91-1話 上洛 京の都
91話は三部構成です。
91-1からお願いします。
【美濃国/稲葉山城 斎藤家】
「これより……植樹の儀を執り行う」
「はい父上……」
斎藤道三と斎藤義龍が稲葉山城の庭に、帰蝶から贈られた(と帰蝶と信長が口裏を合わせた)柿の木を、二人で穴を掘り丁寧に土を盛り水を与えていた。
はらはらと二人の双眸からは涙が流れ落ちる―――
しかし、それは決して悲しみの涙ではなく―――
帰蝶からの心尽くしに対する、感謝の念に対する滂沱の涙であった―――
そんなマムシ親子を見つめる信長とファラージャが、ポツリと感想を漏らした。
《何じゃこれ》
《さ、さぁ……? うへぇ……!》
ファラージャは大の男が涙と鼻水で顔面を崩壊させた汚すぎる光景に顔をしかめ、信長はかつて褒美に茶道具の名器を与えたら涙を流して喜ぶ家臣たちを思い出した。
ついでに、無垢な心を騙した罪悪感で顔を曇らせた。
《ま、まぁ、前々世で義輝に会うために上洛した時は、義龍の刺客に襲われたからな。それを思えば平和すぎる光景じゃて》
史実にて、信長は義龍から刺客を送られ鉄砲で狙撃を受けたらしいのだが、これはどうやら歴史の資料に残る限りでの話になるが、史上初の狙撃暗殺(未遂)事件であったらしい。
当時の火縄銃の破壊力は、条件次第では現在の銃よりも威力が上回る場合もある。
本気の遠距離狙撃では現代の銃の足元に及ばない性能も、至近距離での殺しにおける破壊力と殺傷能力は刀槍類、弓矢を上回る。
刀、槍、矢傷は傷口は裂傷となり比較的綺麗になる上に、急所でなければ命を奪えない武器であるのに対し、弾丸による傷は肉体組織に無理やり穴をこじあける挫滅創である上に、急所でなくても死に至る可能性を秘めた武器である。
何故かといえば、雑菌と質の悪い火薬、燃焼の煤に汚染された、毒性のある鉛製の弾丸が体内に打ち込まれるので、多種多様な菌と毒素に侵され重篤な症状を引き起こす可能性が、極めて高い武器である。
即死じゃなくても十分脅威な上に、仮に死に至らずとも周囲の組織をズタズタにしてしまうので、治りも悪い所の話ではなく、一生に関わる障害を負う可能性も高い。
攻撃力に関しては、特に槍や刀が届かない距離から一方的に(当たれば)殺せる武器として、破格の性能であった。
もちろん、デメリットも絶大で、大音響の発射音故に居場所は当然バレるので、闇から闇に葬り去る華麗な暗殺は不可能であり、襲撃者の命の保証も限りなく低い。
それでも義龍は鉄砲を暗殺手段として選んだ。
高価な鉄砲と火薬を使ってでも絶対殺すと決めた、強い意志を感じる事件である。
この事件で面白いのは、鉄砲に先見の明を持つ信長でも、扱いに長ける雑賀衆や根来衆でもなく、義龍が暗殺に鉄砲を選んだ事に歴史の妙というべきか。
鉄砲の扱いや認識について想像が膨らむ事件でもあった。
そんな義龍が晴れやかな顔をして信長に向き直った。
精神に受けた大ダメージは、かなり癒えたようであった。
「またせたな義弟よ! 出立の準備は出来ておる。早速参ろうか! 父上、留守を頼みます!」
「うむ。三好殿に失礼のないように、しかし、斎藤の矜持を見せつけてやるがよい!」
「も、もう宜しいので? では参りましょうか」
信長が懸念した意気消沈した義龍は完全に鳴りを潜め、今は斎藤家の当主としての威勢を放つ佇まいである。
こうして斎藤家の支配する地域を安全に通過し、琵琶湖を望む一位置、近江の今龍(旧地名:今浜 史実地名:長浜)と変更した地に到着した。
【近江国東部/斎藤家】
「さて、琵琶湖を渡りきれば三好勢力圏内であるが……。延暦寺にも事前連絡はしてある故に襲われる事は無かろうが、あの大勢力を誇る三好の勢力圏をたった500人で行くのは心細いというか何というか……。義弟よ。今更聞くのも何じゃが、三好に会って何を話す?」
義龍が、若干の冷や汗をかきながら問いかけた。
「そうですな。軍事的衝突が無い様に同盟を結ぶ事が一つ。これは叶いましょう。三好の目は東に向いておりませぬ。官位を与えて懐柔し背後を固めたのが何よりの証拠。お互いの利益を侵害しなければ問題はありますまい。次に堺への滞在を許してもらう事が一つ。こちらの方が慎重を期す案件で難しいですが、津島熱田は我らの土地の物産を扱う地。ここが堺と繋がる意義は大きいはず。三好の利益にも繋がるならば食い込める余地はあるはずです。他は……まぁコレと言って用はないかと。兵も少ないので用事が終ればさっさと帰還します。国元ではやることが山積みですからな」
本当はもう一つ京を見物する目的と、もう一つ極めて内密な目的もあった。
ただ京の見物については、特に誰にも現状を知らせずに行こうと決めていた。
何も告げずに行った方が、よりインパクトを残せると思ったからである。
それに今の京は信長にとっては無価値である。
だが、無価値ゆえに意義はあるとの計算であった。
「まぁそれもそうか。商売に関する事はともかく、わざわざ虎の尾を踏みつける事もあるまい。三好は巨大すぎるしな。下手な事をせず大人しくするのも策という事か」
義龍の言う事は間違っていない。
下手な事をして三好の怒りを買えば、二度と尾張に帰還する事は叶わない。
だが、同盟を結び、堺と京への接触については、何か一つでも達成できれば釣りが来ると信長は思っていた。
前々世から散々関わってきた信長には既に見知ったる堺と京であるが、今回の歴史では信長以外は堺と京の実物を始めて見る事になる。
噂に聞く事はあっても実物を見なければ『感動』、すなわち『感じて動く』事が適わない。
それが織田信行と林秀貞を同行させた最大の理由である。
むろん、義龍以下斎藤家同行者、佐々成政、前田利家、塙直子にとっても感じる物があるはずである。
全員が己の目で現状を見て、何かを感じ取ってくれればと願っての行動であった。
信長自身も三好長慶に会った事が無いので、今回の上洛での意義は深いが、他の者は京と堺に行く事こそが目的と言え、その目論見の一つは間もなく達成されようとしていた。
「そうです。あと、琵琶湖を横断した後は一応警戒して進む事にしましょう。そこから先は延暦寺、六角、三好勢力圏と複雑です。あるいは野盗やどこぞの残党軍が居るやもしれませぬ」
「そこまで警戒が必要か? まぁ分かった。ここからが本番という事じゃな」
「そうですな。本番です」
義龍が特別油断している訳でもない。
ただ、他に同行している者も、戦と言うよりは物見遊山な気持ちが少なからず存在していた。
これから訪れる地の現実を知る信長と、それを知らないその他の人間の差が少しずつ表れ始めていたのであった。
【山城国/京―――と思しき地】
「この場を本陣としつつ、賊を討ち果たす! 佐々、前田、直子は50人ずつ引き連れて賊を蹴散らしてまいれ! 義兄上も同じだけ兵を出して頂きたい!」
「うむ! 不破光治、仙石久盛、斎藤利三は出撃し連携してあたれ!」
信長と義龍は、素早く命令を下すと残りの200人で本陣を作り周囲の警戒に当たった。
「それにしても、ここが京だったとは……! 噂には聞いていたが、ここまで荒廃していようとはな! これでは我らの収める地の農村の方が安全で快適じゃて!」
義龍が率直な感想をもらし、織田信行と林秀貞も言葉こそ発しないが、事実を知って驚愕の表情を抑えられなかった。
京の都と言えば、花の都、文化の頂点、雅な公家社会―――
その様な光景を思い浮かべる人が多いかもしれない。
それは間違ってはいないが、今現在でいえば間違っている認識である。
約80年も前の応仁の乱で戦火の中心となった京は、広範囲に渡って多数焼け落ち荒廃し、一揆や賊の跳梁を招き無法の極みと化していた。
公家や天皇家は設備や屋敷の維持もままならず、財政も逼迫し、食うに困り、儀式も行えず、史実にて4年後に即位する正親町天皇は金がないので即位の儀が行えなかった。
正に財政破綻した組織であり、存亡の危機といってもいい位に危機に瀕していた。
三好家も京を抑えてはいるが、本国ほどに積極的な介入はせず、治安も復興も後回しが現状であった。
その理由の一つは三好長慶の政治の方向性である。
余りの荒廃故に手の付けようが無く、結果的に京は利用するに留め、生産や収入を得る地では無いと切り捨てた事。
また、復興を果たそうにも専門兵士を組織していないが故に、集中的に人材を投入できない現状があった。
史実にて三好長慶以外にも、入れ代わり立ち代わり京を抑える者が居たが、全員、色んな理由で京から撤退している。
その諸説ある理由の一つは、間違いなく専門兵士が居ないからである。
専門兵ではないので兵士は必然的に農兵であり、農作業がある故に常駐させる事が不可能だった。
常駐させられない以上撤退するしか無いし、特に集中的な作業が必要になる復興に人を回す余裕など無い。
そんな訳で、史実での京の復興は、専門兵を常駐させる事の出来た信長の入京まで待つ必要があった。
そんな地に、かつて復興した地に、信長は改めて降り立った。
「そうですな。ここまで荒廃していようとは。万が一を考えて警戒態勢を敷きましたが正解でした」
もちろん、こうなる事は予測済みである。
むしろワザと迂回して、京だった場所に入ったぐらいである。
すべては京の現状を共通認識として把握するために。
極めて内密な目的を果す為に。
「伝令! あ、あの……お公家様らしき方が単身参られましたが如何いたしましょうか?」
伝令が極めて内密な話をする相手の来訪を告げた。
「もちろん会う。通せ!」
自分達の庭でもある治安が無きに等しい京の街で、賊と正体不明の軍が争っている。
そんな超危険地帯に、単騎で単身飛び込んでくる公家がいる。
公家を弱々しい存在と認識していた伝令は、その破天荒な公家に動揺していた。
「よし! 義兄上以外は外せ。陣幕の外で待機せよ。緊急の伝令以外いかなる報告も通すな!」
賊相手であれば専門兵士たる親衛隊の敵ではない。
信長が遊んでいても余裕で勝てる相手である。
ならばこそ、この混乱を利用して内密の話をする必要があった。
「お初にお目にかかります。織田三河守信長と申します。戦時故甲冑姿であるのをご容赦下さい」
信長は空位の三河守を名乗った。
名乗る必要がある相手だからだ。
「そ、それがしは斎藤美濃守義龍と申します。ご無礼を致しますがお許しを」
義龍は正体不明の公家に信長が丁寧に接する姿をみて、只ならぬ事態を察し、即座に信長に倣って頭を下げる。
「よい。賊を打ち払ってくれているのだ。むしろ礼を言わねばならぬのは此方の方。近衛右大臣晴嗣、(近衛前久)お二方を歓迎いたしますぞ。しかし、内密の話を受けるかどうかは全くの別問題。その辺はよろしいな?」
「はっ!」
「はっ!(近衛右大臣!? 義弟は何をするつもりじゃ!?)
義龍は頭を上げて改めて近衛晴嗣を見た。
公家五摂家のひとつにして右大臣。
それなのにも関わらず、鷹狩や騎馬を好む荒々しい嗜好。
醸し出す雰囲気も公家よりも武家が相応しいものを出していた。
「実は……」
信長は厳重に秘めていた事を話し始めた。
それは実にシンプルで簡単な事であった。