97-2話 長尾景虎(上杉謙信) vs武田 2回戦
97話は2部構成です。
97-1からお願いします。
【甲斐国/躑躅ヶ崎館 武田家】
「御屋形様!! 北条高広より密書が届きました!」
「……ふむ。……ほう! 今すぐ出陣の準備をいたせ! 動員できる全ての兵を準備させよ! 疾きこと風の如く! 急げ!」
「は、はッ!」
武田晴信は密書を受け取ると、即座に出陣の準備を命じた。
昨年に当主としての権力を確固たる物にした晴信の命は、いまや絶対の強制力を持ち、異議など許されない。
家臣たちは出陣理由も聞かずに、己の領地に戻って準備に奔走し始めた。
弟の信繁も己の家臣に準備の手配を命じると、晴信に詰め寄った。
とりあえずは理由を知らねば、側近として動くに動けない。
「兄上、その書状には一体何が?」
「高広めが値千金の情報を送って来よったわ。今年の侵攻をどうしようか迷っておったが、飛騨は後回しとする。北信濃に足がかりを作る! これを見よ!」
「拝見します。『越後で大規模一向一揆、景虎が病』……これはッ!?」
越後は地理的にも一向一揆の国たる越中に隣接しており、飛び火しても不思議ではない。
病に関しても人間である以上、病気になっても不思議では無い為に、たまたまタイミング悪く不運が重なったと判断できる。
「いや、しかし……これを信じると?」
だからと言って、そっくりそのまま信じていては戦国時代では生きていけない。
信繁は都合の良すぎる内容に眉をひそめた。
ハッキリ言って怪し過ぎたのである。
「まさか! 完全に信頼する訳がなかろうて。最悪、この密書が完全に嘘で景虎が出陣する事も想定しておるわ」
「なら何故、出陣するのです?」
晴信も、流石に盲信する訳ではなかったが、ならば、何故出陣するのかが分からなかった。
「もし、この密書が届かなければ、ワシは飛騨に向かおうと思っておった。しかし今、密書が届いてしまった。この内容を信じるならば、出陣しないと絶好の北信濃侵略機会を逃す事になる。景虎が出張って来れないのだからな。ここまでは良いか?」
「はい」
南信濃は抑えたが信濃全域で考えた場合、盤石な影響力とは言い難い。
密書が事実なら、2度とない機会を棒に振ってしまうことになる。
「次、密書が嘘の場合。北信濃に向かっても飛騨に向かっても痛烈な反撃を受ける事になるじゃろう。騙されるのじゃからな。特に飛騨に向かった場合は最悪じゃ。がら空きの南信濃に攻め込まれる事になる。最悪、甲斐に戻れない場合もあり得る」
「は、はい。ではそこまで判って出陣するのですか?」
信繁は、飛騨まで伸びた戦線の横腹を突かれる光景を想像した。
決して油断ができない相手に対して隙を見せ過ぎる、悍ましいにも程がある光景である。
「だからこそじゃ。特に嘘の場合は甲斐に籠っておる場合でも無くなる。南信濃を守らねばならんしな。じゃから密書の真偽に関わらず出陣しないという選択肢は有り得ぬ」
「では……いかなる手段に出ますか?」
「うむ。したがって今回の信濃では積極的な侵略はせぬ。信濃の中央から北、特に飛騨に近い地域を少しずつ削り取る程度だ。砂山を崩さぬ様に少しずつ削り取る如くな。これは後の飛騨侵攻の布石とする」
「成程。基本的には防衛に徹して、景虎めが本当に出て来なければ攻勢に転じる……と言う事ですな?」
出陣しない選択肢は無い以上、また、出陣するからには、手ぶらで帰る訳にはいかない以上、何かしらの成果を上げる必要がある。
家臣達を掌握したは良いが、それは強く利益を稼ぐ事ができる当主で無ければ、求心力はあっという間に失われてしまう。
「その時々じゃがな。とにかく重要なのは景虎の出方を伺い、出てくるなら、『其の徐かなること林の如く』『知りがたきこと陰の如く』静かに待ち構え逆に罠に嵌めてくれよう。逆に本当に出て来ないなら『侵略すること火の如し』。北信濃はワシがもらい受ける。しかし、完全に判明するまでは戦力を減らさぬ事こそが肝要だと心得よ。今回は相手の都合で出陣する訳じゃからな」
「確かに。計画された戦ではありませんしな」
「……それに、あ奴は危険じゃ! 戦って負けるとは思わんが、かといって絶対に油断してはならん相手じゃ。しかし! 今回ばかりはあ奴は失敗したかもしれん!」
晴信は、手にした密書を床に叩きつけた。
「そ、それは何故そう思うのです?」
「この密書を値千金といったであろう? 本当に真実ならそのまま値千金。家臣の統率ができぬ己の力量を呪う事になるし、嘘ならこうして思惑を見破ったのじゃ。景虎が余計な密書を送るからこそ、我らは対応を決める事が出来た。何も無ければ普通に周辺地域を制圧していただけかもしれん。これも値千金じゃ。……クックック。どうやら景虎は謀略が苦手と見えるな。うむ。できればこの密書は嘘であって欲しいものよ!」
晴信が家臣の統制に成功した方法は一種の謀略であるが、景虎はイマイチであると判断した。
それは正しいかも知れない―――
「家臣の統制を果たしたワシと、果たせぬあ奴。密書の真偽がどうだろうと結果は変わらぬわ!」
4年前の川中島にて、本陣突撃を許す大失態を演じてしまった武田軍。
戦の極意である『風林火陰山雷』を学んでレベルアップを果たしたのだから、同じ轍を踏む訳には行かないのである。
こうして信濃で相見える事となった、武田と長尾の2回目の争い。
後世において、第2次川中島の戦いと称される戦いが始まった。
【信濃国/川中島戦場】
『長尾のクソッタレが!! またしても!!』
『長尾のクソッタレ景虎推参!! 武田晴信! 今度こそ、その首もらった!! クソッタレに討たれた将として後世に名を馳せよ!』
晴信は景虎の謀略の才能をイマイチであると判断した。
それは正しいかも知れない―――
しかし―――
それを補って余りある、戦のセンスが景虎にはあった。
晴信にとっては悪夢の展開となった。
晴信にとっては不可解な現象が起きた。
晴信は背後からの攻撃を受けたのである。
昨年、自分の領地として足場を固めた地で、まさかの背後からの奇襲である。
晴信は信濃に進軍した所で、長尾家の出陣情報を掴んでいたのにである。
【信濃国/武田軍本陣】
「密書は偽報じゃったか。よし、ならば我らは今しばらく騙されて気付かないフリをする。軍中央にはワシの本陣を構えるがそれは偽の本陣として囮とする。ワシは最後列に陣取るから飛騨に向かうと見せかけて長蛇陣を敷く。しかし、長尾が我らの横腹を突くつもりで突撃してきたならば、全軍でそれを挟み込む。長蛇陣からの鶴翼陣じゃ!」
かくして長尾軍は、晴信の思惑通り長蛇陣の中央へ雪崩れ込んできた。
「数が多いな。全軍突撃か? まぁ良い。合図を出せ! 全軍で包み込んで押しつぶせ!」
最後尾にある晴信本陣から鐘が鳴り響く。
呼応する様に武田軍全体から鐘の音が響き、一斉に事前の取り決め通り長尾軍を包囲し、包囲が完成した所で晴信が更に合図を出した。
「矢の雨を降らせた後、長尾軍を突き崩せ! よし! 待たせたな! 腕力の解放場所を求めて止まぬ豪傑共よ! 存分にその力を開放して暴れまわるが良い!」
晴信は、戦場を眺め思い通りの用兵が出来て、満足げにうなずいた。
「うむ。これぞ戦よ。将棋の様に一手づつ詰めていき最後に王を仕留める。以前のままの家臣団ならそれも叶わぬままであろうが、今の武田家なら獣の様に暴れる家臣団をワシが操れる。ならば負けはない!」
戦場中央では押し込められた長尾軍が、中央に集まって必死に耐えている様子が伺えた。
二重丸の内側が長尾軍、外側が武田軍となっている。
晴信は感慨深く景虎に礼を述べた。
「4年前、貴様に苦汁を舐めさせられたお陰で、こうして武田家はって……喧しいな! 何事じゃ!?」
せっかくの会心の戦術に自画自賛し浸っている所で、後方で騒がしい兵を晴信は一喝―――しようとして、驚愕の光景を見た。
自分の後方から、長尾軍が突撃をしている光景を。
「な、長尾軍!? しかもあのあの旗印は、よりによって景虎か!? 中央で指揮をしておらんのか!? 馬鹿な! 己率いる少数が奇襲部隊じゃと!? しかも何でココにワシがいるのを察知しておる!?」
二重丸に出来上がった戦場を一直線に突撃する景虎は、たこ焼きに突き刺す爪楊枝の様に、しかも正確に晴信本陣を目掛けて突き刺しに掛かっていた。
「馬鹿な! 本陣は偽装しておるのに!? 何故正確にこの場所が!? あっ……!」
晴信には、原因の一つに思い当たる節があった。
長蛇陣から鶴翼陣に移行する時、自分の陣が最初に合図を出した事に。
「あの時にバレたのか! しかしそれでも、それでも、最初からある程度は予測をつけねばそんな事には! あぁくそ! それは後じゃ! 迎撃しろ……あっ! まさか長尾軍は囲まれているのではなく、方円陣で防御を固めて……!?」
晴信は『迎撃しろ』と命じかけた所で、思いとどまった。
今、せっかく長尾軍の大半を封じ込めているのに、自分がそこに穴を開けてしまったら、もっと悲惨な大惨事になりかねない事に。
余談だが、これはこの歴史の桶狭間の再現だ。
信長は自軍の突撃5部隊を、方円陣にて今川軍に囲ませた。
囲ませた上で、身動きを封じたのだ。
今の武田軍は、今川軍と同じ状況。
中央の長尾軍に背後を向けた瞬間、その部隊は終わる。
「くそ! どうする……!?」
晴信も、決して愚鈍ではない所か、判断力も思い切りの良さも天下一品の才能を持っているが、景虎のそれは晴信を優に上回っていた。
それはもう上回りすぎて、判断力とか思い切りの良さの次元ではない。
例えば『戦場に渦巻く熱気や殺意、流れや勢い』そういった目に見えない要素を正確に見抜く、野生の勘とでも言うべき領域だ。
朝倉宗滴や太原雪斎の様に、長年の経験があって初めて出来る芸当を、景虎は若くして身に着けていた。
理屈で考える晴信に対し、直感で考える景虎と表現すべきであろうか?
従って、晴信は鐘の音でバレたと判断したがそうではない。
むしろ鐘の音は、景虎にとって自分の判断が間違っていなかったと、証明になったに過ぎない。
何故なら、景虎は武田軍が長蛇陣で移動しているのを聞いた瞬間、晴信の位置を察知していた。
【信濃国/長尾軍本陣】
景虎の方針に、『何故』と問う家臣の質問は無視した。
判るから判る。
むしろ、『何故判らぬ』と言いたげな表情で質問を遮った。
『判らぬなら、貴様らは中央に突撃をかけて武田軍を引き付けろ。その大外から我が奴の本陣に奇襲をかける。以上だ質問は無し。持ち場に着け』
実に、実に短い作戦会議であった。
普段の政治の評定では好き勝手振る舞う家臣も、戦に出ては神妙に従う。
何か神通力でも得ているのではないかと思える程の、景虎の強さを知っているからである。
この戦は、『晴信の思惑撮りに進む』と読んだ景虎の勝ちである。
こうして全てを察知した景虎は、悠々と奇襲を成功させたのであった。
【信濃国/川中島戦場】
こうして冒頭に戻る。
「長尾のクソッタレが!! またしても!!」
「長尾のクソッタレ景虎推参!! 武田晴信! 今度こそその首もらった!! クソッタレに討たれた将として後世に名を馳せよ!」
「おまん! ちょうすいちょォォォッ!!」
「ちょうす……? 何を言いたいのか知らんが、今際の言葉として覚えておこう!! 覚悟!!」
「ぬおぉぉぉッ!! やらせるかぁッ!!」
晴信が発した『おまん、ちょうすいちょう』とは、甲州弁で言う『お前、調子に乗るな』の意味である。
前回の対決に続いて、2回目の一騎打ちとなってしまった晴信は、己でも何をどうして景虎の猛攻を凌いだのか、記憶に無い程に抵抗して漸く凌ぎ切った。
「はぁ、はぁ……退けたのか!?」
晴信は、破損した甲冑から滴り落ちる血にも気付かない程に、疲弊していた。
戦全体の趨勢も、瓦解した晴信の陣から連鎖的に武田軍が崩れ、せっかく取り囲んだ長尾軍を逃がした挙句に、痛烈な反撃を食らってしまっていた。
そんな長尾軍は『もう用件は済んだから帰るわ。じゃ』とでも言いたげな用兵術で颯爽と引き上げていった。
「軍を立て直せ……。負傷者を救護せよ」
「兄上! ご無事で……は無さそうですな……」
「あぁ……。また景虎と一騎打ちをしてしまったわ」
「また!? 景虎は偽装したこの軍で、正確に兄上の陣を見抜いたのですか!?」
「その様だな……。アレはもう策とか戦術とか、そんな次元を超越しておるわ。しかし、マネをするには無茶すぎる。甲斐に戻ったら対策を立てねばならぬな……!」
結局、晴信は景虎の偽報を見破って、十分な対策を施した上で迎え撃ち、それなのにも関わらず散々に打ち負かされてしまった。
南信濃の領地を失った訳ではないし、有力な家臣を失った訳ではないので単純に敗北と判断する訳には行かない。
甘く見積もっても、限りなく負けに等しい引き分けであろうか。
甲斐に帰還した晴信は即座に命令を出した。
「馬場、真田、それと山本勘助を呼べ。信濃に一大拠点を築いて全方向に睨みを効かせられる様にする。直感に対応するには人事を尽くして天命を待たねばならぬ」
晴信は『風林火陰山雷』だけでは不足が有ると認識し、飛騨、北信濃侵攻を遅らせてでも、磐石な態勢を作り上げる道を選んだ。
余談だが、この方針を信長が察知した時は殊更喜んだという。
【尾張国/人地城 織田家】
《首の皮一枚繋がったわ。今年攻められていたら終っておったわ……!》
《そ、そうなんですか?》
《そうなんですじゃ!》
《そうなんですか……》
帰蝶とファラージャには理解できなかったが、信長にとっては何よりの朗報であった。
【信濃国北/春日山城帰還途中】
一方、景虎は散々に武田軍を引っ掻き回して撤退した。
「と、殿、あのまま武田を攻め滅ぼす事も可能だったのでは?」
「無理だ。アレ以上留まっていては逆に我等が危うい。地の利と戦力は奴等が上なのじゃ。もう間も無く米の準備も必要になる。であるならば、これで仕舞いとするのが最良の道である」
「そ、そうなんですか……」
家臣には、一体何がどうなって、あのタイミングでの撤退が最良と判断できるのか、景虎のその理論が理解できなかった。
ただ、戦場での景虎の勘は信じ難いモノがあるのは理解しているので、これ以上の質問は控えた。
(それに貴様らの疲労と適度な損害を考えれば、当分は大人しくなるじゃろう。流石にこれは言えんがな……)
表向きは武田家に対する牽制であった信濃侵攻であるが、裏向きには家臣のエネルギーのガス抜きのでもあった。
裏向きの理由まで察しなければ、永遠に景虎の思惑は理解できないが、家臣達もまさか自分達が原因だとは夢にも思っていない。
(しかし、この損害から回復したら……また喧しくなるのだろうなぁ。……家出するか? ……お? 割と悪くない手段じゃなこれ? ちょっと本気で考えてみるか?)
個人クラスであれば、傾奇者や偏屈人も多かった戦国時代。
しかし大名クラスでも異彩を放った、ツートップの内の一人である長尾景虎。
ツートップのもう一人は勿論、信長であるが、景虎も全く負けてはいない。
むしろ信長の思惑すら凌駕しかねない、景虎の異質な行動は、各陣営を散々悩まして引っ掻き回すのであった。