103-1話 願証寺攻略 長島の地
103話は3部構成です。
103-1話からお願いします。
史実における長島一向一揆との戦は苦難の連続であった。
織田家の伊勢支配が脆弱だったのが主な原因で、水運を生業とする地元衆が織田軍に非協力的であり、この物語では早々に滅ぼした北勢四十八家の存在も厄介で、更に一向一揆という敵兵の特殊性も重くのし掛かっていた。
何よりも、願証寺は地形を利用した天然の水堀を多数備えた、戦国時代最高峰と言っても過言では無い自然を利用した大城郭で、周辺地域を支配していた。
しかし、自然の大城郭と言われても、今の木曽三川を思い浮かべると然程に脅威を感じないかもしれない。
実際に今の長島はこの様な地形である。
これが最高峰の自然の大城郭?
確かに大きい川に挟まれているけど、そんなにキツイ地形に見えない、そう思うのも無理からぬ事である。
実際に今の長島は完全に整備され、伊勢湾岸道や国道23号線のお陰ですこぶる快適である。
しかしながら、歴史は人間だけのモノではない。
地形も歴史の積み重であり、木曽三川の度重なる河川の氾濫はその時々の領主との戦いの歴史である。
平和になった江戸時代からは集中的に幾度も行われた治水と、近代化した明治時代による木曽三川分流工事の賜物によって現在に繋がる地形となる地域である。
では戦国時代の長島周辺はどの様な地形であったか?
赤:願証寺
青:織田軍
様々な資料と地形を照らし合わせて作り上げた地図なので、実際の地形とは間違いなく異なっているであろうが、重要なのはとにかく長島及び願証寺とは、河川によって厳重に守られている事は理解していただけると思う。
整備されていない川岸と点在する中州によって川は畝り安定せず、当然ながら水の勢いも激しく、安全に渡る為の橋の様な気の利いた物など存在しない。
普段着で渡るのも危ないのに、戦時なら装備を纏った上での渡河になるので、より一層流される危険がある。
うかつに安全地帯以外に足を踏み入れれば、即座に流され伊勢湾の藻屑となる事は必至な天然の防壁にして防衛兵器として機能するのが、願証寺の制圧する長島という地域なのである。
【伊勢国/織田軍 織田信長】
大木砦で一向一揆の先遣隊を殲滅した織田軍は、同じく河川を占拠した別動隊と合流した。
「大木砦防衛に参加した者は当然だろうが、河川の占拠を担当した者も一向一揆の恐ろしさは多少なりとも体験したな?」
「はっ……」
重い返事が来た事で、信長は武将達が一向一揆の恐ろしさを身に染みて理解したと判断した。
実際に家臣達は、敵の理解不能な戦略に恐怖を感じていた。
今は戦国時代であり、どんな重臣であろうとも、主君に魅力や実力が無ければ出奔したり裏切るのが常である。
当然、身分が下に行く程にその傾向は強い。
何故なら戦に弱い大将では、他国に蹂躙されて絶望の未来しか見えないので、ちょうどこの物語の北近江浅井家の領民の様に簡単に鞍替えを行う。
また逆に戦に強くても、条件次第では兵士は逃げてしまう事もある。
その条件とは例えば勝ったとしても、損害を顧みない戦略を多用される事である。
結果的には大将は手柄を立てるかもしれないが、それは正に味方の屍の山を築いた上での手柄であり、生き残る事ができなければ身分が低い者にとっては意味がない。
損害の少ない戦いができて尚且つ強いのが最高であり、ケースバイケースではあるが、負けなら負けで、さっさと撤退してくれた方が下っ端兵士としてはありがたい場合もあるし、次に繋がる戦力も維持できる。
要するに勝っても負けても、戦が下手では下の兵士は困るのである。
これらを念頭に置き、配慮しながら戦うのが一般的な武家の常識である。
しかし、一向一揆は自分たちの常識は一切通用しなかった。
前方には容易に突破できない砦、後方からは挟み撃ちで囲まれて、正常な思考の持ち主なら絶望し狂乱するか逃走するかで、いずれにしても軍としては瓦解するのが普通である。
しかし、一向一揆の集団はその普通が当てはまらなかった。
まるで躊躇の見られない無謀極まりない突撃は武将や兵たちの常識からはかけ離れた光景だったのである。
織田軍に対する怒りならばまだ理解できる。
だが、それだけでは説明がつかない一揆兵の異様な相貌に、神仏に対する畏怖なのか僧侶の説法が効いたのか、とっくに逃げても良さそうな負傷も意に介さない戦意は、とても生物を相手に戦っている様には感じられなかったのである。
一揆軍は間違いなく討ち取られて死ぬと理解しているのに、一向に歩みを止めない理解不能の戦略は、良くも悪くも織田軍に対して一向一揆の恐ろしさを伝えたのであった。
(誰ぞが討ち取られておれば、もっと強い警戒心を持たせられたのであろうが……それはワシも望むモノではない。それにこれ以上自分達を追い詰めては逐電する者も現れるかもしれん。織田軍もかつて延暦寺を焼き討ちした当時程に育ってもおらん。現状が最良と判断していくしかあるまい)
一向一揆の真の恐怖を知るのは、前々世を経験した信長だけである。
前々世では、餓死寸前の丸裸の兵に大損害を被ってしまった苦い経験を知るが故に、現状での自軍の経験は正直な所全然足りていない。
(しかし……余りに心的負担が大きいと、罪悪感が芽生えて我が軍の士気に影響するやもしれん)
何度も何度も注意を入れて恐縮であるが、この時代は科学よりも宗教が絶対の世界である。
現代人が今更『地震は大地神の怒り』と言われても(多分)信じないが、ほんの70数年前の第二次世界大戦以前の時代では神仏、霊的、宗教に対して絶対の畏怖があり、『天変地異』は正に神の怒りである。
そういった存在を無下に扱えと言われても不可能であり、その存在に近しい神仏と語らう神官や僧侶は正に神の代弁者である。
織田軍の武将も、信長の政策に対してそれが正しいと理解できてはいても、根っこの部分では宗教に対する畏怖が依然として存在する。
現状は有利に進んでいたとしても、あまりに急激にやりすぎると何時何時戦略が破綻しないとも限らない。
だからこその転生後の戦略である。
最初期からの関所襲撃で心を慣らし、僧侶の暴虐を暴き白日の下に晒した。
年単位での領民懐柔政策と、願証寺砦建築やり過ぎによる自滅を誘い楽に戦える環境を整え、少しでも心的負担を減らす政策をしてきたのである。
まだ完全とは言えないが、それでもこの戦で織田軍が良心の呵責に押し潰される事は無いと信長は判断し、次のステップに進める事にした。
「よし、では今後の方針を説明する。普段の日常生活であれば当然ながら私的な殺人は許されん。戦であっても状況次第では許したり約定によって見逃す事もあろう。しかし、大木砦でも言ったが、ここまで残った一揆軍は死なせてやる事こそが情けと心得よ。これは介錯と同じであり向こうも望んでいる事なのだ」
一向一揆の理念は『進者往生極楽 退者無間地獄』であり、進んで死ねば極楽、逃げたら地獄なのである。
長年かけて懐柔政策を行い兵力を削ってきたが、今の一揆軍はその誘惑にも負けず信念を貫いた、ある意味エリート信徒である。
今更離脱など考えにくいし、仮に織田軍の侵攻に心が折られたとしても、本当に最後まで油断ができないのは前々世の経験から明らかである。
「……と、言っておきながら何だが、今からの戦は過剰な追撃は必要ない。むしろ逃がせ!」
「えっ」
信長の前言を翻す言葉に、武将達はせっかく固めた覚悟に肩透かしを喰らい困惑する。
「先の戦いで、前線に出てくる事が可能な一揆軍の精兵は殆ど討ち取った。しかし総数で言えばまだ一揆軍が勝っておるが、恐らく残りは通常なら戦に適さないもの共ばかり。しかも無駄に作った多数の砦に分散して自ら数の力を放棄しておる。従って取るべき戦略は1つ。願証寺以外の全ての砦を攻め落として丸裸にする!」
しかし、先程は『過剰な追撃は必要ない』とも言っているので、一貫性の感じられない戦略に武将達は困惑の表情を強める。
信長はその困惑を見越した上で更に続けた。
「ただし、逃げる兵は全て願証寺に向かわせるようにしろ。また仮に降伏する砦があるならば、着の身着のまま、武器も防具も兵糧も持たず願証寺に退去するなら降伏を受け入れる。他の砦への寄り道も許さん。それ意外の要求は全て却下だ。しかしその降伏条件を守る限り、我らから約定を破るのは絶対に禁ずる。降伏を装った反撃には警戒し対処するが、決して我らから手を出してはならん」
そこで信長は家臣達を見るが、とりあえずは皆ついて来ている様であった。
「その為に、軍を分散させて四方八方から砦を攻め立てる。しかし、少しでも手強いと判断した砦は後回しで良い。無理だと判断したらサッサと切り上げて、別の手薄な砦に向かい、手強い砦は別の軍と合流してから当たれ。とにかく今は兵を討ち取るよりも砦の攻略を最優先とする。一揆軍は4分の1に相当する兵力を大木砦で喪失し、先も言ったが兵力に見合わぬ過剰な砦建築で逆に防衛もままならぬ拠点が多い。これからは手薄な拠点を臨機応変に選んで落としつつ、村は全て焼き払い進軍する。奪った拠点も利用する場合はともかく、使用しないならば破却せよ」
「はっ!」
「この作戦の最終形態は砦を全て制圧し、逃散兵を願証寺に集めた上での兵糧攻めとなる。武器防具兵糧を持たない一揆軍を願証寺に集めて無駄飯喰らいを大量に作り出す! その上で奴等の信仰心を試そうではないか!」
そこまで語って信長は笑みを浮かべる。
もし自分の思惑通りの展開になるならば、信仰心がどうなるか知っているが故の確信に満ちた邪悪な笑いであった。
当然、この兵糧攻めも、自軍に対する宗教に対する心的負担を軽減させる狙いがあり、直接手を下さない分、幾らかはマシであると判断しての策であった。
だが織田軍の諸将は、一向一揆の真の恐怖を知らないのと同じく、兵糧攻めも経験したことが無いので、効果と信長の配慮をイマイチ理解できぬまま、しかし、あの信長の笑いに何か毒があるのを察した。
「では軍編成をおこなう」
現在織田軍は12000を揃えているが、これを6軍に分割する事になった。
それぞれの大将が織田信長、北畠具教、柴田勝家、森可成、九鬼定隆、織田信広で各2000ずつ。
随伴する諸将も振り分けられていった。
敵兵は15000程で織田軍を上回るが多数の砦に散ってしまっているので、1つの砦で2000もあれば十分お釣りが来る編成である。
「最後に。今回の戦では死ぬ事こそ恥じと心得よ! 良いか! 今度は味方を誰も死なせない!」
「はっ!(今度は……?)」
こうして始まった長島侵攻作戦。
前々世に比べれば格段に楽な戦いであった。
願証寺側は織田の戦略を読み違えたお陰で、無駄な砦を本当に無駄に量産し、しかも数が多すぎて防衛兵士の数も少なく、また、短期間で作り上げたので砦としての質も極めて悪く防衛機能もおざなりであった上に農繁期に無理して築いたので食料事情も心許ない。
それに、敵の拠点も本来なら鉄壁だった砦の群れも、既に多数の穴が開いている。
まさに自滅の未来しかない願証寺に対し、信長は入念な準備を整えて今回の戦に臨んでいる。
言うなれば、両陣営の政治力の差であり、すでに戦の前に決着はついており、後は後始末をするだけの状態であった。
だが人生をやり直している信長としては、ここまでの成果は当たり前であり、むしろ今からが本番である。
勝つのは当たり前、しかし、勝利の内容は前々世とは異なる結果とすべく、誰よりも強い決意でもって願証寺攻略を進めるのであった。