04 《杏》
「お茶はまだかの」
ふすま越しのおじいさんの声に、あたしは反射的に声を上げた。
「はいっ、いま行きますっ」
壁紙も所々が剥がれた給湯室。急須に玄米茶の葉っぱを入れながら、李子ちゃんとのきゃぴきゃぴした幻想に想いを馳せていたあたしは我に返る。慌てて、お盆に並べた湯飲み茶わんにお茶を流し込んでいった。
そしてあたしはここにいた――『オペレーション』という名の町内会議に。
センジュさん(公の場では司令と呼べと強要されている)の指示で、復興戦隊の正装だという『めいでん 01』と書かれたゼッケンの貼り付けられた白い体操着と、赤い『ぶるまー』と呼ばれるショートパンツに着替えさせられてやってきたのは町の集会場。
『第一回、町可笑し対策会議』と書かれた横断幕。多目的会場は安座する人々ですでに賑わっている。
壁に立てかけられたスティックとお年寄りだらけの面子に、これがゲートボールクラブの親睦会も兼ねているのは容易に想像できた。ウチのじいちゃんとは同年代で、よく知る顔もちらほら見える。
集会場へ着くなりとりあえず多目的広場で指示を待て、と言われていたあたしだったけど、けっこうな人の集まりにぎょっとして、別室にレジュメを取りに行ったセンジュさんのところまで飛んでいった。
「人前でこんな恰好じゃ、あたしっ、恥ずかしくて死んじゃうよっ」
ごねてごねて、ごねまくったら、センジュさんは渋々ながらも濃紺色に三本ラインの北中ジャージ(上)の着用はオッケイしてくれた。
そして、センジュさんの町可笑し対策会議開催の挨拶の音頭を聞きながら、あたしはここに至る道中さんざん聞かされた『矜持』に満ちた復興戦隊の重要な仕事――お茶くみ係に取り掛かったのであった。
間もなくして、ポットの横に置きっぱなしにした携帯電話の明滅に気が付いた。開いたメールには李子ちゃんからで――大丈夫? と短い文章。ホントはこれから女子会だったのに、と思う気持ちが現実逃避のように、あたしを幻想へと追いやっていた。
おじいさんの声に現実へと引き戻されたあたしだったが、今度の火曜日だけはなんとしてもセンジュさんの妨害を切り抜けなければ――、と固く決意する。
開催の音頭もそこそこに、会議はフンキュウした様子だった。おじいさんたちの怒りと訛りに満ち満ちた声が響き渡る。
いわく「やっぱり『海場』の連中は来てねぇでねえが」
いわく「イカせんべい祭りが盛り上がんねがったのは役所の人間が不甲斐ねぇせいだ」
いわく「景観がどうの言ぅてさっぱり堤防の工事が進んどりゃしねぇ」
いわく「海場の連中への助成金で県の予算は逼迫してるって聞いたが、本当が」
いわく「市営になった明香里電鉄が電鉄ってしてんのに、電気にならねえでまだディーゼルで走ってんのは予算がそっちに回されたせいだって噂もあんぞ」
いわく「とうとう役所が『ゲンパツ』稼働さすって聞いたが、それはそのせいもあんのが」
九年前に発生した〝災禍〟により、明香里市は甚大な被害を受けた。そして、その被害の規模は海側と山側でくっきりと明暗が分かれたらしい。それは今も溝となって残っているとは聞いていたけど、あたしはよく分かっていなかった。
だけどどうやら被害を受けた者と、そうならなかった者だからこその深刻な対立は、非常に根深いものとなっているようだ。その爪あとは、いまだみんなの心に刻まれたままなのだ。
あたしは、ふすま越しにその叫びを重い気持ちで受け止めた。そしてそういった怒りや憎しみ、不安や心配の声にセンジュさんが右往左往するさまも、ふすま越しに想像できた。
フンキュウする会議場、なかでも『山場』と呼ばれる市内でも山側のうち、北の『小山』の長老格、短く刈った白髪に、いつだってジャケットを羽織った、ちょっとダンディーな崎矢間のずさまの声はよく響いた。
ウチのじいちゃんと昔馴染みのずさまは、うちのじいちゃんと違って総入れ歯じゃないから、音も抜けないし、センジュさんが曖昧な言葉を発するたびに毎回しっかり噛みつけるらしい。
紛糾する会議場、なぜだか矢面に立たされているセンジュさんこと――千寿原市さんのたどたどしい返答は蚊の鳴くようだ。
センジュさんとの出会いは運命的だった――。
――悪い意味で、だけど。
それを必然というならきっと、あたしはこの先なんらかのおっきな事故に合うのだろう。きっとそういう運命なのだろう。
あたしはずっと後悔している。あの日、なぜ声を掛けてしまったのか――。
あの時のセンジュさんのひどい恰好。ポロシャツにすり切れたジーンズ、そして履きつぶされた元々は白かったと思われるスニーカー。土気色の顔に無精ひげ。そしてもしゃもしゃの頭。
本人は『地獄の業火』がどうのと言っていたけど、要はうかつな発言でツブヤイターが『えんじょー』したってことらしい。まあ、キッズフォン常備のあたしにすれば、ほんとは良く分かっていないのだけれど……。
なにはともあれ、だ。そんな人が公園で大の字になっていたら、声を掛けるべきじゃあないだろうか? それが人情というものじゃないのだろうか?
だけどそういうトラップもあるのだと、大人はずるい生き物だと知った時にはもう遅い、ってこともあるらしい。良い勉強になりました、で済まないことも世の中にはあるのだ。
自分は弱い生き物です、息も絶え絶えです、って思わせといて、近づいたらガブリだ。気だるそうな奥二重に、だけど一転瞳をギラツかせてガブリだ。
善意に悪意で返すって手口もさまざまで、きっとこれもそんな類のひとつに違いない。世の中には払いすぎたお金を返しますよって優しい言葉で釣って、まんまとお金をだまし取るっていうひどい詐欺もあると聞いた。たしかぱんぷきん詐欺って言ったと思う。
『行っちゃダメよ杏――』あの時、頭の中でふいに響いたおかあちゃんの声。そんな警告も振り切って、勇気を出して声を掛けたっていうのに……。
その結果がつまりはこれだ。子供のあたしは、大人の罠にまんまとはまってしまったのだ。もはや手遅れなのだ。
給湯室に据えられた縦長の鏡。そこに映る姿に、今さらながら泣きたくなる。
今日はあの時ほどではなくとも、相変わらずのもしゃもしゃ頭に、ちょろちょろと無精ひげの伸びたセンジュさん。思惑とは裏派に、なぜだか町内の不満の矛先に立たされている今なら、このひどい惨状を訴えてもあたしは賛同を得られるかもしれない。そんなことを考えてはみたものの、結果なおさらひどい惨状になるであろうセンジュさんを思えば、気も萎えた。
〝災禍〟から九年が経ち、町は町としての機能を取り戻した。とはいえ、過疎なる現実に拍車がかかったのも事実。だからこそ本当の意味での復興はこれからで。
町興しじゃ固すぎる、だから『町可笑し』。なんにしたって遊び心が重要だ。おもしろ可笑しくなくっちゃ、なんだっても長続きしない。町が楽しくなる活動を、おもしろ可笑しく推し進めよう――、センジュさんはそんなふうに語っていた。
だからというかなんというか。センジュさんも実はそんなに悪い人では、って心のどこかで期待しているのかもしれない。でも、それこそが詐欺師の巧妙な手口なのかも、だけど。
何はともあれ、それを思えば、今まさに立派な志が早くも挫かれつつあるセンジュさんに、更なる追い打ちをかけるのはどうかとあたしは思うのだ。
それにセンジュさんもセンジュさんだけど、輪をかけて許せないのは――、繭ちゃん先生だ。
繭ちゃん先生はあの日、授業中にすら見せたことない真剣な表情で訳のわからないことを言っていた。その上、センジュさんと意気投合して、あたしそっちのけであたしのキャラを勝手にネツゾウし始めた。
途中、参考にすべきアニメキャラクターのジェネレーションギャップに雲行きを妖しくしつつも、あたしの髪型は細三つ編みに決定した。
小四の頃からこつこつと伸ばしてきたあたしは当然反対したが、「元気っ子キャラならホントはショートが良かったんだからねっ!」半ば逆ギレのように鼻息を荒くする繭ちゃん先生に、黙らざるを得なかった。
まるで熟練の手さばきで、その場であたしの髪にすきバサミを入れる繭ちゃん先生。程なく完全な細三つ編み設定が完成した。一見、正面からはショートヘアー。だけど腰まで届く三つ編みは、動きを立体的に見せるとかなんとか。二人で無性に感心なんかしている。
「三つ編みの躍動感が見たいから、飛んだり跳ねたりしてみて」
強要される元気っ子キャラにうんざりしているあたしに更なる追い打ち。繭ちゃん先生が瞳を輝かせてこんなことを言った。
「そうだ、鼻絆創膏。鼻絆創膏にチャレンジしましょう」
もはや元気っ子なのか地味っ子なのか分かんなくなりつつも、あたしはそばかすが強調される鼻絆創膏だけは断固拒否した。そばかすに鼻絆創膏じゃモブっ子感も半端ない。
物惜しそうに口を尖らせる繭ちゃん先生は、よけいに幼く見えて。まるで駄々をこねる少女のようだった。
それでも、そんな駄々っ子の見守る前で、復興戦隊 (非公認)メイデンジャーとしての薄暗い第一歩をあたしは踏み出したのであった。
それ以来、クラスでは『先生』、外では『副司令』、学校でもみんなのいない時は『師父』と呼べと強要してくる繭ちゃん先生。なんでも、昼は教師、夜は副司令の裏の顔には、『謎の失われし八極聖拳の美人超師範』としての設定があるとかないとか……。
「――おのれ、繭ちゃん先生め」
あたしがのろいの言葉を吐き出した矢先、
「お茶はまだかの」
催促の声が聞こえた。
「はいっ、ただいまっ」
ふすまを開けた瞬間だった。
「七草さん、私にもお茶よろしくねっ」
繭ちゃん先生が朗らかに言った。
ゲートボールクラブのお歴々と共に畳に安座して、なぜか町内会議、もといオペレーションに参加している繭ちゃん先生。
「な、な、なんで繭ちゃん先生がいるの!?」
泡を食うあたしに、繭ちゃん先生は別段驚いたふうでもなく、
「だって、教え子の活動を見守るのは教師の務めでしょ」
それはそうだけど、他にやるべきことはあるはずだ。教え子の活動を見守るというならば、クラブ活動があるはずだ。繭ちゃん先生はたしか……。
「写真部っ、今日って活動あるんじゃ……繭ちゃん先生顧問でしょ」
繭ちゃん先生はにこりと笑った。
「うん、だから今日は野外撮影にしたのよっ。もちろん個人活動。七草さんの勇姿もしっかり激写してあげるからね♪」
――やめてください、師父……。
あたしのことなどお構いなしに、「お茶菓子もよろしくねっ」繭ちゃん先生はてへぺろった。
お茶とお茶菓子が乗ったお盆を抱えてあたしが小忙しく走り回っているうちに、自然と怒りと不安に満ちた場内がクールダウンしていく。小休憩といったところだろう。するとセンジュさんがそそくさとやってきて、
「助かったよ杏ちゃん。ベストなタイミングだ。〝甘いもの〟で年寄りたちの戦意は沈静化されつつある」
大真面目な顔でそう言った。
会場内は一転して、お茶をすする音と世間話で満ちている。それは確かにあたしがお盆を持って回っている最中から、そうなっていたような気もする。
実を言えば、この不遇にひょっとしたら会場内の人が気付いてくれるかも、なんて少し期待しながら回っていたのだけど。掛けられたのは「偉いね」とか「お手伝いがんばってね」っていう言葉くらいのものだった。
聞けば、不遇の代名詞ともいえるあたしの恰好も、十五年くらい前までは普通に健全な体育着だったらしい。だからここにいる人たちにすれば別に珍しいものではないそうだ。それはそれでなんだかほっとしたような、がっかりしたような……。
おしぼりで額を拭うセンジュさんが、お疲れ気味の笑顔を浮かべた。
「杏ちゃんも一休みしなよ」
センジュさんに言われるがまま端の畳で正座して、お茶をすすっていると、センジュさんより背が高くて短髪の男の人がやってくる。
どこかで見たような気もするけど思い出せないあたしの隣で、お茶をすすっているセンジュさんが声を掛けた。
「よぉ、ヤス。てか、なんでお前ここにいんだ?」
「あのなあ、非番なら来いって誘ったのはお前だろうがハライチ、っと……」
ヤスと呼ばれた男の人が、視線の高いところで首を傾ける。
「あっ、七草杏です」あたしは挨拶した。
「こんにちは、杏ちゃん」
軽く会釈するヤスさん。ポリポリと頭を掻く。短髪といってもボウズ刈りを伸ばしざらしたような、野球少年みたいな頭。よく日に焼けた肌の色がなおさらそう見せた。
そんな姿に、きっと今頃はスポ小の野球チームで清い汗を流す弟の姿を連想する――残念ながらねえちゃんは変な汗をかいているよ。
ヤスさんは少しだけ困ったような顔をして、小さく溜息をつく。
「あのなあ、ハライチ。杏ちゃんの恰好、こりゃいかんだろ」
溜息交じりに聞こえた言葉に、あたしは自分の耳を疑った。まさかこんなところで助けの手が差し伸べられるなんて。
オペレーションの流れを見るに消化試合と諦めていた今日の日の、青天のヘキレキ。だから、あたしはその助け舟に飛び乗るタイミングを逸した。
そんなあたしを置き去りに、センジュさんが噛みつく。
「これはれっきとした復興戦隊の正装だ。お前に文句を言われる筋合いはねえぞっ」
「って、ブルマーはないだろ。児童ポルノ法に抵触しちゃうだろ。俺は俺で、職務上見過ごせないだろ」
「ブルマーが法律違反なんて聞いたことねえぞっ、なら、なんなら良いってんだ」
「そんなもん決まってんだろ、スパッツだ! スパッツの一点押しだっ‼」
「何が職務上だっ! そりゃお前の趣味だろが! お前の趣味なんか知るかっ‼」
「スパッツだっ‼」
「ブルマーだっ‼」
スパッツ派とぶるまー派の不毛なやりとりに、あたしは乗り遅れた便が自分の求めていたものと違ったことを知る。なるべく速やかにフェードアウトしようとしていると、食い入るように二人が顔を近づけてきた。
「「杏ちゃんはどう思う!?」」
正座していたは、畳の端。後方に広がるは薄茶の砂壁。触れた後頭部から脆い壁が砂となって崩れていく。退路はない。
震える声で、それでも覚悟を決めて、告げた。
「が、学校の指定でもあるし、ハーパンがいいと思います」
仁王立ちしていた良い大人二人は、バツが悪そうに宙で視線を泳がせる。
それでもなお、負けを認めない子供みたいに、捨て台詞めいた言葉を吐くセンジュさん。
「だいたい気安く杏ちゃんなんて声をかけて失礼じゃないか? 復興戦隊たる杏隊員に」
自分だってそう呼ぶくせに――、思いつつも面倒なので無言で通す。あたしとしては、これ以上の巻き込み事故は正直ゴメンこうむりたい。
「ああ、いつかお前が言ってたメイデンジャーってやつか。ときにお前、それって『アイアン・メイデン』のメイデンじゃないだろうな?」
「そ、そんなわけないだろ」
『アイアン・メイデン』が何を意味するのか、アイアンが『鉄』って意味くらいしかあたしには分からなかったけど、はた目にもセンジュさんの旗色は悪くなっていた。
勢いでごまかそうとでもするように、身振り手振りも大げさにセンジュさんは喚き散らす。
「メ、メイデンは、明香里電鉄の略称、明電から取ってんだっ、お前には聞こえないのか!? 町興しの礎たるあの滑車の響きが。そしてお前には見えないのか!? 明電に乗って復興というキャンペーン活動に奔走するメイデンジャーの勇姿が。それに、それにあれだ、メイデンジャー……パン……メイドインジャパーンだ。大和魂だ大和魂。日本人の繊細で大胆な感性によるモノづくりの匠としての心意気をっ、若者にも受け継ぐっていう大義がお前には感じ取れねぇのか!? この小者がっ! メイデンジャーは明香里市はおろか、果てはこの国のキャンペーン活動にまで従事する覚悟ぞっ‼」
「なに言ってんだお前。それで、その杏ちゃんはメイデンジャー――」
あたしの姿をちらと眺めるヤスさん。紺色のジャージ、そしてその下の赤色を見留めて、
「――レッド、ってわけか?」
「違う‼」
もはや、ヤスさんの額面通り受け取るなんてもってのほかと言わんばかり。駄々っ子みたいに否定するセンジュさん。だけどきっと根拠なんて何もないはずだ。
「か、彼女は……」
やっぱり何も出てこない。じっくりと過ぎ去った時間のあとで、負け惜しみみたいに蚊の鳴くような声で言った。
「……メイデンジャー……アプリだ」
「アプリって……杏……アプリコットの、アプリ――か?」
呆然と呟くヤスさん。そして再び口を開きかけた時、センジュさんが爆発した。
「杏ちゃんっ‼」
それはおそらく、これから始まるであろうヤスさんの突っ込みの数々を制すための悪あがき。だけど反射的にあたしに行動を起こさせるには十分だった。
弾かれるように立ち上がったあたし。センジュさんの突如上げた奇声に周囲の目が釘付けになる。
その時。
「ねえちゃんいますかあ?」
集会場の玄関の方から、少年の――弟のウメの声が聞こえた。だけど、無慈悲にもセンジュさんはその言葉を告げた。
「メイデンジャー・アプリです」
哀れみにも似たまばらな拍手。そして激写する繭ちゃん先生。
スポ小の野球チームのユニフォームを着たウメと目が合う。ウメがさめざめと言った。
「……ねえちゃんも大変だな」