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14 《杏》

 

 市民音楽コンクール中学年の部は、お昼を少しだけ押して終了した。


 午後からの高学年の部に向けて、撤収作業に慌ただしくなるホール二階にある第一控室。あたしが訪れた時、やっぱり李子ちゃんは浮かない顔をしていた。そばに立つ李子ちゃんのお母さんも浮かない顔をしていたけど、それ以上にそわそわして見えた。


 李子ちゃんのお母さんは、理想のお母さんって感じでウチのおかあちゃんとは大違いだ。

 出稼ぎから帰ってくるにつれ、旅行先で売ってるような木刀なんかを年頃の娘のお土産に買ってくる、少しずれたウチのおかあちゃん。帰ってきても母親らしいことなんてなんにもしなくって、喧嘩した腹いせにじいちゃんの入れ歯を隠せとか、無茶ぶりばかりのウチのおかあちゃん。

 基本化粧っ気のないウチのおかあちゃんと違って、いつ遊びに行っても李子ちゃんのお母さんは綺麗で優しくて、手作りのお菓子なんかもパーフェクト。母娘というより姉妹みたいにいつだって仲良しの二人を、あたしは正直うらやましいって思っていたりしていた。


 一応の挨拶はしてくれたものの、私物の片付けをわざわざ言葉にしながら、李子ちゃんのお母さんはせわしなく動き回っていた。そうしていれば探し物が、李子ちゃんにかける言葉が、見つかるかもしれないから――そんなふうにあたしには見えた。


 結局、李子ちゃんは失敗した。


 曲の始まりこそいつも通りの演奏だったけど、中盤以降たどたどしくなる演奏は、やがて玉止めのビーズが弾けるように、散り散りになった。

 素人のあたしにも分かるくらいだから、きっと李子ちゃんはすごく辛かったはずだ。あたしは必死に祈ったけど、それが天に届けられることはなかった。修正も効かないまま奏でられるピアノ。それは見ている側の心まで痛々しくなる光景だった。

 それでも李子ちゃんは下唇をぎゅっと噛みしめて、弾き続ける。だからあたしは最後まで見届けた。

 最後の一音がその余韻を残して静かに消えた。

 立ち上がった李子ちゃんがぺこりとお辞儀すると、会場から拍手が起こる。それは感動とは程遠かったかもしれない。だけど温かい拍手だった。


 控室でせわしなく動き回るお母さんと、立ちつくすあたし。

 互いに李子ちゃんへとかけるべき言葉を探すあたしたちを無視して、あっさり声をかけたのはもはや当たり前のように心音ちゃんだった。


「柏木さん、お互いに残念でしたね、今回はぁ」


 第二控室からわざわざやってきた心音ちゃん。バラの国からやってきたお姫様みたいなそのドレス。裾を広げた大輪のフリルの花びらが撤収作業の邪魔をしているのもお構いなしに、続けた。


「今回はコロネも三位止まりですよぉ。トロフィーの小ささったらないなぁ」


 溜息交じりに入賞のトロフィーを軽く掲げて見せる。

 そこに遅れてやってきた曲輪ちゃんはやっぱり面倒くさそうな顔をしていて、棗ちゃんは苦い表情を浮かべていた。


 あまりに悪びれもなく発せられた言葉に、李子ちゃんのお母さんは混乱しているようだった。

 一見励ましに来てくれた友達を叱りつけるのはどうか、なまじ冷静に現実を理解できるだけに正解の対応を探すのも一苦労。大人ってやっぱり難しい。

 だけど子どものあたしは単純にカチンときた。感情に任せてそのカチンを言葉に乗せようとした。

 でも、その瞬間に口を開きかけたあたしを制したのは、他の誰でもない李子ちゃんだった。あたしのセーラー服の袖を握る。

 振り返るあたし。その目に飛び込んできたのは、


「今日は頑張りたかったのになぁ」


 遠くに想いを馳せるような李子ちゃんの顔だった。

 目じりに少し光るものがあったけど、李子ちゃんは心音ちゃんの顔を真っ直ぐ見据えると、


「うんっ、次はお互いにいい結果が出せるように頑張ろうね」


 にこりと笑った。


「……別にぃ……コロネはぁ、頑張らなくたって……結果をだせるもん」


 ぼそぼそ呟く心音ちゃんは、本当にバラの国の住人になったみたいにちっちゃく見えた。


 撤収作業のざわめきに、あたしたちの周りだけ不穏な空気。それを察してくれたわけでもないだろうけど、曲輪ちゃんが面倒臭そうに口を開いた。


「コロネぇ、ナツぅ、もう帰ろうよ。お腹空いたし」


 あたしはその救いの一言にはっとする。そして内心で慌てた。元気っ子キャラには必須の腹ペコ属性を繭ちゃん先生に報せるべく――、頭の中で慌ててメモを取る。


「そ、そぉね」歯切れの悪さを覗かせつつ、さっさと踵を返した曲輪ちゃんの後を心音ちゃんが追っかける。

 二人に倣おうとした棗ちゃんを、李子ちゃんが呼び止めた。


「あのっ、天羽さんちょっといいですか?」


 李子ちゃんにすれば相当に勇気のいることだったのだろう。声は震えていたし、頬まで真っ赤にしている。

 棗ちゃんは、振り返りかけた二人に先に行ってもらえるよう伝えた。

 李子ちゃんは、真っ直ぐにお母さんの顔を見つめた。


「あのね、おかあさん、やっぱり今日の演奏、先生に見てもらおうと思うんだ」


 李子ちゃんのお母さんはちょっとびっくりした顔で、目を白黒させる。

 くるりと向きを変えた李子ちゃんは白い歯を覗かせて、あたしと棗ちゃんを見た。


「わたし、ほんとは途中で諦めようかと思ったんだ。でも、杏ちゃんと天羽さんの言葉に勇気をもらって、最後まで演奏できました。ありがとうございましたっ」


 そして見てるこっちがドギマギするくらい、深々とお辞儀した。

 あたしと棗ちゃんは、李子ちゃんが顔を上げるまで、ただ静かに待った。

 はにかむような李子ちゃんの笑顔。栗色の髪が揺れる。それは穏やかな風が控室の中を通り抜けていったよな。

 あたしはいつの間にか微笑んでいた。そして多分、棗ちゃんも。


「ごめんね、おかあさん。ひどい演奏だったけど……でも最後まで投げ出さずにやれたってことを、どうしても先生に伝えたいの」


 李子ちゃんはお母さんにはっきりと伝えた。

 演奏は確かに失敗だった。だけど終わりじゃない。きっと李子ちゃんは今回のことで、上手に弾くこと以上の何かを学んだのだ。そしてそれは、十分すぎるほどに伝わった。李子ちゃんのお母さんは微笑んで、頷いた。


「あの、柏木さん……」棗ちゃんが呟く。薄くて小さな唇、そして俯いたまつ毛。あたしに向ける牙なんて全部抜け落ちたような儚さで。


「……柏木さんの演奏、途中まではすごく良かった。それは本当に心からそう思う」


 棗ちゃんの凛とした瞳に迷いの色がはっきりと浮かぶ。「……それと、千代……」

 棗ちゃんの言葉を遮って、李子ちゃんは小さくかぶりを振った。


「その言葉だけで十分です。ありがとう、天羽さん」


 おそらくコロネちゃんの非礼を詫びようとした棗ちゃんと、それを過ぎたことと水に流した李子ちゃん。

 なんだかあたしの知らないところで大人の応酬を交わす二人に、子どものあたしが声をかける。すると、あたしたちは魔法から覚めたみたいに、いつもの中学一年生の女の子に戻っていく。


「せっかくだから三人で写真撮ろうよっ」


 勢いで言ってみると、二人とも同調したみたいにこくりと頷いた。


 しかしやっぱり勢いだけで言ってみるもんじゃあないな、って気付かされる。こんなときに、我が師父にして副司令、激写命の繭ちゃん先生はいない。

 じゃあ取りあえずこれで、と李子ちゃんが自分のスマホを取り出してくれなきゃ、また棗ちゃんに怒られたかも、だ。


 李子ちゃんのお母さんがシャッターを押す。


 あたしは上手く笑えてるといいなって思った。今日のこの特別な日に、上手く笑えてればいいな、って。


「じゃあ私はこれで。千代ヶ崎さんたちを待たせてるから」


 写真を撮り終えると、棗ちゃんがサバサバと言った。


 特別な日に出し惜しみなんてもったいないから、そばかすがばっちり映るのも覚悟してたあたしにすればとんだ肩すかし。もう二、三枚撮るつもりでいたあたしは、えぇーっ、って口を尖らせる。

 李子ちゃんは、帰りはあたしと一緒に帰りたいってお母さんにお願いしてた。だからこの数秒、気付けばあたしは棗ちゃんと二人きりだったわけで……。


 結構距離を縮めたつもりの気の緩み。尖らせたヒヨコぐちに、棗ちゃんはお約束の厳しい視線をよこしてきた。

 しまった――、そのまま口笛でも吹こうかな、なんて逃避気味な行動をとる前に、棗ちゃんはあたしに耳打ちする。


「七草さん、あの怪しい人とはちゃんと手を切ったんでしょうね」


 当然言葉を詰まらせるあたしと、おっきなため息をつく棗ちゃん。


「確かに、突然犯罪者かもなんて言われて半信半疑なのは分かるけどね……」


 いや、確信的に犯罪者だったんですけど――。

 さすがに言えなくて、あたしはひたすら棗ちゃんの説教に相槌を打ち続ける。冷や汗ものだ。

 さっきまでの儚げな様子がまるで嘘のよう。凛々しき乙女が復活する。『アイアン』な少女というなら棗ちゃんの方がそれっぽいんじゃなかろうか――。これはセンジュさんに伝えてあげなきゃと思った。


 あたしの脇を、大きな旅行鞄を引きずって李子ちゃんのお母さんが通りすぎる。

 転音ちゃんたちを待たせているからなんて言ってたくせに、棗ちゃんのお説教はその後も五分以上続いた。

 あくまで小休止と言わんばかりに息継ぎをしたところで、瞳を瞬かせる李子ちゃんに気付いた棗ちゃん。見れば、撤収作業もすでに終了し、控室にはあたしたちしか残っていない。

 

 咳払いなんかしてみせる棗ちゃんに、「わたしたちも帰ろっか」李子ちゃんが言った。


「そうね」棗ちゃんも同意する。


 その時だった。


 文化ホールの分厚い壁が、低い音をとどろかせながら揺れる。

 ガラスは激しく震え、館内の非常ベルが突如鳴り響いた。


「早くテーブルの下にっ!」


 反応するより先にあたしは声を上げた。


 頭じゃなくからだに刻まれた行動は、月に一回必ず行われる防災訓練のたまもの。新たな〝災禍〟に備えた行動を、もちろん李子ちゃんも棗ちゃんもしっかり覚えていた。

 あたしたちはテーブルの下に身を潜めて、余震に備える。教室ほどの広さの控室、しんと静まり返ったそこで、あたしたちは三人だけの心細さに身を縮こませる。


 数分にも感じられたほんの束の間、李子ちゃんと棗ちゃんは固唾を呑む。

 そしてあたしも固唾を呑んだ――棗ちゃんのアイスブルーのワンピースの、捲し上げられたスカート部に目を釘付けたままで。


 しっかり形作られた正三角形の中から、ちらりとクマちゃんのキャラクターが顔を覗かせていた。


 不安な表情の李子ちゃんと棗ちゃん。

 愛らしい表情のクマちゃん。

 この非常時にクマちゃんはオッスとでも言うように軽く右手を上げている。一向にやってこない地震以上に、なんだかあたしは気もそぞろ。


『行っちゃダメよ、杏――』ふいに頭の中で聞こえたおかあちゃんの声。


 しかしそんな警告にも、たゆまぬあたしの好奇心。ほんのついでみたいなテイで李子ちゃんの方もチラ見してみたけど、そちらは残念ながら……いや、この状況下でも立派に、スカートの裾に両手を添えるお淑やかスタイルを貫いていた。

 あたしの視線に気が付いた李子ちゃんと瞳が重なる。笑顔でごまかすと、勇気づけだと勘違いしたのか、李子ちゃんは力強く頷き返してくる。


 ――ごめんなさい、李子ちゃん、そしておかあちゃん……。これじゃ犯罪者だよ。まるでセンジュさんみたいな犯罪者だよ。


 犯した過ちをあたしが反省していると、


「おかしい、ひょっとして地震じゃ、ない――?」


 真面目な顔の棗ちゃんが、クマちゃん全開で言った。

 だけど鳴りやまない非常ベル。あたしたちがおずおずとテーブルから這い出ると、


「緊急、事態……が、発生しました! 館内にまだいる方は速やかに、外、に避難して下さい!」


 館内アナウンスで男の人の声が響く。その声は毅然としていたものの、どこかもどかしかった。まるでその人自身、いま起こっている事態を理解できていないような……。

 繰り返されるアナウンスに急かされるように、あたしたちは控室を後にする。二階の踊り場にも階段にも人の影はない。


 ふいに遠くの空に花火があがるような音が聞こえた。


 身を怯ませながら階段を駆け下りて、ガラス張りのエントランスを抜けた。

 そしてあたしは、空を呆然と見上げる。

 陽光を陰らせて、それ( 、 、)は存在していた。

 

 ギザギザの牙――、は先端が丸みを帯びていて、リンゴすら噛み砕けそうもない。


 凶暴な爪――、は壁紙を破く姿すら、想像に出来ない。


 そして凶悪なもふもふ――、もう説明のしようが、ない。


「あれは……」


 一瞬、にわかに泳いできた入道雲にも見えたその白さと巨大さ。あまりにデフォルメされた線で形成されたその顔は、可愛らしさを追求しすぎた結果のように、イヌにもネコにもタヌキにも、そしてクマともつかなかった。

 顔に比例しない短い手足を一生懸命にばたつかせる。そして顔の耳らしき部分と、短い手足に生えた、これまた小さなつくりの六枚の羽根をばたつかせる。


 頭の先からくるりんもふもふな尻尾まで真っ白いからだと、くりっくりでルビー色な両の瞳。あたしは逃避気味に棗ちゃんの下半身から顔を覗かせたさっきのキャラクターを思い出す。


 呆然としたままで、あたしは呟いた。


「……ゆるキャラ?」



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