99話 包囲網の結成
【尾張国/人地城(旧:那古野城) 織田家】
人地城の信長の私室では、帰蝶とファラージャがテレパシーで会話していた。
《勘十郎(織田信行)が明に渡ったらしい。林秀貞から報告があった》
昨年、信長は弟の信行を伴って京へ上洛した。(91話参照)
その時に三好家と約定を交わし、堺に林秀貞を常駐させると共に、信行には明に行く事を命じていた。
言葉も通じず辛く長い航路に耐えてでも行かせる理由は、織田家に対する反逆行為への制裁であると共に、独自の通商ルートの開拓と、前々世以上に密接に関わりを持つ事と、更に信行に厳命している事がある。
それは『何でも良いから持って来い』である。
硝石や明銭など定番商品も扱うには扱うが、信長はこれらの定番商品は副産物になる事を期待している。
何故なら前々世で見なかった物にこそ、今回の人生における突破口になると睨んでいるからである。
信行にはその辺の成果を大いに期待していた。
《一年掛からず明の商人と渡りをつけましたかー。行動が早いと言うか、意外な才能なのですかね?》
ファラージャが、エピソードの少ない信行の意外な行動力に驚き、歴史の『もし』の可能性を感じていた。
《汚名を雪ぎたい思いもあるのじゃろう。だが確かにそれを加味しても早い。忘れておったが奴はワシと違って品行方正じゃからな。信用は得やすいかもしれん。父上に似て器用なのじゃろう。それに人当たりの良さは秀吉にも匹敵するかもしれん。……さすがに褒めすぎか?》
史実では20歳そこそこで信長に殺された信行である。
なので兄である信長にしても、信行にどんな才能が秘められているかは実は未知数である。
前々世で信長と家督を争った時には(信長があまりにもうつけ過ぎたのもあるが)、信秀の後継ぎとして相応しいと、大多数の家臣の支持を集めた実績もある。
才能が花開く機会さえ得る事ができれば、大化けする可能性は十分あった。
《どんなモノを持ってきますかねー。珍しい食べ物とか武器とかが私は良いですね》
帰蝶はのんびりと希望の品を語った。
《美術品や香の物では無いのだな……まぁいい。それよりも三好と将軍よ。やはりこうなったか》
三好と将軍の争いによる顛末を聞いた信長は、然もありなんとばかりに頷いた。
《あの三好に挑む気概は買うが気概だけではな。それに六角を密かに援助する程度ではどうにもならんか》
三好に挑んだ将軍を称えつつ、しかし己の小手先では揺るぎもしない三好の盤石振りには頭の痛くなる思いであった。
《きっと前々世で信長さんを疎ましく思う勢力は、みんなこう思っていたんじゃないですかね?》
ファラージャは史実を思い返し、今三好に対して手も足も出ない事を信長の歴史で例えた。
《おぉ! なる程! 確かに今の三好をかつての織田と置き換えれば、絶望的な状況だったワシ等以外の大名の気持ちも理解できる。さぞかし苦しい立場だっただろうなぁ。はっはっは》
本能寺で敵に気づく直前までは、人生の絶頂にいた信長である。
東の最大の敵である武田を滅ぼし、日本において織田家を倒しうる勢力は無くなった。
その結果、織田包囲網も瓦解して北の果てから南の端まで、我先にと生き残りを賭けて織田家と関係を持とうとする大名が殺到した。
死んでも織田とは手を結べないと考える勢力は、憎くてもどうする事もできない現実に、臍を噛む思いであったであろう事を、今信長は身を持って体感し思わず笑ってしまった。
《いや、笑い事では……。三好と六角と言えばもう1つ、六角に長慶の弟が討ち取られたのに、報復に動く気配がありませんね。将軍が制圧した近江の西も、朽木と六角で再制圧したみたいですし》
《理由は解らん。動くに動けんのか、思惑があるのか。それとも計画が進行していて出陣寸前なのか。こればかりは様子を見るしかない。ただ長慶は兄弟を信頼していたと聞いているからな。このまま何も無いとは思えん》
三好に余力が無いハズが無いのに、冬長が討ち取られた事で慎重になったか、不気味なほどに静まり返っており、それが却って長慶の怒りを表している様であった。
《西はそんな所ですかね。では東ですが、武田が長尾に痛い目を見たらしいですね。これは当分西に侵攻するのは後回しになるのでは?》
時期を同じくして武田と長尾が争い、引き分けだったが大打撃を受けた武田は、飛騨への侵攻を遅らせる可能性が高いと帰蝶は考えた。
《そうじゃな。謙信……じゃなかった景虎に感謝しておかねばならんな。別に何か礼をする訳でもないが。ともかく今年飛騨に攻められたら終っておった。これで東も西も当分は膠着状態とるであろう。我ながら運が向いておるわ》
収集し集めた限りの情報を精査すると、どこからどう判断しても武田に西進する余力は無いと分かり、信長は貴重な時間を稼ぐ事が出来たと喜んだ。
《ワシ等としても六角を攻めても三好に隣接して危ないし、東に向かって虎の尾を踏む事もあるまい。これは力を蓄えつつ機会を待てと言う事よ。長島の締め付けは順調じゃしもう暫く待てば勝手に瓦解するであろう。ならば今は雌伏の時じゃな。正にな》
今迄の快進撃を考えれば、次々侵略するのが成長著しい勢力の常套手段であるが、信長は踏みとどまった。
動かざる事山の如しではないが、信長の戦における基本戦略は万全な準備こそが神髄である。
決して、凡百の武将が油断から楽観して機を逸するような、サボリではない。
武田対策で、とにかく今は硝石を確保する時間が欲しい信長にとって、この膠着状態は寧ろ望むところであった。
《そうですね……。こればかりは揺さぶりを掛けてどうこうなる問題ではないですしね。ならば内政、それに子育てですよ! もうすぐ直子ちゃんの子が出産予定ですしね!》
概ね史実と同時期に出産予定を控える直子は、大きくなった腹では流石に内政に携わるのは無理であり、一日中屋敷で過ごしている。
ただ、ボンヤリと過ごして居る訳ではなく、動けないなら動けないなりに頭を働かせ、何かしらの創意工夫を考え楽しんで過ごしていた。
この分なら母子ともに問題なく出産ができそうである。
《そうじゃな。信正が生まれるのか、別の誰かが生まれるのか解らんが、楽しみにはしとるよ》
そんな訳で勿論表面上ではあるが、乱世にあるまじきのほほんとした雰囲気を醸し出す織田家では、東西の決戦の報告を受けて当面は力を蓄えるべきと判断し、前年に引き続き内政に力を入れる事にしたのであった。
後日―――
その方針は木っ端微塵に打ち砕かれた―――
信長は自室で口や眉を歪めながら書状を睨んでた。
《殿、何をそんなに面白い顔をしていらっしゃるのです?》
《面白ッ!? 違う! これは難しい顔と言うのじゃ!》
《へー、何かあったんですか?》
帰蝶はまるでスキップでもしそうな程に、小躍りしながら尋ねた。
《なんじゃその不思議な踊りは……》
信長は基本的に帰蝶には好きにさせているが、戦がなくて充実した内政や訓練を送っていたのか、まるでバカンスにでも行っているかの様にウキウキ気分であった。
一応帰蝶の名誉の為に言うならば、武将の妻らしく振舞ったり、四六時中ピシッと過ごす事も出来る。
何故それをしないのかと言えば、常に気を張り巡らしては疲れ果ててしまうので『ON/OFF』を切り替える事によって賢く生活しているのである。
その結果、帰蝶は油断できる時は本当に油断しており、鼻でもほじりそうな程に油断した姿を見せたと思ったら、凶悪な殺気を巻き散らす姿も見せるので、落差が激しく信長としても苦情を言いかけた事もあったが思いとどまった。
何せ信長もだらけた姿を晒す事の有用性である『うつけの策』を実行しているだけに、何か言えば『人の振り見て我が振り直せ』であり全て自分に跳ね返ってきてしまうので、歯を食いしばって特に注意はしなかった。
《まぁまぁ良いじゃないですか。で、何があったんですか?》
《密書じゃ。難問が届いたわ。あ奴め、とんでもない事をしよったわ! 三好が動かん理由も判った!》
《あ奴?》
《将軍義藤じゃ!》
《流石にあの程度では諦めておらぬか。大人しくなるタマでもあるまいしな。じゃが、それでもこれは予想外じゃ。見よ!》
《見よ、って汚い!》
きっと様々な偽装を施して運んだであろう密書は、織田家に届いた時は薄汚れ短冊状に割かれた状態で、特定の手順で復元しなければ読めない密書であった。
かなり緊急でかつ危険な内容である事が、読む前から察せられる密書である。
《なになに? えっと……》
そこには要約すれば、『三好包囲網を作る』と書かれた一大反抗作戦についてであった。
声を掛けた勢力も多岐に渡り、六角、今川、甲斐武田、朝倉、長尾、長宗我部、尼子、浦上、畠山、比叡山、本願寺、興福寺、雑賀衆、甲賀衆、伊賀衆、根来衆に、何と織田や斎藤まで含めた、中央に近い著名な勢力全てに声を掛けていた。
《これは……三好……包囲網って事ですか!? 織田が!?》
《えぇ!? 信長さんが包囲する側の勢力に付くなんて、歴史の皮肉が効き過ぎていると言うか何と言うか……》
帰蝶とファラージャは将軍の打ち出した壮大な計画より、包囲された側の経験しかない信長が包囲する側に立つ奇妙な縁を感じて驚いていた。
《流石義昭の兄と言うべきか、兄弟揃って同じく形振り構わん手段を取るか》
かつて信長は15代将軍義昭との関係が悪化し、3度に渡って包囲網を形成され大苦戦を強いられた。
この時の信長は強運と謀略を駆使し、あるいは頭を下げて謝罪し、それこそ形振り構わぬ戦略で全ての危機を乗り切った。
《なる程、前々世を思い出しての、その面白……難しい顔だったのですね》
帰蝶とファラージャは察した。
信長の難しい顔は、あの時の苦労を思い出しての顔だったと。
しかしそれは違った。
《色々違う。そんな単純な思い出話では無い。それにまだ参加すると決めた訳でも無い。いいか? これで織田家は否が応でも難しい3択を迫られる事になった。包囲網に参加し将軍に味方、不参加で将軍に敵対、不参加でしかも中立の3択にな》
《……? ……あっ……!》
《えぇ!? 何でですか!? 包囲網参加の1択では無いんですか!? あの大勢力の三好を倒すのに織田単独じゃなく他の勢力も利用できるじゃないですか!?》
帰蝶は、信長の言わんとした事を察し、ファラージャは訳が解らぬと驚いた。
《利用は出来るかもしれん。しかし、どの立場に立ったとしても立場が微妙で動きにくい。これなら単独で包囲される側の方が100倍マシじゃ》
信長は、苦虫を口いっぱい噛み潰したかの様な顔をした。
《包囲する側の問題は単純じゃ。前々世でもそうじゃったが、主導権争いや他家の思惑が邪魔をして凄く動きにくい。どうせ皆、被害は最小に、成果は誰よりも多くなる様に動くからな。それに意思の統一もままならん。まさに『船頭多くして舟山に登る』じゃな。それにワシは自分から約定を破った事は一度も無い。仮に包囲網に参加するなら三好が同盟を破棄してもらわんと困る》
史実の包囲網は包囲する側の連携が取れているとは言い難い状態で、正に『船頭多くして船山に登る』の例えの如く、信長を滅ぼしたい義昭が信長を許したり、朝倉義景が信長に頭を下げられたので講和に応じたり、迷走を極めたお陰で信長は敵対勢力を各個撃破する事ができた。
また信長は大義名分を重んじており、戦国時代にあっては、現代の常識ではグレーな部分は有るかもしれないが、当時の風潮では有り得ない程の約束を守る男であり、その信用が覇道を大いに助けた。
従って、三好と同盟を結んでいる現状、包囲網に参加することは信念と信頼を一挙に失う事になる上に、将軍が少しのミスも許されない完璧な舵取りをしなければ、あっという間に舟で山に登るハメになる。
その結果待っているのは、三好による各個撃破と、天下掌握をアシストする現実である。
《包囲される側でも、結局三好の為に働き潰されるのが目に見えておる。かつての織田徳川の関係が解り易い。今回は織田が徳川の役目になる》
徳川家は織田家の為に各地を転戦しており、一説には織田信長最大のピンチであった金ケ崎の退却戦で、信長の撤退を援護したとある。
一応信長と対等の同盟をした家康が、自分の身より信長の身を優先したとは考えにくいので、創作か天下を制した家康の活躍を後で盛った可能性も高いが、徳川家が織田家の為に奔走したのは事実である。
そんな徳川家の役目を織田家が三好家の為に担うとなると、今後の戦略を根本から見直さなければならなくなる上に、ダメージの大きい戦いを自分の意志ではなく、三好の都合で強いられるハメになる。
その結果滅んでしまえば律義者として後世に名は残るかもしれないが、それは信長の望む姿ではない。
《中立は予想が付かん。日ノ本を分断できておるから多少は有利なのかもしれんが、どちらの勢力も相手にしなければならないのは間違いない。内部崩壊も警戒しなければならん。しかし一番賢い選択にもなる可能性もあるし、一番愚かな選択にもなりうる》
中立を保って漁夫の利を得る戦略も有るには有るが、筒井順慶の様な例に陥る場合もある。
順慶は本能寺の変後の趨勢を見極める為に、洞ヶ峠の地で日和見を決め込み、結果、勝者である羽柴秀吉陣営に付く事はできたが、当然、一番大変な時期に味方しなかった順慶を秀吉は叱責し、筒井家が信用を得る事は出来なかった。
筒井家は後ろ指を指され続け、順慶はそれが原因かは不明だだが、体調を崩し2年後に36歳で病死した。
さらに追い打ちで、日和見する事を順慶の行動になぞらえ『洞ヶ峠を決め込む』と例えられ、未来永劫馬鹿にされる事になった。
なお、実際に洞ヶ峠にいたのは明智光秀であって、筒井順慶が洞ヶ峠の地で静観していた訳ではない。
秀吉と光秀を天秤に掛けた自分が原因とは言え、これでは順慶は怨霊まっしぐらであろう。
そんな訳で、どんなに非難を浴びても生き残る謀る悲壮な覚悟を持っているなら、有り得る選択肢ではあるが、主君の恥ずべき態度に家臣の心が離れる可能性も高い。
最悪、将軍か三好の勝ち残った方に次の標的にされる可能性すらある。
天下布武を目指す信長にとっては、余程の事があっても選べない選択肢である。
しかし、両者疲弊し、その間耐えに耐えた結果、一躍トップに躍り出る可能性もある。
勝てば官軍の言葉がある通り、最後に勝てば『時代を読む力が優れていた』で済む話である。
なぜなら『武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候』なのだから。
但し、判断を誤れば即座に筒井順慶の二舞を踏む事になり、決して楽な道では無い。
この様に、3択どれを選んでも楽な未来は無い。
それ故に信長は難しい顔をしていたのであった。
《なる程、理解しました。でも信長さんは以前、将軍本人を前に『相対したら叩き潰す』って言ってましたよね? それなのに包囲網に参加しろって……》(75話参照)
《無論、奴も解っていて密書を寄越しておるだろう。我等に揺さぶりを掛ける為にな! 小賢しいマネをしよる! 将軍を支えるのは武士であれば当然の義務だからな!》
言いながら、信長は表情を難しい顔から怪訝な顔に変えた。
《しかし、それにしても奴には伝えたハズだがな。『誰かを利用するからには利用される覚悟が居る』『その結果生まれるのは新たな傀儡政権』だと(73話参照)。それでも包囲網を結成する決断したのは三好憎し故か? 義藤も義藤で負けた事と己の不甲斐無さに怒り狂っておる様じゃな。愚かな事をしたな……!!》
信長はそう吐き捨てた。
かつて包囲網には散々苦労させられた身である。
《ただ……義昭にしてもそうだが、形振り構わず目的を達成しようとする姿勢は評価しなければならんか。自ら行動を起こす者こそが可能性を切り開けるのだからな。良い悪いはともかくじゃが》
こうして信長は、かつて、それこそ前々世でも経験した事の無い包囲網についての選択を迫られる事になった。
結局信長は、3日3晩悩み続けた。
あらゆる可能性を模索し、シミュレーションし、前々世の自分や他勢力の行いを思い出せるだけ思い出し、それこそ未来の信長教への影響まで考えた。
信長の辿る道は大別すると3通りに別けられる。
・秩序を重んじ将軍を立てて忠臣として行動するか?
・秩序を破壊し将軍を破り己の野望を成就させるか?
・中立を保ち賢く立ち回り時代を見極めるか?
《3つの選択肢があるが……結局選べるのは1つしかない! 織田家は―――》
信長は決断を下した。