fear
階下から母親の声がけたたましく響いた。
まだ寝ているのか、朝食を食べないのか、学校に行かないのか、
なぜ返事をしないのか、と捲し立てる。
ヒロキはその叫び声を聞く二時間前に起床した。
起床するまでの間にも何度か目を覚ました。
前の晩は時計が一時を示していたのを覚えている。
ここ数日は毎回同じような夜を過ごした。
起床してもヒロキは自室を出ることなく、
ベッドの縁に腰掛けたまま、二つの恐怖と向き合っていた。
一つは、学校に行けば必ずや繰り返されるであろう、
自分に向けられた肉体的、精神的な攻撃。
もう一つは、学校に行くことを止めれば必ずや襲ってくるであろう、
暗く深い闇のようなもの。
そのどちらも、彼にとって非情なほどに苦しい試練だった。
非情なほどに高い壁だった。
どちらかを選ばなければならないが、どちらも乗り越えられる気がしなかった。
壁には向こう側に進むためのドアも梯子も付いていない。
ヒロキが学校で受ける不義理は、既に暴力を超え、性的な恥辱に発展していた。
暴力は傷やアザが残った場合、それが証拠となって教師に洩る可能性がある。
性的な危害は詳細な説明を本人が躊躇うため、親や教師に訴えることができない。
それがヒロキを攻撃する者たちの言い分だった。
だがヒロキは、性的な危害を受けていることを親に話した。
教室で四人がかりで後ろ手に縛られ、両足も膝と足首のところで縛られ、
ズボンのボタンとファスナーを外され、下着を下げられ、
我が子の性器が掃除用のモップや箒や黒板消しで弄ばれる様を、
母親はうんざりした表情で聞いた。
攻撃者たちと仲の良い女子グループが、軍手を履いてヒロキの性器に触れた。
笑い声が起こった。見るとクラス中が笑っていた。
ヒロキへの虐めを教師に告発する生徒は一人としていなかった。
ばらせば次は自分の番だ、誰もがそう思っていた。
この事は、お母さんとヒロキの二人だけの秘密にしよう、
母親は無表情でそう言った。
もし先生にこの事を話せば、先生から父兄に伝わって、
あなたはこれから一生、変な悪戯をされた人間、という十字架を
背負って生きていかなければならないから。
いじめが理由で学校を休む。
それは自分自身が無垢ではなくなる事を悟る、決定的な日だ。
ヒロキは居間へ降りていき、両親に学校を休んでもいいか聞いた。
秋の陽気が部屋の家具を照らして、薄い影を作っていた。
母親は朝食の後片付けをしていた。
学校に行ってもいろいろ意地悪されるだけだもんね、仕方ないね、
お母さんが学校に電話しておくから、と洗い終わった皿をトレイに載せながら呟き、
何もヒロキに問いかけることはなかった。
父親は一瞬だけヒロキを見て、すぐに視線を新聞へ戻した。
それから会社に出掛けるまでの間、一言も口を利かなかった。
ヒロキは母親が学校に電話しているのを遠目で見ていた。
三分ほどの通話中、何を話したのかを聞く気にはなれなかった。
母親は多忙なのだ。朝食の支度と後片付けに父親の出勤準備、
そして掃除を終わらせると、すぐにパートへ出掛けなければならない。
ヒロキは自分が学校で虐めに遭っていることを、母親に申し訳なく思った。
やはり学校に行くべきだったかもしれない。
性的な危害は詳細な説明を本人が躊躇うため、親や教師に訴えることができない。
あいつらの言う通りにするべきだったかもしれない。
忙しなく家事を済ませた母親が、逃げるようにパートへと出かけて、
家の中はヒロキだけになった。
ヒロキは居間の壁に掛かった時計を見ていた。
三十分が途方もなく長い時間に感じた。
ヒロキはそれを、食卓の椅子に座ってじっと眺めていた。
そして学校の授業が始まる時間になり、
ヒロキは自分の中で、何か形を持った確かなものが
体から離れていってしまうのを実感した。
大切な何かが体から離れていってしまい、
その場所を埋める、代わりのものがなかった。
自分はいじめに屈した。
それを認めた朝が、窓に注ぐ光の匂いを残して過ぎ去ろうとしていた。