Lodge
辺り一帯を神秘が覆っていた。柔らかな空気は程良い温度と湿度を伴い、
いつまででもここに留まることを許容しているようだった。
だが覆っているのはそれとは別の、
豊かで力強く、凛とした意志とも呼べるものだ。
最初に目に映ったのは、しっとりとした光沢を持つ琥珀色だった。
その色彩は、目の前の様相が現実のものだと解った瞬間、
私の中で持ち上がりかけた不安感をあっさりと鎮めた。
まるで網膜がそれを望むかのように、空間が視界と綿密に打ち解け合い、
感情が揺らごうとするのを、微笑むように制した。
そっと肌に浸透してくるような優しい濃度が床の色によるものだと、
私は数秒かかって理解したが、もはや少しも悪い気分にはならなかった。
目の前には艶のある上質な木製テーブルと、その上にコーヒーが一つ置かれてあった。
私はテーブルに両肘をついて座っていて、
手のひらで頬骨を押さえるような恰好をしていた。
思わず頬から手を離し、磁器製の無地のカップを見つめた。
純白と濃褐色のコントラストからは湯気が立ちのぼっておらず、
焙煎の香りが鼻先をくすぐることもなかった。
午前中の仕事がキャンセルになったため、知らず知らずに気持ちが緩んだか、
そして辺りが静かなせいもあるのだろうと、
うたた寝の理由を自分に言い訳しながら、私は見慣れない室内を眺めた。
距離を隔てて配置されたテーブルと椅子、その所々に人が座っているのが見えた。
とても広い空間だった。
床だけでなく、壁にも落ち着いた琥珀色の建材が使われている。
壁に絵画やポスターの類いは見えない。花や置物もない。
つまり彩りが何も添えられていないのだが、
空間は統一された琥珀色によって、独特の品格を放っていた。
それはある種の、高貴な慎ましさだった。
さながら、一切の贅と決別した者だけが備える潔さを見るようだった。
空間に漂う情緒の極みによって、暫し現実感を喪失させられていた私は、
しかし意図してここへやって来たのではない事をようやく思い出し、
ホテルを出てからの顛末を振り返りにかかった。
だが、あの頭痛の後の記憶が戻らず、回想は何度か繰り返されることになった。
遅い朝食を摂るために、私は商店街の中程にあるカフェへ向かっていた。
出張の度に訪れる店で、場所はよく覚えていた。
ホテルから歩いても五分少々の距離だ。
フロントに鍵を預け、軽い散歩の気分で店に向かったが、
橋の上で突如頭痛に襲われ立ち止まった。
近くに人の気配がないことを確かめてから、私はしゃがみ込み、
欄干にもたれながら痛みをやり過ごそうとして、目を瞑った。
その後の事が、どうしても思い出せない。
まあ既に頭痛は止んでいるのだし恐らく、と私は推断するに至った。
記憶は途切れているが、朝食をやっている店を見つけてそこへ入ったか、
それとも頭痛で朦朧としながら歩いて、偶然この店に辿り着いたのかも知れない。
出張の度に訪れていたカフェは、白塗りの漆喰とタイルが貼られた壁、
そして大きな黒板に書かれたメニューが印象的な、欧風の内装だった。
今私がいる店の内装は、欧風にも和風にも、或いは中華風にも当て嵌まらない。
まばらに着席する人々は、離れていることもあり顔がよく認識できない。
しかし知っている人がいるような感じもしなかった。
取引先の関係者がどうやらいないことは、
情けなくも午前中からうたた寝をしていた私を、多少なり安心させた。
吹き抜けになった天井には、幾つかの太い梁が存在を主張するように横たわっていた。
淹れ立てのコーヒーを注文し直そうかと、私はふと思い付いたが、
周囲に店員らしき姿が見えないことで、その要求を保留することにした。