91-3話 上洛 難題の発覚
91話は三部構成です。
91-1からお願いします。
「お主は……危険な男だな」
部屋の気温がグンと下がる―――
心臓を鷲づかみにされ握りつぶされる―――
そう錯覚する程の圧力と低い声で長慶がポツリと呟いた。
それと同時に左右に控えた家臣達の腰が浮き、長慶の背後に控えた小姓が刀を差し出した。
ここで長慶が刀を手に取れば、信長達はこの場で始末される。
信長も義龍も腰を浮かせ備えるが、脇差一本ではどうにもならない。
二人とも並ならぬ武芸を持つが多勢に無勢すぎるし、万が一この場を切り抜けても門から脱出する事は適わない。
《クソ! 迂闊にしゃべりすぎたか!?》
三好長慶は明らかに信長を警戒し、信長は実力を見せすぎた事を後悔した。
自分が頂点に君臨していた頃はそんな『出る杭は打たれる』みたいな気遣いは当然しなかったし、家臣の杭は寧ろ伸ばしまっくったのが信長である。
しかし今は東海の地方領主。
警戒心を持たせては、太刀打ちできない場合もあるのを忘れてしまっていた。
《の、信長さん! 4回目の準備を始めますか!?》
《不吉な事を言うな! 死ぬのは死ぬ程痛いんだぞ!? しかし……どうする!?》
信長は進退窮まった事を察した。
一方、長慶は長慶で迷っていた。
(この男は異質にして異端! ワシ以外にこんな事を考える奴が居ろうとは!)
銭に関する話もさる事ながら、20歳満たずで尾張、伊勢、志摩を支配し、美濃とは乱世において信じ難い程の強固な同盟で結ばれ、北畠具教を圧倒し、今川義元の侵攻を跳ね返し、朝倉宗滴とも互角に渡り合った。
どんなに才能豊かで土地に恵まれていたとしても、失敗らしい失敗も無く、破竹の快進撃なんて言葉でも足りない位に勢力を伸ばした信長の実績は、異常極まりない成果である。
無論、天下布武法度の革新性や地名改名の意味も正確に把握している。
取り込むにも敵対するにも、信長は劇薬過ぎると判断せざるを得ない。
信長はある意味魅力的過ぎた。
そんな信長を心酔する者も居れば、警戒する者も居る。
信長は不用意にも、実力と才能を示しすぎ、隠された野望すらも見抜かれた。
何故なら、自分と同じ思考と判断と価値観を持つと分かったからである。
警戒するなと言う方が無理である。
(この男は危険すぎる! 危険すぎるがこのワシをここまで悩ませる存在とはな……! しかし同志となればこれ以上の味方は居ない!)
長慶が手を挙げる。
家臣達は長慶が刀を取ると思い自分達も刀に手をかけ、小姓も刀を眼前に差し出した。だが長慶は手を挙げたまま動きを止めた。
「お主ら座れ! 全員だ!」
「ッ!?」
《助かった!?》
てっきり始末の命令が来ると思っていた家臣たちは機先を削がれ、信長と義龍も命の無事と共に今後の展開が読めなくなり動揺を隠せなかった。
「……織田殿、今からワシと供に別室に来てもらいたい。誰も同席する事は許さん」
「殿! いくら何でもそれは!?」
三好の家臣が慌てて止めに入ったが長慶は聞かなかった。
「ならん! 部屋に近づく者、聞き耳を立てる者、全員命が無いと思え!」
《何か解りませんが窮地は脱したのでしょうか?》
《さぁな。別室で殺られるだけかもしれん》
信長は長慶に促され二人で別室に向かった。
四半刻後―――
信長は五体満足で戻ってきた。
ただ、顔色が非常に悪い。
「義兄上。奥の間で三好殿がお待ちです。ワシと同じく一人で来いとの事です」
「わ、わかった……」
義龍もキッチリ四半刻後に戻ってきたが、顔色は極めて悪い。
同時に長慶も戻ってきた。
青ざめた義龍に比べ顔色は良いが、極めて難しい覚悟を秘めた表情をしていた。
「皆待たせたな。織田殿、斎藤殿はわれら三好と不可侵同盟を結ぶ! お互いのやる事には当分不干渉だ。ただ堺、尾張間の通商は執り行う。堺衆との話をつける為の滞在も許す。弾正(松永久秀)! 堺まで案内を任せる!」
「は!? し、承知しました!」
一体、長慶は信長と義龍にそれぞれ何を話したのか?
家臣達には当然わからないが、割と普通にいる長慶と信長に対し、義龍は何かショッキングな事があったと推察される様相であった。
その様子は信長も気になっていた。
《マズイな。何を吹き込まれたか分らぬが、気持ちに揺らぎを感じる》
《信長さんと話した事をそのまま話したんじゃないのですかね?》
《そうかもしれんが、それなら二人同時に話せば良いと思うが、いや? 同じ話をあえて別々に話して疑心暗鬼にさせる手段だったかもしれん。もしそうなら義龍には機を見て話すつもりであった内容を先に長慶の口から話されたとなると、この先、斎藤は我らから離れる可能性すらあるな》
《でも、長慶が信長さんに話した事を考えれば、斎藤の離反は長慶にとっても困ると思うのですけど……》
《確かにそうじゃな。それならば、斎藤の覚悟を試したのかもしれん。脱落するなら早い方が良いしな》
長慶と信長、長慶と義龍。
それぞれ何を話していたのか?
それが判明するのは後の話である。
【摂津国/堺 堺自治区】
義龍は堺への道中一言もしゃべらなかった。
だが、堺につく頃には、内心はともかく見た目には元通りになった様に見え、街に入った頃には、活気と発展に圧倒され興奮の面持ちで街を見学していた。
一方信長もそんな義龍に一安心しつつ、今回の上洛で随伴させた林秀貞と弟の信行を呼んだ。
同時に斎藤家でも堺での任務として弟の斎藤龍重が同席した。
「待たせたな新五郎(林秀貞)孫四郎殿(斎藤龍重)。お主達にやってもらいたいのは、この堺との交渉役と通商のとりまとめじゃ」
「なるほど……。これでは専任で携わる人間が必要ですな」
「噂に聞いておりましたが、ここまでの規模で発展しているとは……」
津島、熱田の規模を知っている秀貞と龍重であったが、規模が段違いに上回る堺の街並みを見て正直な感想を漏らすしかなかった。
「海路の安全に関しては九鬼水軍を使う事を許す。その他、必要だと思った事はすべて実行せよ。ワシや義兄上を通していては間に合わぬ案件もあろう。ある程度の独断専行も許す。むろんその分責任も重い」
「は、はい」
「ここは三好の勢力下で、かつ、街の規模も段違い。じゃが、かといって遜る必要はない。最初は上手く行かぬかもしれぬ。損を被ることもあろう。じゃが、堺との繋がりが絶たれるのだけはダメだ」
「わかりました」
「最後に。この任務は5年以上連続して携わる事はさせぬ。どんなに成果をあげても最長5年じゃ。残り1年となった時点で引き継ぐ者を派遣するから、滞りなく任務が継続できるようにせよ」
5年と定めたのには理由がある。
商売に才能を見せる者も、どんなに戦下手でも戦場に出れられないのは不満もたまる。
他にも堺と関わる人員を増やしたい事、また、欲望に汚染され不正を働く事を防ぐためである。
特に堺は扱う物も銭の規模も桁違いである。
どんな聖人君子でも銭の力の前には無力である。
優秀な人材をそんな事で失いたくない思いでの措置であった。
「新五郎と孫四郎殿はこの任務に携わる初代の人間となる。決して楽な任務ではないが、成果は必ず歴史に残る。織田と斎藤を支える基礎を作った者として後世に名を残す事を期待する!」
「は! 必ずや成し遂げて見せましょう!」
「お任せください!」
秀貞と龍重は自信に満ちた表情で引き受けた。
二人とも元々武人というよりは政治向きの人間である。
華やかな親衛隊が功績を挙げる中、どうしても内政要員は埋もれてしまいがちな存在になりつつあったが、信長や義龍が自分を忘れていなかった事もやる気に火をつけたのであった。
「よし。では扱う物品の中で最優先の物を定める。それは硝石じゃ」
「し、硝石? 尾張でも扱っているのでは?」
「全然足りん。多すぎて困るという事は無い。銭の余裕がある限り購入するつもりじゃ」
これには理由があった。
長慶との単独での密談で明かされた事が関係していた。
色々な話の中の一つの話題で『武田に飛騨守を授けた』と知らされたのである。
三好としても当時は東側の情勢が不透明故の先手であったが、今となっては若干裏目になっていた。
とは言え武田程度に躓く様な弱小勢力ではこの先の関係も築けない。
長慶の与えた試練であったが、寝耳に水過ぎる衝撃の発言に信長はこの日一番の驚愕の表情を見せた。
強大な三好にとって武田は雑魚でも、信長にとっては前々世からの因縁と武田アレルギー故の過剰反応であろうか。
それは領国が飛騨と隣接する義龍よりも、信長は驚いた程である。
《まだ早い! 早すぎる!》
《えっ!? でも以前(76話参照)、別の戦い方で倒すと……》
《まだ準備不足じゃ!》
武田がいつ来襲するかは未知数であるが、大至急準備を整える必要が出てきてしまったのである。
「わ、わかりました。それで一つ、お尋ねしたいのですが、出立前に勘十郎様との連動する任とも聞いておりましたが、勘十郎様も堺の任に携わるのですか?」
秀貞が気になっていた事を尋ねた。
「携わる部分もあるが、まずは生きたいか死にたいか確認せんとな」
信行は秀貞の隣で神妙な面持ちで話を聞いていたが、話題が自分に及び決断の時が来たと悟った様であった。
「どうじゃ勘十郎? 尾張の発展、京の荒廃、三好の勢い、堺の華やかさを見てきた訳じゃが、何か自分の足跡を残したいと思ったか?」
「……はい!」
「うむ。それは生きる道を選んだと判断して良いな? それならば刑罰に等しい任務を受け入れるという事になるわけじゃが、その覚悟もできたのじゃな?」
「はい!」
狭い尾張だけでは無く、日の本の中枢を見た信行にはある覚悟が生まれていた。
どの道、尾張では兄に及ばないし、反乱を起こした身であるから活躍できる機会も無い。
自分の未熟さに起因する事故に仕方ないと諦めていたが、長い謹慎生活で織田の為にこのまま何も残せず死ぬのは、耐え難い苦しみであると考えを改めていたのであった。
「ならば任を言い渡す。お主はこのまま堺に残り、新五郎と孫四郎殿をしばらく補佐せよ。その時、良く商売相手を見定め、明の商船と関りを持ち大陸へ渡れ」
「大陸……明に渡る!?」
「そうじゃ。明に渡り日ノ本に無い様々な物を吸収し戻ってこい。武器、兵法、食料、知識。どんな些細な物でもいい。一見意味不明な物や役に立たなそうな物でも構わん。人でも情報でも持ち帰られる物は何でも持ってこい。その上で、戻ってくる場所は斎藤殿が将来制圧する若狭。お主が戻る頃には支配下にあるはずじゃ」
「うむ。どんなに遅くとも来年の内に制圧して、港を整備し受け入れる準備を進めておく」
信長がそう言うと、義龍が任せろと言わんばかりに確信に満ちた声で約束した。
「何でも……」
「ただし並大抵の困難では済まないじゃろう。堺で明の商船と繋がり、渡航する手はずを整え、日ノ本とは違う言葉を習得し、向こうでは違う習慣、違う生活に耐えねばならん。謹慎生活の方が楽だったと思う様な困難が間違いなく待ち構えておろう。あるいは事故にあって不慮の死を遂げるかもしれん。二度と日ノ本の地を踏めぬ事になるかもしれん。また仮に消息が途絶えれば逐電したとみなし地の果てまで追手を差し向ける。今一度聞く。本当にやるか?」
「やります。織田にも兄上にも某は迷惑を掛け通しでした。某は思い知りました。兄上は間違いなく天下に名を残す人。そんな人の足を引っ張ったまま死ぬのは耐えられませぬ!」
信行は間髪入れず答えた。
決して今の現状から逃れたい思いで答えた訳では無いのは、信長達にも伝わる気合であった。
「よし。お主の覚悟は受け取った。ここに正式に謹慎を解き織田家への復帰を言い渡す。お主の成果を楽しみにしておるぞ!」
「は!」
この信行がどんな成果を持ち帰るのか?
それは暫く後の事である。
「よし、では尾張に帰還するか! 松永殿を呼んで参れ」
信長は最後の仕上げとして、三好の堺担当者である松永久秀を呼んだ。
「松永殿。この林秀貞と斎藤龍重は堺との通商任務の為に滞在させる。三好殿の担当者である松永殿には迷惑を掛けるやもしれぬが、どうか両国の発展の為に力を貸して頂きたい」
「お任せください。お二方が殿と何を話されたのかは分かりませぬが、三好の益となる事ならばこの弾正、全力で協力させていただきます」
そう言って久秀は頭を下げた。
相変わらずの見事な作法であった。
久秀の前々世の行動を知る信長はどうにもやり難さを感じたが、誠実な頼もしさも十分伝わったので堺との通商の成功を確信したのであった。
「よし。では帰還して武田への対策を立てる」
武田対策という突如降って沸いた大問題に頭を痛めつつ、近衛晴嗣との密談と三好との一先ずの成果に満足する信長であった。
ただ今一つスッキリしない心に疑問を持ちつつ。
《……何か忘れている気がする》
《道中思い出すんじゃないですか?》
忘れるぐらいなら重大な事では無いだろうと二人は考えたが、残念ながら重大な件を忘れていた。
何の為にこの上洛に直子を随伴させたのかを。
信長は尾張に帰還する道中の最後の宿泊地で、辛うじて思い出すのであった。




