96話 将軍家の反抗作戦と斎藤家の侵攻作戦
【近江国北東/朽木城 将軍家】
足利義藤は、三好に対する反抗作戦を開始した。
今までも、行き当たりばったりで反抗する事はあったが、今回は違う。
織田家の親衛隊訓練に紛れ込んで戦術を学んだ、新生足利義藤のデビュー戦である。
付き従う細川晴元も、家臣に奪われた将軍と己の権勢と立場を奪取するため、この日を待ちわびていた。
それは将軍に絶対の忠誠を誓う浅井久政も同じで、高すぎる授業料を払って戦国武将として成長した己の力を示すべく、また、屈辱にまみれた近江での斎藤織田連合軍との戦いで背負った負の連鎖を断ち切るべく、浅井の総力を挙げての出陣を断行した。
その総兵力は3000。
朽木の農兵と、穀潰しとして冷遇されていた次男三男、流人や一獲千金を狙う氏素性の知れぬ者、更に浅井家の縁者達である。
所領に見合わぬ大兵力であるが、農兵以外の専門兵士も多数編成しており、腐っても将軍威光の賜物であろうか。
とにかく限界ギリギリまで絞り出した動員数であった。
なお京極家の者達は、斎藤義龍の謀略もあり、北近江の己の地盤に向かった。
味方を集めると称して。
「ではこれより、近江北に戻りまして地盤を固めて参りまする」
「うむ、これは戦場にでる浅井郎党に匹敵する手柄となろう。頼むぞ」
「はッ! お任せを!」
義藤も京極のその行動を許した。
一人でも多くの味方を獲得したい思いもあるが、本当の所は、浅井との仲が悪すぎるので、同じ戦場に居ては足を引っ張り合いかねない恐れから、別行動を命じたのだった。
その代わりと言う訳ではないが、六角家と若狭武田家に援軍を頼んでおり、近江における三好勢力の駆逐には十分勝算があった。
「これより東進作戦を開始する! 朽木周辺はもちろん、近江高島における三好勢力はすべて叩き出す! 朽木から琵琶湖に通じる道を確保せよ! まずは琵琶湖周辺の拠点を確保する! ただし、刻はかけられん! 可能な限り素早く進軍する!」
のんびり侵攻しては三好の反撃を許してしまう。
いくら農繁期での出陣とは言え、元々の実力差は絶大である。
言い換えれば今しか動けず、今しか勝算が無い。
可能な限り迅速に決着をつけ、可能な限り迅速に防備を固める。
その上で、可能な限り迅速に農兵を解散し、農作業に当たらせる。
これが義藤の戦略であった。
かなり荒く、都合の良すぎる戦略である。
全てが上手くいったとして、ようやく戦果が得られるであろう、綱渡りに等しい戦略である。
何か一つ躓いたら戦果が得られない所か、自滅まであり得る戦略である。
しかも義藤は察知していないが、斎藤義龍の謀略の魔の手も伸びている。
しかし、悲しいかな。
劣勢に立たされる将軍家としてはそんな事は解ってはいても、この大博打に打って出なければ2度と挽回は不可能な程に追い詰められている現実がある。
座して死を待つか?
窮鼠猫を噛むか?
「ワシは座して死ぬ為に織田で学んて濃姫殿に鍛えられた訳ではない! これでダメなら2度と浮上する目は無いじゃろう! 今立たずして何が将軍か!」
史実でも将軍家復権の為に、足掻きに足掻いた人生であった。
また、信長の歴史改編の影響を少なからず受けた身である。
どんなに茨の道であろうとも動かない訳がなかった。
「各々奮戦せよ! 出陣!」
出陣した義藤は近江で暴れに暴れた。
今までの鬱憤を晴らすべく、不遇の時代に別れを告げるべく、足利尊氏に連なる13代将軍として。
織田の親衛隊で学び組織した将軍親衛隊は、特に効果を発揮した。
乱世のこの時代でも、特に戦いが多い地方である。
将軍の再起という大きなお題目もあったが、衰退した土豪、野盗に身をやつした者など武芸の心得がある者も多く集まった。
義藤はその集まったならず者達を、織田式のスパルタ訓練で鍛えに鍛えた。
脱落する者も多かったが、耐えきって従う者は一発逆転を狙う野心溢れる者ばかりである。
弱いはずがなかった。
こうして西近江侵攻作戦は大成功に終った。
希望的観測が非常に強い作戦と都合の良い予測が、奇跡的に全て上手く行ったのである。
農繁期による敵兵の準備不足、専門兵士の欲望と攻撃力、電撃作戦は近江の三好勢力の反撃を許さなかった。
戦国武将として目覚め始めた浅井久政率いる浅井家の面々も、斎藤家に散々やられた鬱憤を晴らすかのように大活躍を果たした。
「自分で戦を仕掛けておいて何じゃが……。こんなに上手く行くとは思わなんだ……」
「そうですな。織田の戦法を完璧とは言えずとも模倣しただけでこの戦果。これはひょっとすると、ひょっとするかもしれませんな……!」
「上手く行き過ぎて怖いぐらいじゃ。フフフ……! 明日ワシは事故で死ぬんじゃないか?」
義藤もこんな都合の良い作戦が、本当に全て上手くいくとは思っていなかった。
それ故に、運が良すぎて『明日死ぬ』と冗談めかして言った。
「ハッハッハ。ご冗談を。そんな事言ってしまったら言霊が作用しますぞ?」
「それもそうじゃな。尊氏公の加護があったとしておこうか。ハッハハハ!」
足利義藤と細川晴元は、遠く霞んで見えなかった己の家臣、三好長慶の足下を捕らえた事を実感したのであった。
だが―――
京極の離反と、斎藤の若狭制圧を知るのはもう少し後であり、その時、義藤は己の未熟さを痛いほど知るが後の祭りであった。
【山城国/京 三好館 三好家】
「兄上、近江に潜伏している将軍が、西近江を制圧したとの事です」
弟の三好之虎(実休)が兄の三好長慶に報告する。
非常事態の割には実に落ち着いた報告であるが、周囲に控える家臣達も同様で、せいぜいが眉をピクリと動かす程度であった。
「そうか。農繁期にご苦労な事だ」
長慶もその報告には、さして関心がないかの様に、と言うよりは本当に関心が無いか、まるで反乱など織り込み済みであるかの様であった。
「それでは、前回の連歌の結果を言い渡す」
将軍の反乱という非常事態の報告とは打って変わって、広間が殺気に包まれるのであった。
連歌>将軍となる程に、将軍の反乱は三好にとってどうでもよかった。
【斎藤家 今龍(旧地名:今浜 史実地名:長浜) 斎藤家】
時は少し遡って、足利義藤が近江侵攻を開始した頃。
今龍に建設中の今龍城の斎藤義龍の屋敷にて、京極高吉が郎党を引き連れて面通しを行っていた。
京極高吉は北近江の地盤を固めると称し、将軍陣営を離脱したが、その足でそのまま今龍城に入り斎藤家に鞍替えしたのであった。
『よく決断してくれた。お主の決断は正に値千金。約束は必ず守ろう』
『はっ。過分な配慮に感謝いたします。これよりはこの京極高吉、斎藤家の為に粉骨砕身働く所存にございます』
正に誠心誠意といった、覚悟が伝わる真剣な思いで高吉が決意を述べ頭を下げた。
『浅井や六角! 若狭武田に朽木! さらには細川といった将軍を傀儡とする不届き者から必ずや将軍を救い出して見せますぞー!』
これ以上無い位に心が篭っていない棒読みで、将軍奪還の決意を語った。
これは、そのまま寝返っては将軍家への反逆という、あまり痛くも痒くも無いが、一応の不名誉が付いて回るので、『将軍様をお救いする』という名目を掲げた体裁である。
頭を下げつつ舌をだす、右手で握手をして左手で刺す、美しい言葉で褒め称え脳内では罵詈雑言を叩き付ける、人質を出しても平然と裏切る―――
これが戦国時代である。
まさに何でもアリ。
正直者はバカを見るのである。
義龍は高吉の半ばワザと狙ったであろうが、絶妙な大根役者振りに苦笑をしつつ答えた。
『うむ。何としてもお救いせねばなぁ』
義龍も高吉も微塵も思っていない事をお互い口にしつつ笑いあった。
もちろん何かの偶然で将軍を確保できるなら、それはそれで構わないが、偶然以上の期待はしていない。
本当の思惑は、京極家としては家の復活、斎藤家は若狭への進軍経路の確保。
お互いの利害が一致した事による、半ば必然とも言える寝返りと引き抜きであった。
『よし! コレより斎藤家は北近江西へ進軍を開始する! 先陣は京極! 道案内を頼むと共に、散り散りになった京極勢力を併合しそのまま若狭へ侵攻する! 将軍家が近江攻略で忙しい今が絶好の機会である! 各々奮戦せよ!』
斎藤家は北の朝倉と手を結び、その支配下にある浅井とは和解した。
南の織田は当然安泰であり、京極家は義龍の思惑通り斎藤家に鞍替えした。
こうして義龍は万全の体勢を整え、若狭へ至る道を確保し、進軍を開始するのであった。
『北近江に入ったか。よし。ここからは予定通り軍を分散して事に当たる。喜平次(斎藤龍定)、氏家、安藤、不破、仙石に兵1000ずつ与える! ワシも京極を連れて出る! それぞれ京極の書状と京極の者とを連れて交渉に当たれ! 大多数は京極派閥故に問題ないと思うが、難色を示したり拒否の姿勢を取るならそのまま攻め滅ぼせ! 5日でこの地を京極の影響が強い地域から、京極の領地として確定させる!』
将軍が近江の三好勢力を駆逐しようとしているのは、高吉から聞いている。
今、この時期に進軍するからには、相当の無茶をしているのも理解している。
しかし京極が将軍陣営から離脱したのもまだ知らないはずである。
何よりも若狭武田が、将軍に援軍を出している情報は何よりの朗報である。
可能な限り短期で近江北を制圧し若狭に雪崩れ込めれば、農繁期の事情もあってこれ以上ない絶好の侵略機会である。
斎藤家一同は北近江を駆け回った。
懐柔に恫喝に制圧。
北近江の京極の手回しが効いていたのもあるが、北近江の制圧が3日で済んだのは、斎藤家一同が一分一秒が値千金の価値を持つと理解していたからである。
足利義藤も短時間で決着をつける事を今回の戦の肝としていたが、斎藤家のそれは将軍家のそれを遥かに上回るスピードであった。
親衛隊の練度と武将としての差が表れた結果であろうか。
4日目にはもう若狭に向けて出発しようとしていた。
『安藤守就には兵1000にて、この京極殿の地を守ってもらう。逆に京極殿は我らと共に若狭に来てもらいたい。今後我らと共に歩むのであれば、我らの戦いをその目で見てもらいたい』
義龍の言葉は半分は方便である。
余程の事が無い限り大丈夫だとは思うが、京極が裏切ったら退路が断たれてしまうので、安藤守就を留守に置いて、逆に京極高吉を一緒に連れ出して半分人質として連れていくつもりである。
高吉も義龍の意図は理解している。
下手に拒絶すれば疑いがかけられてしまうので、動かせる郎党を率いて随伴するのであった。
裏切者はその身の証を立てる為に最前線に立って忠誠を示すのが戦場の常なのである。
『心得ております。京極の力をこの戦にて示しましょう!』
『よし! ではこれより若狭を貰い受ける! この侵攻は将軍家を操る若狭武田を誅し、かつ、大陸に繋がる海を手に入れる事により、斎藤織田の更なる発展を約束するであろう! 各々奮戦せよ! 出発!』
こうして義龍は若狭に侵入すると、瞬く間に若狭武田の領地を切り取っていった。
農繁期に攻め入る利、親衛隊の力、若狭武田が援軍を送っていた事もあるが、それにしても驚異的なスピードであった。
後の斎藤家の資料にはこう書かれている。
義龍公の若狭進撃は、信長公の北伊勢五十城抜きに匹敵する速度であった―――と。
捏造が多い斎藤家の資料にしては珍しく真実寄りの事が書かれており、後世の歴史学者が翻弄される原因となった。
ともかく義龍は将軍が西近江を掌握する頃には、若狭の大部分を手に入れる事に成功し、念願の北の海を奪取。
これは親織田派が東側から京にいたる道を、全て抑えたと同義である。
『義弟よ。これで一段落で良いな?』
義龍は尾張方面に向かって呟くのであった。
【尾張国/人地城(旧:那古野城) 織田家】
信長は義龍の若狭侵攻成功の一報を尾張で聞いた時、殊更喜んだ。
事情を知らない家臣は、斎藤家の侵攻成功に喜んだと勘違いしたがそうではない。
それは理由の半分である。
もう半分は史実より20年早く、日本分断を成し遂げた事に対する達成感であった。
《斎藤が若狭をほぼ抑えたらしい。これで一段落ついた。前々世では朝倉を滅ぼした時に手に入った北の海じゃが、今回は史実より20年も早い事になる。直接ワシが支配している訳では無いから全てが同じではないが、この結果は本当に大きい》
《え? すでに朝倉と同盟を結んでいるので北の海は……》
ファラージャが信長の言に何を今さらと感じのだが、信長は即座に返した。
《朝倉はまだそこまで信頼できる相手ではない。何やら将軍家を援助している様じゃしな》
朝倉家がこっそり将軍家を支援している事を信長は察知していた。
同盟者と言えど警戒を緩めないのは常識である。
それに朝倉とは同格の同盟なので、織田に対し遜る必要も無い。
すべては朝倉家としての生存戦略であり、信長に文句を言われる筋合いは無いのである。
もちろん、信長もそれは理解しているので文句を言うつもりはない。
何か文句を言うにしても、それは最低限朝倉を圧倒する実力を身に着けてからである。
《なるほど、政治的判断ですか……》
《じゃから港を貸してくれと言っても素直には応じないじゃろう。じゃから宗滴の奴はこう言ったのじゃ。『若狭に至る道を譲ろう』とな。この言葉には言外の意が含まれておる。『まだお互い様子見したいし信用もない。だから越前の港は貸せんが、その代わり若狭に至る道を譲ろう』。じゃから、これで誰に憚る事無く北の海を利用できる》
《はぁ……。言葉にしない事を読むのは大変ですねぇ》
《何を言う。為政者ならこれ位当たり前じゃ。しかしこれで、最低でも陸路は封じた。こっそり京に上洛する輩を妨害し、東に渡る物資を買い占める事もできる》
《なるほど、武田対策ですね?》
《それもあるが、武田だけではない。東国対策じゃ》
今は武田対策が主であるが、それで終わりかと言えばそうではない。
北条も長尾もそれより東や北の勢力も残っている。
残存勢力の割合で言えば、今はまだ圧倒的に織田以外が大多数である。
信長は天下布武印を使う事で既に全ての敵対勢力に喧嘩を売っている。
今は大多数の勢力が『何を馬鹿な』と油断しているが、本当に喧嘩を売られていた事に気づいた時には、既に手遅れになる様に対策を立てるのは当たり前であった。
「さぁて。滞っている内政を片付るか! 於濃! 若狭の港が手に入ったから斎藤家を通じて北に販路を広げる。義父上と連絡を密にして対応せよ。人選は任せる。次、堺の林秀定と斎藤龍重、勘十郎(織田信行)に使いを送り状況を知らせろ。若狭に商船を誘致せよと」
信長はテキパキと指示を出す。
今年の織田家は戦らしい戦は、精々が京での野盗遭遇戦ぐらいであるが、戦に勤しむ他勢力よりも大忙しであった。
「さて、ワシは水田の様子でも見てくるかな。草でも刈るか」
19歳にして日本の副王に謁見する実力を有した者のする仕事ではないが、これも一種のうつけの策である。
これが策であり、なおかつ米の生産量増加政策の一環であると知った時の、諸勢力の顔を楽しみにしつつ、信長は泥にまみれるのであった。
9章 天文22年(1553年) 完
10章 天文23年へと続く




