120話 準備完了
武田軍が動き始める少し前の話である。
対武田指揮官は、防衛拠点に先乗りし打ち合わせをしていた。
これは織田家だけでなく、斎藤家、朝倉家の武将も同様である。
まず、信長は飛騨の桜洞城にて同地を守る斎藤家と顔を合わせた。
【飛騨国南/桜洞城 三木家領】
「この奇妙な土塀は何ですか?」
三木家への援軍を約束していた斎藤家。(95-2話参照)
信長と斎藤道三、織田信秀、帰蝶が、三木、斎藤、織田の武将を率いて桜洞城の防衛設備を確認しているが、まだ年若い竹中重治は見た事の無い塀の形状に強い興味を持った。
その塀は板や漆喰、あるいは柵で組みあがっているのではなく、綺麗に整形した土塀の上に土を盛り上げて固めた奇妙な外観をしていた。
「これは、婿殿が伊勢で試した防御法らしい。そうじゃな?」
「そうです。この塀の扱い方は―――」
重治の質問に、信長が方法を教えた。
この『奇妙な土塀』とは、北伊勢の長野城を北畠軍撃退の為に、信長が改修し仕上げた侵入防止塀で(33話参照)、かつて前々世の酒の席で竹中重治が提案した策を、信長がこの歴史で再現したモノである。
そんな前々世の歴史的知識を、竹中重治は逆輸入の形で知った。
「なるほど……。盛り土ごと敵の梯子を落とし、落とした先には堀と剣山。ふーむ。流石は織田様ですなぁ。知らぬ者にはさぞかし『うつけ』に見える事でしょう」
重治は信長の目の前で、しかも他国の当主を『うつけ』と評したが、もちろん褒め言葉である。
抑えられない興味と秘める智謀で、観察し、触診し、重治は野鼠の様に動き回り確認していた。
「どうじゃ? ワシも見るのは初めてじゃし、仕組みは理解したが通用すると思うか? ……いや通用したのじゃったな。しかし……うーむ……これは……」
実物を見て、更にその現場にいた信長の証言を聞いても、道三は俄かには信じられなかった。
実績はあったとしても、道三としては己で経験した訳ではない。
この新しい戦法に戸惑いは隠せなかった。
また、戦国武将の性なのか、己ならどう攻略するか考え込むのであった。
「伊勢で成功したのであれば、然程問題無いとは思いますが……」
重治がさらに口を挟みつつ、何か思う所がある様に口籠もった。
「……思いますが? 懸念がありますか? 遠慮は無用です。仰って下さい」
同行する帰蝶の眼が鋭さを増す。
そんな帰蝶の対応に、道三始め率いられた諸将は慌てた。
まさか重治が、直球でケチを付けるとは思わなかったからだ。
しかしそれは勘違いである。
ケチを付けられた事に対する不快感からの鋭い眼光ではなく、別次元の考案者が語る懸念に興味が尽きなかったからだ。
「では申し上げます。暖冬とは言え、この冬の雨雪に晒された土が凍結して固まってしまったら、いざ決戦時に崩れ易くなっているのか疑問です。飛騨と伊勢では気候も違います。決戦当日の状態は念入りに確認しておかねばなりません。崩れる土だから有利なのであって、頑丈な土では我等に害をなします」
重治は、冬特有の淀んだ空を見上げ、即座に懸念を示した。
「突破できない門と鉄菱を用いた丸太足場は、成る程と唸らされましたが、この塀は過信は禁物かと。織田様が考案したのか誰かが進言したのか知りませぬが、誰かの進言ならその者は酔っ払っていたのではないでしょうか?」
《正解! 貴方が酔っ払って考案した壁よ? 別次元の話だけども》
《半兵衛さんが考案する前に実現してしまいましたからねー》
《前々世は酒の席での戯言であったか……。まぁ良い。実際に内側から仕掛けを見た道三でさえ呆気に取られたのじゃ。外から来る武田には効果が見込めよう》
帰蝶とファラージャは、転生者ならではの歴史の巡り合わせを楽しみ、信長は少々残念に思いつつ言葉を繋いだ。
「半兵衛とやら。その懸念は最じゃ。では義父上、決戦までは土の状態を確認させましょう」
「婿殿。これが伊勢での長野城防衛戦の全容か?」
「細かい所では、投石や投げ縄、挑発をしましたが基本的にはコレが全てです」
「長野城の顛末は報告では聞いていたが、成る程な。防御完全特化ならばコレでも良いのだろう。しかし今回は武田を跳ね返した後も重要じゃ。その辺りはわかっておるな?」
「勿論です。まずは道中の伏兵に鉄砲350丁。これで迎え撃ちつつ城に誘い込みます」
「全体の統率は僭越ながら某が務め申す」
「これは備後守殿」
備後守と呼ばれたのは織田信秀である。
織田家伝統の『弾正忠』は、天下布武法度に従い名乗るのを辞めている。(87話参照)
「某は防戦は好みませぬが、それでもこの陣容と防御戦法で退けられぬ敵などありますまい」
織田軍は、以前の朝倉との対決で鉄砲を300丁用意したが、今回三家合同の現在では700丁の運用を可能とし、桜洞城と入道洞城に350丁ずつ配備した。
更には、器用の仁たる織田信秀と美濃の蝮たる斎藤道三の、かつては敵同士として激闘を繰り広げた者のタッグである。
三木家も織田と斎藤の援助を受け、地域の顔役である姉小路家を上回る力をつけている。
撃退できぬハズが無い。
「では、一旦ワシと於濃は入道洞城に向かいま―――」
「ちょっと待って下さい!」
一通りの説明を終えた信長が、出立しようとした所で帰蝶が遮った。
「出立前に父上、私と立ち会って頂けませぬか?」
「立ち会う……は!?」
急に帰蝶に呼ばれた道三は驚いた。
「蝮の道三は槍の達人。その絶技を体験したく思います。父上のご健在の姿が軍にとって何よりもの活力になりましょう」
帰蝶は帰蝶で思惑があった。
道三の絶技を経験し習得する事と、軍全体の鼓舞を計算して。
帰蝶の強さは全軍が周知している。
帰蝶が勝つなら次代の勢いが、道三が勝つなら頼もしい先代が控えていると知れ渡る。
結果がどっちに転んでも軍にマイナスになる事は無い。
「なるほど。そういう考えなら理解できる。理解できるが、お主、まだ強くなる気なのか……」
道三は、信長と信秀に視線を向け眼で謝罪した。
『お転婆娘で申し訳ない』と―――
信長と信秀は道三に眼で謝罪を受け取った。
『御気になさらずに』と―――
「ハァ~……。全く誰に似たのやら……。よかろう!」
瞬間、道三の気配が一変する。
そこには老人道三ではなく、間違い無く蝮の道三が闘気を放射し仁王立ちしていた。
「お主にはワシの槍捌きを見せた事が無かったな! 年老いた身であるが稽古をつけてやろう!」
かつて若い頃の油売り時代に、一文銭の穴に油を通過させるパフォーマンスで商売を繁盛させた道三。
その精密動作は槍捌きにも発揮され、槍で一文銭の穴を的確に突いたと言われる。
そんな道三にとって、鎧の隙間を突くなど造作も無い事であり、槍を突いた回数だけ死体が増える。
美濃の支配者となって前線に出る事は無くなったが、年老いても腕力に頼らぬ技術故に強さも健在である。
《お、おい……! 怪我をするなよ!? あと、させるなよ!?》
《わかってますよ。しかし対武田の為にやり残す事があってはなりません。ダメ押しです!》
そんな2人の激闘の詳細は別の話であるが、全軍は大いに鼓舞されるのであった。
『ド田舎で秘境の地たる甲斐の小僧など何するものぞ!』
『武田には一歩たりとも飛騨には侵入させぬぞ!』
そこかしこでそんな気炎があがる。
防備も必勝体勢の上、士気も充分に満たされる。
そんな光景に、武田アレルギーの信長も『これならイケる!』と確信する。
前々世では、末端の兵士までアレルギーを発症した事を思えば、雲泥の差であろう。
「それではワシは、朝倉と連携する為に入道洞城に向かいます」
「うむ。宗滴の爺によろしく言っておいてくれ」
「痛たた……。頼んだぞ」
「はッ!」
「では大殿と父上、私は一旦入道洞城に行き、また戻って参ります」
信長と帰蝶は、道三と信秀の2人の父に見送られ飛騨北の入道洞城に向かうのであった。
桜洞城の防備は三木家を中心に、斎藤道三率いる斎藤家と織田信秀率いる織田家が担当している。
三木陣営は三木良頼、三木頼綱。
斎藤陣営は斎藤道三、竹中重治、明智光秀、斎藤利三、不破光治。
織田陣営は織田信秀、斎藤帰蝶、柴田勝家、森可成、河尻秀隆、丹羽長秀、佐々成政、前田利家、藤吉郎。
【飛騨国/入道洞城 江間領】
一方、入道洞城でも同じ様なやり取りが行われた。
「この奇妙な塀は何じゃ?」
「これは塀に取り付く兵を、梯子ごと敵を叩き落す為の仕掛けです」
朝倉宗滴の質問に信長が答えた。
「あぁ、コレが噂に聞くアレか。成る程のう。じゃあ、あの城門前の大量の土も伊勢で試した奴じゃな?」
城門の内側の身長を遥かに超える土の山を目の前にして、宗滴は呆れた様な、驚嘆した様な表情で尋ねる。
「そうです。絶対に突破出来ない門です。無論、追撃脱出の為の出入り口は別に備えています」
「流石若者は頭が柔らかいのう。この人をコケにしくさる引き戸など最悪じゃ。本当に、もう本当に悪質な仕掛けじゃて。年寄りには思いつかんわ! そう思わぬか左京殿?(武田信虎)」
問いかけられた信虎も、この仕掛けには愕然とする思いであった。
「自分が突破する側だとしたら、憤死するかもしれませんな……。愚息達に少し同情しましたぞ。若い者の発想は、時に斬新と言うか残酷と言いますか驚かされますな」
信虎は、ここに攻め寄せるであろう、自分を追い出した武田軍を少し哀れむのであった。
《若者若者って言っても、人生経験年数は信長さんと良い勝負ですけどねー》
《うーむ。そう言えばそうだったな》
《今までの人生経験が、色んな発想に繋がるか否かだと思うんです》
ファラージャは物事の考え方に『経験年齢』は言うほど関係無く、重要なのは『経験年齢』ではなく『人生経験』と思っている。
一方、信長は経験年数をすっかり忘れていたのか、転生の歴史改竄がもたらす現象に面白そうに唸った。
《しかしソレでもだ。あの怪物宗滴が思いつかんとはな。何か懸念でもあるかもしれんな。聞いてみるか》
信長は、宗滴が老人だから思いつかないのではなく、思いついても危険だから実施しなかった可能性もあるのではと判断した。
「どうですか? 宗滴殿ならば突破できますか?」
「こうやって裏側から仕組みを知ったからな。出来なくはない」
「!!」
《!!》
宗滴はアッサリと言ってのけた。
「その戦の規模や状況、利益や損害を考慮した上で判断するじゃろうが―――」
宗滴は、攻略時の損害と利益を天秤に掛けて判断すると言ったが、仕掛けを見たとは言え、突破可能だと言い切る判断に信長は驚きを禁じえない。
「その上で、この門を何が何でも突破する必要があるなら、やり様はある。しかし、出来ればやりたくはないな」
「聞かせてもらっても?」
「この城は徹底的な防御を目指しておるが、その実、短期決戦向きの防御形態じゃ。伊勢の様に1日で終らせられるならコレでもいい。しかし長期篭城には不利じゃな。例えば門に取り付いてしまえば工作はし放題じゃ。打って出る仕組みの城ではないからな。極限まで接近されたら手出しができん。特に城門前は潜り込んだら死角じゃ」
「確かに。伊勢では挑発策の確認の為、可能な限り城門に引きつけておく為に城門へ取り付いた兵には攻撃しませんでした。あの時、取り付いた兵を倒すとなると非常に狙いにくかったのは事実です」
仮に門に取り付いた兵を狙うとなると、メチャクチャ体を乗り出す無理な体制を強いられる。
そんな体勢では、逆に狙われて危険極まりない。
「やはりか。後は時間をかけていいなら土竜の様に穴を掘って城門を破壊してもいい。これだけの土の量じゃ。自重で崩落させる事など簡単じゃ」
「……驚きました。この防備の弱点をこうも的確に、しかも一目で見抜くとは」
地下トンネルを掘り進み、地中から破壊工作を仕掛ける戦法を『土竜攻め』或いは『金堀攻め』と言う。
特に豊富な金山を抱ええた甲斐では、穴を掘る技能に長けた人材が豊富であり、武田信玄はその戦法を活用したと言われる。
「内側を見て知ったからな。それ故の戦略じゃ。安心せい。知らなければ容易に突破は出来ん」
その宗滴のお墨付きとも言える判断を、信長は危機感をもって捉えた。
「では、突破される前提で戦わねばならぬ、という事ですな?」
「そう言う事じゃ」
その答えに宗滴は満足そうに頷く。
実は信長もソレを懸念材料として感じていたが、どの道、宗滴の言う通り短期決戦の城であり、地下から攻撃を受ける可能性は低いと見ていた。
ただ、低い可能性だからと言って考慮しないのは愚かである。
「この城の内側には建材が多く確保してあります。土竜攻めの気配を感じたら即座に動ける様にしておきます」
「うむ。ならば良い。後は武田を待つだけじゃな。織田殿の鉄砲350丁にワシらの指揮采配、更に江間もこの数年で地盤を固め力を付けておる。武田の小僧など軽く捻ってくれよう!」
信長と宗滴が、戦法、戦略について擦り合わせが終わった所で、同行していた帰蝶が口を開いた。
「では、宗滴殿。待つ間に私と手合わせ願います」
「……は?」
今まで一分の隙も見せずに、信長と戦略について話していた宗滴が初めて隙を見せた。
帰蝶の願いを理解できず、脳が処理落ちを起こすかの様であった。
《お、おい……。いや、言うと思っておったが……もう好きにせい……》
《ありがとうございます!》
帰蝶は道三に対して挑んだ時の様に説明し、士気向上を狙った体での武芸訓練を申しでた。
その余りの身の程知らず、いや、自殺行為に朝倉家の面々は驚き戸惑った。
戦国武将を体現したと言っても全く過言では無い宗滴に、しかも女子の身で挑む者など越前国には存在しない。
いや、日本全国探しても存在しないであろう。
「これは驚いた。越前ではワシが訓練しようと言うと、男子でさえ腰が引け嫌々感が隠し切れぬと言うのにのう。織田殿。武士の妻たる者、こうでなくてはならぬな!」
情報通の宗滴である。
信長の妻、帰蝶が武芸に熱心なのは把握していた。
余りに唐突だったので宗滴らしからぬ醜態を晒したが、思わぬ挑戦者の出現には凶悪な笑みを浮かべて応えた。
名声のどこを切り取っても傑出した宗滴であるが故に、向上心を持つ者は好ましくあった。
《知っておるかもしれぬが、一応注意しておくぞ? 宗滴は馬上からの一撃でワシに膝を付かせ、義龍が死ぬ寸前まで追い込まれた怪物じゃ。(78話、81話参照)》
《知っています! なればこそ経験したいのです!》
帰蝶は宗滴と直接対決をした事が無い。
あるのは宗滴の指揮で翻弄された苦い記憶だけである。(8章参照)
オロオロと慌てる朝倉家の面々と、半ば諦めたかの様な織田家の面々の気持ちが痛いほど理解できる信長。
その信長は宗滴に向かって言った。
「宗滴殿、申し訳ありませぬが付き合ってやって下され。2人の闘う姿が何よりの士気向上になりましょう」
「良かろう。では参ろうか!」
「はい!」
そんな2人の激闘の詳細は別の話であるが、桜洞城同様、全軍は大いに鼓舞されるのであった。
「それでは私は桜洞城に戻ります」
「うむ。親父殿と義父上に宜しく言っておいてくれ」
「濃姫殿。お互い生き残ったら、また手合わせしようぞ!」
「はッ!」
戦い終えた帰蝶は、満足げな表情で桜洞城に戻っていった。
「……お主の妻は凄いな」
「……恐縮です」
その頼もしい帰蝶の背中を、信長と宗滴は見送るのであった。
入道洞城の防備は江間家を中心に、朝倉宗滴率いる朝倉家と織田信長率いる織田家が担当している。
江間陣営は江馬時盛、江馬輝盛。
朝倉陣営は朝倉宗滴、朝倉景紀、朝倉景垙、山崎吉家、真柄直隆、真柄直澄
織田陣営は織田信長、織田信広、武田信虎、佐久間盛信、滝川一益、飯尾尚清、瑞林葵、坂茜、九鬼浄隆、塙直政、塙直子。
信長と帰蝶はやるべき事を全て終え、武田の来襲に備えるのであった。
【武田軍/武田晴信陣】
晴信は、出陣前の軍議を思い返していた。
『信長が城の防備を固める場合、本当に亀の様に固まる可能性があります。その方法とは―――』
織田家から武田家に逃げていた浅井政貞は、伊勢で信長が行った戦法をしっかり漏洩していた。
その事実を知ったからこその、一点突破ではなく2方面作戦であり、1方面に全戦力を集中させての突破は今は出来ない故の戦略である。
その詳細を知った武田晴信と信繁は、織田を滅ぼし飛騨を手に入れる戦略を考え出した。
『成る程。事実であれば何という好都合な城よ』
『そうですな。どう攻略するか頭を抱えましたが、見方を変えれば都合が良すぎて恐ろしいですな』
兄弟は不敵に笑うのであった。
「これより飛騨入道洞城を攻略する! 信濃衆よ! その武名と忠誠、功績を上げ地域を支配せよ! 奪わねば死あるのみ! 掛かれ!」
信繁が向かう桜洞城でも同じ様に攻略が開始され、史実に存在しない、織田信長vs武田晴信の戦端が開かれたのであった。