08 《杏》
そして月曜日。
新しい週の始まりがやって来て、また学校が始まった。でもユーウツな気持ちなんてなくて、むしろ心は穏やかだ。
昨日までのドタバタが嘘みたい。あれはまるで夢みたいなもので、今いる場所があたしのホントの居場所なんだって気持ちに浸れるのはやっぱりなかなか良いものだ。
午前中の授業もぼんやり過ぎて(それはそれでどうかもって気もするけど)、やっぱり平和が一番だなーなんて思ってたら、
「ちょっと七草さんっ」
トゲのある呼ばれ方をされちゃった。
時間はお昼休み。机の上にお弁当を広げて、向かいにはいつもの李子ちゃん。昨日のことなんか半分忘れて、李子ちゃんと楽しい会話に花を咲かせていたあたしは、ふいに背後から掛けられた声にタコウィンナーを落っことす。
声の方へ振り返ると、そこにはもちろん見知った顔。おでこ全開の女生徒が、きつい視線をよこしていた。
「どしたの棗ちゃん?」
学級委員の――天羽棗ちゃんが立っていた。
棗ちゃんチは代々医者の家系で、両親ともにお医者さん。お父さんは市内にある天羽医院を経営しているし、お母さんは市立病院の院長をしている。市内でも有数の『名家』ってヤツだ。
だから、きっとあたしのウチでなんかお目見えしそうもない豪勢な食事が食べ放題だろう、なんて勝手に想像したりもするけれど、今日もやっぱり棗ちゃんは痩せっこのままだった。
いつも通り痩せっこの棗ちゃんは、これまた定番のおでこを全開にして、後ろ髪をきつくお団子にしたスタイル。あたしはそれを見るたび、長くて美しい黒髪がもったいないなぁって思っていた。せめてアホ毛、とはいわずとも前髪でちょっと遊んじゃうくらいのがチャーミングなのに。
小顔効果を絶大に発揮している髪型と、痩せているせいか少し長めに見える首。あたしはひそかに、棗ちゃんはキリンに似てるな――、って思っていたりするけど、それはきっとあたしだけの思い過ごしだろう。
なにはともあれ、棗ちゃんは少し吊り上がり気味の瞳と、それに平行するようなちょっとだけ太めの眉も吊り上げて、なんだか怒っているようだ。
たじろぐあたしに、棗ちゃんが言った。
「七草さん、あなた昨日どこで何をしていたの?」
うっ、と言葉の詰まるあたし。復興戦隊の仕事をしていました――、なんて理解してもらえるはずもない。なにより李子ちゃん以外のクラスメイトの前で、そんなことさらしたくもない。
言葉を詰まらせたままのあたしに向けて、棗ちゃんは追撃の手を緩めない。細い線に青白い肌も相まってパッと見は弱々しく見える棗ちゃん。なのにそんな印象もどこへやら、まるで百獣の王の如き狩猟のテクニック。
「七草さんのことをゲンパツ付近で見かけたって人がいるんだけど」
草食動物の皮を被った獣の一撃は、完璧にあたしの胸元を突き刺した。ぐうの音も出せない。
「やっぱりそうなのね。あそこには近づいちゃいけませんって言われてるでしょ。あそこがどんなに危ないところなのか知らないわけないわよね」
棗ちゃんは淡々と言った。繭ちゃん先生なんかよりずっと先生みたいな厳しさで、あたしは責められる。
反論も出来ないあたしは、机の上のタコウィンナーをじっと見つめるだけだった。異変に気づいたクラスメイトたちにしても、遠巻きに興味本位な視線をよこすだけ。助け舟はない。そんなあたしには更なる非難の声が浴びせられる。
「そんな怖いところに行くなんて、コロネぇ理解できなぁい」
「七草さんには北中生としての自覚がないんだよ」
ふと見上げると、棗ちゃんの後ろに二人の女子が立っていた。
ピンクいシュシュのツインテールに笑顔も愛らしい千代ヶ崎転音ちゃんと、ちょっぴり大人ショートで背の高い山東曲輪ちゃん。棗ちゃんの友達、仲良し三人組の二人だ。
とはいえ、転音ちゃんは隣のクラスの生徒だから、わざわざのご出向ということになる。あたしへの叱責の為に、いやはやご苦労さまなことだ。
と、変わらぬ非難の声にさらされながら、あたしはちらと李子ちゃんの顔を盗み見る。
李子ちゃんは別に怒られているわけでもないのに、あたしと同じようにじっとテーブルとにらめっこしていた。理由はもちろん分かっていた――李子ちゃんは転音ちゃんが苦手なのだ。
棗ちゃんへの賛同とあたしへの批判、その矛先がふいに李子ちゃんへと向かった。
「ひょっとしてぇ、柏木さんも一緒だったんじゃないかしらぁ?」
後ろの方でやいのやいの言っていただけの転音ちゃんが、わざわざ横入りして言った。
「あの、その、わたしは……」
机をじっと見つめたままで、しどろもどろになる李子ちゃん。
意地悪な質問のあとも、愛らしい笑顔の転音ちゃん。
だから――、
「李子ちゃんは関係ないよっ‼」
あたしは弾けた。気付いた時には立ち上がって叫んでいた。
遠巻きに傍観していたクラスメイトの視線が一気に宙を泳ぐ。
ふぅーふぅーと鼻息を荒くするあたしから逃げるように、転音ちゃんが曲輪ちゃんの後ろに隠れた。それでも「コロネ怖ぁい」と子猫みたいに身を震わせてみせるさまから察するに、大して怖がってはいないようだ。
転音ちゃんの期待に応えるべく、背高の曲輪ちゃんが身を乗り出そうとした矢先、先に動いたのは棗ちゃんだった。
「柏木さん、ごめんなさい。別にあなたを疑っているわけじゃないの」
棗ちゃんは李子ちゃんに素直に謝った。ほんの少しだけ寂しげな顔をして。
激しく手とか首を振る李子ちゃん。上がり症の李子ちゃんは、急な展開に軽くパニックを起こしているようだ。
それでもあたしは、李子ちゃんの誤解が解けて良かったってほっとしていた。李子ちゃんは何も悪くない。ただあたしに付き合ってくれただけなのだ。だから本当に良かった、と胸を撫で下ろしていたら、
「でも、七草さんは別よ」
再びあたしへと視線を戻した棗ちゃんの、鬼のような形相に、ええーっ、てなった。
「七草さん、あなたがあの素性の怪しい男の人と時々一緒にいるのは知っているのよ。大方昨日もその人と一緒だったんでしょ」
好きで一緒にいるわけじゃないんですけど――。
素性の怪しい人呼ばわりされたセンジュさんについて、あたしが庇うつもりはさらさらなかった。なおいえば、あたしがセンジュさんと一緒に居ざるを得ないのは、繭ちゃん先生のせいなのに。
そうは言っても、内申点欲しさに繭ちゃん先生の口車に乗っかっちゃったあたしに全く非がないとも言い切れないわけで……。
だから結局あたしは、棗ちゃんのお叱りの言葉を真っ向から受け止めることしか出来なかった。
少し高いところからのお言葉の数々に、もともと小柄なあたしはなおさらちっちゃくなっていた。理路整然とした叱責の言葉は、まるでカリスマ講師の講義を聞いているよう。午前中の授業の内容の曖昧なあたしだけど、棗ちゃんのお叱りは一言一句覚えられそうだ。
一通りお叱りの言葉を並べ終えた棗ちゃんは、
「あの怪しい人とはもう付き合っちゃダメよ。私は学級委員として、クラスメイトの非行を見逃すわけにはいかないんだから。分かったわね」
念を押すようにそう言って締めくくった。
そして踵を返そうとした棗ちゃんだったけど、思い出したみたいにまたあたしの顔を見た。
まだ怒りたりないの、って身構えるあたしが見た時、棗ちゃんの表情は薄暗くなっていた。
棗ちゃんは言葉を選ぶようにして話す。それは、あたしにだけ聞こえる小さな声だった。
「あの人は……犯罪者だって噂もあるのよ」
そして、今度こそ本当にくるりと向きを返した。
棗ちゃんの後ろ姿、あのお団子に目が釘付けになるあたし。
彼女がいま何を言ったのか、にわかには理解できなかった。ただ『犯罪者』というフレーズが耳の中でこだましていた。
我に返ったのは、教室を出ていく棗ちゃんと曲輪ちゃんとは別に、転音ちゃんが近づいてくるのに気付いたからだった。
李子ちゃんの前にあたしが立ち塞がると、転音ちゃんは虫も殺せない笑顔でやり過ごす。そして、その愛くるしい笑顔のままで李子ちゃんに言った。
「柏木さんもコンクールに出るんでしょ。明後日はお互いに頑張りましょうねっ」
「う、うん」応じる李子ちゃん。でも、机の上に落とした瞳の色は暗い。
転音ちゃんからの激励に、李子ちゃんが顔色を変えたのは一目瞭然だった。その優しい言葉は、さっきまで投げかけられたどの言葉よりも李子ちゃんの心をかき乱す。
転音ちゃんはそれを十分に理解しているように、甘たるい鼻歌まじりで教室から出ていった。