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16 《杏》

 

 まるでアリとゾウの戦いだった。


 西の空から低い軌道でやってきた戦闘機は、飛行機雲をたなびかせ、文化ホールを揺らした。

 そのたびにガラスは震え、懸垂幕や立て看板も震わせた。色とりどりの風船たちは、まるで糸の絡まった凧みたいに宙で回り続けていた。


 遠くの空に映った怪獣は、北中の校舎ほどに見えたけど、今やひとつの大きな山ほどもある。

 小六の時おかあちゃんに連れられて初めて登った、すそ野を隣県に広げる寅神山地の一角、寅池峰山とらちねさん。それすら子供に思えるくらいに、そびえ立つ白の絶景。それが現在の怪獣の姿だった。


 怪獣に比例するとゴマ粒ほどの大きさでしかない戦闘機は、次々とミサイルを発射した。

 だけど発射されたミサイルは、怪獣の身体に触れることもなく、現れた六角形の発光と共に、文字通り消えていった。ロケット花火のような発射音は聞こえても、対象に命中した爆発音は一度も聞こえなかった。

 やがて怪獣は赤い竜巻を吐き出して戦闘機を残らず撃退した。


 あたしたちは、あたしたちの国を守る軍隊が成すすべもなく倒されるさまを、目に焼き付ける。

 それはまぎれもなく絶望の始まり。あの怪獣がどこからもたらされた敵なのかは分からないし、今がどういう状況なのかも分からない。だけど、今まさにあたしたちの国が危機に瀕していることは十分すぎるほどに理解できた。

〝災禍〟の出現は予兆もなく。だが九年前の〝災禍〟も突然に発生し、そして多くの命を犠牲にした。非常時の対策は耳にタコができるくらい聞かされてきたし、どう行動すべきかも練習してきた。

 なのに本当の脅威を目の前にした時、あたしたちは抵抗する手段も見いだせずにただ空を見上げることしか出来なかった。


 よちよち歩きの怪獣は、必死に明香里市内を目指して進み続ける。

 巨大な入道雲みたいに明香里市を大きな影が包んだとき、この国の、本土上空へとその巨体が辿り着いたとき、あたしたちの上空で白銀色の輝きが出現する。発光するそれは五つの人のかたちをしていた。 

 顔をすっぽり覆ったヘルメットと全身にタイツみたいに張り付いた服のせいで、何者なのかは分からない。だけど全員が同じ背格好をしていた。

 全身を白銀色に光り輝かせながらの出現は、天使の降臨にも似ていた。空中で静止する天使たち、その足元にはさっき怪獣の目前に発生した六角形が淡白く輝いていた。

 と、次の瞬間、天使たちの姿が消える。飛んだのでも、跳ねたのでもなく文字通り消えた。

 巡らせた視線の先で見つけたとき、天使たちは完全な瞬間移動を果たしていた。

 そして数十メートルの距離を置いて怪獣と向き合う。


 先に動いたのは天使たちだった。

 背中に張り付いたバックパックから左右の手で銃らしきものを引き抜くと、怪獣目がけて発射した。

 高速で放たれる銀色の瞬きが、出現した六角形をズタズタに切り裂いていく。切り裂かれるそばから、内側に発生する発光、それがついには六角形を形成する間もなくなる。それに守られていた怪獣のからだへと辿り着いた銀の瞬きは、その真っ白な体表をも切り裂いていく。


 血を流すでもなく、山のような巨体から弾ける白い羽毛。もぎ取られて舞い散るさまは、まるで綿菓子で出来てるんじゃないかと思わせるほどの軽さともろさ。

 でも、からだの一部を弾けさせながらも怪獣は原型を留め続ける。それはからだの先っちょを削られたといった程度のダメージにしか映らなかった。

 怪獣がさっきと同じ、愛らしい遠吠えを上げた。

 発生した竜巻は、天使たちの肉体に触れられずに消えていく。

 その最中。怪獣の綿菓子みたいに弾け飛んだ白いからだは、でも綿菓子を作るくらいの手軽さで塞がれていく。


 弾け飛ぶそばから白いふわふわを再形成していく怪獣と、効果的にも決定打に欠ける波状攻撃を展開する天使たち。同じ攻防と展開は、実力の拮抗した者同士の試合や対局だとかみたいな……。

 それでも、怪獣はその間、一度だって動かす手足を止めるようなことはしなかった。戦闘中も小休憩なしで動き続けたよちよち歩きは、ついにこの文化ホールまで数キロのところまで近づいていた。

 その全形はまさに夏空にふいにわいた入道雲みたいで、端っこなんて見えない。この近距離だと顔の造形も分からなくなって、愛らしさなんてちっとも感じられない。それはつまり、その恐怖の度合いも増したということだった。


 現実的な恐怖はもっとシュールで笑けちまったりするもんだ――、そんなことを言っていたのは誰だったろう? 


 あたしはぼやけた思考のまま、ただ恐怖に震えていた。

 そんなあたしに気を使ってくれたわけではないだろうけど、天使たちが局面を動かした。

 規則正しい調和された動きから、不協和音みたいにちぐはぐな攻撃へと変化する。それはいい意味で相手の予想を裏切るバラバラで個人優先的な動きだったけど、悪い意味でさっきまでの詰将棋だとかの洗練された動きではなかった。

 たぶん、戦略的には不意打ちに近いものだろう。


 だけど――それは悪い意味で戦局を一気に変えた。


 四方八方から不規則な攻撃を仕掛ける天使たち。リズムも距離もてんでんばらばらに。一見、みんな別々の方向を向いて、別々の行動をとっているかに見える。

 でも実際には、怪獣の周囲を守る六角形の盾みたいな発光、その傷口の広がりを全員が目で確認するでもなく把握して、時に適切な集中砲火を見舞っているのは分かった。もはやアイコンタクトなんかの域を超えた、テレパシーとでも呼んだ方が良いような連携プレイ。

 やがて怪獣の右斜め下側の何層もの六角形が修復不能なまでに切り裂かれたとき、怪獣の死角となるはずの後方にいた一人の天使の姿が消えた。

 さっきも見せた、人ならぬ者の力の行使――瞬間移動。

 時同じく、切り裂かれた六角形のあった場所にはすでに結晶化した棒状の物が存在していた。赤錆まみれの鉄骨みたいな、それなりの言葉で言うなら『槍』のようなモノが。


 天使の行動に示し合わせて怪獣が発動させたんだ――と、直感した。悪い予感がした。

 それもまた無から形あるものを出現させるような、創造とか召喚とかいった類の力。


 一瞬の間の後で、空間から消えた天使は――『そこ』に出現する。怪獣が文字通り、槍を置いたその場所へ。

 創り出すや発射させるでもなくただそこに存在していただけの槍。瞬間移動した天使は出現すると同時に、槍に貫かれた。

 そして地面へと落ちてゆく。痛みも苦しみも感じる間も与えられずに、落ちてゆく。


 あたしは息が詰まった。

 ぺたりと地面に何か落ちる音が聞こえた。イメージが天使の最後の姿と重なる。

 だけどそれはあたしの後ろから聞こえた。

 あたしの振り返った先で、腰の抜けた李子ちゃんが座り込んで涙を流していた。

 棗ちゃんは呆然と立ち尽くしていた。

 あたしの視界がぼやける。息苦しさがひどくなる。頭はぐらぐらして、地に足がついていないようだった。

 それが、顔がぐしゃぐしゃになる程の涙と鼻水のせいだって、そのときあたしには理解できていなかった。

 なのに、あたしはそんなひどい顔のままで笑おうとした。こんな時だからか、こんなことになってしまったからなのか。その衝動が、李子ちゃんたちに精一杯の強がりを見せたかったからなのか、笑ってしまえば悪い夢が晴れると思ったのかも分からない。だからきっと媚びへつらったような笑みになっていたことだろう。上手く笑えていればいいな、って思えたさっきまでが遠い彼方のようだった。


「あっ……」喉の奥まで乾ききったような声を辛うじて上げたのは、棗ちゃんだった。そのか細い声が、あたしの酷い顔に向けてでないのは、宙に釘付けの視線から分かった。

 あたしは急いで振り返る。


 まるでカゲロウみたいに頼りなく、空をさまよう天使。右胸を貫かれたまま、文化ホールまでふらりふらりと降下してくる。

 神様の加護を受けたみたいに白銀にまたたきながらも、全身に時々走る紫色のラインが、手術室の心電図にも見えて不吉だった。


 やがて、天使はあたしたちの目と鼻の先ほどの国道、そのコンクリートに倒れこんだ。

 あたしは初めて天使の顔を見た。

 だけどそこには表情はおろか、顔を構成するパーツ自体がなかった。

 のっぺらぼうみたいなそれは、ヘルメットというよりゴム風船にでも顔を押し付けているかのよう。それじゃ助けの声を上げることなんて、出来るはずもない。


 駆け寄ろうと、あたしはおぼつかない足取りで一歩目を踏み出す。

 その時だった。


 天使は自分を貫く槍へと右手を添えた。瞬間、怪獣がミサイルを消失させたあの六角形の発光がほとばしった。槍は影も形もなく消え失せる。

 残されたのは右胸にぽっかりと開いた穴。白銀に輝く服の穴の部分に紫色のラインが集中すると、自ら修復作業をするように、生地と生地が繋ぎあわされて穴が塞がれる。

 でも、のっぺらぼうのヘルメット越しで表情を読み取れなかったとしたって、天使の負った傷が深刻なのは一目瞭然だった。


 荒い呼吸を続けるように、倒れこんだままで激しく身体を上下に動かす天使。それが女性であることにあたしは気づく。

 細いからだの線と膨らみかけの胸。発達具合はあたしたちとそうは変わらないようにも見えた。

 あたしは駆け寄ろうとした――だけど、出来なかった。

 それは怪獣の目を見てしまったからだった。


 すでに文化ホールの上空近くへとその全形を現した怪獣。とはいえまだ一キロ以上は離れているだろうに、文化ホールですら片足で踏みつぶせそうなその巨体は、もう間近に映る。

 北中の校舎すらひとくちで飲み込めそうなWの形をした口と、感情のかけらもないまあるい瞳。広がる白の中で、離れすぎてひとつしか見えないルビー色がこっちを見つめていた。

 ただ、怪獣はそこにあたしたちを見つけた。それだけだった。

 息も絶え絶え地面に這うアリと、そこに群がるあたしたちという三人のアリ。理由なんてきっとないのだろう。しいて言うなら、そこに見つけたから、というそれだけでアリの巣ごと破壊にかかる。

 怪獣の周りに、あの鉄屑みたいに赤錆に覆われた槍が出現する。

 七本までは数えられた。でもそんなことどうでも良いことだった。数えるのが意味ないくらい、視界を埋めつくした槍がその刃先をこちらに向けていた。


 天使たちは背後から集中砲火を浴びせていたが、怪獣は見向きもしない。天使たちの弾丸が怪獣の盾を貫くことはなかった。

 興味、なんてものもないだろう。だけど怪獣はじっとあたしたちの方だけ見ていた。そして別になんの動作をするでもなく、槍を放った。

 間際、国道に這っていた天使の姿が空間に紛れるようにして消えていった。おそらくさっきと同じ方法で瞬間移動したのだろう。

 彼女は無事に離脱した。

 が、あたしたちにはこの場から逃れる方法なんてない。


「伏せてっ‼」叫びながら、頭を抱えて転がった。

 

 頭上で風切音。わずかの間も置くことなく四方八方で弾ける轟音。

 あたしは息を殺してその時をじっと待つ。音が止むのを。それしかできない。巻き起こる砂煙の中、思考なんてどこかに忘れてきたみたいに、胎児のように身を縮こませてただその時が来るのを待つことしか出ない。

 逆らうことなんて許されない純粋な暴力。炸裂する音に、空気が、大地が震える。地鳴りのように。


 どれくらい時間がたったのかも分からない。間隔は麻痺していた。耳の奥にこびりついた雑音に、勘違いかもしれないと思った。それでも、通り過ぎた地獄を確認するためにまぶたを開く。いつの間にか破壊の嵐は止んでいた。

 訪れた静寂に慌ただしく息を吸い込んだら、勢いよく砂埃が口の中に飛び込んできた。


「李子ちゃんっ‼ 棗ちゃんっ‼」


 砂煙の中、顔を上げる。辺りを探す。

 腰が抜けた状態で頭を押さえる李子ちゃんと、地面に突っ伏した棗ちゃんの姿を見つけた。

ほっとするのも束の間、あたしの中で何かが引っかかる。

 それは周囲を覆った不自然さ。あれだけの破壊の音にも関わらず、文化ホールや周囲の建造物、信号機や電信柱なんかにさしたる被害はなかった。

 それでも確かに槍はそこかしこに突き刺さっている。まさしくそれはただの槍で、突き刺す以外に使えないものだというなら、取りあえずの危機は脱したはずだ。

 だけど、この槍は確か……。

 

 異変が生じた。

 文化ホールを貫く槍の一部が、建物の一部と混じり合う。その部分からホールの壁は見る間に錆びて、ボロボロと剥がれ落ちていく。

 悲鳴にも似た、何かがきしむ音が響き渡った。

 コンクリート地の部分を残し、鉄だとかシンチュウだとかの部分が見る見る赤錆に塗れて崩れていくさまは、廃墟の成り立ちを早送りで見せられているような。

 間もなくしてそれはやってきた。完全なる崩壊の瞬間が……。


「逃げてっ‼」あたしは声の限り叫んだ。でもそれは死にゆく建造物、その断末魔に掻き消される。


 ガラスは砕け、建物を繋ぐボルトだとかナットだとかだったモノ、その残骸が弾け飛ぶ。

 その訪れを報せるように、色鮮やかな風船たちは空に飛び立ち、懸垂幕が空を舞った。

 急かされるように、次々と看板が倒れていく。


 あたしは呆然と見つめていた。モヤのように覆った砂煙の合間にのぞく、それを。

 確かにそれは、あたしたちがさっきまで一緒にいたはずの文化ホールだった。だけど今は、辛うじてそれがそうだったと思えるだけのコンクリートの廃墟と化していた。


 その光景は、あたしが小さい頃に見たもの。記憶を風化させないために、海岸沿いの先の南地区に今もわずかに残っているもの。授業の資料写真にはっきりと映し出されたもの……。


 鮮明な悪夢――〝災禍〟の爪あと。


「李子ちゃん……棗ちゃん……」繰り返しながら、あたしは再び舞った砂煙の中に足を踏み出す。背中に張り付いたひやりとしたものに急かされながら、でも足は思うように動かない。


 幼いころの、断片的に残る九年前の記憶と重なる――すべてが失われて、ガレキだけが残った町を同じように歩いていた人たち……誰かの名前を繰り返し、誰かを探して歩いていた人たち……。


 激しくなる鼓動に、だけど真っ白になった頭は何を考えることも出来ない。あたしは子どもみたいに泣きながら灰色の大地を歩く。


「――杏、ちゃん」


 消え入りそうな声に、慌てて振り向く。はらはらと降り注ぐ砂とチリの合間に、青ざめた李子ちゃんを見つけた。

 あたしは力ない足取りで駆け寄る。

「李子ちゃん、李子ちゃん」座り込んだままの李子ちゃんを抱きしめた。涙と鼻水で李子ちゃんのせっかくの衣装が台無しになるのも構わず、あたしは何度もその名前を繰り返す。

 腰が抜けた李子ちゃんは下手に動かなかったおかげで、破片の被害にも、崩れた壁や看板の下敷にならずに済んだらしい。

 でも、それなら……。はっとしてあたしは顔を上げた。


「李子ちゃん、棗ちゃんは?」


 李子ちゃんは言葉もなく、ゆっくりと人差し指を伸ばした。

 あたしはその指し示す方を見つめた。砂煙が治まり始めたガレキの大地。陽光を反射する砕け散ったガラスの破片。折り重なる立て看板、倒れざまにつかまえた懸垂幕の端がその下からのぞく。


 そしてあたしも見つけた――折り重なる立て看板の下敷になっている棗ちゃんを。

 李子ちゃんのいる場所からは、数メートルしか離れていなかった。


「棗ちゃんっ‼」李子ちゃんを抱き上げながら、あたしは駆け寄った。


「……七草、さん」懸垂幕に包まれて身動き取れないままで棗ちゃんは呟いたけど、その声に力はない。おでこからは血が流れていた。


 李子ちゃんが、再び腰が抜けるようにペタンと地面に座り込む。

 だけど、それは――


「今助けるから、天羽さん、いま助けるから」


 李子ちゃんはその細い腕で立て看板を持ち上げようとする。瞳には決意にも似た強い色が灯っていた。


 あたしは頷いて李子ちゃんの隣に腰を下ろそうとする。だけど視線に気が付いて、空へと向き直した。

 砂煙が止み、元々広がっていた青空を陰らせて。まるでそれを待っていたとでもいうように、あたしたちの無駄な足掻きを眺めていたとでもいうように、怪獣はそこにいた。

 今までどんな時もその歩みを止めることなんてなかったくせに、小休止と言わんばかりに羽を伸ばしている。やはり背後の天使たちの攻撃になんて振り返る素振りもない。感情もないルビー色、その瞳はぼんやりとあたしたちを見ていた。

 そして当たり前のように赤錆色の槍を並べる。


 瞬間――あたしの中で何かが弾けた。


「あたしはっ、あたしの友達をいじめるヤツを絶対に許さないっ‼」


 正当であれ逆ギレであれ、あたしの中で、何かはとにかく弾けた。

 

『行っちゃダメよ杏……杏、あなたまで行かないで――』おかあちゃんの声が聞こえた気がした。

 その声はとても悲しげで、苦しそうだった。

 

 けれど。

 

 ――おかあちゃんゴメン。それでもあたしは友達を傷つけるヤツを絶対に許せない。

 

 おかあちゃんの声を置き去りにあたしは駆けた。


「ぅなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 恐怖でしかなかったルビー色を見据えて、あたしは両手を広げた。

 もちろんそれで相手が怯むことなんてなくて、槍は当然飛んできた。でもそんなこと分かっていたことだ。


 あたしはここだ――躍り出たマト、ただ一人あたしだけを射てくれることを、願った。


「杏ちゃんっ‼」


 後ろに李子ちゃんの声が聞こえる。どうせならもう一度、李子ちゃんの笑顔が見たかったけれど――李子ちゃんの笑顔が世界から消えてしまうくらいなら。


 だから、あたしは振り返らない。迫りくる槍をじっと見つめた。

 たばとなり、一本の巨大な柱となったかのような赤錆色の槍。それが迫りくる姿は、まるで特急で駆けてくる急行列車のようだ。でも列車にはとんと縁のないあたしが連想したのは、今日もお世話になった明電の方だった。

 目の間へと迫る槍を前に、身を投げ出したあたしは、メイデンというフレーズに、なんとなくあの人を思い出す。


 ――センジュさん、もう人に迷惑かけちゃダメだよ……。


 最後の瞬間に思い出すのがセンジュさんのことっていうのはどうかも、って思うけど。それはそれで良かったのかもしれない。脳裏によぎった、いつだって爪の甘い社会の先輩。その緊張感とは縁のない緩い顔に、あたしは最後の恐怖も放り捨てた。


 赤錆色の柱に呑みこまれる瞬間、あたしの世界は真っ白になった。

 それが最後の光景だった。


 でも、あたしは恐怖に目をつむったわけでも、ましてや意識を失ったわけでもなかった。

 あたしの視界を遮ったのは――ただひとつの影。

 

 そして。


 あまたの槍はあたしの目の前で消え失せた。避けたのでもなく、弾け飛んだのでもない。槍は、まさにあの天使たちみたいに姿を消したのだ。

 あたしはどこか他人事のように見つめていた。


 あたしの前にはただ、黄金色に輝く、釣り鐘の形をした物体が浮かんでいるだけだった。



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