107話 成長と停滞と変化
【伊勢国西部/今川軍、北畠軍】
信長の要請通り、織田の領地で治安維持にあたる今川軍は、願証寺残党が多数潜伏する山岳で戦っていた。
「回り込め! ……よし! 包囲しつつ本陣を後退させて逃げ場を一か所作る!」
足場も視界も悪い場所で、今川氏真の的確な指揮が戦場を見事にコントロールし場を支配する。
「ほう。若いのに小癪な真似をしよる」
今川本陣でその指揮を見ていた北畠具教が、氏真を意図を正確に見抜き感心してつぶやいた。
何かあれば即座に動けるように北畠軍も後方で待機しているが、この分なら問題なさそうである。
「うむうむ。そうですなぁ! ……えっと……何がですかね?」
具教の横で出番の無い前田利益が頬を掻きながら尋ねる。
氏真の戦術を理解出来ていない様子であった。
「……お主は戦術は苦手であったな」
そんな利益の無知を無邪気に晒す言動に、具教は眉をひそめつつ視線を頭上に向ける。
具教は仕方なく、氏真の戦術を説明し始めた。
「相手は軍と言うよりは敗残兵の寄せ集め。まともな兵の指揮などできんから野盗と何ら変わらん。であるならば逃げ道がある限り奴らは逃げ続ける。それに下手に完全包囲してしまうと死力を尽くして戦うからな。ならばワザと逃がして、逃げた先の潜伏先や拠点を割り出す訳よ。さすが雪斎和尚と今川治部殿に鍛えられただけはあるな」
「は~……凄いっすねぇ……俺には真似できませんわ……はっはっは!」
「笑い事ではないぞ? お主の武芸の腕前は認めるが、一生最前線で戦うつもりか?」
具教は視線を利益の頭上に固定したまま苦言を呈する。
「それも良いですな! 濃姫様の様な殺気を手に入れられれば単騎で戦場を駆け抜けられますな!」
死を恐れない若者特有の蛮勇なのかは解らないが、利益は問題無いとばかりに苦言を受け流した。
そんな利益に呆れつつ、さっきから気になっている利益の頭上について尋ねた。
「……まぁ程々に頑張るが良い。ところで濃姫様と言えば……その兜の飾りは……」
「お、伊勢守様、解りますか!? そうです! 濃姫様の甲冑を参考にしてみました!」
帰蝶の全身白に蛇や蝶をあしらった甲冑に大変な感銘を受けた利益は、心の何かに火が付いたのか己の甲冑に改造を加えていた。
まだ兜だけであるが、本来では前立てがある位置に睨みを利かせた虎の顔がある。
虎の両前足も前方に伸びて右前足は今にも引っ掻きそうに、左前足は兜をガッチリと掴んでいる。
ここまでは独創的といっても良い兜ではあったが、具教が横に回り側面から兜をみると、虎の胴体と後ろ脚も設えてあった。
その虎は兜の丸みに沿って設えてあり―――
「(子猫が兜の上でくつろいでいる様にしか見えぬ……)ま、まぁ良いんじゃないかな……?」
「でしょう!」
虎柄であるから虎と認識できるが、遠めに見たらサイズ的にも最早子猫にしか見えず、具教は何と評していいか解らず言葉を濁す。
一方戦場では、包囲を脱出した敗残兵が一目散に逃げだしていた。
「次郎三郎隊!(松平元康) 付かず離れず追跡を開始せよ! 内蔵助殿は残りの敵の殲滅を!」
「はッ!」
「任せよ!」
指令を受けた松平元康が、逃げた残党を追い始める。
「この分ならワシは独自に動いても良さそうじゃな。慶次郎(前田利益)、しっかり護衛の任を果たせよ?」
「お任せを!」
「よし。ではここは若い者に任せて我らは近江六角を偵察する」
思った以上に動ける氏真を見て、年寄り臭いセリフを吐きつつ具教はこの現場を今川軍に任せる事にした。
自分はより難しい対応が必要な地域へ進み、織田の治安を守るために。
織田軍はより若い世代が着実に育ちつつあった。
また、氏真達よりも更に若い世代も育ちつつあった。
【尾張国/人地城(旧:那古野城) 織田家】
「うあぁぁぁん……う゛わ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛ん゛!!」
「……うぅぅ……ぅおぎゃああ! あぎゃあああ゛あ゛あ゛!!」
「うごごごごご……ッ!!」
於勝丸と奇妙丸の、体のサイズに似合わぬ爆発的大合唱に、織田家でも屈指の力を持つ帰蝶は為す術なく倒された。
昨年生まれた於勝丸(織田信正)と、先だって産まれた奇妙丸(織田信忠)。
史実通りの順番で生まれた子達であるが、奇妙丸が産まれた当初は《歴史の修正力が~~!》と大騒ぎしていた信長達であった。
しかし今ではスッカリそれどころでは無くなり、1+1=2以上の騒音になってしまった幼子に悪戦苦闘する日々を送り、帰蝶はてんてこ舞いを踊っていた。
とは言え帰蝶も嫌々育児を熟している訳でもなく、前世で味わえなかった子育てを率先して満喫しており、力のある武家ならば必ず居る、子育て役の侍女も必要最低限しか配していない。
前世の寝たきりを思えば、苦痛すら楽しんでいるとも言えた。
なお奇妙丸の実母たる吉乃は出産の疲労で伏せているが、それでも前世よりは比較的元気にしている。
史実の吉乃は3人目を産んだ後に産後の肥立ちが悪く死ぬ歴史を辿ったが、それを何とか回避しようとする信長と帰蝶の配慮が、多少効いている様であった。
「すきあり! おばうえ~! かくご~!」
そんな育児の現場に突如鋭い声が斬り込んでくる。
爆発的なギャン泣きをする、於勝丸を抱えてあやす帰蝶の背中に刀が振り下ろされる。
「フッ……」
その太刀の一撃を、帰蝶は背中を向けながら後ろ手に回した太刀で受け止める。
子育てで忙殺されていても、隙など有ろうハズがない帰蝶の気配察知能力だった。
「すげぇ~! おばうえすげぇ~! 何で分かるの!?」
「フフフ。何故かしらね?」
それは打ち込む前に『隙有り』と叫ぶからであり、それ以外も足音から息遣いやその他の気配もまるで消せていないからである。
興奮気味に弾ませながら驚く声は随分と幼い。
斎藤家から訪問してきた斎藤義龍の子、喜太郎(龍興)である。
「ちくしょ~」
そう言いながら悔しがる喜太郎の視線は、全く帰蝶を見ていない。
視線の先は帰蝶の背後であった。
「フッ……」
そう薄く笑った帰蝶は、於勝丸を抱えたまま体を半身にずらして振り下ろされる薙刀を躱し、そのまま襲撃者を絡め捕る。
背後から攻撃してきたのは於市であった。
子供ながらに考えた二段作戦であったが、帰蝶には通用しなかった。
「もう! おねえさま、なんでわかったの!」
「だめか~!」
「悪くない攻撃だけどね~。まだまだ嘘をつくのが下手ね~」
そんな訳で、育児に稽古に忙殺される帰蝶は実に幸せそうであった。
しかし、なぜこんな育児の現場で妙な訓練しているかと言えば、帰蝶のストレス発散もあるが、ファラージャの入れ知恵であった。
《戦国時代の剣や武道の達人は、弟子に対して『ワシに隙あらばいつでも打ちかかって来るがよい』って言って己の訓練と弟子の育成を同時にやっていたんですよ。達人は鍋の蓋や畳を返したりして防ぐんです》
《へ~。いいわね、それ!》
ファラージャの時代に伝わる戦国時代の知識として、かつて発掘された文献から得た知識を帰蝶にフィードバックしたのであるが、実は発掘された文献はマンガで、1億年も経過していると妙な資料が真実として伝わっており、ひょっとしたら正しいのかも知れないが素性の怪しい知識を教えてしまっていた。
そんな帰蝶の児戯みたいな訓練を受け、喜太郎と於市は悔しがる―――フリをしている。
帰蝶は大騒ぎする二人に相対しているが、その背後から抜き足差し足、可能な限り気配を殺した九鬼嘉隆が迫っている。
二人が大騒ぎしているお陰で嘉隆が隠しきれない気配も相殺されている。
千載一遇のチャンスであった。
実は子供達の作戦は二段階の攻撃では無く三段階目が潜んでおり、嘉隆が背中を向けている帰蝶の背後に静かに立つ。
太刀を両手に持ち半身に肩幅で立って構え、焦らずゆっくり左膝を軽く上げ、同時に太刀を持った腕を後ろに引く。
そこから全身の筋肉に力を入れ、左足を踏み込み、漁業の投網の様に、斧で木を切り倒す様に、野球のバッティングの様に、帰蝶の尻に向けて太刀をフルスイングする。
「フッ……バレバレよ?」
帰蝶は於勝丸を宙に放り投げると同時に、後方宙返りをして太刀を躱しつつ於勝丸キャッチする。
「そんな!? あっ!」
球があればホームラン確実の空を切った太刀は、喜太郎と於市の頬をビンタの様に薙いでいった。
「ぐぺぇッ!」
「いたぁっ!」
「あらあら。本物の太刀でなくて良かったわね~。本物だったら口から上が撥ね飛ばされていたわよ?」
さすがに赤子のいる室内で、本物の太刀や木刀を使う訳にはいかないので、布を丸めて作ったお子様用の太刀である。
「囮を利用して気配をごまかしたのは良い案だけどね。最後の最後、攻撃する意思が隠しきれなかったわね~」
「こ、攻撃する意思……?」
殺気に通じる意識であるが、嘉隆が殺気を放てずとも、攻撃する意識と策が張り巡らされた場の雰囲気や緊張感を子供らが隠し通す事はまだまだ不可能で、それを帰蝶に読み取られたのである。
「でも、やってる事は悪くないわよ。今までで一番良かったわよ? 後は色々悩んで考えなさい。どうすれば勝てるのかをね」
氏真達よりもさらに若い世代も順調に鍛えられ、織田家の未来を明るく照らし―――切れずにいた。
今が肉体的に最高潮の現役世代たる信長が、困惑を隠しきれずにいたのである。
【飛騨国/入道洞城 江馬家】
信長は入道洞城や桜洞城など信濃からの侵攻があった場合の拠点の改修を、三木家や江馬家に半ば強引に承諾させ行っているが、まったく攻め入る気配を見せない武田家に困惑していた。
《今が千載一遇の好機であろうに何故攻めて来ない……?》
《まぁでも来ないに越した事は無いんじゃないですか?》
《それはそうじゃが……。そんなに杭が気に入ったのか?》
《かも知れませんね。甲斐は信玄堤が完成しないと国として計算もできませんからね》
信長とファラージャが、武田の進軍停滞と流出した杭について話し合っていた。
きっかけは今川からの報告である。
今川には公式な同盟を期に杭を贈ったのだが、先だってその今川から『武田からも杭が贈られてきた』と連絡があり流出が発覚した。
《願証寺を滅ぼした事が契機だろうな。しかし、この程度で済んだと思わねばなるまい》
信長も元々秘匿していない技術なので大して気にしなかったし、むしろ開発して4、5年そこそこ流出しなかった方が不思議な程であった。
《太っ腹ですねぇ。生産性の優位を取らないんですね》
《本当に盗まれて困る情報を隠せているのだから問題ない。ただまぁ、怒った素振りは見せておかねば体裁が悪いか》
ファラージャの疑問に信長は迷いなく答えた。
杭はいい。
種籾の水選別も良くは無いが流出してしまっても良い。
一番流出してマズイのは硝石の製造方法や銭回り、備蓄兵糧など織田家の力の予測を手助けさせてしまう情報である。
硝石の製造方法を知るのは信長と罪人だけで、罪人はそもそも何を作っているのかも知らない上に、硝石製造を知るのも織田家ではごく一部。
その情報を隠せているのだから杭など些細な事であり、あとは流出を怒って見せて間者を油断させておけば良いだけである。
それよりも信長にとっての誤算は、収穫後の今が一番危険だと踏んでいたのに、はぐらかされた事である。
当然ながら信長も甲斐の『信玄堤』の存在は知っている。
史実では甲斐を短い期間ながら支配した事がある織田家である。
信玄堤がもたらす農作物の供給力も知っているが、それでも、史実と現在の『欲望に忠実な武田晴信像』から考えれば絶対に今年が、しかも収穫後の今が危ないと周囲に断言していただけに、予測が外れてしまった事の方がマズイと思っていた。
何故なら、信長は力を見せ続けなければならない。
この歴史の織田家の躍進は、全て信長の神懸かり的な結果が産んだ物と言っても過言ではない。
若き当主の尾張内乱から北伊勢50城抜き、北畠の屈服に桶狭間による今川家の従属化、伝説の朝倉宗滴との互角の戦いは織田を潤し続けた。
勝者には勝てば勝つほど力が集まるものである。
皆が皆、勝ち馬に乗りたがるのだから当然である。
ただし、勝ち続けなければ崩壊はあっという間である。
まだ勢力の滅亡に繋がる様な決定的な敗北を喫した訳ではないし、挽回可能な局地的な敗北ならば許容できるが、願証寺攻略後の大量離脱や今回の武田侵攻の予測外しは、今後何かあった時に『きっかけだった』と騒がれる恐れがある。
《策の見直しが必要かもしれん……。硝石も不十分だしな。あの時もう少し節約しておけば良かったか……?》
あの時とは、斎藤家の援軍として朝倉浅井軍と戦った時の事である。(78話、80話参照)
史実よりも大幅に早い鉄砲のお披露目に若干はしゃぎ過ぎてやり過ぎた、と感じたのであるが即座にその考えを頭から追い出した。
《いや、あの鉄砲運用があったからこそ朝倉宗滴を納得させられたのじゃ。ケチって納得させられる相手ではない》
《堺との硝石の取引ではだめですか?》
《根本的に銭が足りん》
《ありゃ》
取引による硝石の流通は確かにあるのだが、全財産を投入すれば折角の親衛隊を食わす事が出来なくなってしまう。
借銭してでも手に入れたい所ではあるが限界があり、熱田、津島から若狭までの商圏をもってしても潤沢に扱える物ではなかった。
《武田が静かで助かったと言えば助かっているが、この感じはマズイな》
運よく助かる事を信長は嫌った。
もちろん運を全否定する訳ではない。
しかし、今の状況は相手の思惑で生かされている様な気がしてならず、信長は前々世でも散々味わった『不気味な武田家』をまた思い起こし、武田アレルギーによるアナフィラキシーショックを起こしそうであった。
《苦しいな。前の苦しい記憶がアリアリと蘇ってくるわ。クソッ!》
こうして、ついに武田軍は来襲せず、織田軍は冬の訪れを前に尾張に撤退する事になる。
【甲斐国 武田家/越後国 長尾家】
「開墾じゃー!」
武田家と長尾家は、これ以上表現のしようが無いぐらいに土と格闘していた。
信長の不安を他所に、彼らは食い扶持を育てる場所を作るべく杭をフル活用していた。
「この分なら来年、再来年には継戦能力は今以上になろうな。今はまだ織田に及ばずとも必ず追いつこうぞ」
武田晴信は以前よりも速いスピードで建設が進む『堤』を見て、織田との決戦を数年先に見据えるのだった。
お陰で信長は『まな板の鯉』状態で苦しむ事になるが、もちろん晴信には知った事ではなく、むしろ弱小国としての自然な振る舞いが、織田家を封じる行動に繋がっていたのであった。
【山城国/京 天皇御所】
「昨今の戦災や怪異を鎮めるため天文から『弘治』へと元号を改める。また三好修理大夫には世の太平の為に腕を振るってもらいたい」
まだ木材の匂いが新しい御所にて、後世にて後奈良天皇と呼ばれる帝が御簾の奥から厳かに改元を告げた。
三好長慶によって再建された御所は、必要最低限の規模でしかないが、それでも帝が住まうには掘っ立て小屋同然だった時代を思えば雲泥の差である。
「はっ! 帝におかれましては世の安寧を祈り給うよう願い奉ります。荒事は全てこの修理大夫にお任せを!」
「よしなに」
こうして改元の儀が滞りなく終わり、長慶は御所を後にした。
「これでますます三好の力が示されましたな」
長慶の家臣が笑顔で長慶の手腕を称えた。
今回の改元は『戦乱からの脱却を願う』を名目に行われたが、当然ながら三好家の思惑が絡んでいる。
朝廷を支配地域に置いて帝を動かせる力を全国に示し、反抗する勢力、特に将軍陣営を牽制するのが目的である。
「ふん。元号の呼び名が変わっただけじゃ。やる事は変わらん」
長年三好家に付き従ってきた家臣にとって、前当主を暗殺された苦渋の時代を思えば帝さえ動かしてしまう今の勢力の隆盛に顔が綻んでしまうが、長慶は取るに足らないとばかりに素っ気ない態度であった。
こうして戦国時代にて多くの英雄が誕生した『天文』が終わりを告げたのであった。
11章 天文24年(1555年) 完
11.5章 弘治元年へと続く