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Gの告解  作者: Phans Novels
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Gの告解 -2-

 夏だった。太陽の光は眩しく、肌を焼くような暑さ。

 プール授業の日、私は迂闊にも水着を忘れてしまった。体調不良の者は日陰でプールを見学していたが、私のような水着を忘れた愚か者には、「校庭十周」のノルマを課されていた。体調不良の振りが出来ればまだ良かったのかもしれないが、私は生憎とそう器用な性格をしていなかった。

 私は小学生当時から、とにかく走るのが遅かった。別段、太っていたということもなく、むしろ痩せ細っていたとも言える私の体躯だが、どうにも体力というものが備わっていないようであった。低中学年の頃、運動にはせいぜい面倒くささを多少感じる程度で、特に何も思うところはなかったのだが、小学五年ともなると、何かしらの順位やタイム、体力の差に意識が向き始める。段々と、自身の運動能力のなさを自覚し、劣等感を抱くようになった。さすれば当然、このノルマは苦行でしかなく、水着を忘れてしまった過去の私を呪う他なかった。

 のろのろと走り続けるうち、同じくうっかり水着を忘れてきた人達は何度か私を追い越し、早々に校庭十周を走り切りプールサイドへと向かっていた。残り二、三周を残して、校庭に残っていたのは私と、彼、だけであった。

 ずっと私のすぐ後ろを付けるくらいのペースで走っていた彼は、「勝負をしよう」と言った。どちらが先に走り切るか、勝負しようと。

 彼は少し小太りだが、元気があるヤツで、ただ彼のいちいちとろい仕草は、周囲から好奇の目に晒されていた。正味、私は内心、彼のことを『小僧』と蔑んでいたのだ。

 そんな彼に負けるはずがない、と思った。そして、ちょっとした闘争心が煽られたのかもしれない。私は「わかった」と頷き、身から体力を絞り出すようにペースを上げた。

 差は開いている、少なくとも縮まることはない。ノルマまで残り半周という辺りで、私の頭から、負けるという発想自体が抜け始めていた。油断としか言えない。

 彼の声が聞こえた、「やー」だったか「わー」だったか、定かではないが、その瞬間に、後方にいたはずの彼が私の視界に飛び込んできた。まさか、と呆然としてその姿を見ていた私と、一方で、彼はその一瞬でリードを奪い、そのまま終点へと辿りついた。彼は走り切った瞬間、腰に手を当てて仁王立ちし、残り少ない私のノルマ達成を見届けていた。

 そのときの私の感情が、怒りか、悔しさか、高揚感か、興奮か、いまいち判別がつかない。だが少なくとも、私にとって彼がライバルであるという印は、ここで捺されたのだと思う。

 

 その日の放課後、

「君ん家、行っていいかな」

 と彼は言った。勝負の結果もあったので特に断る理由もなく、「わかった」と返事をしていた。

 自宅へ先導して歩く道中、今日は災難だったね、という話から、お互いの趣味の話をしたが、読書が共通して趣味というのは意外だった。彼はその朗らかさの割に、私と同じくなかなか非活発的な趣味をしているらしく、家に着いてからも、私の数少ない本や漫画を見て、それから少し宿題をして、時間が過ぎた。

 とても穏やかで身に馴染む時間だった。おしゃべりが楽しかったわけでも、遊びをしていたわけでもない、無言でいることが当たり前で、それが最も自然な形であった。

「今度はうちに来なよ」

 それに頷き返すことにいとう必要はなかった。


 一週間ほど、ちょっと事情がある、ということで、彼の家に行くことはなかったのだが、何度か私の家に遊びに来ていた。いつも特に何かをすると決めているわけではないが、大体、本を読むか、宿題をするか、と、変わらないペースが続いていた。

 本や勉強といった、知的な話をするときの彼は、学校での彼とは全くの別物だった。恐らく、反応が鈍いだけで、脳は人一倍よく働いていたんだろう。『小僧』と思っていた自分を反省するのはそう遅くなかった。

 そしてある日、彼の家にお邪魔することになった。

 彼と私の家は意外と近かった。学校からの家路が半分くらいまで一緒だという。

 その道中に彼は言い出した。

「もう一人、友達がいるんだけど、大丈夫?」

「友達? 誰さ」

「大人しくていい子だよ」

 彼はそうやって曖昧な答えを寄越してきた。

 そう、何となくわかるとは思うけれど、その友達が、さっちゃんだった。

 彼の家にお邪魔すると、まず彼のお母さんが出迎えてくれた。優しそうな顔立ちは彼にそっくりで、こう言っては怒られそうだが、良いおばちゃん、という風貌であった。そういえば、

「さっちゃん以外の友達を連れてくるなんて珍しいのよ」

 なんてことを言っていたと思う。私にはそれが「さっちゃん」という言葉を初めて耳にしたときだったので、少し怪訝な表情をしてしまったが、お母さんはにっこり笑って、居間へと通してくれた。

 居間は畳が五枚分くらい敷き詰められた部屋で、真ん中に四角い木の机が置かれていた。その周りに座布団が敷かれていて、さっちゃんはその上に三角座りをしていた。

 さっちゃんは、「大人しい」や「物静か」という言葉よりかは、「地味」という表現が似合ってしまいそうな雰囲気を醸し出していた。前髪も後ろ髪も無造作に伸びていて、顔がよく見えなかったし、私を見て口元が動いていたのだが、緊張していたからかちゃんと声が聞こえなかった。恐らく自己紹介をしようとしていたのだと思う。

「この人は大丈夫な人だから、ね?」

 そうさっちゃんを諭す彼は、なんだか年下を世話しているように見えたので、思わず「さっちゃんは何年生?」と聞いてしまったところ、後ろにいた彼のお母さんに笑われてしまった。

「さっちゃんは君たちと同級生だよ、君たちと違って2組だね」

 お母さんがそう言うと、次第に彼までも笑い出してしまって、照れくささに頭を掻きながら、

「ごめんね。よろしく、さっちゃん」

 と彼女の髪に隠れた眼を覗き込んだ。

 さっちゃんは、こくりと頷くだけだった。


 私と彼の間にある、日常に上手く溶け込むような、静かで穏やかな時間は、彼とさっちゃんの間と同質のものだったと思う。だからだろう、以来、三人で放課後を過ごすことが当たり前になった。

 クラブや委員会、家の都合が無い日は、毎日のように彼の居間に集まった。図書室で借りた本を読んだり、宿題をしたりして、ゆっくりと時間が通り過ぎる。

 夏休みの間もそうだった。好きな時に好きなように彼の家に居させてもらったが、彼も彼のお母さんも、ときどきいたさっちゃんも、嫌な顔をしなかった。むしろ夏休みの宿題が捗って嬉しい、という具合だった。

 立冬の頃にはさっちゃんとも打ち解け始めて、声も聞けるようになったし、表情も見せてくれるようになった。表情は、私が分かるようになった、というのもあるかもしれない。

 さっちゃんが彼と同じくして読書が好きなのはわかっていたので、ある日から本の貸し借りをするようになった。自宅に少しだけ漫画がある話をしたら、それにも興味を示してくれた、むしろ普通の本よりも弾んだ声をさせていたと思う。それから、私は漫画を含めて、さっちゃんに本を貸していた。


 ある日、彼のお母さんと話をしたことがある。

「さっちゃんって、変だよな」

 いつものように彼の家にいて、飲み物を貰いに台所に行ったときに、お母さんにそう漏らした。するとお母さんは、表情をわざとらしくしかめて、

「さっちゃんの前じゃそういうこと言っちゃだめよ」

 とたしなめてきた。お母さんはときどきこの、むっとした表情をする。幼ながらに印象深い。

「それに君もうちの子も、変だと思うわ」

 心外とも思ったが、言われてしまえばその通りだった。

「でも、そうかもねぇ。さっちゃん、もっとちゃんとすれば、もっと可愛くなるだろうにねぇ」

 お母さんはそう続けた。

「せめて前髪くらいちゃんとしないと、っていつも言ってるんだけど、なかなか直してくれないのよ」

 言いながら、コップに麦茶を注いでくれた。そうするとお母さんは何かを思い出したように手を叩いて、

「そうだ、さっちゃんに『ぷかちゃん』って伝えてあげて」

「『ぷかちゃん』?」

 話を聞くと、彼のお母さんが家で飼っている金魚の名前だとのこと。かれこれ三年くらい飼っているらしく、見せてもらったが、長さも三寸ばかりになっていた。

「にしても、言いづらいよね、『ぷかちゃん』って」

 するとお母さんはさっきのむっとした表情を作って、

「それもさっちゃんの前じゃ言っちゃだめよ、あの娘が付けたんだから、その名前」

 ときどきさっちゃんが『ぷかちゃん』の世話をしているという。お母さんは、「『ぷかちゃん』とさえ言えばわかるわよ」、とのことで、それから私はときどきお母さんにお願いされて、さっちゃんに「『ぷかちゃん』」と声をかけるようになった。


 突然のことだった。

 ある日の金曜日、午後七時を回った頃。さっちゃんが震えだした。

 手足から背中まで振動し、荒い呼吸を繰り返していた、あまりに過呼吸が激しく、無意識に声帯が震えてしまっているような声を発していたと思う。

 私は突然のことでどうしたらいいのかわからなかったが、彼の対応は迅速だった。

「お母さん! お母さん!!」

 そう叫びながら、さっちゃんの元へ駆け寄りその背中をさする。彼のお母さんはすぐにやってきて、さっちゃんを抱きかかえた。

 大丈夫、大丈夫だから。と、何度も声をかけながら、お母さんはさっちゃんを別の部屋へと連れて行った。

「あーくそっ、アイツ帰ってくるの今日だったか……」

 珍しく感情的に、彼は頭の後ろを掻きむしりながら、小さな地団太を踏んだ。

「……よくあることなのか?」

 彼は首を振った。

「たまに、だね」

 とにかく、ただならぬ状態であることは間違いなく、先の光景を反芻するだけで、私まで気が動転してしまいそうだった。

 しばしして、さっちゃんは一旦、落ち着きを取り戻したのだろう。ただ半ばさっちゃんはぐったりしてしまっているようで、彼のお母さんの腕にしなだれかかっていた。

「とりあえずさっちゃんを家まで送ってくるから。君は早く家に帰りなさい、わかったね?」

 私は頷いた。

「お母さん、気を付けてよ」

「大丈夫よ、少し謝ってくるだけだから」

 そんな親子の会話を尻目に、お母さんとさっちゃんに続いて家を出た。

 好奇心、心配、同情、そんなところだったのだろう。私は自宅に帰る振りをして、彼女らに付いていったんだ。

 さっちゃんの家に二人が着くと、お母さんが呼び鈴を鳴らした。

「ごめんなさい、お宅の娘さんを遅くまで引き留めてしまって」

 玄関から出てきた人に、お母さんは謝罪した。

「あぁ、無事なら良いですよ、ご苦労さん」

 ぶっきらぼうな声が聞こえて、その人とさっちゃんは家の中に消えていった。お母さんは心配そうにさっちゃんを見つめていた。

 私はそれを脇目に、お母さんに見つからないように、帰りに通るであろう曲がり角を逆の方へ隠れた。お母さんは元来た道を戻っていった。

 それから少しすると、突然、ガラスの割れる音が聞こえた。続けて、内容は聞き取れないが、男の人が怒鳴り散らす声。壁か床を強く叩くような音。

 私はとっさに、玄関へ走り、呼び鈴を鳴らした。

 玄関に向かうまでの距離で息切れしてしまった呼吸を整えているうち、この後のことを考える暇もなく、玄関から男の人が出てきた。無精ひげの、煙草を片手に持った、おじさんだった。顔が赤かったから、恐らく酔っていたのだと思う。眉間に皺が寄っていて、顔の肌は見るからに堅そうで、鬼を思い出させた。

 奥を覗き見ると、ふすまに、さっちゃんの影が映っていた。あの震え方は、きっと泣いている。

「なんだ、坊主」

 さっき聞こえた、投げ捨てるような声だった。臆してしまって、言葉が出ない。

 何も言わない私に嫌気がさしたのか、舌打ちをして戻ろうとする男を見て、私は、「あの!」、と慌てて呼び止めた。

「あの……これ、さっちゃんに貸す約束をしてて……」

 そうして鞄から取り出したのは、漫画本だった。

 私は腕を差し出すことに必死で、俯いてしまい、男の顔を見れないでいた。やがて手元から本の感触が消えると、

「……お前、あいつにこんなもん読ませてんのか」

 と脅すような、沈んだ声が聞こえた。背筋がそば立ち、身体が跳ねた、凄く情けない反応だったと思う。

 男の人はそのまま扉を締め、私はしばらくそのまま動けないでいた。幸か不幸か、その間、派手な音がもう一度聞こえることはなかった。


 あのとき私は、明らかな『恐怖』の片鱗を味わった。帰ってからも打ち震えていたし、それから、あの恐怖に晒され続けているさっちゃんのことを、どう思いやればいいのかわからなかった。

 翌日、彼のお母さんに怒られたのは、言うまでもないね?

 でもそれよりも驚いてしまったのは、その彼から頬に張り手を食らわされたことだ。「気持ちはわかるけど、やめろ」と、感情のこもった、けれども静かな声で言われた。あの声と表情を思い出すと、今でも鳥肌が立つよ。

 きっと、彼は私が理解するよりもずっと早いときから、さっちゃんのことをよく考えられていたんだろうと思う。本当に、私は幼かった。

 私たち三人は、少し気まずくなってしまった。私のせいで。でも、少しずつ、いつも通りの過ごし方は出来るようになった。彼には一番、気を遣わせてしまっただろうね。


 中学に進学しようという頃まで、さっちゃんの状況は変わらなかった。

 ……だけど、入学式の数日前、ある人が事故に逢った。

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