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farewell

*1*



宏希へ。



色々考えた末、最後に私の気持ちを伝えておこうと思い、手紙を書きました。


この数カ月の間に何度も話し合ってきて、結論を出した今、

私たちのこれまでを振り返って、率直に書き留めます。

手短だけど、読んでくれたら嬉しいです。



私たちの夫婦生活が、これで終わってしまいますね。

十三年間、本当にお世話になりました。

妻として至らない点が多々あり、あなたを怒らせたり傷つけたり、

たくさん迷惑をかけてしまいました。


でも、私はこの十三年を振り返るととても幸せでした。

夫としても父としても、あなたは力を尽くしてくれたし、支えてくれました。

私一人ではとても、莉奈をここまで育ててはこられなかった。



莉奈を妊娠してあなたに不自由をかけていた時期、出産を終えた私が回復するまで、

家事一切を面倒な顔も見せずにやってくれた事、本当に嬉しかったです。

心身が不安定だった私にとって、それは何よりの励ましでした。



私が仕事を再開したいと相談した時にも、あなたは快く受け入れてくれて、

時間のない中でも莉奈のことや家のことを協力してくれました。

あなたの転職や莉奈の進学、その他、些細な出来事で言い合ったり不満をぶつけたりもしましたが、

あなたの気持ちを理解できていたのか、後になって反省することもありました。


不安で眠れなかった日々も、それだけ私たちは家族として真剣だったんだと、

そういう日々を送れたんだという事を、今は誇らしくも思っています。

共に歩いてきてくれて、本当にありがとう。



私たちは夫婦ではなくなりますが、

父としては莉奈のことを、これからもよろしくお願いします。



どうぞお体を大切にして下さい。


さようなら。



                               有里子





*2*


何気もなく瞼を開けて、それまで目を閉じていたことに気付いた。


おぼろげな視界に映った空間は、その焦点が定まる僅かなうちに、

私を完全に捉えた。

それは拘束や衝撃、重圧といった、いわゆる緊張感の類いではなかった。

過度な熱量でもなければ、先の尖った冷気でもない。

私を捉えたものは、云わば夕焼けに染まる遥かな海に似た緩やかさだった。

否、そこまで単純なものでもない。



空間には、例えるなら心地良い風に乗った潮の香りと太陽の名残が、

鼻先をそっと掠めていく時のような柔らかな落ち着きがあった。

その慎ましい気韻が、これまでに私が自分自身に付着させてきた様々な汚れを、

優しく洗い流してくれる気がした。

だが、それがこの空間を表す決定的な要素かと言うと、それだけではない。

それだけではない、何か。  



それはこの空間を占める全ての空気が、

何者かの意志によって一つの流れを形成しているような、

人工的な作用に依る現象などではなく、オーラと名付けるにも充分ではない、

極めて豊かな「何か」だ。


私はその「何か」を伝えるに足る、的確な言葉を知らない。

しかし少なくとも、間違いなくここは私にとって「無」ではないのだと、

私はそう思わずにはいられなかった。



やがて絹のような波線を描く夕焼けの海が輝きながら、

まるで祝福するように私を飲み込んでいった。

言いようのない慎ましさを伴う気韻と、

それを従えた豊かな意志が、私の全身を包み込んだのだ。



私は、私を飲み込んだ圧倒的な情緒の中で、

そこが非常に大切な場所であることを諭す無言の啓示を聞いた。

それは何物かによる教えではなくて、

本当はずっと昔からこの胸の奥で音もなく潜んでいて、

今初めてその殻を破り、存在を露わにしたような概念だった。

生まれたての小さな概念、それは守るべきほのかな温もりを伝えていた。

まるで幼い命のように。


 

それからの二時間余りを、私は少年時代の私自身と過ごした。

二人で会話をして彼の告白を聞き、戸外の切なくも懐かしい初秋の景色を歩き、

ある約束を交わした後で、彼は静かに帰っていった。


その一連は極めて特殊な出来事であるのに、

肩口をそっと撫でていった涼風も、赤みをつけようとしていた街路樹も、

そして気が付けば、再び私の前に姿を現した慎ましやかな空間も、

全ては正しく当然の様子でそこにあり、

私は不思議の世界にいながら、しかし悪寒や眩暈を起こすような兆候もなく、

心に寸分の乱れも覚えることなく、

そうかといって、特別に充実しているとか、力が漲っているという訳でもなかった。

私は相変わらず夕焼けの海にいて穏やかな波を眺めている、

そんな負担も攻撃性もない具合だった。



もちろん夢を見ていたのではない。私は、その空間から好意的に包み込まれ、

乳児の素肌のような温もりに魅了されながらも、

正直を言えば仕事のことが何処か気にはなっていたし、

莉奈に会う方法、つまり現代に帰る方法を知りたかった。

その他にも理解すべき事象は多いにあるのだが、

それでもなお、この状況を受け入れるにあたっては、

他の何れもが何の抵抗ともなり得なかった。


疑う、という意識すらなく、ただ、受け入れる。

それが唯一であり正当な自然的行為であると、体の芯から認めていたのだ。

それ以外のあらゆる選択肢が、もはや選択肢として並べられることさえなかった。


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