。
臆病さが故の幻覚なのか?
何度も死線を乗り越えたが故の判断能力なのか?
ファラージャには過剰な心配に思えて仕方が無かった。
しかし信長はますます猜疑心を膨らませる。
《そんな別格の奴が、こんな手応えの無い戦をするか!?》
《ですからソレは晴信は、まだ信玄では無いんですよ。まだ最盛期の実力を備えていないんですって》
そんな堂々巡りの不毛なやり取りをしている中、信長の視界の端にある物体が入った。
それは武田軍が退却の折に造った馬防柵であった。
織田軍が強引に突破したお陰で既に残骸と化している。
《馬防柵……。……ッ!?》
違和感が確信に変化した。
信長以外の全ての兵が、そんな残骸と化した馬防柵に眼もくれない中、肌が粟立ち戦慄したのであった。
聞えるハズの無い心臓の鼓動が、耳に響く程に脈打つ。
《この馬防柵は……!?》
その信長の驚愕を他所に報告が舞い込んできた。
「桜洞城より伝令! 武田軍を撃退し追撃に移るとの事です!」
伝令は弾んだ声で戦勝報告をする。
「なんじゃと!? それは何時の話じゃ!?」
しかし信長は寝耳に水と言わんばかりの態度を隠さなかった。
もちろん桜洞城の味方が勝手に追撃したとか、予定外の行動をしたから驚いた訳ではない。
信長は別の事を気にしていた。
「え!? 今からおよそ4刻(8時間)ほど前になりますが……!?」
勝ち戦の報告に来た伝令は、予想外の信長の態度に驚きつつ答えた。
「なんじゃと!? まずい! やはり釣り出されておる!」
《ど、どういう事ですか!?》
《武田は桜洞城と入道洞城が堅牢になっている情報を掴んでいたに違いない! その上で城攻めは程々に偽装退却をして我等を釣りだし野戦に持ち込むつもりじゃ! 城攻めがほぼ同時に失敗し、さらに同時に追撃をしておる! さらに言うなら武田軍の整然とした退却と、この馬防柵の完成度! 最初から撤退を意識した作戦じゃ!》
信長が馬防柵の残骸を見て驚愕したのは、馬防柵の完成度に驚いたからであった。
《えっ!? ど、どうしましょう!? なんなら私から帰蝶さんに警告する事も出来ますが……! あッ!》
ファラージャは意識を帰蝶に向けた時にその光景を見た。
まさしく武田信繁軍を猛追している光景を。
《その反応はやはりな。しかし……駄目だ! もう既に飛び出しておるのだろう。或いは優勢に追撃を行っておるかも知れん。そんな中、総大将でもない於濃が反対した所で親父殿達は納得はしまい。それにそんな離れた地でワシの意思を知るなど、未来ならともかく戦国の世で行ったらワシ等は信長教の神になってしまうわ!》
今、信長はファラージャの反応により、偶然にも遠く離れた地の状況を知ってしまったが、そんな現代通信機器と同等以上のシステムを使うのは断った。
理由は上記の台詞通りである。
《その心遣いは本当にありがたいですが、ではどうします!?》
《今考える!》
馬から下りた信長はもう一度、馬防柵を見た。
破壊された所はともかく、形を保っている箇所は、少なくとも逃げる最中に慌てて作った物ではない完璧な造りであった。
見れば見るほど、予め展開を想定して作られた馬防柵である。
《何の為に同時退却をする!? 決まっておる! 我等を一撃で殲滅する為だ! そうでなければ同時に退却など予め決められてなければ無理じゃ! 恐らく3日で退却と決めておったのじゃろう! 一撃で殲滅する為に……野戦に持ち込む? どこで? こんな山間部でか!? ありえん! じゃあどこなら野戦を行える!? ……信濃に逃げる武田……まさか! かつて上杉と武田が激戦を繰り広げた地か!? 武田軍単独で? ……北条がいる!?》
史実にて上杉謙信と武田信玄が争った、都合5回に渡る戦いの総称である『川中島の戦い』は、5回全てが川中島で戦った訳ではない。
最大の激戦となった、第4回目の戦いの地が川中島であった事に由来し、他の4回は近隣地域での戦である。
その近隣地に誘い込まれているのだと、信長は看破した。
《川中島の戦いですか!? そんな!?》
《違うかも知れん! いずれにせよ可能性を感じる以上こちらも手を打つ!》
「親父殿達を救出に向かう! 伝令! 無駄になるかも知れぬが桜洞城に向かい場内にいる者に対し親父殿を救出する様に伝えよ! 朝倉軍にも同じ伝令……いや待て。全速で我等の後方に向かう様に伝えよ!」
「織田軍はこれより信濃に向かって全速で駆け抜ける! 武田を討つよりも移動を優先する! それこそ晴信を追い越すつもりで動け! 佐久間!」
「ハッ!」
「貴様に任務を与える!」
信長は、史実にて『退き佐久間』の異名を獲得した佐久間信盛を呼んだ。
信長の心は既に決まっていた。
「この破壊された馬防柵を修繕せよ! この道は織田、朝倉、斎藤軍の撤退路になる! 武田が拵えた以上の頑強さで設置せよ!」
信長は既に今回の戦の失敗を予感している。
飛騨の防衛が当初の目論見であるが、武田軍を撃退した今が、まさに危機である事を理解した。
釣り出されて飛び出した今、殲滅させられたら飛騨はガラ空きになる。
飛騨を防衛するには、可能な限り損害を減らし、城で篭城しなければならぬ事を知り、信長は自分の恐怖を感じる精神が何も間違っていなかった事を確信したのであった。
しかし、何とかギリギリのところで、武田軍の策の全貌を看破した。
ならば挽回の可能性はある。
「桜洞城の軍勢を救出し退却する!」
次話は来月中旬を目標に頑張ります!




