8話 斎藤利政(斎藤道三)
【尾張国/正徳寺に至る道中 斎藤家】
信長一行は、道行く人々の視線を全て集めていた。
見物人は信長のある意味凄惨(?)な格好に眉を潜めたり、はやし立てたりして見送った。
そんな群集に紛れて利政(後の斎藤道三)と義龍と、ついでに心配になって付いて来た帰蝶は、信長を観察しつつ、噂に聞いていた正徳寺の会談を思い出した。
(確か……上様を侮った父上は会談の場で赤っ恥をかいて、なおかつ、上様の大器を感じ取った……らしいのよね? けど……これは……)
史実では、帰蝶は会談の場にも偵察にも行っていないので、実際にこの行軍を見るのは初めてである。
(こ、これはヒドイ……!)
率直な感想であった。
前世でも『うつけ』を演じていたのは知っているが、伝え聞く事しか出来なかったので、自分の常識に当てはめての『うつけ像』を想像していたが、これは想像の遥か上を行っていた。
帰蝶は自分の常識の狭さに驚きつつ、恐る恐る隣の父と兄を見た。
二人とも無表情で目を見開いている。
(鳩が豆鉄砲を食らった顔って、こういう事を言うのね……あ、この諺はこの時代には無かったかしら?)
未来で知った『鳩が豆鉄砲を食らう』の例えであるが、鉄砲伝来して半世紀も経過していないので、諺として成立していないと帰蝶は考えた。
(新しく例えるなら蛇が……何かを見たかしら?……うーん、蛇がうつけを見た……だから何よ!)
一人で突っ込みを入れつつ考えたが、適切な言葉が浮かばなかった。
結局、帰蝶が一人懊悩としている内に、信長の行軍は通り過ぎた。
それを斎藤家一同は確認し、群衆から離れて別ルートで急ぎ正徳寺に向かうが、十分に誰にも聞かれない距離を確認した義龍が、馬上から吼えた。
溜めに溜めた苛立ちを爆発させて。
顔が真っ赤だ。
赤マムシである。
「ちぃぃぃぃちぃぃぃぃうぅぅぅぅえぇぇぇぇ!!」
周囲の野鳥が驚いて飛び立ち、同じく驚いた馬が家臣を数人振り落とした。
「なんじゃ新九郎(斎藤義龍)」
顔をしかめて耳を抑えて返事をする利政。
「ワシに命じて下され! 信長の首を取って来いと!!」
唾を飛ばしながら吠える義龍。
「命じたいのは山々じゃがな……」
利政の返事は歯切れが悪い。
「あ、兄上、落ちついて下さい、あの装いにはきっと訳が……」
「どんな! 理由が! あったら! あの装いに! 納得する! 訳が! あるのじゃ!?」
単語毎に衝撃波が発生しそうな勢いで義龍が吼える。
しかしそれも至極当然の感想である。
もちろんこの信長の装いは重要な意味が有るのだが、これは信長流の演出なので帰蝶がバラす訳には行かない。
今はまだ歴史を変える訳にはいかないので、仕方なく、苦し紛れに帰蝶は答えた。
「あ、暑いのですよ!」
「あの格好である必要が無いわ!」
怒り狂う赤マムシは、可愛い帰蝶の意見を一刀両断に切り捨てた。
帰蝶はそんな兄をなだめつつ父を見やる。
(それにしても変ね。うーん……兄上が怒り狂うのは分かるけど、父上は妙に落ち着いているわね)
史実では利政が怒ったはずだが、史実と違い義龍が代わりに怒り狂っているせいか、逆に冷静になっている様であった。
「ち、父上は如何様に感じましたか?」
帰蝶は利政に助けを求めた。
万が一の奇跡を信じて。
「婿失格じゃ」
奇跡は所詮奇跡であった。
冷静になった分バッサリである。
「新九郎の言う様にあの装いは無いわ」
「デ、デスヨネー、あ、いやでもあのですね」
「帰蝶よ! このまま兄と共に帰ろう! な!?」
これ幸いとばかりに義龍は帰蝶の説得にかかる。
身振り手振りで何とかフォローしようとする帰蝶。
ちなみに帰蝶の手綱を離す馬術は、斎藤家にとって見慣れた光景になっていたのは、また別の話である。
「……婿は失格じゃが、軍勢は合格やも知れぬ」
「!?」
「!!」
義龍は驚き帰蝶は顔を輝かせた。
「新九郎。婿殿はともかく、軍勢はどう見た?」
義龍は荒げた息を整え、一度深呼吸し顎に手をあてて考える。
「……。決して悪くはありませぬ。鉄砲までありましたな」
幾分落ち着きを取り戻し冷静に分析した義龍は、本来は才能溢れる武将であるので観察眼も一流である。
「まずまずの数を揃えておったな。あの軍勢の覇気は並みではない以上、練度も高いと見るべきじゃろう。大将が『うつけ』で軍があの覇気をまとえると思うか?」
「……無理でしょうな。上が馬鹿なら下にもその影響は必ず出ます」
「じゃとすると、あの軍勢は明らかに矛盾しておるな?」
言われてみれば完全に矛盾していると思い至った義龍は、その矛盾に別の可能性を考える。
「率いる将は信長ではなく、信秀家臣の平手では? そう! 信長は混じっているだけでは?」
「やもしれぬ。……いや、そうじゃろうな。そうでなければ説明がつかぬわ。……うむ。説明がつかぬ」
信長親衛隊の事など知る由もない利政は、引っかかる物を感じつつ、無理やり言い聞かせて自分を納得させた。
そんな父を見て帰蝶は内心頭を抱えた。
信長の行軍は史実通りだ。
完璧な『うつけ者』の行軍だ。
だが、斎藤家側が史実通りではないので、この会談が失敗する可能性が大いにある。
信長は史実通りに正装に着替えて会談に臨むだろうが、こうなると、どちらに転ぶか全く想像がつかない。
下手すると、この会談で織田家と斎藤家の対立が決定的になるやも知れない。
(どうしよう? 織田家に亡命しようかしら? いや、この父と兄を見捨てるのは忍びないわ)
そう考えて義龍を見やると何かブツブツ言っている。
利政は黙り込んでしまった。
(……会談の場で臨機応変に対応するしか活路は無さそうね)
帰蝶はあらゆる事態を想定する事にした。
こうして三者三様の思惑が交錯する中、運命の正徳寺が見え始めてきた。
【正徳寺/本殿】
織田家側は、信秀の代理で平手政秀と信長本人が席に着いた。
当然、信長は正装だ。
一分たりとも隙の無い、完璧な織田の次期当主の風格がある。
信長は史実よりも時期が早いものの、基本的には同じ様に会談を行い、同じように利政に認めてもらうつもりでいる。
その上で、出来れば道三に認めてもらう段階で、前回よりも、より深く関わりたいと思っている。
しかし信長は斎藤家側の思惑を知らない。
帰蝶が回復した事で斎藤家で婚姻の案が大紛糾した事を。
義龍が同行している事を。
その他、信長の知らない所で確実に歴史が変わっている事を。
それを知らぬ信長は慮外の事よりも別の事を思案していた。
(次はマムシの親父殿を救わねばならぬ)
そう心に決意を秘めて。
《ファラ! 斎藤道三について教えよ》
《準備してますよー。斎藤道三はですね、僧侶から油売り、油売りから武士へと転身し権謀術数を駆使して立身出世をし、とうとう美濃一国を奪い取ってしまった稀代の謀将ですね。主君を次々追い落とした手腕は高く評価されています。後に息子の義龍と仲が悪くなり戦いに発展するも討死しました。この戦いの理由は諸説伝わっており、義龍が実の息子ではない、義龍の弟を跡継ぎにした等、複合的な事が原因と言われていますね。正徳寺での会談で信長さんを評価し息子達は信長さんに従う事になると思ったそうです。ただ討ち取られる前に義龍の采配ぶりに斎藤家の未来を見出したそうです。後悔先に立たずってヤツですかね。信長教では準聖人となっています》
《僧侶だったというのは初耳だが、他は大体知っている事だな。……まだ時間はありそうだな。ついでに義龍も聞いておこうか?》
《斎藤義龍は道三を打ち取って美濃を支配し、死ぬまで信長さんと争った人ですね。道三の予想に反して優秀であった為、織田家の進行を跳ね返し続けた強敵の一人です》
《あ奴は強かったな。道三の遺言書を携え意気揚々と美濃に攻め込み惨敗したのは苦い記憶じゃ》
《戦いにも強く、政治手腕も確かで早死にが惜しまれる人物として知られています。信長教では破壊神側の使徒となっています》
《美濃攻略は時間が掛かったからな。この会談で何とか前回よりも有利な足がかりが得られると良いがな……》
《期待していますよー》
転生故に知っている。
利政はこの先、息子義龍と争い討たれる事を。
信長は救援に間に合わず、尊敬する義父を失った。
(今度こそ救わねばならぬ。天下布武には美濃が絶対に必要だ。しかし義龍が立ちはだかったお陰で、美濃侵攻は奴が死ぬまで滞った。それに何より敬愛する義父上は元商人。銭に関しては誰よりも知っておる。武力、経済で天下を支配する織田家には絶対に必要な人材じゃ!)
そんな事を考えている内に利政の来着を告げる声が響いた。
「斎藤山城守様(利政)、参られました!」
信長と政秀は頭を下げて迎える。
臣下ではないが立場が違うので当然だ。
やや遠くで襖が開かれると、利政が入室してきた。
ミシミシと軋む床が、利政の移動する気配を伝えて来る。
座につき次第、利政が面を上げるように促すはずである。
だがそれは通常の場合であって、今は信長流の演出が炸裂している舞台であり、利政と言えど何かしら戸惑いの気配を出すはずであった。
信長は前回の会談を懐かしみつつ、利政の慌てぶりを思い出していた。
そんな中、不意に利政が歩くたびに軋んでいた床の音が、急にピタリと止まり、信長の隣に控える政秀は策が成った事を確信した。
(今頃、山城守殿は粟喰った顔をしているだろうな)
政秀は会談の場に向かう前を思いおこす。
『爺。この行軍中、恐らく斎藤家の者が紛れてワシを見定めるだろう』
『確実でしょうな』
『じゃがワシは行軍中もいつもの恰好で行く』
『え!? そ、それはいくら何でも礼を失し過ぎやしませぬか?』
『構わぬ。ワシの『うつけた』姿を見せるのが、この策の肝よ。紛れた斎藤家の者は必ず山城守殿に伝えるハズだ。『織田信長、真のうつけ』とでもな。斎藤家の者は油断するであろう。そこで正装をしたワシが会談の場に現る。度肝を抜いて会談をこちらの思うがままにするのが目的よ。ワシを侮って普段着でもしてくれれば儲けものよ!』
この様な妙に具体的な会話をしていた信長とのやり取りを思い出し、政秀は内心ほくそ笑んでいた。
暫く漂っていた戸惑う気配が消え、ようやく歩みが再開され利政は所定の場所に座り声をかける。
「織田殿、平手殿、面を上げられよ」
その声に二人は顔を上げ―――戸惑った。
そこには完璧な正装をした、美濃国主に相応しい斎藤利政が座していた。
(あ、危なかった!! 嫌な予感がして途中で正装に変えたが大正解じゃ! 織田の小童め、小癪な真似をしよる!)
冷や汗を書きながらも、利政は信長の罠を回避した事を確信した。
一方、驚き戸惑う政秀は硬直しつつ眼球だけ信長を見やった。
信長の表情は硬い。
(わ、若!?)
危機を感じて政秀は言葉を絞り出す。
「こ、此度は斎藤家、織田家の祝いの儀。本来は我が主君がこの場にいるべきなのですが、隣国今川が騒がしく、同席出来ない非を詫びておりました。平にご容赦くだされ」
そう述べると頭を深々と下げた。
もちろん、謝罪の意識を感じて頭を下げた訳ではない。
一旦、間を開けて仕切り直しすべきだと判断したからである。
この辺りは老練な政秀らしい手腕であり、慌てて信長もそれに倣い頭を下げる。
信長は歯を食いしばっていた。
内心は焦りに焦っていた。
《歴史がまた変わっておる! 歴史を知るワシが何で度肝を抜かされておるのじゃ!? ファラ! どうなっておる!?》
《あー……。どうやら帰蝶さんも歴史を動かしたようですねー……》
《於濃がワシの策を邪魔したとでも言うのか!?》
《そ、それは違います! あのその……事故……みたいなものです》
《事故!?》
そこでファラとの会話が遮られた。
「いやいや、此度はワシの我儘でこの会談の席を設けてもらった身。気に病む必要はござらんよ」
そう言って利政は笑った。
それはまるで勝利を確信したかの様な笑いで、会談は淀みなく進んだ。
この辺りは以前の歴史と変わらなかった。
軍事的協力の話や時勢の話、食料や治水、特に商い、流通の話は信長も調子を取り戻したのか、熱心に話を聞いたり質問をぶつけたりした。
(この小童、商いを心得ておる! しかも熟達振りは商人にも負けておらぬ!)
そんな信長の熱意に、利政は自分が油売りだった時の事を思い出し、そこに昔の自分と今の信長を重ねた。
(最初の策は回避したが、これはこれで油断ならぬ! ……油断ならぬが、なんと惹き込まれる立ち振る舞いよ。これが本当に元服したばかりの人間か!?)
もちろん利政は今の信長の魂が49+5歳だとは思いもしないので、ただただ舌を巻くばかりだった。
(これは……ひょっとしたら我が息子たちは、小童の門前に馬を繋ぐ事になるやもしれん! ……ここで始末するべきか!?)
その様な思惑をせざるを得ない程、信長の立ち振る舞いは堂に入っていた。
ここに来て信長はようやく劣勢を挽回したのだが、利政も黙って劣勢を受け入れる暗愚ではない。
即座に互角に持ち込まれた会談を覆すべく話題を変えた。
「婿殿」
「はっ!」
「ワシとしても婿殿との話は愉快で時を忘れる程じゃが、今日は姫を連れてきておる。顔を合わせては如何かな?」
「え、於濃……姫が来ておるのですか!?」
「うむ」
信長も時を忘れて話し込んだ為、帰蝶の事をすっかり忘れ、また、歴史が変わって帰蝶が来ている事にも驚いたが、チャンスとばかりに気持ちを整える。
直接問いただす事は今は出来ないが、一体どうなっているのか顔を見て確認したかった。
「よし、では帰蝶をこれへ」
利政は帰蝶を呼んだ。
利政には気の毒で不幸な事に、この世界は歴史が狂い始めた世界。
この後、斎藤家は史実以上の失態を晒す事になった。




