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12 《杏》

 

 湾内からは太平洋へと埠頭が伸びている。

 ピアノコンクールが開催される文化ホールは、市内にいくつかある小漁港のほど近く、海沿いを走る国道の脇に建っている。赤レンガを重ねたような長方形の造りに、ピラミッド型の三角が乗っかっている建物だ。

 学区から少し離れた場所にあるから、明電の電車(正確には電車じゃないらしいけど)に乗って明香里駅まで着くと、そこからは久しぶりのバス旅だ。片道十分の車内で揺られて揺れて、なおさらあたしのウキウキに拍車がかかる。

 開校記念日の火曜日は、これでもかってくらいの晴天に恵まれた。目的地へと到着したバスから降りると、穏やかな陽気にあたしは伸びをする。潮の匂いを運んできたのは、紛れもなく初夏の風だった。


 ピアノコンクールは、小さな町でもそれなりの一大イベント。ホールには大きな看板がいくつも立てられ、懸垂幕が垂れ下がっていた。それにちょっと子供だましみたいだけど、黄色に赤にピンクにグリーン、たくさんの風船で飾られていた。

 一日がかりの今日の日に、李子ちゃんが出場する中学年の部はお昼前の予定だ。

 最新機種のキッズフォンを取り出して、ホールに着いたよ、と李子ちゃんにメールする。ひとつ前の送信履歴に残ったセンジュさんの名前からは、なんとなく目を逸らした……。





「……そうしていると、死んだ櫻子さんにそっくりじゃなぁ」目頭に涙を滲ませて、じいちゃんが言ったのは昨夜のことだった――。


 タンスから引っ張り出してきた白いワンピースは、じいちゃんの感動とは裏腹にさっぱりあたしには似合っていなかった。

 去年の夏におかあちゃんが一度だけ着ていたワンピースは、おかあちゃんには少し丈が短すぎたらしい。それを覚えていたあたしは、今なら着られるかも、なんて淡い期待を抱いていたのだけど、あたしにはまだまだ大きすぎた。胸元の無駄に余った布のふくらみ具合が、あたしをなんとなく惨めな気持ちにさせる。


 そのさまにも感極まるうちのじいちゃんは、サ行とパ行の音が抜ける緩い入れ歯で思い出すように話を続ける。


「そう、あれは確かうららかな春の日のことじゃった……」


櫻子さくらこさんは生ぎった( 、 、 、 、)がぁ、ずさま」


 ばあちゃんの一声に、豹変して訛り散らすじいちゃん。


「せわすたけえのねえみだぐなすめ、ついたづさもけえんねえでこぐぞくねえ」


「出稼ぎさ、はせあるいでんだがらしょうがねえべ、ずさまこそつりっこばっかしてほっづきあるってねえでかせげんせ」


「こばがくせえ、かせぎづくんめからようやぐ解放されだづうに、まだかせげゆうんか、ばさま。んで、うな、あのみだぐなすのみがたさすんのが」


 あまりに癖の強い訛りの応酬に、途中から完全に置いてけぼりをくったあたし。それでも、はたから見てもじいちゃんの旗色は悪い。次第にじいちゃんは口数が少なくなった。うなだれると後ろで結った髪の毛が、肩口に寂しげに垂れ下がった。

 後ろの髪の毛を伸ばして、ゴムなんかで結ってるウチのじいちゃん。普段あたしが出来ないヘアースタイルっていうのはどうかもって思うけど、前の方から禿げてきてるのを気にしてるって知ってるから、それに関してあたしはなんにも言えなかったりする。


 そんなじいちゃんは現役時代、バリバリの漁師だった。若い頃はマグロ漁船にも乗っていたらしい。そしてばあちゃんと結婚した頃、じいちゃんは念願だった自分の船を手に入れた。サンマ漁が主の小型船の名前は『七宝丸』。とはいえ近海の漁はその日の波や天候に左右される。大漁の日だってあれば、からっきしの日もある。若かったばあちゃんはうんと苦労させられたそうだ。

 そんなわけで、ちっちゃくて眠り猫みたいなばあちゃんに、漁師町特有の気性の荒さの持ち主でいっつもランニングシャツ姿のじいちゃんはなんのかんの言いつつ頭が上がらない。


 訛り玉( 、 、 、)を全身に浴びせ続けらてどんどんちっちゃくなるじいちゃんだけど、残念ながらあたしには訛り玉の援護射撃なんて荷が重い。じいちゃんの最後を見届ける前に、そっと戦場を後にした。

 おかあちゃんが出稼ぎでいないので、今はあたしが一人で使っている八畳間。近道するため、じいちゃんの部屋を抜ける。


 じいちゃんのマストな、ランニングシャツが何枚も干された部屋。そこにはじいちゃんが釣りの合間に、友達と三人で撮った写真が飾られていた。

 北の小山の長老格、ちょっとダンディーな崎矢間さきやまずさま( 、 、 、)と、漁師時代からの友達、今や海場の長老格でもある鍬臥くわがずさま( 、 、 、)

 あの日。じいちゃんは沢山のものを失った。宝物だった船、『七宝丸』。それに……。

 二人の友達は助かったけど、海場と山場に出来た深い溝の間で傷ついて、そのどちらとも交流は途絶えてしまった。


 あたしは少しだけ薄暗くなった気持ちを振り払うように、隣の部屋まで駆けていった。


 おかあちゃんのワンピースが不発に終わるのは想定内。あたしはこの日、早々と勝負に出る。つまるところ『おきにきた』ってやつだ。

 ふすまを開けざま、「じゃーん」と飛び出す。細三つ編みから解放された少々広がりぎみなロングの黒髪も、不器用ながらふわりと舞ってみせた。

 茶の間で、じいちゃんがうんうんと頷き、ばあちゃんは茶をすする。弟のウメは興味もなさそうに、寝転んだままポテチ片手に漫画の雑誌をぱらぱらと捲っていた。


 あたしのとっておき、それはいわゆる『間違いのない』正装の類だった。

 グレーのパイピングジャケットに、タータンチェックのスカート。シックになり過ぎず、それでいて華やかさだって感じられる。自信に満ちた一品は、小学校の卒業式用に購入したものだった。黒や紺の衣装が多かった式で、少数派の明るいグレーを褒められたこともあって、あたしの中でそれは間違いのない衣装だった。


 なのに。


「違うな、ねえちゃん。それは違うな」

 

 意外にもケチをつけてきたのは、一番興味のなさそうなウメだった。

 夕ご飯を三杯もおかわりしたくせに、袋入りのポテチを口に放り入れながら言った。


「ねえちゃん、それ卒業式のやつだろ」


「そうだよ」だからこその鉄板ゆえ、自信満々にあたしは言った。ウメのくせに姉に意見するなど生意気な、ふふんと鼻を鳴らしてあたしは見下ろす。


 ウメはポテチの塩気のついた指をひとなめしたあとで、大げさにため息をついてみせた。


「ってことは三ヶ月前に着たばっかじゃん。それに友達の演奏を見に来たってテイにしちゃなんか固すぎるし。ねえちゃんが主役ってんならいいかもしんないけどさ、主役はあくまで李子ねえちゃんだろ」


 いがぐり頭のくせに。指についた塩味をなめちゃうくせに。子供のくせに、もっともなウメの指摘に、うっ、と言葉を詰まらせるあたし。


「良く見れば、チェックの紫色と黄色は反対色だから不釣合いだし、重心が上に偏りすぎてるから不格好だ」


 茶をすするばあちゃんが、ついでのように的確な批評を下した。

 やっぱり興味もなさそうに、ウメは寝転がったままで続けた。


「きっとさ、ねえちゃんだけじゃないだろ。李子ねえちゃんの同級生だって他にも来るんだろ。だったらさあ、やっぱ卒業式に来てた衣装ってまずくない? ねえちゃんの衣装を覚えてるかどうかは分かんないけどさ。もし覚えてたらさあ、まだねえちゃんはいいよ、でも恥かくのは李子ねえちゃんだぜ」


 恥――ですか、あたし。李子ちゃんにとって。


「それは困るだろ?」

 

 ウメの問いかけに、あたしはこくこくと頷く。

 それを確認したウメが隣の部屋を指差す。「よし、なら行けねえちゃん」


 あたしはボールを放られた犬のように、いや犬にだって負けてなるものかといった勢いで自分の部屋へと駆けこんだ。

 だけど、李子ちゃんの恥とならないよう、オシャレ脳をフル回転させたあたしの頭はあえなくオーバーヒートを起こした。引き出しの中身をひっくり返し、おっくり返す。そして、途方に暮れた。おしゃれってのは難しい――あたしの女子力はあっさり挫ける。


 八畳間のすみには、難しそうな書物の敷き詰められた本棚。それは、こどものあたしじゃ読めもしないような専門書にばっかりお金を掛けちゃうおかあちゃんの数少ない私物。

 あたしの女子力が低いのは、基本シャレっ気もないおかあちゃんから受け継いだ遺伝なのかも、なんて思うけどそれはそれ。部屋中に散乱する衣類をタンスへと片付けながら、不甲斐なさにあたしは悶々とする。


 観覧者用の衣装なんて、李子ちゃんに相談できれば一番いいのだろうけど、明日の演奏を控える李子ちゃんに電話するのはなんだか気が引ける。

 そんなあたしを、話半分になったワルツさんとのやりとりが、なおさらにモヤモヤとさせた。おかげで、そう、センジュさんのおかげで、今日も一日授業に身が入らないったらありゃしない。

 答えなんてない問題にひとり悩めるあたしは、その時ふとした失敗に気がついた。


「……わるはらに行ったときに言っておけば良かったなぁ」


 明日の予定を伝えておくために立ち寄った、とでも言っておけばまだ自然だったような気がする。なのに、別れの挨拶がイカせんべいについてじゃ不自然極まりない。きっとセンジュさんも怪しんでいることだろう。

 もはや気の利いた言葉も絞り出せないあたしは、味もそっけもないメールを送った。


 明日は文化ホールで李子ちゃんの音楽発表会。センジュさんにはつきあえません――。





 衣装のチョイスに、数学のテスト以上に悩みぬいた昨晩を経て、結局あたしは学校指定のセーラー服でやってきた。

 当たり障りのないチョイス。入学式以来のローファーと、新調した黄色のセーラータイがあたしの精一杯。それでも休日使用のヘアースタイル、ポニーテールに要したのは一時間半という力の入れ具合だった。


 奥まった所にある自販機で、あたしはサイダーを購入する。ばあちゃんがうるさいので中々飲めない炭酸水。久々すぎる刺激に少しむせていると、李子ちゃんがやってきた。

 李子ちゃんはミントグリーンのミニドレスを着ていた。まさしく一張羅といった装いに、今日の李子ちゃんはあたしが見てきた中でも三本の指に入る可愛らしさだった。

 だけど、その表情は暗い。衣装に合わせるためか、今日はしてないトレードマークのヘアピンも、コンタクトレンズにしてかけてないメガネも、少しだけあたしを寂しい気持ちにさせる。


 緊張のせいか、どこかぎこちなくはにかむ李子ちゃん。でもその理由は別にあった。今日は来てくれてありがとう、そう言った後で躊躇いがちに続けた。


「……やっぱり先生、体調が優れなくて来られないって」

 

 その声はとても悲しげだった。いつもは愛嬌たっぷりに映る眉も、今日に限っては困り果てているようにしか見えない。

 途中からなんとなくは気付いていた。だけどやっぱり言葉にされると、あたしも悲しい気持ちになる。だからそれを振り払うように、言葉を紡いだ。


「そっか、じゃあ李子ちゃんは先生のためにピアノを弾かなくっちゃだね」


 長いまつげを瞬かせながらきょとんとする李子ちゃんに向けて、


「だって李子ちゃんのピアノは聴いた人を元気にするもん。だからそれを先生に届けることが最高のお見舞いだよ」


 あたしは微笑んだ、と思う。少なくともそういう顔になっていればいいな、って願いながら。


「うん、そうだね」


 言葉を返してくれた李子ちゃんに、あたしは少しほっとする。


「ほら、あの、なんだっけ? センジュさんがやってるみたいな動画発信とかで送ればいいんだよ、きっと」


 残念ながらあたしのキッズフォンでは出来ない専門的な方法を、なんとなくで伝えてみる。身振り手振りでケータイを持ち上げたとき、ロードローラーのガレキちゃんが揺れた。

 それに気づいた李子ちゃんが、あっと声を上げる。そして嬉しそうに微笑んだ。

 パッと見、右手が土管から抜けなくなっちゃった間抜けな感じはいなめないものの、彼女は李子ちゃんに笑顔を取り戻してくれるという大役を見事にこなしてくれた。苦労して机の中から発見した甲斐があるってもの。いや、ここは素直にガレキちゃんに感謝したい、ということはセンジュさんにも感謝ということだろうか? ちょっとだけ複雑な心境だ。


 動画発信とか、というあまりに他人任せでざっくりとした励ましの言葉ではあったけど、李子ちゃんは笑みを残したままで頷き返してくれた。それを見るに、どうやら李子ちゃんのスマホでは問題なく出来るらしい。


「お母さんがビデオに撮ってくれるから、送ってみるね」

 

 動画を送って送られて、革新的に進んで行く世界。キッズフォンのあたしは、なんだかそんな世界に取り残された気がして、ちょっとだけ孤独感なんて覚えたりもする。


 と。


「孤独……」


 見透かしたみたいに李子ちゃんが呟く。


「うなっ!?」慌てふためくあたし。


 それを見た李子ちゃんは余計に慌てた。


「えっ、いや、ごめんなさい。急にこんなこと言って」


 激しくかぶりを振る。そのあとで、気を落ち着かせるように李子ちゃんは軽く深呼吸をして、


「杏ちゃん、ひとくち貰っていいかな」


 無邪気っぽく舌をペロリと出した。あたしはそんな李子ちゃんがたまらず可愛くて、見とれたままでサイダーの入った缶を差し出す。

 李子ちゃんは、律儀にもサイダーをひとくちだけ飲んだ。


「先生の連絡があってから、朝ごはんも食べられなかったんだ。お母さんに心配かけたくなかったけど、水も喉を通らなくて。待合所にはお母さんも付いててくれてるのに、一人ぼっちの気がして。わたしは孤独なんだ、なんて。バカみたいだよね、わたし」


 そして、恥ずかしそうに笑った。

 あたしは黙って見つめていた。その瞳に、李子ちゃんの瞳が重なる。


「おいしかったよ、サイダー。ありがとう杏ちゃん。杏ちゃんこそ、いっつもわたしを元気にしてくれる。杏ちゃんは、まるでわたしが元気になれるアプリみたいだね」


 真面目な顔で見つめてくる李子ちゃんに、しかし『アプリ』という単語にキョドるあたし――まさか、李子ちゃんの中でもあたしはメイデンジャーアプリという位置づけに!?


 と、李子ちゃんが思い出したように継いだ。


「あっ、杏ちゃんスマホじゃなかったんだ。あのね、スマホにはアプリ、っていってその人にとって必要なソフトを自分で入れられるんだよ。だからわたしには杏ちゃんがとっても必要なんだ、ってことが言いたかったの」


 納得しつつ、李子ちゃんにとって必要な、って言葉におのずとニヘら笑いがこみ上げてくる。今度は確認するまでもなくニヘらってたはずだ。

 そんなあたしへと、


「ちょっと気持ち悪いわよ、七草さん」


 余韻をつんざくあの声が聞こえた。

 我が身を氷と化したあたしに代わって、李子ちゃんが挨拶する。


「こんにちは、天羽さん」


 振り返った先に棗ちゃんが立っていた。膝丈までのアイスブルーのワンピースとローヒール、その姿はまさにあたしの心まで永久凍土とせんとする氷の精だった。


 上品なブルー系の着こなしはさすがお嬢様って感じでパーフェクト。もともとの肌の白さもよく映える。しかし今日の装いにその隙のないお団子頭はいかがなものか。せめて黄色系の衣装をチョイスして頂ければ、キリン感も二割増しであたしに対する氷結能力も和らいでくれただろうに……。


 転んだら折れてしまいそうな線の細さとは一転して、今日もその目力たるや凛々しい事この上ない。

 そんな棗ちゃんに、勇気を振り絞ってあたしは声を掛ける。


「な、棗ちゃんも来てたんだね」


「ウチもいるけどぉ」棗ちゃんの後ろで、山藤曲輪ちゃんが面倒くさそうに言った。

 こちらは黒のパンツルック。背高のせいもあってか、なんだかタカラヅカを連想させる。

 曲輪ちゃんは、以降あたしたちと言葉を交わすような素振りもなく、自販機の前までやって来ると黙々とお茶やらオレンジジュースやらを買い込んでいた。

 ショートヘアーの良く似合う曲輪ちゃんはバドミントン部のエースだ。

 身体能力も抜群で、陸上競技も男子顔負け。それなりに運動神経には自信のあるあたしだって全然敵わない。まあモデル体型の曲輪ちゃんと、前ならえで前から二番目のあたしとじゃ、そもそも足の長さからして違うから当たり前と言えば当たり目の話だけど。

 ちらとボーイッシュな横顔を盗み見ながら――元気っ子キャラならここにいますよ、繭ちゃん先生。あたしは不満を再燃させてみたりする。


「私たちは千代ヶ崎さんの演奏を見に来たんだけど、柏木さんもがんばってね。応援してるわ」

 

 棗ちゃんは李子ちゃんに向かってにこりと微笑んだ。そこに他意はまったく見られずほっとする反面、あたしには目も合わせてくれない棗ちゃんに、心境としては複雑だ。


「ところで柏木さんの発表曲は何にしたの?」


「『月光』にしました」


「そう。私は柏木さんの演奏はテンポのある曲の方が好きだから、ちょっと残念かも」


「わたしの演奏聴いたことあるんですか?」


「クラスメイトだもの、当たり前じゃない。この間の放課後、音楽室で『子犬のワルツ』弾いてたのって柏木さんでしょ?」


「シューベルト、好きなんです」


「やっぱり。私的には『月光』、ベートーヴェンよりはシューベルトの、『黒鍵』とかの方が柏木さんっぽくていいと思うな」


 あたしを置いてけぼりに専門的な音楽談義に話を咲かせる二人。なおさら心境が複雑になっていると、両手いっぱいに飲み物を抱えた曲輪ちゃんが再び面倒くさそうに言った。


「ナツぅ、そろそろ戻んないと」


 我に返った棗ちゃんが、


「ああ、ごめんなさい、山藤さん」

 

 曲輪ちゃんから飲み物を半分受け取る。そんな時、更なる混乱がやってきた。


「あらぁ、遅いと思ったら、柏木さんたちと一緒でしたのぉ」


 頭から足の先まで、ピンキーに次ぐピンキーな衣装。まるで巨大なピンク色のバラをひっくり返したようなドレスの裾、これでもかってくらいのフリルに足を取られながら千代ヶ崎心音ちゃんがやってきた。

 あたしとそうは変わらない身長に、やけに取る横幅。ツインテールのリボンも、今日は一段と大ぶりな気がする。

 心音ちゃんの登場に、さっきまでのリラックスモードから一転、表情を強張らせる李子ちゃん。

 知ってか知らずか、心音ちゃんは愛くるしく微笑んだ。


「柏木さんって第一控室でしょお。会えなくって心配だったから、天羽さんたちを探しに来て正解でしたぁ。コロネ、柏木さんに頑張りましょうって伝えたくってぇ」


 李子ちゃんがみるみる緊張していくのが、あたしには分かった。


 少しずつ、少しずつ、李子ちゃんはいつも通りの演奏ができる状態を取り戻しつつあったのに。今日、李子ちゃんは過去最高の音を奏でられる、そんな予感さえしていたのに……。

 もはや計画的にすら感じられる心音ちゃんの間の悪さをあたしは恨んだ。そして同時にもはやあたしにはどうすることも出来ないのだと理解した。

 あたしには靴のつま先をじっと見つめることしか出来ない。誰でも良かった。誰でもいいから助けて欲しかった。

 この状況が変わるなら。今この瞬間に李子ちゃんに笑顔を取り戻すことができるなら。メイデンジャーなら可能だと言われれば、あたしは喜んでメイデンジャーになっただろう。だけど今この瞬間にメイデンジャーは無力だった。あたしは無力だった。だから、だから誰でもよかった。こんな状況を変えられるなら――センジュさんだって……。


 そのとき、あたしたちの周りを発光が覆った。

 靴の先を見つめることしか出来なかったあたしが顔を上げる。


 そこに彼女がいた。

 心音ちゃんに負けず劣らずのガーリィな装い。黒を基調としたワンピースとニータイツ。あまたのリボンやフリルで装飾されたそれは、ゴスロリファッションと呼ばれる類のもので、両目がボタン製のうさぎのぬいぐるみまで抱える完璧な仕上がりだった。

 そして、それは今まさに自販機前に集まる十代たちを見据えてなお、怯むことなき丈の短さで太ももを露わにしていた。


「激写激写ぁ♪」


 繭ちゃん先生が朗らかに言った。


 あたしはぼんやりしたままで尋ねる。


「な、なんで繭ちゃん先生がいるの?」


 繭ちゃん先生は胸を張って誇らしげに、


「だって、教え子の活動を見守るのは教師の務めでしょ。今日も激写するわよっ」


 すると、棗ちゃんが厳しい声を上げた。


「先生! それならそれで教師らしい恰好をしてもらわないと困ります!」


 繭ちゃん先生の衣装は主役級の、つまりは観覧者というよりも発表者寄りの目立ちぶりだった。

 その衣装は童顔で小柄な繭ちゃん先生には良くも悪くも似合っていたが、その後も続く棗ちゃんの説教にせっかく張った元々ない胸を引っ込めると、尚更あたしたちとそうは変わらない年端に見える、そんな衣装だった。


「……着物にしようか悩んだのよ、ほら先生着物美人でしょ。でもそしたらどこぞの姫君に間違われて、ひがみから世の歴女を敵に回すんじゃないかと……」


 棗ちゃんに詰め寄られる繭ちゃん先生はよく分からない言い訳をしていた。

 ちなみにあたしが、おそらくクラスメイトも繭ちゃん先生の着物姿を拝見したことはない。

 ただ、センジュさんから復興戦隊副司令という大任を仰せつかったとき、『イベント』だとかで先日使用したらしいなんとかってキャラクターのパンクロック調に改造した着物(自作)を、設定上着ようかどうか迷っていたのは聞いたような気がする。


「……先生だって分かってるのよ。つまりこういうことでしょ、このタイプのゴスロリ衣装にショートヘアーは合わない、そういうことでしょ。でもね、こないだのキャラが、ショートヘアー設定だったから泣く泣く切ったのよ。先生はね、ウィッグとかそんなものでごまかすような人生は送りたくないの。結構それなりに完コス主義でやってきたつもりなのよっ」

 

 棗ちゃんの天賦の追い込みに、もはや支離滅裂なことを言い出す繭ちゃん先生。でも確か、一か月前にばっさり切ったショートはイメチェンだと言っていたような……。


 仁王立ちの棗ちゃんと、縮こまる繭ちゃん先生。どっちが先生か分かったものじゃない。


「ううー、先生は、先生なのにぃ……」


 どうやら今日の被害者はあたしじゃないらしい――、なんて思えるくらい、さっきまでの薄暗さは晴れていた。あたしの口元が自然と綻ぶ。


 そして。


 苦笑いには違いないが、李子ちゃんの顔にもほんの少しの余裕が見て取れた。それがあたしには嬉しかった。

 あたしは思う。結局、人はみんな孤独なんじゃないかって。

 大勢の中にいればいるほど、一人ぼっちの気弱さに自分を信じられなくなっちゃうんだ。本番前の李子ちゃんみたいに。大切なときに無力さを痛感したあたしみたいに。

 だけどそれじゃあんまりにも悲しいから、こうして繋がっているんだ。人と人とが輪になって、そしてその時々で、誰かが誰かの支えになるんだ。

 きっと世界は意地悪で残酷で、痛みに満ちているのだろう。そんな世界に一人で立ち向かったら傷だらけになるに決まってる。だから、みんなで繋がって輪になって。誰かが誰かのアプリになる。

 そんな誰かの孤独を埋められるアプリに、あたしもなれたならいいなって思う。


 そしたらその輪の中には、ほんとについでだけど――センジュさんも入れてあげたっていいかもしれない。



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