外伝16話 今川『早川殿』氏真
この外伝は6章 天文19年(1550年)の今川義元と織田信長が会談した頃から、8章 天文21年(1552年)の帰蝶が甲冑を新調した頃にかけての話である。
【駿河国/駿府城 今川家】
龍王丸(今川氏真)は駿府城で竹千代(徳川家康)と共に、太原雪斎の指導の下、剣の稽古に励んでいた。
雪斎は僧侶ではあるが、そこは乱世に生きる人物。
当然の如く武芸百般を修めており、しかもその全てが高いレベルにある怪僧で、並みの武士など歯牙にもかけぬ強さを誇る。
そんな雪斎が龍王丸の素振りを見て眉間に皺を寄せる。
「若。剣に迷い……いや、雑念が見えますな。そんな様では何万回振った所で身に付く技はありますまい」
稽古を監督する太原雪斎が氏真の迷いを見抜き、素振りを中止させた。
「……お師匠様には簡単に見抜かれてしまいますね。仰る通り、あの時の感触と感動が忘れられません」
氏真の言う『あの時の感触と感動』とは、先日行った父の今川義元と、新進気鋭の尾張の『うつけ』である織田信長との長福寺での会談で、戯れに帰蝶につけてもらった稽古での衝撃を評しての事である。(44話参照)
『どうかな? 胴を滑らせただけだから痛くは無いと思うけど……』
『は、はい……大丈夫です……』
刀の鍔元から切っ先まで十分に滑らせて払い抜いた胴は、真剣を使っていたら間違いなく真っ二つになる事は容易に想像できる動きと強烈な殺気をはらんでおり、氏真はその技の冴えと女の身でありながら尋常ならざる技量持つ帰蝶に対して感動し打ち震えるしかなかった。
「もし、お師匠様があの方と戦ったら勝てますか?」
「あの織田の姫か……」
雪斎も帰蝶の動きと技を目の当たりにしており、正直な感想を言うならば驚嘆する他なかった。
しかし、こと勝負となれば話は別で、技量の劣る者が達人を打ち負かす理不尽な出来事など戦場ではありふれた事である。
しかし、その理不尽な現象を差し引いても、あの動きをみて尚、自身が負ける姿を想像するのは難しかった。
「まぁ……絶対勝てるとは申しませぬが、10回戦えば7から8は勝てるでしょうな」
傍目には自分の強さを誇示している様に聞こえたが、雪斎はそう言うつもりで言った訳ではない。
雪斎は表現可能な言葉で最大限の称賛を選んで帰蝶を褒め称えたのである。
それ程までに帰蝶の動きは、少女の身でありながら常軌を逸していたのである。
「お師匠様を10回中2、3回倒せるって、それはもう十分な猛者としか思えませぬが……」
龍王丸は身を持って雪斎の強さを体感している。
だから帰蝶の強さを認めつつも、それでもあんな少女が雪斎を倒しうる実力を有する評価を受けた事に驚愕する。
隣では同じく二人と稽古をした事がある竹千代も、うんうん頷いて激しく同意する。
「ただ……10年後は解りませんな。拙僧も歳ですからな。対してあちらは20代半ば。まさに全盛期を迎えるでしょうから、倒すなら早い内に限りますな」
この言葉に二人は驚いた。
あの時点でも十分化け物の帰蝶が、まだ成長すると言うのである。
それを実感する時は、幸か不幸か直ぐに訪れた。
織田と雌雄を決する桶狭間の戦いである。
【尾張国、三河国/国境 桶狭間】
互いの軍勢が一進一退の攻防を繰り広げ決定打を打ち込めぬ中、信長が帰蝶に授けた策が的中し、義元本陣の背後を突く事に成功していた。
義元本陣の背後には、戦を学ぶ為に氏真と元康が少数で控えていた。
元々戦力として数えられていないとは言え、帰蝶率いる軍勢は一瞬で彼らを蹴散らした。
ついでに、およそ人間が放てるとは思えぬ程の、激烈な殺気を放つ帰蝶に当てられてしまい、何も出来ないまま捕縛されてしまった。
義元も後一歩の所まで信長を追い詰めるも、帰蝶の救援が間に合い昏倒させられ、親子共々捕らえられた。
【尾張国/沓掛城 織田家】
連行された沓掛城では信長の計らいで、帰蝶と供に義元の容態確認や、世話をする事を許された氏真。
とは言ってもサラシを冷やして、取り替える位しかやる事が無かったので、帰蝶に戦の乱入奇襲の経路や、戦い振りを聞いたりして過ごしていた。
「海を渡って!! なる程……! 大外から回り込んでの奇襲だったのですね。もう一点、あの殺気は、かつて拙者が長福寺で浴びせられた殺気よりも遥かに濃く重く、まるで粘り気のある海で溺れたかの様な生きた心地がしない物でした。人の身でありながら、しかも濃姫殿の様な若く見目麗しい姫が何故身に付ける事が出来たのですか?」
戦に負けた直後だと言うのに、氏真は眼を輝かせながら帰蝶に聞いた。
そんな帰蝶も『見目麗しい』と言う言葉に気分を良くしつつも、何と答えるべきか非常に困った。
あの殺気は言うなれば、帰蝶だから放てるのである。
もっと正確に言うなら信長と帰蝶だけ、しかも、一度(信長は二度だが)本当に死ぬ程痛い思いをして殺されて、転生してようやく身に着けた感覚である。
殺気を放てる武人は、この時代であれば結構な数は居る。
戦場で数多くの経験と死線を潜り抜け、ようやく身に付くモノであるが、しかし、実際に死ぬ経験をした信長と帰蝶には、そう簡単には及ぶモノではない。
「まぁ、こればかりは経験と場数しか無いわ……。こうしたら身に付くって約束できる方法は無いわね(殺されて運良く生き返る事が出来れば……。ちょっと死ぬ程痛いけど……)」
「そうですか……」
肩を落とす氏真であったが、その後、事態は好転する。
氏真は帰蝶に学ぶ機会を得たのである。
それは今川は密かに織田に従う事が決定され、氏真は人質として尾張に残る事になったからであった。
「では父上! 雪斎和尚! 次郎三郎(松平元康)! 某は立派にお勤めを果たしてまいります!! 安心して駿河にご帰還を!」
普通、人質に出される以上、不安や無念や自身の不幸を呪う事が一般的である。
だが氏真は表面上は、いや、表面どころか、心底人質に出される事を全く気に病まない喜色満面の表情である。
「そ、そうか……。迷惑をかけるでないぞ?」
「こ、これも何かの縁。しっかり学びなされ」
「お、お達者で……」
「はい!」
困惑する3人を尻目に、元気良く返事をする氏真であった。
しかし、この氏真至福の時間は長くは続かなかった。
三河岡崎城に帰還した義元一行を、出迎える者が居たのである。
【三河国/岡崎城 今川家】
「此度の合戦、あと一歩の所と聞き及んでおります。しかし結果はともかく無事に帰還できた事は何よりでございます」
そう言って出迎えたのは、氏真の妻である涼春(早川殿)であった。
「うむ……って、あぁッ!?」
「!? ど、どうかなさいましたか!?」
突然の義元の絶叫に涼春が驚き、氏真が居ない事に疑問を持った。
「そう言えば彦五郎様は? ……え、まさかお討死に……御座いますか……?」
義元の狼狽と氏真の不在に、涼春が疑問を持つのは当然である。
可哀想な程に、顔面蒼白になった涼春が、恐る恐る尋ねた。
「し、心配ない! 心配ないぞ!? 彦五郎は……か、刈谷城にて残務処理を行っておる! 討死とかではない! 全然違う!? 心配致すでない!? 少々あ奴でないと纏まらない案件があってな! なぁに、彦五郎もワシの跡取りとして経験を積ませないとな! 済まぬが暫く待ってやってくれ……あっ! お、和尚! ちょっと良いか!? では涼春殿、気楽に気長に待つが良いぞ!? 少し急ぎの件があるので失礼する!」
そう言って義元は、そそくさと逃げる様に去っていった。
「は、はい……え? え?」
【岡崎城の一室】
義元は雪斎の着物をふん捕まえると、手近な部屋に大慌てで飛び込み可能な限り小さな声で叫んだ。
「……和尚ぉッ! マズイ事になった!!」
「な、何事ですか!?」
「彦五郎を尾張に置いて来てしまった!! 涼春殿がここに居るのにだ!!」
「……あッ!?」
これには雪斎も即座に理解し、今川の宰相たる太原雪斎ともあろう者が、何故今の今までそんな事に頭が回らなかったのかと、己の不明を恥じた。
敗戦のショックの一言で済まそうにも済まない、三国同盟や織田との密約を揺るがす、今川主従の大失態であった。
「とりあえず涼春殿には、刈谷での残務処理と言ってあるが、あんなに織田に行く事を楽しみにしていた彦五郎を即座に呼び戻すのも忍びない! 何ぞ策は無いか!?」
「そんな無茶な!? うぬむむむ……できる事は限られますが……ともかく時間を稼ぎましょう! 拙僧は彦五郎様を補佐すると言う体で岡崎に残ります。殿は駿府に帰って代わりの人質を選定して下さい! 織田には恥を忍んで、人質交代を打診するしか有りますまい! 無慈悲ですが彦五郎様をどうこう言っている場合ではありますまい!」
「わ、わかった!」
一方、涼春は涼春で不審な気配を感じ取っていた。
「大殿のあの慌てふためき様……。ただ事では無いはず……。でも討ち死になされた訳ではでは無い? なら一体何が……まさか……女?」
政治に関わらず、戦の趨勢も知らない涼春には真実にたどり着く術は無かったが、別の意味で正解に辿りついでしまっていた。
完全な政略結婚で今川に嫁いだ涼春であったが、奇跡的な相性の良さであろうか相思相愛の関係であった。
だから婚姻後の氏真の輝いた眼で語る帰蝶との稽古は聞いた事があるし、織田の姫鬼神たる帰蝶の話も聞いており、強い憧れを持っているのも知っていた。
だから氏真の気持には一定の理解をしつつも、他の女の話が出てくるのは正直面白くない。
「まさか織田の姫鬼神……? って、いえいえ、なんでそうなるの。敵国なのだからそれはありえないわ。……ありえないのに何であの織田の姫鬼神がこうも頭を過ぎるのかしら?」
今回の件に関して、織田と今川が結びついた等とは夢にも思っていないが、女の勘とでも言うべき超感覚が、破綻している思考にも関わらず涼春を正解に導いていた。
とは言え、そんな飛躍しすぎている思考に従う程に、涼春は病んでいる訳でも無い。
とりあえず心の奥底にその考えはしまい込んで、大人しく待つ事を選んだ。
こうして人質交換が行われ、無念と失意の内に帰還した氏真。
織田今川両家公認の、帰蝶による稽古遠征の権利を行使すべく、暇さえあれば尾張お忍びで行こうとする。(59話参照)
だが、涼春も驚異的な勘を働かせ、極秘訓練に行こうとする氏真を完璧にブロックし続けた。
恐ろしい事に、通常の任務で城を出る時には特に動きはないのに、任務と偽って尾張に行こうとすると、背後に控えて一言ポツリと漏らすのである。
『彦五郎様? こんな刻限からどちらへ?』
『武具など身につけて如何されました? 本日のお役目は商人との打ち合わせと聞き及んでおりますが?』
『おや? 彦五郎様、本日は岡崎に向かうはずでは?』
『そんな軽装で何処に向かわれますか?』
『……彦五郎様?』
さすが北条氏康の娘と言うべきか?
あるいは風魔忍者から、極意でも授けられているのか?
不穏な空気や感覚を的確に察知し氏真に対し、釘を刺して刺して刺しまくった。
これには氏真は困り果ててしまった。
今川の織田と北条との難しい関係は理解しているが、例えるなら目と鼻の先には御馳走があるのに、絶対にたどり着けないのである。
ストレスが爆発寸前になった氏真は、織田の新年の宴の時などは半ば強引に織田家の挨拶に向かおうとするも、当然の如く却下され、とうとう一種の悟りを開くに至った。
「……何か運命的なモノが働いて、ワシは織田家に近づけないのでは無いか?」(74話参照)
氏真は雪斎に泣きついて、相談し策を授けてもらった。
「方法は無くは無いですが……まぁそうですな、織田家に密書でも送って対応をお願いしましょう」
それは、今川家の軍事訓練と称し、尾張の親衛隊を帰蝶にコッソリ率いてきてもらい、三河国内での訓練を開催する事である。
「それより……」
「よっし!! 頼みましたぞ!! やっと実現するのじゃなッ!! ……何か言われましたか?」
「あの海道一の弓取り、いえ……何でもありませぬ」
「そうですか? いやあ楽しみで某は、夜も眠れそうにないです! 長かった! 本当に長かった!」
「……は、はぁ。(海道一の弓取りである今川治部大輔義元を一撃で倒し、誰もが恐れる濃姫様と訓練とはいえ刃を交えたいとは……殿、今川の次代は確実に育っておりますぞ! ……少々恐れ知らずな気もしますが)」
そんな雪斎の期待と困惑をよそ目に、氏真は次の日が待ちきれない子供の様に、落ち着かない気持ちを隠そうともせず、喜色満面の輝く顔で部屋を飛び出していった。
こうして執念が実り、帰蝶率いる一行が三河へ到着した。
待望の帰蝶との訓練日を迎える氏真の顔は、非常に微妙な顔をしていた。
出迎えたのは氏真、雪斎、元康、それと何故か感じる物があったのか涼春もいた。
しかしその氏真の微妙な顔も、雪斎、元康、涼春の顔も驚愕の表情に変わった。
一際異彩を放つ真っ白な甲冑に、蛇と蝶の意匠を随所にまとった小柄な武者。
その男に目を奪われたからであった。
「彦五郎様、雪斎様、お待たせいたしました。御屋形様直属隠密部隊を率います『不破』と申します。某の副官として彼ら4名と兵100で駿府より参りました」
男にしては高く、ならば女かと言われれば低い、強いて言うなら少年の様な声の『不破』と名乗った武者が兜を取って頭を下げた。
面頬を付けているので断言できない。
だが、見える部分は美少年と言っても過言では無さそうな雰囲気で、さらに付き従う副官4名も、不破に負けず劣らずの美少年達であった。
「う、うむ。遠路はるばるご苦労である。彦五郎様、次郎三郎殿、涼春殿には初めて知らせますが、桶狭間の引き分けを期に設立した特殊隠密部隊です」
雪斎が若干戸惑いつつも、氏真達に紹介をした。
「お、隠密部隊という割には、指揮官の自己主張が激しいと言いますか……」
涼春がつい疑問に思った事を口にする。
「涼春様、良い所に気が付かれましたな。我らに敵対する者も、某の様なこんな派手な武者が隠密部隊だとは思いもよりませぬでしょう。言わば裏の裏をかいた偽装です」
そう言って白い甲冑の武者が頭を下げる。
その一方で、雪斎、氏真、元康が三者三様の感想を持った。
(これが現実だというのか!? 濃姫様の何と派手ないで立ち! 正気とは思えぬ! これが若さか……!?)
(これは現実か!? 濃姫様! 何と美しいお姿であらせあれるか! まるで天女の様だ!)
(これが現実なのか!? 濃姫様! 何という恐ろしい姿! 正に地獄の悪鬼! このお方は何を目指しておられるのか!?)
白い甲冑の武者は帰蝶で、副官達は吉乃、葵、茜、直子である。
帰蝶の新甲冑の効果確認と涼春を騙す為だけに、色々設定を組んで声色を変えて面頬を付け三河にやってきたのであった。(外伝15話参照)
なお『不破』とは『ファラージャ』から名前を拝借し、『ファ』の部分を日本語っぽくしただけである。
(今川の大殿の隠密部隊……。男か女なのかも判らないなんて、姿形は常軌を逸しているけど、不思議な魅力を感じる……。それに背後に控える者も全員不破殿に似た雰囲気を感じる……)
涼春は涼春で何か思う所があったのか、数日間に及ぶ偽装軍事訓練を全て見学していった。
正直、気持ち悪いレベルで顔を輝かして、帰蝶に打ちのめされる氏真と、見るも無残な怯えた表情で付き合わされる元康。
涼春には、目の前の光景が良く分からなかった。
雪斎が、氏真と元康に対して稽古を付けている光景は、何度も見た事があるが、それはもう正しく寺の修行とでも言うべき、厳かで緊張感のある、神秘的とも言える様な訓練光景であった。
しかし今、『不破』と名乗る武者が付ける訓練は、阿鼻叫喚と欲望煩悩にまみれたとでも言うべきだった。
雪斎の付ける稽古と内容に、それ程差があるわけでも無いのに、全く違うように見える不思議な稽古であった。
(彦五郎様の不審な動きの原因は女と言う訳では無さそうだけど、それにしては不破殿との稽古は男女の秘め事の様な……って不破殿は男よね? なら衆道……ってそれで安心するのもどうかと思うけど、何か違う……あぁもう! 彦五郎様の浮気は違うハズなんだけど、何で納得して安心できないの!?)
一人で膝を抱えたり頭を振ったりして苦しむ涼春を、地面に突っ伏した氏真と元康、仁王立ちの帰蝶が遠くから眺めていた。
「彦五郎ちゃんの奥方は何か面白そうな子ね。今川と織田の関係が世間に公表できる関係なら、積極的に関わっていけるのだけど……。残念ねー」
「はぁはぁ……あ、ありがとうございます。涼春を欺くのは心苦しいのですが……今は仕方ありませぬ」
若干、恍惚とした表情で氏真が答えた。
「ところで次郎三郎ちゃん? 私もそんなに通える訳じゃないから、一本取れる時に取っておかないと、いつまでもちゃん呼ばわりよ?」
「……ッ!! ~~ッ!! し、精……進しまっ……」
元康は、息も絶え絶えにやっとの事で声を絞り出すが、帰蝶に声が届いたのか自信が無いし、そんな事に気を回す余裕が無い程に消耗していたのであった。
「……ところで一つ聞いておきたい事があるんだけど、この甲冑どう思う?」
「素晴らしい甲冑です!!」
氏真は断言した。
「そ、そう……」
「難点があるとすれば……」
「そ、それは何!? (あの4人(吉乃、葵、茜、直子)を説得できるに足る何かをちょうだい!!)」
帰蝶は適当な否定意見でも何でも良いので、それを切っ掛けに甲冑を変更したいと思っていた。
「せっかく蛇と蝶をあしらうのですから、兜にも蛇を模しては? なぜか兜には前立ての蝶しかおりませぬ。例えばそうですなぁ……。とぐろを巻いた蛇が鎌首をもたげた様子を頭頂部にしつらえては?」
「……そう」
帰蝶を崇拝する氏真に尋ねて否定意見など来るはずもない。
聞くのであれば元康が正解であったのだが、残念ながら帰蝶にはその辺の機微を読み取る事が出来なかった。
「彦五郎様! それです!」
「そうですね~。兜に何か足りないと思ってました~」
「何で気付かなかったんでしょう?」
「これでまた一つ、姉様に武将の風格が備わりますね!」
一方で、あろう事か氏真の案を一番聞かれたくない4人に、知られるのであった。
帰蝶は兜に蛇が無い事は当然気づいていたが、これ以上禍々しくしたくなかったので、あえて気づかない振りをしていたのにである。
とんだ藪蛇であった。
「そ、そうね……ははは……」
(濃姫様がまた悪鬼羅刹に近づくのか……)
元康だけが、唯一冷静に恐怖しつつ突っ込んだ。
そんな各自の思惑が入り乱れた訓練場に、雪斎が血相を変えて飛び込んできた。
「彦五郎様! お、隠密特殊部隊の者よ! 緊急事態である! 三河の安祥で一向一揆が勃発した! 大至急軍を編成せねばなりませぬ! 隠密部隊の者共も、このまま合流して対処にあたってもらいたい!」
雪斎は少々苦しそうに伝えた。
隠密部隊とは言え、今は今川家の武装集団をこのまま返すのはかえって不自然。
今川の宰相たる己が、隠密部隊の顔を伺うのも妙な話。
だから、無茶と無礼を承知で命令をした。
「承知しました」
帰蝶も雪斎の意図と苦渋を察し、了承する。
当然、氏真も元康も従軍するが、一つ問題が起きた。
「私もこのまま従軍します。決して邪魔は致しませぬ」
涼春も従軍を申し出たのだ。
「……ッ!! わ、わかりました! では拙僧の陣にて待機していて下さい!」
本当なら追い返したいが、押し問答している時間も惜しい。
雪斎は仏に何もかもバレない事を祈りつつ、全員引き連れて出発した。
こうして平和な軍事訓練が一転し、戦乱の緊張感に包まれたのであった。
ただ涼春の存在が、戦乱の緊張にプラスして、別の意味でも緊張に包まれたのであった。
2021/7/14 追記
早川の名前を『涼春』と改めます。
理由として『早川』とは敬称であり、本名ではないからです。
帰蝶の本名が帰蝶、敬称が濃姫と同じ理屈です。
当初早川をそのまま使ったのは、史実での本名が不明だった為、また『早川』の名称の認知度も高い傾向にあると判断したため早川をそのまま名前としました。
ただ強い違和感を感じる意見もございました。
筆者もその意見を尊重し、早川から涼春とオリジナルの名前を付けさせていただきます。
紛らわしいかもしれませんが、よろしくお願いします。