Gの告解
蝉の声が耳の奥に響く。石段を登っていく間にかいた汗がシャツをべったりと濡らし、夏特有の不快感を私に与える。ようやっと門前についた。私は一息つき、額の汗をタオルで拭う。年のせいか階段の登り降りが足腰にきつい。義務教育の時分は体操をやるヤツなどみな馬鹿だと蔑んですらいたけれども、愚かなのはむしろ私だ。最も重要な資本をないがしろにしているのだから。そして、そんな私がこの老体い鞭を打ってわざわざこんな辺鄙な寺まで足を運んだのには訳がある。類は友を呼ぶというか、これから自分の命をないがしろにして死んだ旧友の墓参りをしに行くところなのだ。彼の死因は、自殺だった。
お寺で貸し出している桶に水を汲み、ひしゃくもついでに借りる。この暑さだ。ヤツにも行水くらいさせてやろう。そう思いながら墓の前まで来てみると、まだ新しい白い花が活けてあった。花の名前は知らない。生憎とそういったものには詳しくないのだ。ただ、先客がいたことだけは私にも分かる。ふと気になって周囲を見渡すと、どこか懐かしい、艶やかな黒髪をたなびかせる人影が見えた。私は手に持った桶を打っ棄って、おもわず駆け寄った。
「さ……さっちゃん?」
私が声をかけると、少女は立ち止まり、振り返ってその顔を見せた。そこには、あの頃と変わらぬ幼馴染の顔があって、年甲斐もなく涙が出そうになった。いや、しかしおかしい。ここにいる彼女は記憶の中に居る幼馴染と寸分違わぬ姿をしている。それがおかしいのだ。彼女もまた私と同じように年を重ねているのだから、少女の姿をしているはずがない。しばらく考え込んでいると、目の前の少女がおもむろに口を開いた。
「えっと、祖母を知っているんですか?」
話を聞いてみると、どうやら彼女はさっちゃんの孫らしい。私がさっちゃんについて尋ねると、どうやら彼女は二年ほど前に亡くなったらしい。ヤツの墓に活けてあった花は彼女によるものだとか。なんでも、祖母の大切にしていたものを自分も守りたいのだと腰まで伸びた黒髪をブンブンと振って答えてくれた。大変なお婆ちゃんっ子であることが伺える。
この暑い中、外で立ち話もなんだといことで、私は少女を連れて喫茶店に入った。彼女が私に、彼女の祖母の話をするようせがんだのだ。冷房の効いた室内の空気は心地よく感じるが、彼女の探るような眼差しは少し居心地が悪い。私は左手で白髪交じりの頭を掻きながら話し始める。
「たしかに、さっちゃん、君のお祖母さんとは旧い友人だけど……」
喫茶店に向かう途中にも言った話を意味も無く繰り返す。人と話をするのは、どうにも苦手だ。まして、初恋の幼馴染の生き写しとあればなおおことだ。彼女はゆっくりとコーヒーを口に運び、続きを促す。その仕草からもまた、タンポポコーヒーを一緒に飲んださっちゃんの姿を重ねてしまい胸が痛む。
「さっちゃんとは、尋常小学校からの付き合いだけど、ここ五十年くらい会って無くてね。それ以降のことは君や君のご家族のほうが詳しいと思う。君はお祖母さんの何について聞きたいんだい?」
私がそう問いかけると、彼女は二重の目でこちらを真っ直ぐと見つめ、私に言った。
「お墓参り……してましたよね?」
私は動揺した。あの日のさっちゃんが、彼の自殺について私を責め立てているように感じられたからだ。彼女の瞳は私の劣等感や醜い嫉妬、そしてそれを庇いたてようとする自尊心などもすべて見透かしているように私には見えた。喉が異様に渇き、それを誤魔化すようにコーヒーを口に運ぶ。そんな私にかまわず、彼女は話を続けた。
「お婆ちゃんも、いつもこの時期になると行ってて……あれって誰のお墓なんですか?」
私が答えるのを躊躇って黙っていると、少女は少し俯き爪を噛んだ。この癖は、さっちゃんには無かったものだ。冷房の空調音と、食器が立てる音だけが店内を支配する。蝉の鳴き声は、もう聞こえない。
この静寂がどれくらい続いたのか、正味のところ私には分からない。本当は五分にも満たなかったかもしれないが、私には三十分以上にも感じられた。とうとう私はこの空気に耐え切れず、口を開いた。いや、もしかしたら、私はこの空気では無く、何十年も抱えてきた重き荷に耐え切れなかったのかもしれない。さっちゃんに似た少女が私の前に現れたのは、私に懺悔する機会を運命かなにがしかが与えてくれたのではあるまいかと思い、胸の裡を開くことにしたのだ。なんだか知らぬ間に、足腰だけでなく心まで弱くなってしまったらしい。
これから話すことは、私の古傷に触るところもある。詳らかに語る途中で自己弁護のために支離滅裂にならぬよう、結論だけ述べておこう。墓は私とさっちゃんの共通の友人のものである。彼と私は親友であると同時に、二人ともさっちゃんを慕うライバルであった。途中、彼とは仲違いした。彼は自殺した。こんなところだろうか。私は彼を尊敬しつつも親しみを感じていたし、羨みつつ蔑んだりもした。彼が死んだときは悲しみつつも喜んだ。筆舌に尽くしがたい関係でありながらいっそ友人関係としては陳腐だったかもしれない。
私と、さっちゃんと、そして彼について語るには、時計の針を七、八十年ほど戻さなければならない。彼との一番古い記憶は尋常小学校五年、流した汗が乾き塩になるまで走らされた際、ヤツとドンケツを競っていたのがそうだろうが、なにしろずいぶんと昔のことだ。君のお祖母さんにしろ、お墓の彼にしろ、私の思い出せるところから話していっても良いかい? そういって私は、もはや私以外知る人の無い、昔話を語り始めた。