07 《千》
「……と、いうことで、昨夜のうちに情報を精査した俺は、おかしな点がいくつかあることに気付いたわけだ」
俺が誇らしげにそこまで語って聞かせると、
「そ、そうなんですかー」
李子ちゃんがイントネーションもおかしく、そう相槌を打った。
確か、李子ちゃんは都会の方から越してきたと聞いていたが、少し事情が違うのかもしれない。ひょっとして、三年足らずの間にこの町に感化されてしまったのだろうか? 訛りくらいなら可愛いが、奔放な町の気質に馴染んでしまったのでなければよいが……。
不自然ながら、愛らしい笑顔を振りまく李子ちゃん。
それにひきかえ、杏ちゃんはすごく冷めた目で見てくる気がする。が、まあ気にしないでおこう。俺は先を続けた。
「中でも特に気になった点は俺と杏ちゃん、いやさ杏隊員の決死行を妨げようとした社畜、まあゲンパツが会社経営なのかも、社員なのかどうかもわからないんだけど。それはさておき、あの警備員が発した言葉。俺が闇の傀儡と化した白衣ゾンビを撃退した時に発した言葉、それを覚えているかい?」
大人の歩幅を考慮してゆったり歩く俺と、それでもなお速歩き気味な二人の少女。リボンモチーフのペタンコ靴と、ネオンイエローのランニングシューズ。
今日は運転手なヤスもいないから、のんびり徒歩での山越えだ。まあ説明しながらだから、ちょうどいいっちゃ、ちょうどいい。
松の木が左右に生い茂る、すれ違いも厳しそうな細道。鬱蒼とした山間に差し掛かる頃、相も変わらずむすっとしている杏ちゃんに代わり、李子ちゃんが「わ、わからないです」と答えた。まあ李子ちゃんはあの場にいなかったから、当たり前の話ではあるが。
それにしても――、杏ちゃんだ。
だいぶグズるので今日も正装 (ユニフォーム)の上にジャージの着用を許可したのだから、反抗的な素振りをみせる理由なんてないはずなのに。
濃紺のジャージに赤のブルマー、黄色い運動靴と色のバランスもなにもあったものじゃない。ぐっと堪えちゃいるが、せっかくの復興戦隊の正装が台無しだ。絶妙に微妙な丈の完璧なソックススタイルが維持されていなければ爆発しているところだ。休日で気が緩んでいたとはいえ、李子ちゃんがいなかったら細三つ編みの仕上がりだって時間が掛かっていたことだろう。外回り用のジャケットまで着てきた、司令を少しは見習ってほしいものだ。
甘やかしすぎるのも問題だな――、一人納得して、李子ちゃんにも分かるように説明する。
「ゲンパツ入り口の門番みたいな警備員は、倒れた白衣の男にこう言ったんだ。博士、ってね」
「博士――、ですか?」
俺は頷いた。
「そうさ。李子ちゃん、博士ってのは学者なんかを表す言葉だ。だけどね、普通ならゲンパツに技術者がいることはあっても、学者はそうはいるものじゃないんだよ」
ウィキペッディで調べちゃみたが、正直『博士』の項目は曖昧然としていた。だから技術者にも博士はいるのかもしれないが、中一女子の脳内を混乱させてはいけまいと思い、あえて(……多分)と心の中で付け足すに留まった。
瞳を瞬かせながら、うんうんと頷く李子ちゃん。
聞き手もこれくらい熱意をもってくれると、語り手も話す甲斐があるというもの。俺は李子ちゃんの大きな瞳を真っ直ぐ見据えて続けた。
「つまり今ゲンパツは、稼働に向けて学者によるテストや検査みたいなことが行われているか……もっと特別な何かが行われている可能性があるんだ」
「……何か、ってなんですか?」
李子ちゃんが戦慄くように訊いてくる。
だが、俺はかぶりを振ることしか出来なかった。
「その何かは俺にもまだ分からない。だが、だからこそ……危険を承知でそれを探りにいかなければならないんだ」
「お土産もってですかぁ」
ようやく口を開いた杏ちゃん。俺の決意表明に割って入ってきた言葉がそれだった。
「これはっ、相手を油断させるための物だ」
俺は町の名物たるイカ感満載のせんべいと、渦巻き状の無駄にデカいカリントウの入った紙袋をガサガサと鳴らして見せる。
それは勿論、連中の油断を誘うトラップ、そしてついでにいうなら昨日の謝罪としての意味が数パーセント込められている代物だ。
「へぇー」
なぜだか反抗期みたいな、杏ちゃんのジト目から視線を逸らす。鬱蒼とした山間を抜けた先に、一番高く昇った陽を目指す完成途中のバベルの塔みたいな、あの円柱形の建造物が目に留まった。
「さあ行こう」
昨日と同じ無人のゲートを潜る。広い駐車場には今日も電気自動車が数台とまっているだけ。
と、ぐんぐんと近づいてくる人影。それもやっぱり昨日と同じ中年の警備員だった。
シフトはどうなってんだっ、毎日かっ、ヒマかっ、ボランティアかっ――、内心毒づいている俺の口からは自然と舌打ち。
だが、昨日と違ったこともあった。
中年に付き従うようにして、警備員がもう一人やってくるのが見えた。こちらはがっしり系の中年とは違って、ひょろりとした体躯に茶髪のなんともチャラい風体の若い男だった。
いまいち仕事に対する情熱もみられないようにヘらヘラとやってくる彼を、内心『バイトくん』と勝手にキャラ付けしつつも、これ幸いとばかりにヘラヘラと愛想笑いで応じる俺。無論、隙を誘うためのテクニックだ。
「カブラギさぁん、この人らッスかぁ? いやホントに来るとは思ってなかったッスねぇ」
バイトくんが言うと、カブラギと呼ばれた中年警備員はむうと唸った。
「ああ。だがその通りになったというなら、こちらはマクロ博士の指示に従うだけだ。それに何の意味があるかなんて凡人には理解できんがな」
続けたカブラギは思った通りの低い声。それに対してバイトくんは緊張感もなく、声をあげて笑った。二人のネームプレートにはそれぞれ、『鏑木』、『那須』と印字されていた。
「そッスね。三変人の考えてることなんて理解出来ねッスね」
「『三賢人』だ、那須。そう呼べとハナナシ博士が言っていただろう」
「ッたく鏑木さん、真面目なんだからぁ。ま、その辺は置いといて……」
伸ばしかけの茶髪を掻きながら、バイトくんの那須がちらと視線をよこす。
「あなた方が来たら丁重に案内するよう指示を受けてるッスよ。さ、どーぞ、どーぞ」
ヘラヘラしたまま様子を窺う俺の眼前で、話はとんとん拍子で進んでいった。
お堀に掛けられた橋を渡り、促されるままに入り口まで付いていった後で、俺は我に返って杏ちゃんと李子ちゃんに小さくガッツポーズ。問題なし、作戦通りといったサイン。二人とも微妙な表情なのは、流れに追いつけていないゆえだろう。
だからこそ、俺は二人に小さくウィンクする――大丈夫だ、と。そして改めて、思い知らされる。二人の身の安全は俺の双肩に掛かっているのだと。身も引き締まる思いで、だがそれを悟られないようふうと息を吐いた。
鏑木がカードキーを通し、指紋認証をすると分厚い壁の門が音を立てて開いていく。
屋内にはやはり闇が広がっている。その闇に向けて那須が声を上げた。
「『イザナミ』ちゃーん、電気、電気」
闇の奥からこちらへと順次照明が点っていく。
やがて照明の下に晒された屋内、それは純白とも呼べそうなほどに真っ白な世界だった。
壁も床も汚れひとつない白色で統一されたそこは、ただ部屋の端まで伸びる廊下。虫一匹いないんじゃないかと感じられる無機質な造り。その中で、時々壁を幾何学的に走る電気信号じみた白銀の光線、それがゲンパツの正面入り口を抜けた先に広がるそのすべてだった。
俺はその部屋の造りに、いまだお世話になったことのない手術室のイメージを連想する。
二人の警備員に案内されるままに突き当りまで進む。行動まで管理されているかのように、着きざまエレベーターの扉が自動で開いた。
警戒はしつつも、乗り込む俺と二人の少女。側面には地下から地上八階までの表示が記されている。
「専用のIDとパスがないと途中下車も出来ねッスけどね」
言いながら那須は八階のボタンを押した。
程なくしてエレベーター特有の浮遊感から解放されると、扉が開く。
しかし開いた先にも扉があった。とはいえ初見では全面鏡張りの小部屋に通されたかと思えた程に、扉要素は皆無。それが開くなんて予想も出来なかった。
鏡に映った自分に挨拶でもするように那須が告げる。
「那須ッす。お客様をお連れしましたぁ」
一瞬間を置いて、鏡面は卍に回転しながら壁へと引っ込んでいく。それを確認しながら、
「そんじゃま、ごゆっくりッス」
二人の警備員はエレベーターへと戻って行った。
仕切りのなくなった先には広々としたホールが広がっていた。
どういう造りかは不明ながら、窓のないこの建造物に置いて四方には屋外の風景が広がっている。それこそ一枚窓で形成されたサンルーム風。
それはホールへと踏み出し、再び卍に遮蔽された鏡面仕上げの仕切り扉にもいえることだった。四方を四枚の、というより本当にただの一枚のガラスで囲むようにして作ったかのような空間。体育館ほどの広さはあるだろう、ただの一つの部屋がそこにあった。
退路を断たれ、完全に隔離されてしまった現状に俺が歯噛みをする間も与えずに、
「――『チカエシノオオカミ』へようこそおいでくださいました」
声が響く。
見れば、だだ広いホールの中ほどに人の影が映った。
俺は辺りを窺いながら、ホールの中心を目指す。杏ちゃんと李子ちゃんも後に続いた。
ホールの中央には、まるで床から生えたような流線型で表面上に傷一つもない鈍い銀色の光沢を放つテーブルがあった。
テーブルと一体化したノートパソコン越しに男の姿を認める。男はテーブルに肘を付き、両の指を絡ませたまま、じっと俺たちの動向を見据えていた。
スーツとネクタイはシャープな印象の黒。少し緩ませたワイシャツは、白と黒の菱型をそろばん玉状に並べたチェック柄。
眉に掛かる程度のサラサラの髪に、髭一本すら剃り残しのない頬。涼しげで緩やかな瞳は、知性とそれに固執過ぎない柔軟さを持ち合わせているかのよう。
一見して俺はその人物が同年代だと直感した。
だが、だからこそに、か。改めてみるにソイツをいかがわしく感じた。
例えて言うなら若作りしすぎているような。なんというか出来すぎているというか、その裏に何かを隠しているような。兎にも角にも良い印象をもてなかった。
それは別に俺がどんなに頑張ってもサラサラ状態を維持できない癖の強い髪質をしているからだとか、髭剃り跡が青々してしまう体質だからだとかじゃなくて。有象無象を相手にしてきた、時には国家すら相手にしてきた俺の中の何かがそう告げていたのだった。
しかし、訝しむ俺の視線はすぐに別の影を捉えた。男のすぐ脇で、二人の人間、と呼んで差し仕えないかどうかは分からない、白衣姿の男と女が正座していた。
それは紛れもなく、発症から数日経過したかのようなヒナビた歩く死者と、その使役者たる〝死〟そのもの――。
と、いかがわしい男がふいにテーブルを叩いて立ち上がった。俺の思考は中途半端に断ち切られる。
そして――、
「申し訳ございませんでしたっ」
男はきっちり四十五度の角度で謝罪した。
唖然とする俺をしり目に、男はなお続ける。
「こいつらがご迷惑をおかけしました。でもこいつらも根は悪い人間じゃないんです。ただの出来心だったんです。お許しください」
完璧な大人の対応で頭を下げられ、ぶっちゃけ当方に非のある側としちゃ完全に混乱する。「ええ、いや、まあ、その」歯切れも悪くしどろもどろになっていると、相手は謝罪の言葉を畳みかける。
「こいつらは本来なら、それなりに立派な事の出来る人間なんです。ですから、どうか、どうか、こいつらの未来を奪わないでやってください。お願いしますっ」
涙ながらに訴えかける。迫真の男の傍らで、正座させられている二人。
「ぼ、僕はむしろ被害者なんだが……」ヒナビた白衣のヒナビた死者がぼそぼそ言った。胸元のプレートには、チカエシノオオカミ副所長・博士――雛菱嘗郎と記されていた。
「やっぱりプランBのが良かったかなー」俺の〝死〟は頬に指なんてあてて、呆気らかんとしている。胸元のプレートには同じく、副所長・博士――花無仁知果と記されてあった。
教本にでも載っていそうな完璧な大人の対応に努める男が、隣へと振る。
「お前らもちゃんと謝りなさい」
「す、すいません……うぅ僕は被害者なのに」白髪頭のヒナビた、いやさ、雛菱博士が言った。
薄暗い瞳は俺を責めているような気がして、俺は視線を泳がせる。
花無博士の方はというと、「ごめーん、ネ♪」てへぺろった。
相変わらず両目を覆った前髪のせいで表情は分からない。が、反省しているってわけはまずないだろう。
「多々ご迷惑をおかけしました。改めて謝罪させていただきます」
サラサラの髪を揺らして再三の頭を下げたあとで、男は姿勢を直すとコホンと軽く咳払いなんかしてみせる。
「自己紹介もまだでした。わたくし、新世代資源国家戦略的涅槃那機構、次世代エネルギー研究施設チカエシノオオカミの所長をしています、真玄と申します。以後お見知りおきを」
胸のプレートには、チカエシノオオカミ所長・博士――真玄薫風の文字。
そのやり取りをして、杏ちゃんがうわ言のように呟いた。
「あたしっ、ずいぶん久しぶりにまともな大人の人を見た気がするっ」
――心外だ。
真玄博士が苦笑する。
「まともな人、ですか。それは科学者とすれば複雑ですね。とかく世に名を残す科学者は変わり者揃いですから。まあ、こちらの二人に比べれば、そう見えるのは無理もないことでしょう」
真玄博士の後ろで、白衣姿の二人が膝を払いながらごにょごにょ言い合っていた。真玄博士への文句であることは想像に難くない。
そんな中、以外にも声を上げたのは李子ちゃんだった。
「やっぱり! 花無博士って、あの花無博士ですよねっ!」
控え目少女の興奮する様子に、俺の方が戸惑う。それを見て李子ちゃんが継いだ。
「センジュさん知らないんですか!? ips細胞の実用化における功績でノーベル賞の候補にも挙がった有名人ですよっ。再生医療の分野でいま大注目の、天才って呼ばれてる人ですよっ」
「ありり、お嬢ちゃん見る目あるねー♪」朗らかに花無博士は言ったが、やはり表情は解らない。
「でもねーお嬢ちゃん、所詮こんな世の中じゃ天才なんて何の役にも立たないのよー。人類の発展以上に、経済の発展がもてはやされるこんな世の中じゃねー。それにips細胞の実用化についちゃ、その解明への手掛かりが、この近海の海藻類からもたらされたことだって知ってたかなー? ぶっちゃけ、アタシはその事実を発見した人から研究を受け継いだに過ぎないのよねー。『生体高分子の構造解析と組み合わせによる形状変化の安定、及び固定化のための手法の開発』――に関しては。だから結局、ノーベル賞も候補止まりのアタシは二流の天才ってわけ。真の天才、というならこのチカエシにはただの一人だけ。ナメローくらいのものだよー」
全く威厳もなく立つ雛菱嘗郎博士は、明後日の方でも見てるようだ。
真玄博士が話を継いだ。
「雛菱博士の経歴はいちおう言語学者ということになっていますが、そこから派生し人類が築き上げていった情報系統に関するもの全般、つまり『システム』と呼ばれるものそのすべてが彼の研究対象です」
ぼんやりとした相槌を打つ俺。花無博士は思わせぶりにくふふと笑う。
「言語、非言語に留まらず、心理、認知心理、情報科学、経営、経済、金融、生命情報から果ては人工知能まで、ハード、及びソフトウェア的な『システム』を基盤にしたものに関して、ほぼすべての学者にナメローの論文は影響を与えまくってるよー。ちなみにこっちは二流の生化学者と原子物理学者」
二流の物理学者呼ばわりさせた真玄博士はおもてにも出さずに、にこやかに口を開いた。
「ところで、まだ名前も聞いていませんでしたね」
穏やかな物言い。ご無沙汰ぶりの基本言語な日本語に、俺は我に帰る。
「千寿と申します」軽く会釈なんかしたあとで続けた。
「こちらが柏木李子ちゃんで」
同じく会釈する李子ちゃん。
「こっちがメイデンジャーアプリです」
「違います」
――心外だ。どうやら本格的に反抗期……いや、まさか闇堕ち? そしての悪堕ちパターンか? なんて俺の心配もよそに、
「七草杏です」
矢継ぎ早の杏ちゃんの挨拶に、花無博士が言った。
「よろしくねー、アプリちゃん」
だからまあいいことにして次に進める。杏ちゃんは固まっているようだから、ひとまずそっとしておこう。
「ときに、新世代戦略的なんちゃらのエネルギー研究施設、そうあなたは先ほどおっしゃいましたが、とどのつまり此処はなんなんです? ゲンパツではないのですか?」
固唾を呑んで、答えを待つ。適当なおべんちゃらで場をやり過ごされては堪らない。俺はひとり身構える。
「ここが、明香里第壱原子力発電所であることに変わりはありません。それはあくまで建物の構造上が、という意味においては、ですが。結論から言えば、ここに原子力の基となるプルトニウムは運び込まれていません。なぜならここで創り出そうとしているものは、原子力に変わる次世代型の新エネルギーだからです」
真玄博士は、俺の目を見据えてはっきりと言った。
「真玄ぉ、あんたそんな機密事項、一般人に話しちゃっていいわけー?」
非難という調子でもなく、花無博士がのんびりと言った。
「元はといったら、その一般人の方々にお前らがご迷惑をおかけしたんだろうが」
溜息交じりに話す真玄博士に、再び花無博士がてへぺろった。
「それに実験はすでに終了。数日中にも公の場でお披露目することになるでしょう。いま内情を知り得たとしても大きな問題はないはずです」
俺へと視線を映した真玄博士は不敵に笑った――なにか試されているような気分。
「せっかくですから見ていきますか、新世代のエネルギー」
俺のためらいも無視して、李子ちゃんが瞳を輝かせながら「はいっ」と答えた。
認証式のエレベーターで降った五階に、研究室はあった。
扉が開き、闇が広がる空間に向けて、「イザナミ、照明を」真玄博士が声を上げた。
「チカエシノオオカミは我が国が誇るスパコン『那由多』を小型化した『イザナミ』によって管理されています。イザナミに使われている人工知能も雛菱式N―04型A・Iと呼ばれる雛菱博士の発明です。すごいでしょう? 言語学者たる雛菱博士ならではの須臾演算機能ですよ。つまり、『すべての言語にはその深層に共通する文法が存在し、言語の基本文法を生得的な器官として持って生まれたとされる人間は、不十分なインプットで十分な言語能力を発揮される脳の仕組みとなっている』――と提唱された『普遍文法』。その実証からの発展形です。ある一定の基本言語をもとにしたパターンやイントネーション、さらにはその深層に内在する雰囲気といった曖昧なもの、それらすべて。そこに含まれる音の幅だけで言語の理解を可能としたことにより、イザナミは言葉の最初の音でこちらが何を望んでいるかを理解し、判断する。……ってあの聞いてます?」
「はあ」熱く語る真玄博士に、適当に相槌を打つ俺。
一見不審者の雛菱博士に連れられた李子ちゃんは変わらず瞳を輝かせ、花無博士にアプリちゃんアプリちゃんと話しかけられる杏ちゃんは、さっきから微妙な笑顔を取り繕っている。
輝度の高い発光ダイオードの照明が降り注ぐ室内。先と同じ体育館ほどの広さにも、この研究室には様々な機械やら配線やらが伸びて窮屈に感じられた。
機械の所々には配線に繋がった電子レンジやブラウン管テレビみたいな物があって、強めの手作り感に不安を覚えたりもする。
「さあ新時代の登場です」
部屋の中ほどへと至る頃、真玄博士が仰々しく手を広げた。見れば、様々な配線は部屋の中央、真玄博士が手を広げた先へと続いている。
配線の集合地点にはベビーベッド程の台座があった。その上に載せられた物を隠すように、しっかりと白い布が覆い被せられている。
真玄博士は手品師の所作でその布を引く。ぶぁふぁっと白い布が宙を舞った。
俺は目を奪われた。ベビーベッドの上にしつらえたガラスケース、その中身に。
「なぜ新エネルギーの発明に物理学者だけじゃなく、言語学者や生化学者が必要なのか不思議に思ってたでしょー? ……これがその答えよ」
花無博士が怪談の大オチじみた声音で言った。
――えっそれって不思議なことだったの? 思いつつもおくびにも出さずに俺は訊いた。
「これは……つまり……?」
俺の目前に映るもの、それは人の皮膚の色をした塊だった。
乳飲み子ほどの大きさはあってもそれはやはりただの塊で、全身が大きな心臓のように脈動していた。
正直グロい。案の定、二人の少女は目を伏せていた。特に李子ちゃんはさっきまでの輝きが嘘みたいに、死んだ魚のような目をしていた。
「これは人工皮膚で出来た、いうなれば小人のフラスコ。例えば、巨人の斧といったら巨人が持つ斧を連想するよねー。だけどワニの財布といったらワニ革で出来た財布でしょー。さて、これはどっちの意味で小人のフラスコでしょー?」
朗らかな声で悪趣味な質問をする花無博士。ついでのように付け足す。
「ここでは『ヒルコ』って呼んでるよー。日本神話における女神イザナミが創りし失敗作。神のなり損ねの名前でねー」
そして、くふふと笑う。
ひとりどっかの世界に旅立たれた花無博士に代わって、真玄博士が後を継いだ。
「これは器なのです。現人類が叶わなかった新世代エネルギー、『対消滅エネルギー』を閉じ込めるための」
真玄博士は、ヒルコの入ったガラスケースを再び布で覆った。
「『反物質』、という言葉を知っていますか? すべての物質には相反する反物質が存在するという考えです」
真玄博士が、俺の瞳を見据える。伏し目がちの少女たちを休ませるという紳士めいた対応ゆえ、照準は俺へと合わされたらしい。
俺は小さく首を振った。
「元来、それは本来の物質の影みたいな存在で、現実世界では滅多に出会うことはありません。しかし奇跡的に出会うことがあるとしたら、物質と反物質は互いに衝突して計り知れないエネルギーを生み出すのです。それが対消滅エネルギー。結果、そのどちらもがエネルギーを発生させると共に消滅することになるわけですが」
俺はその話を聞きながら、どこかに存在するもう一人の自分という都市伝説的な話を思い出していた。
確かその話でも、もう一人の自分と出会ってしまったらお互いに消滅してしまうのではなかっただろうか? でも計り知れないエネルギーを生み出すとは聞いていなかったが。
そんなことを頭によぎらせながら、俺はもう一人の自分、生たる俺の半身とも呼ぶべき、俺の〝死〟の横顔を盗み見る。半開きの口と滴り気味のよだれ。彼女はまだどこかから帰って来てはいないらしい。
「その強力なエネルギーを創り出し、閉じ込めることに我々は成功したのです。言語学者の発明した須臾演算機能の応用で刻一刻と変化する中心核の反応を算出し、生化学者の創った人工生体の内壁がそれに対応した物質変化を起こす。中心核と人工生体はそれぞれ反物質と物質の役割を果たし、その中間に置いて対消滅エネルギーが発生。ヒルコは反物質への対応物質の役割を果たすとともに、エネルギーを閉じ込める器となる。それらを物理学者の計算の元に行っているというわけです」
真玄博士は身振り手振りを交えながら話す。まさに独壇場と呼ぶにふさわしい語り口。
「起動の目処も経たないまま放置されていたこの明香里第第壱ゲンパツは、独立法人の管理下に置かれ、新たなエネルギーを創り出すための施設へと変わりました。とはいえ、ここは我々の研究施設です。名称は我々で付けさせてもらいました。かつて神話に置いて、女神イザナミを封じ込めた大岩、『チカエシノオオカミ』と。しかしそれはゲンパツのようにリスク過大で危険なエネルギーを閉じ込めるための仰々しいものではありません。我々のエネルギーは効率的かつ安全です。漏れて困るのは機密事項くらいのものですから」
真玄博士は快活に笑った。
そのさまがあまりにわざとらしくて、俺はなんとなくフラグ臭を感じる。しゃべるな、と言われているからこそしゃべってしまった、そんな結果へと導かれているみたいな。
「その昔、神が国を創ったとされてるらしーけどさ。だけどそれなら丑寅地方にまつわる神話が聞こえてこないのはなーんでだと思う?」
疑心暗鬼と戦う俺の前に、ふらりと帰ってきた花無博士が言った。でも言動が言動なだけに本当はまだ帰ってきてないのかもしれない。
八卦でいう所の北東を意味する丑寅。我が国の本州でも北東に集まる県は総称して丑寅地方と呼ばれている。そんな不吉な呼び名、誰かが反対すべきだったろうに。と、まあそれはそれ。
問いかけられても、俺は「さあ」と曖昧な返事をすることしか出来ない。そんな俺へと花無博士はぐいと顔を近づけてきた。
枯れた緑色の前髪から双眸が覗く。今日は右側だけが真紅の瞳。力の開放率も半分か――、なんてカラコンの付け忘れと取るのが現実的。
とはいえ、そんなこと冷静になんて考えられないほどの近さ。鼻と鼻が触れ合う距離。同じ高さの瞳が重なる。逸らそうと、視線を下げてみたものの、尋常ならざる彼女の胸元に行き当たっては、俺は完全に行き詰る。
昨日は気にも留めなかった花無博士の装い。今日は白衣の下にやけに肌触りの良さそうなブラウスを着ていた。膝丈までのカーゴパンツは、前髪に散った色と同じモスグリーン。そのパンツを留めるサスペンダーが、たわわな胸に食い込んでとんでもないことになっていた。どうやらこちらはツクリモノではないらしい。
彼女が口を開くと、甘い吐息が俺の頬を撫でた。
「きっとさー、当時は丑寅地方の資料がなかったんでしょーね。つまりその当時、神話とやらを作った人たちの手元には、ってゆう意味でねー。ってことは言わずもがな、神話なんて所詮人が作ったと証明してるよーなもんよねー。さてさてさておき、なら尚更に。科学者が神なんて信じちゃお終いだなって思わなーい? センジュくんはそう思わなーい?」
間近で無神論を語られる俺は、だがしかしそれどころじゃなかった。
おそらく動転するほどの巨乳ではないはずだ。人よりちょっと大きめなだけ。でも、元からのスレンダー体型がたわわにみせるのか、隠れたわわゆえ元からのスレンダー体型が際立つのか、勝手知ったるマーフィーの法則もこんな時にはなんの役にも立ちゃしない。
身を引くのもどうかと思うし、瞳も逸らせない。しゃれた回答なんて論外だ。俺の〝死〟を語りつつ、そのヤリクチが悶死とは予想だにしてない身だ。問われてみたところで、取りあえず俺がしていたことといえば、センジュくんなんて呼ばれるのが何年ぶりか頭の中で指を折って数えてみたってことくらいのもの。
そんな俺の様子が可笑しかったわけでもないだろうに、真玄博士はくつくつと笑う。
「その持論が正しかったとして、花無博士。人類がまさに新たな力を得たという事実をもって、この地より新たな神話が生まれるというのも、悪くないことだと私は思いますけどね。なんにせよ、新たなエネルギーを手中にした人類が新たなステップへと踏み出せるかどうか。言うなれば此処はその最前線です。例えるなら、新たな時代へと人類を解放するための戦線。そう呼べなくもないでしょうね」
真玄博士の発した会話の一端に、俺はえもいわれぬ心地の悪さを感じた。花無博士に向けられていたはずの視線は、いつしか俺の顔を捉えていた。
解放、戦線。コイツ……俺のことを知ってる――?
一転して俺の背筋を冷たいものが走る。しかし、探りを入れる間も与えず真玄博士は踵を返す。
「と、まあ施設見学はこんなもので宜しいでしょうか。本来なら一般の方の立ち入りは固く禁じられているのですが、これも一応わたくしどもなりの謝罪の気持ちということで、酌んで頂けるとありがたいのですが」
振り返った先で真玄博士がどんな顔をしていたのか、俺には分からない。
真玄博士の背中越しに聞こえた「はい」という即答は李子ちゃんのもの。おそらくあまりのグロさにさっさとおいとましたかったに違いない。だから俺も素直に従うことにした。
「いろいろと貴重なものを見せて頂いて、こちらこそありが……」
「そーだ、センジュくん」
社交辞令な挨拶をしている最中、遮ったのは花無博士。
俺がそちらを向いたとき、花無博士が何か放った。真玄博士が布で覆ったガラスケースに手を突っ込んで、取り出したものを迷いなく放り投げるさまは、真玄博士のとはまた違った手品を見せられているようだった。が、それは人を楽しませるものとはお世辞にも呼べなかった。
放物線を描いて飛んできたものを俺は慌ててキャッチする。そして小さく悲鳴を上げた。
俺の掌に乗っかっていたのは、ひと口サイズに千切られたあの肉の塊だった。
「さっき真玄は、強力なエネルギー、その生成と保持に我々は成功した、なんて偉そうに語ってたけどー、実際にはナメロー一人の手柄みたいなもんよー。いくら『普遍文法』の応用ってったってー。それをその空間における生物、そして言語を持たない非生物、いわゆる物質すべてに対応するネットワーク構築の理解なんてさー」
花無博士は歌うようにそんなことを言っていたが、俺には相槌を打つ余裕すらない。
微動だに出来ずにいる俺の掌の上で、肉片は氷のように冷たくてカチカチの状態へと変化した、と思った矢先にはドロついたゼリー状となり、間もなくして空気とまじるように煌めきながら消えていく。その間、わずか数秒の出来事。
「内部の中心核と基本構造の同じモノで、ヒルコは形成されてるんだよー。それはねー、その時々で内部に発生した反物質に対応する物質を形成するため。一人の天才の成果により、まるで会話でもするように、対応物質へとその都度で形状を変えるからなんだー。どんな物質へも変換可能なことから、無から有を創り出すことを目指した錬金学にちなんで、お偉方は『賢者の石』なんて呼んでる。だけどねー、アタシらはこう呼んでる、『絶対物質』ってねー。アタシは気にいってるんだー、その呼び名。科学の世界において、最高の硬度を持つ物質が一番強い物質って訳じゃー、ない。その時々に応じて臨機応変に固くなったり柔らかくなったり出来るってことこそがー、一番強い物質ってことなんだよ。それってまるでさー、人の強さにも通じてるみたいじゃない?」
花無博士はそう言って少し首を傾げた。気付くと俺は、その話の最後らへんを反芻していた。
と、真玄博士の声が飛ぶ。
「仁知果、悪ふざけが過ぎるぞ」
花無博士を見る瞳には厳しいものが含まれている。さっきまでの仰々しさに満ちた大人の余裕はそこにない。同時に俺は、この男の本性を垣間見た気がした。
「な、なるほど……この『石』と、人の『意志』が掛かっているのだな」
別に微妙な空気を変えようと思ったわけじゃないだろう。雛菱博士が大真面目な調子でそう言った。ともあれ、その一言に救われたのは確かだった。
真玄博士は柔和な顔に戻り、二人の少女をエレベーターまで案内する。雛菱博士がそれに続き、俺も後を追った。
その俺の隣へと近づいてくる花無博士。口元にはなにか企んでいるような笑み。俺はなんとも嫌な予感がした。
そして彼女は俺のジャケットのポケットへと何かを詰め込みながら、こんなことを言った。
「これはもう一人のアタシたる、アナタへのちょっとした贈り物だよー。アナタが道に迷ったとき、その導き手と成らんことをー」