94-1話 風林火陰山雷 武田の改革
94話は3部構成です。
94-1話からお願いします。
【甲斐国/躑躅ヶ崎館 武田家】
「これより残存の南信濃完全掌握作戦を開始する! 者共! 年初に申し渡した『風林火陰山雷』を今一度思い返し功を成せ! 今後はただ勝つだけでは無く『風林火陰山雷』を実践した者をワシは重用する! そう心得て励むがよい!」
「はっ!!」
武田晴信の激に家臣達は一斉に平伏した。
その様子に武田兄弟は内心の驚きを隠せず声を潜めて話した。
(おぅおぅ! こりゃ凄い! あの反抗的だった者共のこの変わり様! 策とは、戦法とはこうも恐ろしい物とは! やりましたな兄上!)
(うむ。ワシも望んで止まない結果だったとはいえ、この変わり様には驚いたわ)
武田兄弟が感じる様に、平伏する家臣達は今までの様などこか反抗的で舐めた様な態度は潜められ、代わりに現れたのは強い当主に対する畏怖と尊敬の念であった。
南信濃での戦いは、武田兄弟の思惑以上の成果を挙げる事に成功したのであった。
年始に招いた快川紹喜から学んだ『風林火陰山雷』。(85話参照)
これは軍法や戦法だけに留まらず、武田家の在り方まで変えてしまう程の劇薬として機能ており、この家臣達の変わり様に晴信は満足げに頷いた。
それも仕方ないと思える程に、武田家は歪であった。
ここに至るまでの経緯では、こんなやり取りがあった。
【南信濃侵攻前のある日】
昨年の川中島の戦い経て南信濃に進出した武田家は、同地に足掛かりを得てはいたが、かと言って完全掌握とは言い難い脆弱な支配故に、もう一度反抗的な勢力を駆逐すべく出陣していた。
何故一回の戦で掌握できなかったか?
それもこれも全て長尾景虎のせいである。
武田軍に兵数も劣り、越後での反乱を鎮めてきたばかりの長尾軍は疲弊しており、大した行動は出来ないと思われていたが、予想に反して大劣勢を覆し武田軍に大ダメージを与えることに成功していた。
下手すれば打ち取られる寸前まで追い込まれた武田晴信は辛うじて挽回する事ができたが、完勝と言い難い所か敗北に等しい引き分けの結果では、南信濃の勢力に強い影響力を残す事が出来なかった。
その結果、南信濃では公然と敵対する者や、形ばかりの恭順の姿勢などが横行し武田家は舐められっぱなしであった。
その歪な支配を是正する為にも、南信濃へ再侵攻は急務であった。
ただしその侵攻は旧来の漠然とした蹂躙や腕力頼みではなく、戦法、陣容など戦の在り方を重視した前時代からの脱却を目指すべく『風林火陰山雷』の戦法を重視し、スマートに、鮮やかに、被害を抑えた上で勝つ。
その方策もすでに武田晴信、信繁兄弟は十分に話し合い、満を持しての進軍とするつもりであった。
しかし―――
その軍法も家臣達には評判が悪く、あまり浸透しなかった。
この戦に帯同する家臣達は『風林火陰山雷』の説明を受けるには受けたが、『面倒くさい』だの『力攻めで十分』と公然と口にしたり、また口には出さなくとも顔を見れば読心術のスキルが無くとも読めるかの様な露骨な嫌な顔をしていた。
特に武田家の中でも強い力と勢力を持つ秋山虎繁(信友)などは、公然と文句を言ってのけた程である。
「御屋形? 小手先の策などワシが力で粉砕します故に、後方でふんぞり返ってるが良かろう。当主とはそうあるべき! そうであろう? 飯富兄弟?」
「当り前じゃ! たまたま村上や長尾には打撃を受けたが、南信濃に残った勢力など小粒も小粒!」
「然り! 兄上の言うとおり! この昌景が先陣切って蹴散らしてご覧に入れようぞ!」
秋山虎繁の言に飯富兄弟である虎昌と昌景(後の山県昌景)が追随して声を上げた。
他の家臣も次々に同意の声を上げる。
名目上とは言え、主君の晴信に対する態度ではないが、それに誰も異を唱えない武田家の相当に歪んだ現状であった。
これが合議制を敷く武田家故の弱点であり、晴信が何としても力を示し強権を手に入れねばならない目下の問題でもあった。
そんな中、力での戦いを身上とする猛将達とは、一歩引いた眼で見る者が口を開いた。
織田と今川の決戦である桶狭間に援軍として参陣した馬場信春と、武田家の外様ながら信州方面を担当して発言力がある真田幸隆であった。
「……。御屋形様。風林火陰山雷については某も思う所があります。のう源太左衛門殿?(真田幸隆)」
「そうですな。言うは易し、しかし、行うは難し。御屋形様の手腕を拝見しとうございます」
その言い様に晴信はムッとしかけたが、直ぐに気が付いた。
(これは……?)
二人は飯富兄弟や虎繁の様な侮蔑の目ではなく、期待の目をしており、晴信は武田家の中にも新しい風が吹き始めているのを感じたのであった。
(織田と今川の戦を見た信春と、並みならぬ才気を持つ幸隆がワシの方針を受け入れようとしておる! この二人には何か思う所があるのだろう。ならばこの遠征で失敗しては武田家は永久に腕力頼みの力業しかできぬ集団に成り果てかねん。此度の遠征は絶対に結果を出さねばならぬ!)
そんな思惑の晴信は、可能な限りの『風林火陰山雷』を実行した。
躑躅ヶ崎館を出発した晴信と信繁兄弟は、あろう事か家臣の軍を置いてけぼりにして大将が先頭切って甲斐から信濃への道を進軍した。
別に駆け足と言う訳ではないが、可能な限り急いだ結果、普段の2割増しの距離を稼いだ。
その強行軍に雑兵、足軽の中には多少脱落する者も居たが、それでも晴信は進軍を中止しなかった故に、数日かけて信濃の目的地に到着した頃には、主な家臣達との差は1日分にも達しようとしていた。
脱落せず随伴できた家臣は、晴信の改革に期待を寄せている馬場信春と真田幸隆の軍だけで、後の家臣は自分のペースを崩す事はしなかった。
「御屋形は何を考えておる? 雑兵が行軍速度に着いていけず脱落しておるではないか。それに突出した所で打ち取られては風林何たらの意味がなかろうて」
晴信の方針を疎ましく思っていた家臣達は、口々に不満や失望を露わにした。
「まぁ今の御屋形が討ち取られたならば、別の誰かを擁立すれば良いだけ。難癖つけて大殿を追放した時の様に」
「そうじゃそうじゃ。改革なぞ必要ないわ。面倒な事をせずとも現状で困る事など何もない!」
晴信の父である信虎はクーデターによって甲斐を追放されたが、その罪状が、国家支配者としてあり得ないような常軌を逸した悪行ぶりであり、晴信の正当性を演出する為に過剰に悪く貶められた可能性が高い。
そんな訳で変化を嫌う気が早い家臣などは、クーデターをもう一回再現しようと言い出し、通常の行軍スピードよりも敢えて遅くするなど、晴信の足を引っ張る行動に出る者も居た。
一方、目的地に到着した晴信は笑っていた。
「ついて来たのは全軍の3割程か。ワシの求心力などこんなモノか……! 変化を嫌い! 現状に満足し! あまつさえワシの政策に異を唱える……! ぬぐぐ……フハハハハ!! 今後が楽しみじゃて!」
遅れる家臣達の、心理と行動を読み切っていたのである。
「今は遅れる奴らなどどうでもいい。それよりも眼下に広がるこの絶好の機会を逃す訳にはいかん! 死に物狂いでワシについてきた精鋭達よ! 見よ! 敵は我らの進軍速度に対応できておらず軍の編成すらままならん! これぞ『風林火陰山雷』の『風』の威力! この神速故に敵は我らの陣容すら把握出来ておらん! これ即ち『林』なり! 次は『火と雷』! 敵にとって今の状況は想定外! これ即ち『雷』の如くなり! さぁ待たせたな! あとは『火』の様に攻め立てるのみ! 全軍! 敵を蹂躙せよ! 欲しい物は奪い取れ!」
そう言って晴信は全軍に突撃の命令を出した。
そんな中、弟の信繁が怪訝そうな顔で口を開いた。
「兄上、せっかく戦法も考えたのに、ただの突撃で宜しいのですか?」
「今は良い。下手に戦法に拘ってこの好機を逃す訳にはいかん」
晴信が言った通り、敵は軍備すら整っていない有様である。
戦の体を成していないのであれば戦法など不要、と言うよりは単なる蹂躙もこの場合は戦法である。
「心配するな。この先必ず戦法を披露する機会はある。その時、今ここに居ない後続の軍の者は思い知る事であろうな。自分たちの愚かさを」
晴信はそう言って笑った。
何せ『風』を実行しただけで、圧倒的有利の状況を手に入れたのである。
晴信は、後続の家臣達がどんな顔をするのか、楽しみで仕方がなかった。
一方、その日の戦が終わると共に後続の家臣達が到着し始めた。
遅れた家臣達が重役出勤の如く本陣に行くと、そこでは既に一足先に圧倒的な戦果を挙げた馬場信春、真田幸隆、武田信繁が晴信から激賞を受けている最中であった。
「ッ!?」
「おぉ! お主ら遅かったな。お主らの到着を待たず戦を仕掛けたのはすまなかった。しかし、敵が余りにも無防備でな。この機会を逃す訳にはいかんかったのじゃ。すまんなぁ。この通りじゃ」
晴信は殊更大げさに非を詫びた。
もちろん本心から詫びた訳ではない。
これ程までに、言葉と本心が乖離している態度も無いだろうと断言できる、正に慇懃無礼極まりない晴信の態度であった。
しかし常の武田家と家臣の力関係ならば文句や異議を唱える家臣も、今回ばかりはどんなに怒り心頭でも文句を言う事が出来なかった。
なぜなら彼らの価値観の基準は戦功である。
それで後れを取ったのであれば何も言う事は出来ないし、仮に文句でも言おう物なら言えば言っただけ恥の上塗りである。
「い、いえ、勝ったのであればめでたき事……!」
「安心せい。明日以降にも戦は控えておる。勿論、戦功は山程転がっておる。その時励むが良い」
そう晴信は遅れた家臣を丁寧に労ったが、当然本心は異なる。
明日は明日で、功績は今日戦った者達で独占するつもりであった。
弟の信繁と考えた必殺の戦法を駆使して。
前回投稿からずいぶん遅れてしまい、また1月中旬で遅れた感はありますが、明けましておめでとうございます。
前回投稿で信長Take3が一周年でした!
読んでいただいた皆様のお蔭で続ける事ができたと言っても過言ではありません!
ありがとうございます!
今後も宜しくお願い致します!




