02 《杏》
空は快晴。学校の裏門を抜けた先に延びる階段を、軽い足取りでステップ。
脇に敷き詰められたマリーゴールドの花々は、一番高くに昇り始めた太陽の光を浴びて、歌っているかのよう。
半袖でもいいくらいのポカポカ陽気に、風は穏やか。黄色の花びらが優しく揺れる。爽やかにそよぐ風にまじるのは、潮の香り。それに気がついて、近づきつつある夏にあたしの心はウキウキし始める。
階段を降り切って、オレンジ色の花びらにとまるてんとう虫をあたしが眺めていると、
「おまたせー」
声が聞こえた。
あたしが振り返った先で、李子ちゃんが階段をとことこと駆け降りてきた。
メガネの下の柔らかくていつも微笑んでいるような瞳と、少しだけ危なっかしく見える女の子走り。それを見てるだけであたしは、うなーってなっちゃう。
「ごめんね杏ちゃん、遅くなっちゃって」
息も切れ切れの李子ちゃん。掃除当番の仕事を済ませて、李子ちゃんなりの全力疾走で駆けつけてくれたことに、あたしはまた、うなーってなっちゃった。
「全然だいじょぶだよっ。それより李子ちゃんのこと急がせちゃったみたいで、かえって悪い気がするなあ」
あたしがセーラータイについたチョークの粉を払ってあげると、李子ちゃんは照れたように微笑む。それを見ていたら、あたしも自然に笑顔になった。
「行こっ」
「うんっ」李子ちゃんの声に、あたしは弾む声で返す。眩しいお日様目指して、てんとう虫も飛び立っていった。
今日は土曜日、そして午前中で授業も終わり。
そしてなによりピアノのお稽古が夜からの李子ちゃんとは夕方まで遊べる。あたしはもうウキウキしまくりで、小五以来のスキップでもくりだしちゃいそう。あたしの背中では、三つ編みにした髪の毛が興奮した犬のしっぽみたいに揺れていたことだろう。
それに気づいたように、李子ちゃんが言った。
「そのヘアースタイル、もう杏ちゃんの定番になったね」
あたしはうっ、と言葉を一瞬詰まらせたあとで、口を尖らせた。
「だってこの髪型で行かないと怒るんだよ、繭ちゃん先生。しかも本気で」
中学生らしい思春期特有のチャレンジ精神。生徒が髪の色を少し染めてきただとか、少しパーマをかけてきただとか。本当なら非行の予防に努めなければならないはずのウチの担任の先生は、そういうことには寛容なくせに、あたしのパッと見ボーイッシュ風スタイルの維持にだけは厳しいのだ。
確かにおしとやかには程遠いかもしれないけど、せっかく小四の頃からコツコツと伸ばしてきたっていうのに……。
そんなわけで中学入学から早二か月、デビューらしいデビューも果たせないままあたしのキャラクターは着実に定着しつつある。
「で、でも、ほら杏ちゃんによく似合ってるし」
なんともいえない微妙な笑顔を取り繕う李子ちゃん。
だけど、そんなでもやっぱり李子ちゃんは可愛くて。
栗色でサラサラのボブヘアーがよく似合ってるし、肩掛けのカバンに自然に添えられた両手もなんだか女の子らしい。
そんな李子ちゃんの天使な笑顔と初夏の匂いに背中を押されて、
「李子ちゃん、今年の夏は海に行こうよっ」
あたしの口からは自然と言葉が転がり出る。
李子ちゃんはちょっとだけ困ったような顔をしながら、
「わたしあんまり泳げないからなぁ……でも、杏ちゃんと一緒ならいいよ」
ちょっとうつむき加減ではにかむ。
揺れる栗色の髪の毛。その下からのぞく上目づかいな瞳と、あたしの瞳が重なる。瞬間、あたしはズキューンときた。
背なんてあたしより高いのに、引っ込み思案で守ってあげたくなっちゃうそんな少女の雰囲気。開校三十年変わらない野暮ったい制服だって、李子ちゃんが着てるとなんだか清楚にすら感じられる。
ああ、あたしのなれなかった本物の『女の子』がここにいる。これこそじいちゃんのいうところのガンプクだ。李子ちゃんの水着姿というガンプク予定まで押さえた上に、今日も今日とて目の保養をたっぷりとさせてもらおう、そんなことを一人考えていたら、
「あっ、そうだ」
李子ちゃんが何か思い出したらしい。薄茶色をしたプラスチックフレームのメガネの奥で、それよりも濃いくりとした瞳を輝かせる。
長いまつげのパッチリした瞳に、ちょっとだけ下がりぎみの眉尻が今日も愛らしいな――なんて見とれているあたしへと、李子ちゃんが元気に言った。
「見たよっ、杏ちゃん」
普段は物静かで、だけどホントは表情豊かな素の李子ちゃん。李子ちゃんと二人っきりだけの特権に、あたしは内心でニヘら笑いを浮かべていた。
だから、あたしにはその見たが、最初何を意味してるのか分からなかった。やがて遅れてやってきた理性がそれを思い当たらせては、おのずと一歩分、李子ちゃんから体が離れた。
――これが後ずさるってことなんだね……。
客観的に納得した後で、今度は、一瞬どころか、しばらくの間声を出すこともできなかった。鯉のように口をパクパクと開け閉めするだけで。
そして何より、あたしはどんな顔をしていただろう? ただ、耳たぶまで熱くなったのは覚えてる。
「ど、ど、ど、どうして李子ちゃんが知ってるの!?」
それがあたしのやっとのことでの第一声だった。
きょとんしたままで李子ちゃんは、
「だってセンジュさんが宣伝してたよ、ツブヤイタ―で」
カバンのポケットから、ビーズアクセサリーとシリーズもののマスコットキャラクター、犬っこ少女なペコピンちゃんのストラップのついたスマートフォンを持ち上げて見せた。
そこに防犯用のキッズフォンを持たされている身としては、中学校という小さな社会における格差を見せつけられているようで。あたしはまた後ずさりしそうになる。
『ツブヤイター』のことは知ってはいた。短い文章を発信できるツールらしく、それで『お店』の宣伝をしたりしている――、と『あの人』は言っていた。
でも、まさかお店以外のことまで宣伝してたなんて。だけどそれにしたって……
「なんであたしって分かったの!?」
今度は李子ちゃんが後ずさる。
「だって……どこからどう見ても杏ちゃんだったよ」
目の前の李子ちゃんの顔が回って見えた。世界がぐるぐる。頭の中がぐるぐるぐるー。だからあたしは「あははははー」ってなった。それも半笑いで。
ちょっと怯えた表情の李子ちゃんが言った。
「杏ちゃん、映像確認しなかったの?」
あたしはなんだか泣けてきて。
「だってだって、恥ずかしかったんだよ。確認なんてできないよ。それにちゃんとあたしだって分かんないように編集しておくって言ってたんだよ、あの人っ! そばかすとかシージー処理で消しとくってぇ」
「……消えてなかったよ、そばかす。で、でも、杏ちゃんが気にするほど元から目立ってるってわけでもないし」
「じゃあ顔は全部映っちゃってたの!?」
わずかの沈黙。そして、消え入りそうな声で李子ちゃんが言った。
「……目に、モザイクは掛かってたよ」
――いかがわしいヤツだ、完全にいかがわしいDVD的なヤツだ。
片田舎の漁師町であたしが途方に暮れたまさにその瞬間、あまり上手じゃない愛想笑いを浮かべて『あの人』はやってきた。