92-2話 盆踊り 地獄編
92話は二部構成です。
92-1話からお願いします。
【伊勢国/長島 願証寺】
「何たる事だ! まさか織田がこんな手段に打ってこようとは!」
願証寺証恵は信長の方針を理解した時、手にしたバチで木魚を叩き割る程に激高した。
「情報を封鎖しろ! 民を惑わす余計な流言を流すものは仏罰を下す! そのつもりで情報を遮断せよ!」
証恵は急遽せまられた決断に、迷わず隠蔽を選んだ。
民に知られればマズイ事になるのが、目に見えていたからである。
「武士ならば戦わんか! 慰霊は我等の役目ぞ!」
証恵は報告に聞く乱痴気騒ぎに唾をごくりと飲み込みつつ、卑怯にも搦め手で圧迫してくる信長に憎悪を燃やすしつつ、自分の境遇と相手の華やかさを比較しては懊悩した。
まさに『隣の芝生は青い』状態である。
隣の芝生は青い―――
他人の持つ物は自分の物より良く見える事の例えである。
切り分けられたケーキは隣の奴の方が大きく見えるし、美容院でのカットやパーマも隣に座った奴の方が似合って仕上がりも良く見えるし、自分の隣に座る異性は友達の隣に座った奴の方が魅力的に見えるし、自分の小説より他人の小説の方が面白そうなのである。
ただ隣の芝生が青く見えるのは、どうしても何故か他人の物のが見栄え良く見えてしまう、言わば『気のせい』『あるある』現象で、あまり気にしすぎると盛大な自爆に繋がる恐ろしい現象でもある。
ただし実際に青かったり、大きかったり、似合ったり、良い奴だったり、面白いかどうかは別問題である。
―――本当に青い場合もあるが。
そんな意味を持つ『隣の芝生は青い』であるが、なぜこんな事を説明する必要があるのかといえば、織田家の悪逆非道の限りを尽くした戦略を表現する為に必要だからである。
信長は卑劣極まりない戦略で芝生の色を本当に青も青、真っ青に見えるレベルで見せ付け格差をアピールし、願証寺が導く民を惑わし、煩悩に誘い堕落させる腹積もりなのであった。
証恵が冒頭で叫ぶ前の、願証寺と織田の関係はどうだったのか?
良くも悪くも絶縁状態である。
信長の政策で願証寺側が迫害を受け、正当な権利として織田の領地を侵食し、抗議の書状が来たが無視した所で完全に交流が途絶えた。
現在の願証寺領地は陸も海も織田の封鎖を受けて孤立しているが、ただし兵糧攻めではないので、耕す土地も有れば森や海岸も資源もある。
自分たちの領内だけで一応すべてが完結できる状態なので、食うに困ったりする事もなく、物資も封鎖の隙間を潜り抜けて少ないながら入ってくる。
そういった訳で、封鎖といえどそんなにダメージは無い。
ただし―――
国として健全な状態であるならば、という但し書きがつくが。
【信長が封鎖を開始し1年が経過したころ】
『銭が減って使えない?』
願証寺領内では銭の流通が途絶えていた。
ただし、それは織田による今の封鎖が原因の全てではない。
もう随分前から銭は枯渇気味で、まとまった取引が難しい状態であった。
何故なら、願証寺領外では関所が撤廃されてしまった為、通行税を取る事ができなくなったからである。
銭、あるいは物資を関所を通過するたびに徴収できていたのが、信長の政策のお陰で不可能になってしまった。
願証寺の影響力が強い長島では関所は乱立しているが、すぐ近くの織田家で通行無税なのに、わざわざ重税が課せられる関所がある地域で、商売をしようとする商売下手な商人はほぼ居ない。
殆どの商人は長島の外へ脱出してしまい、一応、一向宗を信仰する商人が願証寺の苦境に気を使って物資を届けに来るが、完全に商売として成り立たない地域なので、単なるお布施と化しており、流通自体が途絶えてしまった。
こうなると、残った数少ない銭の価値も無くなりつつあった。
銭が流通し量も揃っていた頃は通貨として機能し、一定の価値ある物として使われていたが、商人が銭を抱えたまま脱出してしまったので、領内から銭が無くなり一定の量を下回った所で銭としての価値は失い、ただの鉱物の塊と化してしまった。
まとまった売買に必要な銭の量が揃えられないからである。
ある商品が欲しいのに、どんなに掻き集めても必要な金額に届かない所か、将来的に『銭』が手に入る見込みがなければ『銭』に意味が無くなってしまう。
現代で例えるならインフレとは違うが、紙幣が紙クズになった状態である。
こうなってくると税や通貨として機能するのが、昔ながらの手法である米(あるいは農作物)での取引である。
『フン! 銭など今はどうでもよいわ。銭がないなら米で物資のやり取りをすればよい』
願証寺領として土地はあるので米は収穫できるし、年貢として農民からお布施として徴収ができるので全く問題はない。
それに食うに困るならば、慈悲で貸し付けて、御礼を取る事もできる。
銭は必要と言えば必要だが、無いなら無いで、古き良き時代の知恵として先人の手法を学べば良いのである。
野蛮な武士には到底真似のできない、柔軟な発想力である。
『それよりも織田対策に寺院の防備を固めなければな……。民を導け! 特に仏の教えを守らぬ仏敵者は根こそぎ動員し普請にあたらせよ!』
ここで言う仏敵者とは僧侶に歯向かったり、お布施が未納であったり貸したものを返さないなど、念入りな教育が必要な者達の事である。
願証寺領の農民の仕事は農作業の他にもあり、将来の織田家との対決を睨んで寺院の要塞化の労役を課せられていた。
そんな苦しい事情のある農夫たちの前で証恵は、農民如きに聞かせるのはもったいない程のありがたい言葉で説法を説いた。
『皆聞くが良い! 今、我ら一向衆は当然ながら、長い年月国を受難から守護し続けた仏教が存亡の危機に立たされておる!』
どこにそんな力が有るのか、と言うくらいに良く通り腹に響く声である。
これは僧侶特有の丹田呼吸法ならではの圧力ある声で、現代の僧侶はもちろん、役者、声優、ナレーターなどには必須のテクニックである。
または、意識して身に着けようとせずとも、武道経験者、運動系の部活での声出し、活発快活な少年少女時代を送っていれば実はある程度備わるのだが、これが出来ない人の声は空気に溶けるかの様なか細い声となり、マイクを通してなお本当に聞き取りづらい、ある意味大迷惑な声になる。
そんな人物が上司等になると部下は地獄を見るが、この証恵にはそんな心配はない。
上述の呼吸法もあるし、年貢や教義の肉食のお陰で腹いっぱい食えているので健康的な体が維持できているからである。
『愚かにも我らを圧迫し弾圧しようとする織田! それに付き従う有象無象の家臣共と、信長に騙されている哀れな民! 奴らに我らの現世での浄土たるこの長島の地を蹂躙させるわけにはいかぬ! よって今まで以上の防備を固める必要がある! 皆には辛い労役かもしれぬが、必ず御仏にはその善行は伝わるし、拙僧が浄土への道を保証しよう! しかし手を抜くものには無間地獄に落とされよう! そのつもりで仏に献身いたすがよい!』
こうして農民たちは、証恵に導かれるまま重い足取りで作業に入った。
現代なら暴動モノの待遇であるが、これが許されるのが戦国時代であり、宗教が絶対の時代であり、当時の宣教師が日本に来た時、『この国の農民は我が国の奴隷よりも待遇が悪い』と驚く従順性と妄信性であった。
こうして長島の地と願証寺は先鋭化していった。
これが織田家が近江へ援軍に行っている時期の話である。
織田家の注意も北に向いており、封鎖以外の妨害は特になく、2年間かけて問題なく要塞化が成ったのであった。
【今年】
「ぜ、全然攻めてこない……」
証恵は一体何が起きて、何も起きないのか分からなかった。
別に攻め寄せてほしい訳ではないが、かと言って、あまりにも動きが無いのは不気味である。
いや、正確には動きが無い訳では無かった。
その証拠に織田家で積極的な動きがあるのは把握しており、近隣諸国に攻めない以上、長島に向けて戦の準備を整えていると判断するのが普通であり、あちこちで普請も行っており、特に海では例年よりも船が行き来しており、戦に突入するのは誰がみても明らかであった。
だが、戦には発展しなかった。
「クソッ! 焦らしおって! 一体何が起こっておる! 密偵の報告はまだか!?」
証恵の不安と苛立ちは爆発寸前であったが、何とか導火線が引火する前に詳細な情報を掴んだ密偵が戻ってきて報告した。
内政の強化を行っている事、軍事施設もあるが、どちらかというと新たな町や文化的施設が多数建設されている事、戦の準備をしていない訳では無い事、また、盆踊り大会が開催され食事や酒が振舞われる言う事―――
証恵は衝撃を受けると共に、まんまとやられた事を悟った。
「何たる事だ! まさか織田がこんな手段に打ってこようとは! 情報を封鎖しろ! 民を惑わす余計な流言を流すものは仏罰を下す! そのつもりで情報を遮断せよ!」
この情報が長島の民に知られれば、余りにも格差がありすぎる境遇の差に、民の逃散を招く恐れが極めて高かった。
むろん教えを盾にして民を縛り付ける事はできるが、全ての民を縛り付けるのも不可能である。
軍役から解放され、食糧難の時代に景気の良い振舞い、民を楽しませ魂を慰める盆踊り。
絶対に情報を民の耳に入れる訳にはいかなかったのである。
「武士ならば戦わんか! それは我等の役目ぞ!」
どんなに叫んでも悔しがっても、真綿で首を絞める悪質な織田の戦略は、願証寺に強制的な選択を迫っていた。
一つ目はせっかく築いた砦や寺院から打って出て、織田を急襲する事である。
織田領内が豊かなのは周知の事実なので、食料を奪いつつ戦えば勝機はある。
ただし、兵の絶対数は劣る上に、何より織田はこれを待っている可能性が極めて高い。
二つ目は領内に籠って持久戦に持ち込む事であるが、持久戦に持ち込むとは絶対的優勢にある者が選べる選択肢で、本来なら選べないが、そこは武家ではなく寺院ならではの手段で民の信心に期待し耐え抜く道もある。
それに織田信友と織田寛貞の策もまだ成就していないので、耐えて勝機を待つのも手だが、やっぱり織田はこれを待っている可能性がある。
打って出るか待つか。
証恵は極めて重要な決断を唐突に突き付けられた。
実は三つ目の策もあるのだが、それは証恵の思考の片隅にも表れなかった。
それは織田に負けじと民に振舞って施す事で、他の二つの策よりも良い結果をもたらす可能性も秘めていたが、全く思いつく事が出来なかった。
「……様子を……様子を見る。策の件もあれば、御仏の加護もあるのだから!」
動くに動けなくなった証恵は、来るか分からない好機を待つ事を選んだ。
証恵は贅を尽くした精進料理という矛盾した物を食べ、当面の怒りを鎮めるのであった。
【伊勢国/金井城 織田家】
一方信長は、伊勢の金井城でも盛大な盆踊りを開催した。
北畠具教がその戦略眼で見極め、柴田勝家と森可成が協力して作り上げた、まだ未完成の地であるが、この地の利便性と発展性は、信長の支配する全ての領地の中でも随一と言って良い程の将来性を秘めていた。
尾張にも長島にも近江にも南伊勢にも通じる伊勢の新たな要衝となり、小粒な北勢四十八家が支配していた頃では考えられない賑わいを見せていた。
特に、長島から脱出してきた商人や民が率先して移り住み発展を後押し、織田家首脳陣も予測できなかった程の賑わいを見せる事になった。
そんな地での盆踊りは、熱田以上に賑わう事となるのは当然の成り行きともいえた。
天照に扮した信長が激を飛ばす。
「飯が足らん! どんどん持ってこい! お主等はじゃんじゃん握れ!」
信長を含めた奥方衆が懸命におにぎりを拵え、肉や野菜をたっぷり使った汁を民に振舞うのだが、それを求めて民が長蛇の列を作っていた。
正にてんてこ舞いとなった金井城。
帰蝶達は一心不乱におにぎりを拵えたが、どうしても納得しかねる現象に、納得できない原因である信長を睨んだ。
「おのれ……! 三郎様ァッ!!」
帰蝶、吉乃、茜、葵、直子、更には信長までが握るおにぎりは、家臣達が民を誘導し6列を作っているのだが、一番の長蛇の列を作っているのが信長であった。
別に信長の作るおにぎりが美味い訳でも、特別早く民を捌いている訳でもない。
信長は事情を知らない者が見たら絶世の美女に扮している。
つまり―――そういう事であった。
「信様……」
「女としての自信が……」
「こんな事は許されない……」
「まぁまぁお姉様……」
京への上洛で信長とより親密になった直子以外は、自信を喪失しつつ、それでも笑顔になる民の為に働くのであった。
「そういえば内蔵助ちゃん(佐々成政)も私たちを差し置いて失礼極まりない行為をしてたわね……!」
成政は信長を女と勘違いしナンパしていたのだが、よくよく考えれば帰蝶達のプライドを圧し折る痛恨の大失敗とも言えた。
食事が一段落した後は、踊りに興じ、即興劇では輝夜姫の帰蝶が鬼の成政を殺陣で打ちのめすなど大盛り上がりを見せた。
伊勢盆踊りも大成功を収めたのであった。
そんな伊勢の賑わいを完全シャットアウトし耐える長島願証寺。
まったく血の流れない、壮絶な耐久戦が始まったのであった。




