108-2話 弘治の謀 北近江地方
108話は3部構成です。
108-1話からお願いします。
【尾張国/人地城(旧:那古野城) 織田家】
帰蝶の下に、斎藤家から美濃三人衆の連名で一通の書状が届けられた。
内容は『近江に今龍城が完成したので、一度ご覧になって下さい。きっと我が殿もお喜びになると思います。琵琶湖に近く風光明媚な景色は天下に比類無き云々かんぬん斯々然々―――』との事であった。
《行ってくるが良い。育児休暇をつかわす。……一瞬お主の前世を思い出したぞ》
飛騨から帰還してきた信長が、手紙について相談してきた帰蝶に即決で許可を出した。
帰蝶は育児と幼子の訓練を同時に捌いていたが、流石に疲労の限界だった様で、前世の病気の時の様に余りにも窶れた顔をしていた。
また前世の体に戻っても困るので、気分転換を促すためにも許可を出したのである。
《ありがとうございます。流石に疲れましたので気分転換でもしてきます……》
《あの……育児休暇って、本来はそう言う意味では……いえ、何でもないです》
ファラージャは説明しようとして辞めた。
この時代には存在しない概念だからであるが、この史上初の育児休暇が長い年月を掛けて我々の良く知る意味として変化し知られる事になるのは完全に余談である。
こうして帰蝶は美濃から北近江へとリフレシュを兼ねて旅立っていった。
策謀渦巻く今龍へ―――
【近江国北/今龍城(旧:今浜城) 斎藤家】
「き、帰蝶様ですね、しばしお待ち下さい!」
《これが今龍城ね。慣れない言葉で違和感が凄いけど》
相変わらず語感の悪い今龍城に到着した帰蝶は、門番に来着を告げると暫く待たされる事になった。
《史実では今浜から長浜で、今回は今龍ですからねー。歴史を知る人なら気持ち悪い語感でしょうねー》
そんな雑談をする事四半刻にも満たない時間であるが、妹に対して執着激しい兄にしては対応が遅い事に帰蝶は疑問を感じた。
「結構待たせるわね。何かあったの?」
「はっ!? あの、と、殿からお達しが!? その、誰であろうと厳格に対応するようにと。申し訳ありません!」
「そうなの。大変ね。まぁ周辺地域の状況を思えば当然よね。ごめんなさい」
ほとんど顔パスで通れると思っていた帰蝶。
だが、流石に顔パスは無警戒過ぎるかと思い直し己の非を謝罪した。
「い、いえ、そう言う訳では……。わ、わかりました。どうぞお通り下さい」
「え、いいの? じゃあ遠慮なく」
神妙で、しかし困った面持ちの門番に。少しの違和感を感じつつも帰蝶は門を通過した。
《何の為の待ち時間だったんでしょうね?》
《さぁ? 何か罪悪感的な雰囲気を感じたけど……って何!?》
突如、前方から声が聞こえる。
明らかに通常ではなく非常時の緊迫した声である。
「うおぉぉッ! 帰蝶様ァ!」
「お待ちしていましたッ!!」
「どうぞ! どうぞ此方にッ!!」
「え……えっ!?」
帰蝶来訪の報告を受けた美濃三人衆の、稲葉良通、安藤守就、氏家直元が袴をたくし上げ砂煙を巻き上げ猛然と、しかし美しいフォームで駆け寄ってくる。
嫌な予感がした帰蝶は、即座に踵を返そうとした。
《あっこれはマズイ! 帰るわよファラ!》
《え?》
「させませんぞ!」
「逃がすなぁッ!」
「門番! 門を閉じよ!」
「は、ハイッ!」
《謀られたわ! 私とした事が! 疲れてこんな事も察知出来ないなんて!》
《えッ!? 謀られた!?》
全ては美濃三人衆の謀略であった。
手紙は如何にも無難な文章で警戒感を抱かせず、なおかつ来訪しても問題ない状況に、偶然であるが育児の休暇も重なった。
全ては帰蝶を今龍に誘い込む為に。
斎藤家の困難を、出来るだけ身内で処理する為に。
門番が困っていたのは、まさしく帰蝶を足止めする罪悪感で、良心の呵責に耐えかねての通過許可であった。
そうこうしている内に、3人に取り囲まれた帰蝶。
三人衆は肩で息をしながら、にじり寄り逃げ道を塞ぐ。
《クッ……全くもう! あの手紙から謀略が始まっていたのね!》
《下らな……見事な謀略ですね……》
「はぁ……。降参です。参りました。抵抗は致しません。兄上に何か有ったのですね?」
「まさしく! 我等では最早制御能わず! 帰蝶様が最後の希望なのです!」
《彼等で制御できない兄には会いたくないなぁ……》
帰蝶の性格から考えて『面倒な状態の肉親からは逃げるだろう』と考えた末の今回の包囲である。
その時、城の奥から爆音の様な怒声が響いてきた。
「くそッ! 余計な所で成長しおってッ!」
屋根に止まっていた鳥が驚いて飛び立った。
今龍城の主、斎藤義龍の声である。
《やっぱり抵抗しようかしら。行きたくない……!》
《流石に見捨てるのも可哀そうなのでは……?》
そのまま部屋の前に通された帰蝶は、襖から漂う只ならぬ雰囲気に嫌な予感を覚えるが、それを見越した美濃三人衆がガッチリと帰蝶を囲んで逃げ場を塞いでいる。
「気弱らしくじっとしておれば良いモノをッ!!」
更なる怒声に一堂は首を竦める。
斎藤義龍の怒声は襖を激しく震わせ外れそうな程に響き、三人衆が帰蝶に『何とかして下さい!』と視線を飛ばす。
《耳が、いや脳が!!》
《凄い。テレパシーじゃないのに彼らが何言ってるか完璧に理解できるわ!? もう絶対入りたくない、けど仕方ない!!》
ファラージャと帰蝶は、頭の中で乱反射する怒声に眩暈を覚えつつ覚悟を決めた。
「殿、帰蝶様が参りましたぞ!」
渋面の帰蝶を一切無視して、守就が小姓の真似事して来訪を告げる。
「おう帰蝶か! うむ、遠慮せず入れ……って何じゃお主ら小姓の真似事なんぞして」
「……何故でしょうね?」
「……我らも不思議に思っております」
良通と直元が感情を殺し、顔を引き攣らせながら答える。
斎藤家の重臣中の重臣が何故こんな事をしているかと言えば、義龍がストレスを発散する為に小姓が部屋から遠ざけられているからである。
それを忘れた義龍の失言であるが、だがそれ程までに荒れるのには勿論理由があった。
一方で、3人は小姓の真似事までして成功させた謀略を無にしない為に、帰蝶を部屋へ押し込んだ。
「遠路はるばる良く来たな。まぁ座れ。ちょうど良い、お主等も同席せよ」
「兄上もご機嫌……見るからに良くは無さそうですね。一体何が?」
「そうなのじゃ! 聞いてくれ妹よ―――」
美濃から近江の一部を経由し、若狭までの土地を支配している斎藤家。
現在の状況は、散発的な一揆や若狭武田の残党や朽木家からと思われる破壊活動に、頭を痛めていた。
朽木家には若狭の元領主である武田義統が在籍し、旧領奪回に向け若狭国内の残党を動かしているのが原因であるが、これらの鎮圧が上手く行かなかった。
その上さらに頭の痛い問題が、近江北東に位置する浅井である。
とは言っても、浅井とは軍勢の揉め事ではなく領民同士のいざこざである。
近江には巨大な貯水池である琵琶湖が存在し、そこには合計119もの河川から水が流れ込むが、戦に敗れ北近江の更に北東に追いやられた浅井家は、斎藤領に流れる川の上流を多数押さえているのである。
斎藤家としても浅井領から流れてくる川を頼りに作物を育てている。
しかし、その浅井領民が上流であるのを良い事に、堰を作って水量を故意に減らしたりゴミを下流に流して、まるで斎藤家が近江に侵攻してきた時の意趣返しとでも言わんばかりの嫌がらせであった。(79話参照)
これが原因で小競り合いが起きており、領民に少なくない死傷者も出ており、また国として舐められたままでは沽券に関わるので、義龍としても対応しない訳にはいかない。
『は、はぁ!? 浅井様の為にじゃと!?』
その為に事情を聴いてみれば、理由は『浅井を裏切った領民への報復』である。
浅井久政は善政を敷いており、戦の腕前はともかく領民から一定の人気は得ていた。
だから斎藤家に従う領民は裏切り者だと言われているらしい。
これは無くは無い話であった。
小田氏治という武将がいる。
史実では戦国最弱と一部で絶大な人気を誇るは彼は、何度敗北して領地を追われても、かつての領民から年貢を納められていたらしい。
小田氏治の例は極めて特殊で極端な例ではある。
だが善政を敷いた前領主を偲び、新領主に従わないのは有り得る話であり、農民は虐げられるだけの存在ではないのである。
だが今回の件に関しては、別に義龍の政治が久政に劣るかと言えばそうではない。
むしろ、斎藤領となった北近江部分の領民の生活の質は、向上さえしている。
だからこそ妬んだ浅井領民が仕掛けたと言えるが、調べれば調べるほど問題の本質は政治ではなく謀略であった。
何故なら義龍が西に対応しようとしたら東が、東を対応しようとしたら西が、といった感じで、どう考えても浅井久政と武田義統が連携しているとしか思えない、露骨な動きを見せていたからである。
『だが、西はともかく東には手が出せん……!』
浅井は対外的に朝倉の傘下に属しており、その朝倉が斎藤織田とも和睦してはいる。
また、朝倉としても、将軍と三好を両天秤に掛けているので、浅井を強く咎める事をしていないのも要因であった。
『いっその事、滅ぼしてしまおうか!? ……無理だけど!』
義龍は、朝倉宗滴の武威を思い出して身震いする。
それに宗滴どうこうよりも、朝倉には対武田で協力してもらってるので、足並みを乱すのは自殺行為である。
そんな訳で浅井は今、極めて弱い立場でありながら、好き勝手気ままに行動を起こせる環境が偶然にも出来上がっていたのである。
遅まきながら北東近江の4分の3を手痛い授業料として支払った久政は、戦国大名としてらしい行動をとるのであった。
その結果、斎藤家は若狭も近江も支配が滞る。
腰を落ち着けて政治を行わせ無い様にする、敵対勢力の強い意志が感じられた。
「―――と言う訳じゃ!」
長い義龍の説明が終わり、同席する者達はグッタリした。
2m近い大男の迫力と、強い怒りの感情を伴う説明は、聞いているだけで精神を消耗する。
「クソったれが!!」
義龍が荒々しく床を殴る。
地響きと共に同席する者の体が僅かに浮いた―――様な気がした。
(帰蝶様! よろしくお願いします!)
「え、えーと、そ、率直な疑問ですが……あの、本当に浅井だけの策なのでしょうか?」
帰蝶が三人衆からの無言の圧力に耐えかねて、無理やり違和感を述べた。
「むッ!? どういう事だ?」
とりあえず場を繋ぐ為の適当で無難な推測を述べたが、義龍が思いの外反応した。
予想外の食い付きに帰蝶も改めて頭を整理させつつ、自分で言っておきながら確かに感じる違和感について説明する。
「浅井がいくら成長を見せたとしても、朝倉の顔を潰し兼ねない行動を、こんなに積極的に取るでしょうか?」
浅井滅亡の危機を救ってくれた朝倉である。
そんな事をしたら、怒りの宗滴に少ない領地を蹂躙されるのは目に見えている。
あの宗滴の戦いぶりは敵だった斎藤織田は当然ながら、味方の浅井にも目に焼き付いたはずである。
ここぞとばかりに、家臣も帰蝶の疑問に乗っかる。
「確かに! 帰蝶様の仰る事には一理あります!」
「浅井の行動は不自然に過ぎます!」
「誰か裏に潜んでいるのでは!?」
「裏? 裏……浅井の裏……ッ! まさか将軍か!?」
浅井の立場で考えても、和睦と主家の同盟に守られているとは言え、斎藤家が本気で怒ったら今度こそ完全に滅亡を待つだけである。
それがわからぬ浅井久政とも思えず、そんな身を滅ぼしかねない策を実行するとすれば、より上の立場の者からの要請しかありえない。
しかし朝倉の策略とは幾ら何でも考えにくい。
ならば残るは将軍しかない。
帰蝶の口から出任せから始まった偶然の産物であるが、全ての合点がいった。
怒りで目が曇ってしまっていたが、気が付いてしまえば何の事は無い。
「何たる事じゃ! 将軍の謀略か! じゃが文句を言おうにも証拠は無い! 問い詰めて認めるハズも無い!」
「兄上、新しい妻を迎えては如何ですか?」
「はぁ? いきなり何を?」
「今思ったのですが、斎藤織田と朝倉は和睦同盟しております。その証として織田と朝倉では婚姻同盟が結ばれました。しかし斎藤と浅井は和睦だけです。兄上は義姉上とは死別して長いのに新しい妻を娶ろうとしません。これを機にどうですか?」
帰蝶の言う『死別した義姉上』とは通称『近江の方』と言われる義龍の正室で、浅井久政の妹(養女)の事である。
この近江の方は、斎藤龍興を産んで間もなく亡くなってしまい浅井とは関係が切れたが、義龍は新しい妻を娶る事も無く、浅井と改めて関係を結ぶ事も無く、信長の歴史改変によって浅井に攻め込んだ。
親兄弟で血で血を洗い争う戦国時代において、元妻の実家を考慮する必要性など無いに等しい。
史実の信長でさえ、帰蝶の実家を攻め滅ぼしているのである。
しかし今回の件に限って言えば、関係性が薄くなってしまっている分、こんな事になっていると帰蝶は推測した。
《それに兄上には子が一人しかいないのよね。今回の歴史では弟を謀殺していないけど、血筋と後継者候補が少なすぎるのは問題よね。龍興殿も頑張ってはいるけど、それでも史実通りだと不安だしね》
斎藤義龍の息子である龍興は、史実で信長に敵対し美濃から叩き出された。
現在は違う歴史を歩んでいるが、史実準拠なら才能溢れるとは言い難い未来が待ち受ける武将である。
現在は尾張に修行に来る位には良好な関係を築いて、今後どんな変化を見せるかは未知数であるが、何れにしても子が龍興だけと言うのも好ましくない。
《なるほど。歴史改変もできて一石二鳥ですね》
先ほど『今思った』とは言ったが、兄の再婚は以前から考えていた事なので、ここぞとばかりに温めていた歴史改変案を提案したのである。
《あと父上も兄上も、歴史が変化した所為か何故かメンタルが乱れる時があるから、これで少しは安定すれば良いわね》
《まぁ……それは愛情の裏返しって奴ですよ》
「改めて浅井から輿入れしてもらい、和睦の強化と浅井の自制を促す訳か……。一理ある。全て上手く行けば万々歳じゃが、お主等はどう思う?」
「今の現状と、輿入れによる斎藤家の機密の流出を天秤に掛けて、どちらが得かによりますな」
直元が問題点を言ったが、これは戦国時代では永遠のジレンマである。
他国からの婚姻同盟は関係性の強化と、機密流出や内部崩壊との戦いでもある。
史実で斎藤道三が帰蝶に対し『信長がうつけなら殺せ』と言った様に、宇喜多直家が婚姻関係を利用して次々と有力者の謀殺を成し遂げた様に。
しかし、それを恐れていては重要な同盟を結べず機を逸してしまうかもしれない。
故にジレンマなのである。
「拙者はその案には賛成です」
「某も利点が欠点を上回ると判断します」
良通も守就も賛同する。
口にはしないが妻を取る事で、義龍の荒れた性格が和らぐ事も考慮して。
もちろん重臣として、斎藤家のデメリットを考慮した上での発言である。
「問題があるとすれば、浅井は了承しないでしょうな」
「その時は、織田様や朝倉から圧力を掛けて貰うのも手ですが……」
「余り禍根を残すやり方はしたくないな」
「試してみる価値はありましょう。斎藤家だけではなく兄上にとっても良い方向になると思います」
「分かった。新たな妻を迎え入れる方向で打診してみよう」
この通るかどうか極めて不透明な打診だが、何と、思いの外すんなりと話が進んでいった。
【輿入れ当日】
輿入れしてきた姫がうやうやしく口上を述べる。
「両家には不幸にも行き違いが続きましたが、これを機に改善出来る様に私も助力は惜しみません。浅井千寿菊に御座います。喜太郎殿も姉上の子なれば血の繋がりをもって養育致しとうございます」
千寿菊姫―――
輿入れいた千寿菊は、史実では京極家に嫁ぎ『京極マリア』と後世に名を残すその人である。
歴史が変化して、浅井と京極の仲が決裂しているが故の輿入れであった。
「う、うむ。両家の発展の為お互い力を尽くそうぞ。(こ、この胆力! 中々の女傑と見た! まるで帰蝶のようじゃ!)」
義龍は千寿菊の資質を即座に看破した。
意思の強い相貌、強い瞳は間違いなく使命を帯びた者の眼である。
(……まさか……浅井久政の裏に潜む将軍の狙いはこれだったのか? 斎藤家の内部に縁者を送り込ませる為に数多の妨害工作を仕掛けた? こんな手間暇かけて? 一歩間違えば滅ぶかもしれないのに? 我等から婚姻同盟の打診を引き出す為に? ……突飛な発想過ぎか? まさかな……。いずれにしろ機密の取り扱いは注意せねばな)
天文21年(1552年)の北近江での戦終結から、形式的には和睦していた斎藤浅井の両家。
戦乱終結3年目にしてようやく形式的な和睦から、形式的な婚姻同盟へと至るのであった。
千寿菊姫ですが、名前はオリジナルです。
京極マリアの本名が不明だったので、やむを得ずの措置であります。