108-3話 弘治の謀 京と南近江、尾張
108話は3部構成です。
108-1話からお願いします。
【山城国/三好館内将軍御所 足利将軍家】
「朽木家、若狭武田家、浅井家のどこかと婚姻してくれればと思っておったが……そうか。浅井か」
「はっ。欲を言うなら朽木関係者が望ましかったですが、策が成った事を思えば上々と言えます。これで織田斎藤の内情を探りつつ三好に対して浅井の戦力を存分に使う事ができましょう」
そんな話をしているのは、狭く最低限の体裁しか整えられていない将軍御所の主人、足利義輝と細川晴元である。
まさしく斎藤義龍が危惧した通りであった。
今回の騒動と斎藤家への姫の送り込み。
これは、危ういバランスで成り立っている近江情勢を正確に把握し、三好に対して少しでも戦力を投入できる様にする為だ。
京の背後の近江の事情、東側最大の敵である織田斎藤を探るべく、なるべく警戒されない様に『ありえない位に遠回りな策』で実施した謀略であった。
「ふぅ。薄氷を踏むが如くだったわ。朽木も浅井も若狭武田も斎藤とは犬猿の仲。それなのにワシが婚姻を斡旋しようものなら狙いがバレバレじゃしな。仮に背後に潜むワシが見えていたとしても、真の狙いを隠せておれば万々歳よ」
「くどい程に遠回りな策でしたからな。しかも我らが表立って動かなかったお陰で、三好の目にも察知されてはいません」
周囲が敵だらけの斎藤家に人を送り込むにしても、兵士や新人の武将、出奔してきた武将を中枢に食い込ませるのは難しい。
手っ取り早いのは婚姻による姫の送り込みと考え、しかし敵対する自陣営から打診しては、怪し過ぎるし弱みを見せる様で都合が悪い。
故に義輝はありえない程に遠回りの策を実施し『薄氷を歩むが如く』と表現したのである。
本当に一歩間違えば、斎藤や三好に察知されかねない賭けをしたのは、当然ながら尼子と連携して三好を揺さぶる腹積りである。
それもこれも、三好との対決で斎藤家の横槍を可能な限り避ける為であり、もし仮に斎藤家と朽木家と婚姻が成れば、地理的に遮るので100点満点の策となったが、浅井家であっても最低限の目的は達成できる。
「あとは……」
義輝の口からは、それ以上の言葉が続かなかった。
言えば謀が失敗してしまいそうな気がして。
敗北と流浪を繰り返し、武家の頂点に立ちながら、最底辺の力しか持ち合わせぬ義輝。
震える左手を、右手で無意識に押さえつけているのにも気が付かない程の、緊張と達成感を感じる義輝であった。
【近江国南/観音寺城 六角家】
京のすぐ隣の、南近江一帯を支配する六角家の主戦場は中央こそにある。
先代の六角定頼が成し遂げた、近代的な家臣団の統制に楽市楽座はどちらも史上初の快挙で、南近江は人も財も大発展を遂げた。
そのお陰で六角家は時には将軍家に介入し、時には軍を出して三好と争い、浅井を支配下に置き、琵琶湖と近江商人を駆使して財を成し、天下の覇権を争うに相応しい勢力に成長した今―――
何故か、存在感の薄い勢力になり果ててしまった。
「何故、何故こうも動きにくいのだ?」
六角義賢は激動過ぎる時世の流れに、懸命にしがみ付き藻掻いていた。
浅井の支配を失うミスも、あるにはあった。
しかし、躍進する織田や斎藤にも領地を奪われる様な隙を見せる事なく、堅牢に守り抜いた。
将軍の要請に従い三好と戦った。
その戦では敗れはしたものの、勝負は時の運。
三好長慶の末弟を討ち取った功績などは、将軍派の意地を見せる面目躍如であった。
しかし時代の主役には成れなかった―――
「中央の権力闘争は息苦しい戦いじゃ。派手な動きを見せるだけが戦いではない」
1552年に父の六角定頼が没し家督を継いだ六角義賢は、そう宣言して表に裏に三好と争ってきた。
しかしここ数年で、東に異常な成長を見せる勢力が出来上る。
本来ならもっと中央に食い込みたいが故に、東側の争いは防備に徹していたのであるが、本来の歴史ならば正しかったであろう対応も、完全に裏目に出てしまう有様である。
何せ本来の歴史では、信長は尾張の統一すらできていない。
だから、後手に回った義賢の対応を責めるのは酷な話である。
だが、だからと言って許される時代では無いし、歴史が違う事を知る由もないので誰も同情などしてくれない。
「将軍が包囲網を結成し承諾したのは良いが、全て尼子の動き次第と言うのが気に入らん! 誰の助力で今の包囲網ができたと思っておるのか!」
そう不満を口にした所で、どうにもならない現実がある。
「こんな屈辱を許していいのか!? 当然駄目であろうな。そうかそうか……。左近衛中将殿(足利義輝)ではきっと将軍職は荷が重いのだろうな。荷を外してやるのも忠臣の務めであろう」
義賢は歪んだ親切心を働かせ、1人の人物に白羽の矢を立てた。
これら全て―――
三好長慶の思惑通りの展開である―――
【山城国/三好館 三好家】
「そうか。阿波御所様が姿を消したか」
阿波御所様とは足利義冬の事であり、12代将軍の弟である。
義冬は、三好の本拠地である阿波国で保護されていたが、先だって姿を消し、六角領に向かった事を長慶は正確に把握していた。
「中央の権力闘争は息苦しい戦いじゃ。派手な動きを見せるだけが戦いではない」
奇しくも義賢と同じ言葉を発した長慶は、前年の織田斎藤今川の上洛を思い出していた。(101話参照)
信長は、長慶の弟が六角に打ち取られた事に対して、踏み込んだ提案をした。
その内容は『六角を討ち滅ぼそうとは思わないのですか? 確かに周辺は中立勢力が多く動き難いですが、三好殿と我等で挟み込んでいるのも事実。全軍を動員せずとも押し潰してしまうのは可能なのでは?』と敵討ちを提案した。
それに対する長慶の答えが、『感情で動いては勝てる戦も勝てなくなる。六角を生かしておいてこその策でもあるのじゃ』である。
それは、まさに今の展開を狙った、長慶の謀略であった。
今までの六角と、あの時(98話参照)からの六角を正確に現状と今後を予測し、あえての無視、活躍の場を与えぬ事で矜持を傷付けた。
決して将軍陣営が一枚岩にならぬ様、六角義賢という埋伏の毒を作り育て上げたのである。
「ワシの弟を討ち取ったのじゃからな。コレぐらい踊って貰わねば釣り合いが取れぬ。散々に踊り狂って……破滅するがいい!!」
弟の死で、激高したくなる思いを冷徹に封殺し、見事に策に組み込んだ長慶の、役者が違うと言わんばかりの手腕であった。
「冬長よ。一先ず思惑通りになりそうじゃ。良くぞ成功したものよ」
長慶は大きく息を吐き、討ち取られた弟の諱を口にした。
思惑通りと言いつつ、流石の長慶も斎藤と浅井の婚姻関係は察知できなかったし、他にも局地的な場所の細かい展開をコントロール出来た訳でもない。
だが、東側最大脅威の六角が、将軍派最大の弱点と見抜いてしまった以上、無策で無意味な敵討ちは、弟の無念の死を冒涜してしまうと考えた。
考えたならば、どうするのが最適か?
長慶はが考え出した策は、薄氷を踏む所ではなく、空気で首を絞めるが如く静かに、自ら動くでもなく、ただ待つ事だった。
謀略の臭いを少しも漏らさない様に。
長慶は、もう一度大きく深呼吸をした。
失敗すれば弟の仇も討てない弱腰と思われ、将軍派を勢い付かす特大リスクを追うだけに、その達成感は火鉢の炭が吐き出す息に反応して、バチバチと音を立てるほどであった。
「窒息しそうじゃったが耐えた我等の勝ちよ。さて信長よ。ワシの策に気づいたか?」
長慶は東の同盟者である信長に、あの時の問いに対する答えを示し、反応を確認したい欲に駆られたのであった。
【尾張国/人地城(旧:那古野城) 織田家】
「恐ろしい奴じゃな……」
信長がポツリと呟いた。
堺に出向させている林秀貞の値千金の報告により、三好長慶の計算と策の全貌を遅まきながら気付いた信長。
史実の流れと今の流れ、史実の三好長慶と今の三好長慶。
更に、長慶から直接聞いた不自然な対応による、違和感の様なヒント。
オマケに、48+5+9年の特殊な人生経験を持ってして、ようやく気が付けた長慶の策であった。
弟の仇討ちをしない、天下人に相応しくない不自然な行動に、史実の次の天下人であり、元天下人である信長は、深く追及こそしなかったが長慶の判断は到底納得できる行動ではなかった。
故に考えた。
長慶の言う『何もしない事が策』とは何かを。
考えに考えて『まさか六角の離反を狙って?』と思う事もあったが、懐柔するでもなく放置するでは、余りにも遠回り過ぎて現実味が無く一度は頭から追い出した策であった。
敵対している弟なら無反応でも理解は及ぶ。
だが家臣として誠実に働く弟が、敵勢力に討ち取られて特に対応しない。
しかもそれが策になり成功するとは、天下人の天下人たる力を見せ付けられている様であった。
ただしそれを正確に把握できたのも、信長が紛れも無い天下人の資質を秘めてこそである。
《この感覚、覚えがあるな。長慶もさぞ驚いているだろうな》
《どんな感覚なんです?》
《どんなに無茶や無謀であっても、やる事、成す事、全て思うが儘になる全能の感覚じゃ》
《全能ですか……。神様みたいな感覚ですかね》
《本当に神仏が存在しているなら、その感覚なのだろうな。釈迦が手の平で孫悟空を眺めて楽しむが如くよ》
頂点を誰かから受け継いだだけではない、圧倒的実力で頂を奪って君臨する者でしか理解できない感覚なのであろうと、ファラージャは判らないなりに判断した。
《その深謀遠慮に気が付いた今、ならばどう動くのが正しいか? 武田が予想外に大人しい今、出来る事は何じゃ? ……当然情報収集じゃ》
既に多数の間者をあらゆる場所に派遣している信長であるが、その時に備え更なる策略を重ねる事にした。
《今回の歴史では、六角は己の躍進と停滞をどこまで理解しているか判らぬが、その結果、後藤、進藤、蒲生が失われるかも可能性が高いのは痛すぎるな》
《蒲生はともかく、他はマイナーですね? ……あ》
ファラージャは今川義元の時と同じミスをしてしまった事に気が付いたが、後の祭りであった。(25話参照)
《何を言っとる! あ奴等はな―――》
信長が『失われる可能性』と言ったのは、後藤賢豊、進藤賢盛、蒲生賢秀ら六角家躍進の功労者達である。
後藤賢豊、進藤賢盛は『六角氏の両藤』と称えられ、後藤賢豊は六角義賢に史実における『観音寺騒動』で謀殺されてしまうが人望厚い実力者で、子の高治は後に信長に仕えている。
信長に仕えるのは進藤賢盛、蒲生賢秀も同じであるが、彼らは先の観音寺騒動での家中の争いを反省し『六角氏式目』という分国法を作り上げる。
だが、実はこの分国法『六角家式目』の内容は、凄まじい事この上無い。
他国の法は領国経営であったり、裁判や犯罪軍事に対する治安法であるのに対し、六角氏式目は経営治安軍事の法もあるにはあるが、この法の主成分は、何と主君の権限を制限する前代未聞の法である。
進藤賢盛、蒲生賢秀は、そんな無礼極まりない法を主君に認めさせた辣腕者である。
当然、織田家に移った後も、それぞれ家中で一翼を担う武将として活躍した。
おまけに、本当に偶然だが、蒲生賢秀の息子である賦秀(氏郷)の才能は信長も大いに認め、娘を与えた程の才である。
いずれの者たちも『歴史が変わったから仕方ない』と諦めて良い人材では無いし、現在の若い3人も既に頭角を現しているのは聞き及んでおり、尚更捨て置く訳には行かなかった。
《―――と言う訳じゃ! 分かったか!?》
《はい……》
《よし! ならば手を打たねばなるまいな……!》
信長は、東には最大限の警戒をしつつ、西の動向に目を配り、今回の歴史ではまだ未接触の未来の名将と、恐らく来年生まれる賦秀を手中に収めるべく謀を巡らすのであった。
11.5章 弘治元年(1555年) 完
12章 弘治2年へと続く