06 《杏》
「……それでセンジュさん置き去りにして逃げてきたんだ杏ちゃん」
「だってぇ、先に逃げだしたのはセンジュさんの方だよ」
あたしが少しむくれてみせると、李子ちゃんは苦笑いを浮かべた。
「なんにしても女の子一人置き去りにして逃げ出しちゃうのは、ちょっとひどいね」
「ちょっとどころじゃないよぉ」
あたしは当て擦りのように『六家宝』を口に放り込んだ。
李子ちゃんに好評だったからという理由でばあちゃんが常にストックしているトシヨリ菓子。早くもその八個目が胃袋の奥へと消えていった。きな粉でコーティングされたもっさり感に、麦茶も進む。
ちゃぶ台の上が、空袋ばかりになっているのに気がついて、あたしは立ち上がった。自然と休日使用のポニーテールが肩に掛かってそれを直す。シュシュで軽くまとめただけのスタイル。それだけのことでちょっと口元が緩んじゃう。ザ・プライベートって感じだ。
仏壇に手を合わせて、お供え物から同じお菓子を二つとった。李子ちゃんのあげてくれた線香からはまだ白い煙がのぼっていた。
観光名所の明香里浜や漁港のある市の東部。そこから緩やかな坂を上った場所にある北の『小山』。ちょっとした知り合いなんかに、小山の七草って呼ばれたりもする平屋の一軒家、それがあたしのウチだ。
もともと漁師の暮らす集落、いわゆる『海場』にあたしたちは住んでいたのだけど、「船降りたら、山仕事がすってえ」というじいちゃんの一存で、七草家は小山に新居を移したそうだ。
「あれは人の住める代物じゃなかった――」昔、おかあちゃんはよくそんなことを言っていた。それも舌打ちまじりで。っていっても数少ない思い出に、あたしの中でいつもおかあちゃんは舌打ちまじりの顔をしているのだけど……。
引っ越した頃、二歳だったあたしに前のウチの記憶はない。だから比べようもないし、おかあちゃんの舌打ちには同意しかねるのだけど、正直言って今のウチだってお世辞にも立派とはいえないような。
そんな質素な我が家の茶の間で、六家宝と冷えた麦茶っていう質素な女子会。
じいちゃんはいつもの海釣り。ばあちゃんは買い物。近所の原っぱで野球をするって朝も早くから出かけた弟のウメもいない。そんな茶の間は、いつもより静かに感じられて。
それはそれはガールズトークにも花が咲くってものだ。
――でも、それがセンジュさんの話題っていうのはどうかとは思うけど……。
ゲンパツでのひと騒ぎから明けた日曜日は、これでもかってくらいの快晴だった。あたしの心は最近ジメジメしっぱなしだけど、梅雨がやってくる気配は当分なさそうだ。
李子ちゃんは、少し早い夏色を連想させるスカイブルーのワンピース姿。これがまた爽やかなことこの上ない。栗色のボブヘアーには山吹色の向日葵、髪留めの花飾りも良く似合っていた。
李子ちゃんのそんなコーデに、あたしはなんだかちょっと先の未来へと想いを馳せる。
さんさんと輝く太陽と、よく晴れたスカイブルーの空。一面に敷き詰められた向日葵のお花畑で、ふわふわの入道雲を追いかける李子ちゃん。そんな想像に、あたしはひとりウキウキしちゃう。
その後で、あたしは静かに拳を握りしめ、内心で巡らす。もちろん新たなガンプクの確約を得るために。
――海に行く約束は取り付けた。そうだ。向日葵畑。向日葵畑に行く約束も取りつけなくちゃ……。
膝を崩して座る李子ちゃんと、足を投げ出して座るあたし。
黄色に黒のボーダーがミツバチみたいで子供っぽいかもって思ったけど、かわいいねって李子ちゃんに言われたおニューのキャミワンピと、履き慣れたショートパンツ。伸ばした足に、畳のひんやりした感触も今日は心地よいくらい。
ゆったりと空気と時間が流れていく。そんな中、あたしは一人心理戦――新たなガンプクの約束を取り付けるための口火、それをなんと切るべきか……。
と、ふいに李子ちゃんが思い出したようにメガネの奥の瞳を緩める。
「そっか、だからだね」
「な、なにが?」内心を悟られぬよう、作り笑顔で尋ねるあたしに、
「だから昨日の夜って元気なかったんだ、センジュさん」と李子ちゃん。
あたしは少し考えて、そしてはっとなる。
「ひょっとして李子ちゃん、毎週見てるの? ……わるはらナイト」
センジュさんが友達と昨年から始めた居酒屋。そのお店から動画サイト、ユアストーミィを介して発信している番組。それが『わるはらナイト』だ――。
金曜日はいわゆる本編、ほにゃららナイトと銘打ってこの町を離れた人向けに新たな故郷の魅力を伝える企画を発信しているらしい。
いわくその内容は、北中ナイトのようなミニ同窓会から名物イカせんべいで新しいレシピナイト、復興について考えるナイトのように多岐にわたるそうだ。そしてその企画の中にはもちろん、あの復興戦隊メイデンジャーも含まれている。
土曜日は反省会及び企画会議という名目で、お酒片手にお客さんと語らっているそうだ。
『人と人とが繋がること。そこから生まれる新しい発想や企画が積み重なれば、復興にも繋がっていく。一人では出来ないことも、みんなを巻き込めば大きな力になる』。センジュさんはそう言っていた。
だからきっと根は良い人なんだろう。そうあたしは自分を慰めてきた。
根はいい人なんだ。巻き込まれた側の、被害者のことに気づいてくれていないだけで――、と。
溜息まじりなあたしに気付いて、李子ちゃんが首を傾げる。
耳にかかるサラサラの栗毛が揺れた。向日葵の髪飾りからさらさらと零れるそれが、陽光を受けて金色の稲穂のように輝く。瞳を奪われていたあたしは、はっとなって視線を李子ちゃんの顔に移す。目をぱちくりとさせた李子ちゃんと瞳が重なる。
「……でもなんで李子ちゃん見てるの、わるはらナイトなんて」
「わたしのスマホで見れるんだよ」
「そーゆうことじゃなくって……」
人見知りな李子ちゃんは同級生の男の子とすらまともに話せない。普段の怯えようからセンジュさんは李子ちゃんの最も苦手なタイプに分類される、とあたしは勝手に思っていた。
これはつまり画面越しで見られるくらいにはセンジュさんを嫌っているわけじゃないってことかな――そんなことを一人考えていたら、
「結構面白いんだよ、時々何言ってるか分からない時もあるけどね。勉強中とかちょっとした息抜きになるっていうか……」
李子ちゃんが継いだので、取りあえずその辺はうやむやでもまぁいいかってことにして。
ただ、李子ちゃんのいう「何言ってるか分からない」ってあたりが下ネタとかじゃないことだけを願った。李子ちゃんに悪影響があっちゃいけないし、変人のセンジュさんのせいであたしまで共犯者扱いされたらたまったものじゃない。
そしたら、その願いは別の方向に叶ってしまったらしい。少し恥ずかしそうに俯いて、李子ちゃんはこんなことを言い出した。
「……それに、センジュさんって、そんなに悪い人じゃないと思うし」
悪影響を恐れていただけで、あたしは別にセンジュさんの善人性を訴えたいわけじゃない。特に李子ちゃんにはあんな悪い虫がつかないよう、多少悪い印象を持っていてもらえるくらいでちょうどいいのに。
どうしちゃったの李子ちゃん――、絶句するあたし。
「えへへ」と李子ちゃんは無邪気に笑って、ビビットピンクなスマホを持ち上げてみせる。
揺れるビーズアクセサリー。そしてシリーズもののマスコットキャラクター、犬っこ少女なペコピンちゃんと、右手がクレーンになったガレキちゃん。……って、ガレキちゃんっ!?
ピンクに白の水玉という独特のショートヘアーに、ゴーグルを乗っけたガレキちゃんがとびきりの笑顔を振りまいていた。
右手のクレーンは先に行くにつれ細くなっていて、先端にかぎ針のようなものがついている。釣竿にも似たそれは、遠目には槍とか狙撃銃みたいに見えてちょっとだけかっこいい。
「な、な、なんで李子ちゃんがガレキちゃんをっ」
「今朝ね、郵便ポストに入ってたんだ。『昨日のお詫びに』って書いてあったよ」
ついに李子ちゃんチにまで魔の手が伸びようとは――。あたしはどんな手段を使っても李子ちゃんだけは守らねば、と改めて誓った。
「杏ちゃんとお揃いなんだよね、嬉しいなっ。でも、わたし杏ちゃんのケータイに付いてるの見たことないなぁ」
言葉に詰まるあたし。確かにメイデンジャーとなった『お祝い』に、ガレキちゃんのストラップをセンジュさんはあたしにくれた。でもそれは、右手が地面を押し固めるロードローラーのヤツだった。
パッと見には、土管に手を突っ込んで抜けなくなってるのに、愛くるしい笑顔を振りまき続けるちょっと痛い子みたいだった。当然、クレーン使用のガレキちゃんのが、何倍もかっこいい。
そんなわけで、ロードローラーなガレキちゃんはあたしのキッズフォンを飾らずに、今も机の引き出しの中で眠っているはずだ。
「こ、今度見せるね」微妙な返事でかわすあたし。正直、探すとなれば半日はかかりそうだ。
ごまかすように、あたしは話題を変えた。
「で、センジュさん、昨日の夜は元気なかったの?」
「え? うん、なんだか時々挙動不審に周りを気にしたり、あと何度も噛んでたよ」
あたしは、少しはいい薬になったかもって思って、
「これでセンジュさん大人しくなってくれるかな」
ニヤニヤしながら言った。だけど、
「あっ……」李子ちゃんはなんだか言いにくそうに言葉を詰まらせる。そしておずおずと、
「……お困り解決! 出張メイデンジャー、って企画は進行中って言ってたよ」
「うなっ!」
「そ、それよりこのままっていうのはちょっとまずいんじゃない」
問題をすり替えるが如く、李子ちゃんが完璧な反射速度で言葉を継いだ。
「……うん、そだね」あたしは小さく頷く。
それは私にも分かってはいたことだった――今週の火曜日、つまり明々後日のことを考えれば、気がかりな問題は早めに解決するに越したことはない。
六月の第一週の火曜日は開校記念日だ。
なんで六月が開校記念日なのかは知らないけれど、四月じゃ入学したてだし、五月はゴールデンウィークがあるから、大人の事情ってヤツだろう。きっとそうに違いない。だったらだったで月曜日か土曜日にくっつけてくれたら連休になってもっと嬉しいのに、そうしないのも大人の事情に違いない。
なにはさておきそんなわけで。
六月の第一火曜日は明香里市にある第一から第七、そして東西南北を頭に付けたすべての中学校はお休みだった。
そして、その日は海岸沿いの文化ホールでピアノの発表会が予定されていた。もちろん李子ちゃんも参加する。
小四の春、県内の別の町から明香里市へと引っ越してきた李子ちゃんは、前の町で教わっていたピアノの先生から変わらず指導を受けていた。
引っ越すにあたっても、変わらず教わりたいという李子ちゃんの希望に、理解ある先生は二つ返事で引き受けてくれたそうだ。そして先生は李子ちゃんの指導のため、月に数回、明香里市まで足を運んでくれている。
でも、車で二時間かかる山道という悪路と、元々が丈夫でない先生は体調を崩すことも多いらしくて、最近では李子ちゃんが市内のピアノ教室に通う機会も増えつつあった。
昨夜は久しぶりの先生の指導の日だったけど、やはり顔色は優れなかったらしい。
李子ちゃんはなんでも抱え込むタイプだからあまり口には出さないけど、先生が見に来ると言っていた今度の発表会に対する意気込みは並々ならないものがあると思う。
人見知りであがり症なところのある李子ちゃんは、あまり結果というものを残せていないと言っていた。確かにクラスの音楽発表会なんかでもミスすることも結構あった。
それでも、二人っきりの時なんかに弾いてくれる、あの心がウキウキするような旋律。いろんな束縛から解き放たれて、喜びに満ち、やがて部屋中を幸せに満たしていったあの旋律こそが本当の李子ちゃんの音だってあたしは知ってる。
それはとても素敵な音だった。音符も読めないあたしには音楽のことなんてよくは分からないけど、それでも李子ちゃんの先生が素敵な先生だってことは分かる――あたしにとっての師父とは違って。
だからあたしは特別なことなんて出来ないけど、明後日には李子ちゃんの応援に行くって約束した。だからこそ、その日だけはなんとしても面倒事は避けたかった。
そしてあたしはもう一つの悩みの種を――明後日の予定をセンジュさんに告げていないことを、思い出す。
また訳の分からない予定を入れられる前に今度こそはセンジュさんにノーを突きつけてやらなくちゃ――、あたしが一人決意を新たにしていると、
「謝りに行くなら、わたしも一緒にゲンパツに行くよ」
李子ちゃんがそう言った。
李子ちゃんの気持ちは嬉しい反面、人見知りな李子ちゃんにそんなこと言わせるなんて――、とあたしは自己嫌悪。ただ申し訳なくって、
「これはあたしの問題だもん、李子ちゃんは……」
「だって友達でしょ」
だけどあたしの言葉を制して、李子ちゃんがきっぱりと言った。それこそ当たり前でしょといわんばかりの自然さで。
そして大きな瞳でにこりと笑う。
ああ、可愛いよ李子ちゃん。あたしは李子ちゃんの友達で幸せ者だよ――、なんかもう、幸せすぎて涙が出そうになる。
「ありがと、李子ちゃん」
「うん、じゃあさっそく行こっか。面倒なことは手早く片付けて、またお茶の続きしよっ」
あたしは李子ちゃんに促されて立ち上がる。手早く、って言葉には大賛成だ――あんまり遅くなったら、夕方からピアノ教室に通う李子ちゃんになおさら迷惑をかけちゃう。
あたしは頷きを返しながら立ち上がる。
麦茶をもう一口だけ飲んで、李子ちゃんも立ち上がった。
玄関までの道すがら、あたしはミツバチキャミの上にサマーニットのパーカーを羽織る。透かし編みにアイボリー色をしたパーカーは、もちろんよそ行きを意識して。
と、玄関でネオンイエローのランニングシューズにちらと目が留まる。
動きやすさ重視の運動靴は遅刻間際で駆け出す制服や、メイデンジャーの『正装』たる体操服にはマストだけど、今日の私服にはピンとこない。
なにより今日はせっかくの休日だ。ちょっと迷ってクロスストラップのサンダルに足を通す。それは夏に向けて買ってもらったおニューのサンダルだった。
玄関の引き戸を開くと、溢れんばかりに太陽の光が降り注ぐ。ストラップに散りばめられたラインストーンがきらめいた。
そして……。
あたしは、戸を閉め直した。
怪訝な声を掛けてくる李子ちゃん。その声を背に、あたしは猫のように目を擦った。
きっと陽光に目が眩んだのだ。だからきっと見間違いだ――そう言い聞かせながら再び戸を開ける。
そこにあの人がいた――。
こちらの様子を窺うように、ウチをぐるりと囲む塀の影からちらちらと挙動不審によこす視線。残念ながら、その視線とあたしの目はばっちり合ってしまった。
それを合図と、いつもの不自然な作り笑いを浮かべてセンジュさんがやってきた。