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Encounter

薄い磁器で作られたやや平型のカップには、手付かずのコーヒーが残っていた。

それを少しだけ口に含み、セットになったソーサーへと戻した。

冷めてしまったコーヒーは、味がよくわからなかった。


店内には楽器の演奏は勿論、BGMでさえ流れておらず、

時折、人の話し声が細切れになって聞こえていた。

会話の内容まではわからない。

他に物音がしないので、離れた席で交わされる声の断片が、漂うように届いてくるだけだ。


私は店内の客を何気に観察した。

茶色の髪を束ねた女性や、グレーのスーツを纏った老紳士などがいたが、人数は多くない。

ここから見える限り七~八人といったところだ。

店員らしき姿は見えない。立ち上がっている人もいない。

テーブル間にはかなりの余裕があるため、

私から最も近い右側にいる若いカップルも、そこが隣の席だと俄かには言い難い。



私は、この店の居心地の良さが何に依るものなのか、充分な認識を持ちかねていた。

全体に広がる琥珀色は、眩しさを感じることもなく、

心が満たされるというか、平穏な柔らかい気持ちにさせられるものだったが、

それだけが理由とも思えなかった。

店内は、ちょっとしたホールを思わせる程に広く、その割には座席の数が少なく、

人の数は更に少ない。

これといった装飾もなく、音楽も流れていない。

確かに、私のような人間には打って付けの場所かもしれないが、

その私に至っても、この町には物思いに耽るためではなく、仕事で来ているのだ。



豊原町は人口九千人ほどの、山間に位置する小さな町だ。

半導体や精密機械を製造するメーカーが数件並んだ工業団地と、

特産であるメロンを栽培する農家、

そのメロンを主材料にした、名菓の製造工場が主要産業となっている。

今回の出張では、半導体メーカーのM&A案件に際し、

買い手となる大手電子機器メーカーが出した評価の詳細な報告と、

それを基に、M&A手法を事業譲渡とするか合併とするか、

何れかの希望について確認する目的があった。

私は一昨年に独立し、M&Aを含む企業の経営コンサルティングを興した。

妻は私の独立に、最後まで反対していた。


時間が気になり、腕時計に目を移した。

まだ離婚する前、妻が誕生日にプレゼントしてくれた、シルバーのアナログだ。

黒い文字盤の「12」の位置に「CK」と模られたクリスタルが刻印されていて、

その下にブランド名が白で表記されている。

友人らは時計を変えるよう、私に忠告したが、

ベルトを代えたばかりだからと弁解して、未だに使い続けている。


針は十時十三分を示していた。

ホテルを出発してから一時間以上が経過したことになる。

午後の約束に備えて、念のため再度資料に目を通しておきたい。


店を出ることにした。

テーブルのコーヒーの横に、真鍮でできたレタースタンドが置いてあり、

白い封筒が挟まっていた。会計の伝票だろう。

厚手でさらさらした紙の封筒を手に取った。

封はされておらず、中を覗くと一枚の小さな便箋が入っていて、

そこにはコーヒーの値段ではなく、短い文章がメモ書きされていた。

「来訪者とは、自由にお過ごしください」


立ち上がりかけていた私は、周囲を気にする素振りをしながら反射的に座り直した。

他の客は私の動作に気付いていないようだった。

軽く咳払いをして、改めてメモを読み返す。


「来訪者とは、自由にお過ごしください」

これは一体どういう意味だ?ここに、誰かが私を訪ねて来るというのか?

それとも、客全体に向けて、誰かが訪ねて来た場合の事を記しているのか。

そうだとしても、来訪者との過ごし方を記載する店など聞いたことがない。

もう一度店内を見回して、従業員を探したが見つからない。



その時に、私は解った。

この店に広がる、例えようのない居心地の良さが何に依るものかを。

それは匂いだった。だが、決して色濃い匂いではない。

空間に紛れていた、ほんの微かな香気が、

しかし私が察知したことをきっかけに、その正体をゆっくりと現していった。

そんな感じだ。


意識しなければ無臭で片付けられる程の僅かな匂いは、

不思議なことに、私に郷愁を駆り立てた。

それは、私が生まれ育った場所に存在していた匂いだった。

幼き日々の象徴と言える、大きな海と草原、そしてミズナラの匂いだった。


この店を流れる空気に、なぜその匂いが含まれているのか。

初めのうち、私にはわからなかった。

琥珀色の壁や床は、木材のようには見えなかった。それらが発しているのではない。

もしそうであれば、その匂いはもっとはっきりしたものとなっているだろう。

私は気が付いて、天井の梁を見上げた。

いや、正確には見上げようとした。

私は上を向こうとする寸前に、故郷を象徴する匂いの、それ以上のものを目にした。

或いは、切ないほどの郷愁は、全てそこから漂っているのかも知れなかった。


ヒロキは本当に突然に、私の前に現れた。


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