104-2話 願証寺 死
104話は3部構成です。
104-1話からお願いします。
今回の話は『R15』に抵触する可能性のある話です。
R15表現の加減には配慮しましたが、小説家になろうガイドラインに対して良いのか悪いのか判断がつかない処もあります。
ご注意の上お願いいたします。
【包囲8~16日目】
先日の包囲突破に失敗し帰還した負傷兵が大惨事を引き起こした。
弱って免疫の落ちた身体に、汚染された矢や槍で傷つけられた肉体は簡単に破傷風を引き起こしたのである。
人から人に伝染する病気ではないが、敗走してきた信徒2700人の大多数がほぼ同時に発症したので願証寺は一気に恐慌状態に陥った。
本来なら放置した場合、長くて3週間で多数が死に至るが、今回の負傷兵は早ければ1週間掛からず死んでいった。
痛みで苦しむ過程で衰弱死するのはまだマシで、破傷風特有の反り返り症状で自らの背骨を折ってしまう者、全身痙攣で手の付けられない者、呼吸困難で窒息する者。
たちまち数百の死体が願証寺の敷地内で作られ、その数は激増する一方である。
しかし―――
これらは大惨事の言わば引き金であり、まだ本番ではなかった。
願証寺も死体の処理は手早く行った。
しかし次々に増える死者に埋葬が追い付かず、時期の悪さも重なりたちまち腐敗し、激烈な悪臭を放ち始めた。
その匂いは風下にいた九鬼水軍にも届く程で、当然、現地にいる人間には鼻が曲がるでは済まされない。
現在でも特殊清掃員の方が腐乱した死体のある部屋を掃除する時は、防護マスクと全身防護服が必要なのに、戦国時代には当然の事だが望める装備ではない。
たった一人の腐乱死体の処理であってもこの重装備は必須であるのに、今の願証寺は4桁に届く勢いの腐乱死体が敷地内に転がっているのである。
その悪臭は正に激烈酸鼻を極め、生き残り信徒も精神に異常をきたし狂乱する者が現場を混乱させる。
そんな狂乱の現場を尻目に、腐乱死体にはハエがたかりあっという間にウジまみれになり、ネズミが突如沸いた御馳走に大喜びで喰らいつき、さらに願証寺上空では腐臭に誘われカラスが旋回する。
さらにそのネズミとカラスを我先に狙う狂乱の信徒。
しかし幸運にも捕獲して口に出来た信徒は、不衛生な動物を食べて不運にも命を落とす。
その信徒も腐敗しハエがたかりネズミやカラスに狙われ信徒の腹に収まり苦しんで死ぬ。
最悪の食物連鎖ならぬ食物循環が出来上がった。
あっという間に死神が身近に感じられる土地となった聖域たる願証寺。
科学が絶対の現代ではなく、神仏悪霊が絶対視されている時代である。
たちまち阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
しかし―――
これらは大惨事の前菜、言わば序章である。
そうとは知らぬ願証寺は遂に降伏を決断した。
つい先日『降伏などありえない』と吠えていた証恵も遂に折れた。
いつまでたっても現れない本願寺本家を待ちきれなかったのである。
「降伏の使者を送る……」
疲れ果てた表情、そんな表情をとっくの昔に通り過ぎた証恵が、重たい口を動かし声に出す。
誰も異を唱えなかった。
信仰心も何もなく、早くこの地獄から解放されたい一心であった。
証恵が織田軍に降伏の旨を伝える使者を送ると、『まずは協議したい』との返事があり、願証寺の僧侶10名、護衛を20人だけ許すとの指示が届く。
一方的な拒絶も脳裏に過っていただけに、驚く程好意的な申し出に願証寺の面々は希望が湧いてきたのであった。
極楽かと錯覚する程の、良い匂いが漂う織田軍に通される僧侶と護衛たち。
そこで、使者は陣幕奥に、護衛は陣幕外で待機となった。
「よくぞおいでくださった。織田三郎信長である」
信長はそう言って、まるで親しい来客の対応でもするかの様に振る舞う。
(比較的上層部に位置する者が来たようじゃな。顔色は悪いが死にかけではない。これなら大丈夫じゃろう)
「まず話をする前に食事でも振る舞おう。弱った体と頭では冷静な判断はできまい?」
「食事……!? い、いや……」
ここで『それには及ばない』と言えるなら、この僧侶はとうの昔に悟りを開いているだろう。
暴力的なまでに良い匂いを漂わせる織田軍本陣と信長の提案に、使者たちは断る根性は出せなかった。
僧侶は出された食事を貪り食った。
せっかくの兵糧攻めであるのに、何故食事を提供するのか?
そもそも使者に大人数を指定するのも余り聞いた事もなく、護衛含めて総勢30名は多すぎにも感じる。
しかし―――
そんな事は最早どうでも良く、肉と魚が入った味噌汁というシンプルな料理は美味かった。
腐臭のしない織田陣営の空気も新鮮で、敵陣に極楽を感じる程であった。
僧侶たちは、このまま信長に勧められるまま何杯も食らった。
質素な味噌汁に対して、この世の物とは思えぬ極上の味を感じた使者たちは、信長に言われるがまま織田家の書状を持ち帰り、協議してから明日返答するとの取り決めがなされた。
なお陣幕の外で控える護衛は、中で何が行われているか知らない。
良い匂いのする織田本陣でひたすら空腹を我慢する拷問に耐えていた。
【伊勢国/願証寺 本堂】
「『何故、織田領に侵攻したのか? その真意を問いたい』か……。何故だったのだろうな? 織田と敵対した結果がコレでは……いやいや、阿弥陀如来の救済を……」
疲労と空腹で、頭の回転が著しく低下した願証寺首脳陣と証恵。
それに対して、食事で回復した使者達が懸命に考えた言い訳を提案する。
「どうでしょう? 降伏すると決めたからには如何なる言い訳も無駄なあがき。とにかく謝罪しましょう! 今は降伏してでも次の機会を待つのです。重要なのは願証寺の存続なのですから!」
「そうか……。そうじゃな……。では明日、その様に返答して参れ……」
「では、明日も使者として赴きます!」
「……うん? そ、そうか? 頼むぞ……」
妙に元気な使者の、不審な迄なやる気を証恵は察する事が出来なかった。
早く解放されたい一心で、それ所では無いのである。
【17日目 信長本陣】
「よく来た。早速協議と行きたいが、まずは腹ごしらえが必要であろう」
信長のその言葉に使者は『お構いなく』と思ったが、本当に思っただけで言葉が口から出ることは無かった。
昨日同様、使者の僧侶だけに食事が振舞われる。
昨日同様、濃厚な肉と魚介の旨味が凝縮された味噌汁であった。
昨日同様、使者達は満足するまで何杯も食べた。
昨日同様、信長と協議する事になり、とにかく謝罪をする事にした。
しかし、昨日同様和やかな協議とはならず信長は不機嫌になる。
「謝罪は必要ない」
「え? え……!?」
使者達の目に先ほどまで柔和な笑顔に見えていた信長の顔が、急激に視認し辛くなる。
ある者には歪んで見え、ある者には信長が見えているのに存在が希薄に感じ、またある者には吸い込まれる様な深淵を信長に見た。
いずれにしても、とても人が発する気配とは思えなかった。
「……そんな事はどうでもよいのじゃよ。それよりもワシは答えが知りたい。なぜ織田の領地を奪ったのか? その理由を……な?」
先程まで極楽だった信長本陣が、急に居心地の悪い所では無い、激烈な死臭漂う願証寺とはまた違う死を予感させる場所に早変わりした。
信長の発する圧力と殺気が使者を圧迫する。
ここに至って使者たちは『とりあえず謝罪しておけば良いだろう』『そんな事より、明日も食事ができるだろうか?』と、信長の質問に対してこの期に及んで舐めた態度でいた事を後悔する。
「あ!? い、いや……し、失礼しました! その件については我らとしても見当がつかず……」
一応、信長に言われた事を協議した上でこの場に居る事になっているので『協議していません』とは言えず、『見当がつかない』と言うしかなかった。
「見当がつかん? それでは信徒が勝手に暴走したとでも言うのか?」
「そう言う訳では……」
「では何じゃ?」
「それは……その……」
まさか自分達の指示であるとは口が割けても言えない。
「埒が明かないな」
急に信長からの圧力が消滅した。
「お主等使者失格じゃ。もっと話の出来る別の使者を要求したいが、今の経緯の説明も面倒じゃ。次は半数別の人間を使者として寄越せ。もちろん原因の見当が付く者をな。いいな?」
「わ、わかりました……」
「よし。ではしっかり考えられる様に刻をやろう。2日後に返答を聞こうか」
「ふ、2日後ですか!?」
「足りぬか? じゃあ3日後にしてやろう」
「あ!? い、いえ……その……!!」
足りないのではなく、多すぎるのであるが、使者が逡巡している間に信長が先に口を開いた。
「今日はこれまで。下がれ」
信長は使者の戸惑いを無視して追い返えした。
【願証寺 本堂】
追い返された使者は、口先だけの目先を躱す様な返答が出来ない事を悟ったが、とは言え、馬鹿正直に寺領の拡大と欲望を満たす為とは言えない。
何せ陣幕外で控える護衛は僧侶ではなく信仰を信じた武士や民なので、絶対に言えるハズがない。
そもそも御仏の導きに従い行動する彼らが、過ちを認めるのは御仏の間違いを認めるのと同等である。
そんな事は許されない。
「分かった……。謝罪が要らぬというなら、民の救済で押し通すしかあるまい……」
建前として白々しくとも、今回の争いの理由は『民の救済』と言うしかない。
それに流石に証恵も信長の狙いは気が付いた。
だから護衛20人と多く、陣幕の外とは言え信長は願証寺の悪を白日の下に晒したいのである。
「その上で、『民の救済を織田殿に託す』とでも言えば奴の溜飲も下がろう。ここが落とし所で決着をつけなければ、この後は泥沼の戦いになる。それは奴も望むまい」
小規模な寺院ならともかく、ここまで大規模な寺院を滅ぼす悪名は信長も望んでいないハズである。
「分かりました。その様に伝えてまいります。それで使者の選定の件ですが……」
願証寺では信長に対する返答の検討―――はソコソコに、明日は誰が使者として赴き交渉するか?
実はこれが紛糾していた。
今日追い返された者は全員使者も続投を志願する。
「お主が下手糞な交渉をするから、無様に拗れておるのではないか!」
「ならばあの場で正直に言えば良かったか!?」
使命感故の立候補―――ではなく、明日の織田陣での食事の権利を巡りあっているのである。
空腹の絶頂だった所に、絶品の味噌汁が無制限で振舞われたのである。
もう二度と、『食事の様な何か』に等しい願証寺の食事など口に出来ない。
証恵もまさか織田本陣で接待を受けていたとは予想外にも程があるので、この『使者になりたい』と争う僧の真意が分からなかった。
「埒が明かん! 使者は我が決める! 異論は許さん!」
証恵の一喝の下、使者続投を勝ち取った者は謎の狂喜乱舞し、新たに任命された者は意味が判らないまま使者の任を拝命した。
信長の圧力を浴びせられてなお織田軍に行きたい使者も中々に良い根性をしている。
流石は乱世に生きる僧侶はしたたかである。
【18~19日目】
「不味い……」
味のしない、只のお湯に極めて近い食事みたいなモノを、何とか飲み干した一言である。
「食事は楽しむもの……決して生きる為の作業であってはならんのだな……」
生きる為の作業では動物と一緒である。
ある意味真理に近づいた使者経験者。
「しかし明日は織田本陣に行く日! 耐えるのも今日までじゃ!」
「グググッ!! 絶対に降伏を勝ち取って来いよ!?」
「……???」
使者経験者がせっかく近づいた真理を投げ捨て、新規使者には訳が分からず不審に思う事しかできなかった。
【20日目】
「良くきた。早速始めようか。答えは持ってきたか?」
挨拶もそこそこに信長が切り出す。
「え? あの……はい……? え?」
当然出てくるモノだと思っていた食事が出ない事に戸惑う5人の使者と、食事が出た事など知らず、持ってきた書状を提出しない事に慌てる新規に選ばれた5人の使者。
「な、何を呆けているのか!? 申し訳ありませぬ! こちらが証恵より預かってきた書状となります! 内容を御改め下さいますよう、お願い申しあげます」
書状を引っ手繰る様に奪うと信長の小姓に預けた。
その書状を一瞥した信長は、予想通りの答えにほくそ笑む。
「とりあえず家臣達と協議する故、ここで待たれるが良い。陣幕の外を伺うような不審な真似はするなよ?」
「? そ、それは当然でございます……???」
使者達は信長の言葉を『聞き耳を立てるなよ』と捉えたので大人しくしている事を承知した。
そもそも織田兵の監視がある中で、本陣を自由に動き回る事は不可能である。
それなのにも関わらず念押しする信長の意図が理解できなかった。
「あ、あの……?」
「何じゃ?」
「い、いえ、失礼しました……」
陣幕から出て行こうとする信長を引き留める以前からの続投使者。
使者は『待ち時間を食事でもしながら待て』とでも言われると思っていただけに、衝撃を受けていた。
当然貰えるモノが貰えず愕然とする5人。
(愚か者が!? さっきから何をしておる!? 機嫌を損ねさせてどうするのか!?)
(あ、いや、その……)
事情を知らぬ者と知る者。
交渉を台無しにしかねない続投使者の愚行に憤怒の形相でにらむ新規使者であった。
この一連の流れと続投使者の混乱は、当然信長の策略である。
信長は使者達の戸惑いを陣幕の外で感じ、歯を食い縛りながら笑うのであった。
信長は傍に控える小姓に目で合図を送る。
(よし。やれ!)
(はッ!)
一方、耐え難い空腹と闘いながら信長を待つ事になった僧侶は、陣幕の外が騒がしくなっているのに気が付いた。
騒がしいのは信長出て行った方向とは逆、つまり、自分たちの護衛が控える場所である。
「何事だ!?」
貰えると期待していた食事が貰えず苛立ちが頂点になった僧が立ち上がるが、それを事情を知らない僧が引き倒す。
「さっきから何をやっておる!? 大人しくしておらぬか!」
これ以上交渉を邪魔されては敵わない。
「何をする……」
そう、怒鳴りかけたが、見張りの織田兵と仲間に睨まれては引き下がるしかなかった。
一体、護衛は何を騒いでいたのか?
それは食事が提供されたからである。
信長が『外を伺うなよ』と念押しした理由を、『聞き耳をたてるな』ではなく『護衛の食事を見るな』であった。
騒がしい隣と良い匂いの充満する織田本陣。
果てしない刻が流れたと錯覚する程に待った後に信長が戻ってきた。
「対応を協議した。『民の救済』か。成程な。か弱き民を守るのは力ある者の責務じゃ。その理由は理解できる。できるが、そうすると別の理解できぬ事がでてくるのじゃよ」
「そ、それは何でございましょうか?」
「実は以前、豊作祈願を募集したら、願証寺の枝の寺が応募してきてな?(外伝14話参照)」
信長は、祈祷に失敗した事はともかく、別の水田に破壊工作を仕掛けて相対的に良く見せる不正があった事を伝えた。
「お主等は枝の寺の監督者でもあろう? これについて釈明はあるか?」
これはまだ願証寺が織田を舐め切っていた頃の話である。
他者の水田に破壊工作をする暴挙を暴挙と思わぬ傲慢さが成せる大暴挙であった。
「は、はい、そ、それについては耳にした事が御座いますが、指示した者がこの場に入れば答えられますが……この混乱でどこにいるのか……」
実は指示を出したのは他ならぬ自分なのだが、それを正直に口にするのは恐ろしく、すっとぼける事にした。
「そうか。ならばお主等は次に来る時は答えが出来る者を連れてまいれ。5日あれば十分か?」
「は、はい……」
「よし。それとは別に、明日また別件で協議したい事がある。人数は10人以下で構わぬから別の者を寄越せ」
「わ、わかりました」
期待していた食事にありつけぬまま、返答不能の難題を突き付けられた使者は、満腹になった護衛と共に織田本陣を後にした。
【21日目~】
今日も信長の追及は舌鋒鋭く使者に突き刺さる。
「……他にもな。暴利で金貸しをして返済できない民から食料や娘を奪い、酒色女色に溺れておる寺院があったから罰したのじゃが、これはもしかしてワシが無知なだけで仏の教えとして認められておるのか?(60話参照)」
帰蝶が以前、治安活動で堕落僧侶を徹底的に辱めたが、この時と同じ様に、これらの理屈を仏の教えに準えて説明を求めた。
当然、答えられるハズがなく、また、正直に『欲望です』とも言えるはずがない。
言えば織田の正当性を認めるどころか、背後で食事中の護衛に聞かれたら間違いなく殺される。
「そ、その件に関しては我らも未だ未熟故に明確な答えを示す事が出来ませぬ」
「そうか。ならば返答の出来る者を連れてまいれ」
昨日とは顔ぶれの違う使者が、満腹になった腹の苦しさと、言い訳できない状況の苦しさに、返答の先延ばしをするしか出来ない。
使者達は信長に追い払われる様に退出させられた。
以後も連日に渡って織田軍と願証寺では使者と護衛が行き来し、時には腹を満たしながら、時には顔面蒼白になりながら往復する日々が続いた。
その間にも次々と力尽きていく信徒兵。
脱走兵も後を絶たず、川に飛び込んで水死するか、九鬼水軍に捕縛されていった。
中には空腹と悪臭に耐えかねて、恥も外聞も無く正直に欲望に負けた行動で全面的に悪かったと信長の前で謝罪する僧も居たが、信長はその謝罪を認めるでも拒否するでもなく『成る程』としか言わない。
願証寺としても、いつまで経っても解放される気配のない日々に、責任者である証恵を信長が引っ張り出したいのではと考えた。
しかしそれは、みすみす殺されに行く様なモノだと誰もが難色を示したが、この長丁場の目的がそれしか思い当たらず、信長に証恵の出頭を打診するが、当の信長が『証恵上人が来る必要はない』と言うので、ますます信長の狙いがわからない。
一体信長は何を待っているのか?
それは願証寺の動きであり、包囲から25日。
とうとうその時がやってきた。