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11 《千》


 ウミネコがみゃあみゃあと鳴いていた。

 干潮の潮騒は穏やかにして、水面は柔らかく揺れる。入り混じる空と海は、みずみずしいまでの青。湾内を抜ける爽やかな海風が、ネルシャツの裾をわずかにはためかせていった。


 折り畳み式のポータブルチェアにもたれ、手にした釣竿を軽く振る。手ごたえはゼロ。俺の口からは、あくびがついて出る。今日はまるきり引きがない。

 対岸に小さく映る、かつて沿岸の集落があった地域を、昇り始めた太陽が照らす。そこを囲む防波堤の工事は、さっぱり捗っちゃいなかった。

 被災から九年、完成の目処も立たない防波堤を眺めながら、俺はもひとつあくびをする。

 津波でごっそり持っていかれた集落の跡地には、〝災禍〟後まもなくのどさくさに乗じて『悪い連中』が住み着いたらしい。とはいえ、それだって今や昔の話か。遅くまで遊んでると悪い大人に連れてかれるぞ――怪談噺かいだんばなしよろしく子供を震え上がらせたそんな噂も絶えて久しかった。

 少なくとも俺がこの町に帰って来て以降、集落跡地で騒ぎが起きたなんて話は皆無。大人しくって動きなんてない。

 それは、まるで今日の凪いだ海のようにも……。


 じっくり待つことが重要だ。針は垂らす程度で、あとは波のまにまに任せるだけ――。


 それがオヤジから習った釣りの極意というヤツであり、まだガキだった頃の俺が学んだこともただのそれだけだった。

 とはいえ、その教えを受けてから早二十年、教えを忠実に守る俺はといえば、今日も今日とていつもの波止場で釣りをしている。

 俺にとって、オヤジとの思い出は釣りだけ。他の思い出といえば、たいがいが最終的にはゲンコツを喰うことになるから、目から飛び出た星と一緒に、記憶もどっかにいっちまったらしい。まるで覚えちゃいなかった。

 普通の会社員だったオヤジは、仕事が休みともなるといつだって釣りに出かけていった。

 その後ろ姿を俺もよく追いかけて行ったものだ。そんな時は学校をサボっても何も言わなかったし、俺が誤ってテトラポットからダイブしても、おふくろに内緒でまた連れて行ってくれた。

 別になにか話すでもなく、少しの距離を置いて竿を傾ける。そしてお互いを意識するでもなく、視線はただ水面を見つめていた。

 もちろん他にも何かしらはあっただろう。でも、今となってはそれがオヤジとの思い出のすべてのように感じられた。


 子どもの頃と変わらぬ強い潮の香りが鼻腔をついた。


「……いいかげん帰ってこいよ、オヤジ」


 波止場にぶつかる波の音に、我に帰る。無意識に吐いた言葉は自分のもの。もちろん分かってはいた。分かってはいたけれど、周囲を見回さずにはいられなかった。

 離れた波止場に立つ、俺に負けず劣らずここに通い詰めの緩い入れ歯のじいさんが、得意げに釣ったカレイを持ち上げてみせる。


 現役時代、バリバリの漁師だったというじいさんは、若い頃はマグロ漁船にも乗っていたそうだ。やがて、じいさんは念願だった自分の船を手に入れた。サンマ漁が主の小型船の名前はたしか……『七宝丸しちほうまる』と言っていた気がする。

 だが、九年前の〝災禍〟により船は失われた。奪い去ったのは、じいさんが共に生きてきた海だった。〝災禍〟後まもなくに息子の嫁さんも亡くしたと語っていたから、じいさんにすれば二重苦どころか三重苦だったに違いない。

 永い葛藤があったはずだし、もしかすればそれは今なお続いているのかもしれない。だが、だとしても、じいさんは今日も波止場に立ち続けている。


 俺の反応に期待感丸出しのじいさんに、ばつ悪く苦笑なんか返した後で、一人呟いた。


「思ってはいても口に出したことなんてなかったのにな……」

 

 オヤジが行方をくらまして随分経つ。それきり俺もおふくろも、その顔を見ていない。


 あれでなかなか甲斐性なしだったからね、きっと悪いのに引っかかって連れてかれたのよ――オフクロは力なく笑ったが、俺にはまるきり笑えない冗談だった。


 それ以来オフクロは、ホームヘルパーの仕事になおさら精を出すようになった。

 まるで天使みたい、と言われた俺の育児も一段落して、四十過ぎで資格をとったオフクロ。天職だとは語っていたが、オヤジのこともあってその時期のオフクロは、『鬼ヘルパー千寿』の異名を賜るほどに、誰のためのヘルパーだか分からない本末転倒名な働きぶりだったらしい。気丈に振舞ってはいても堪えたはずだ。少なくとも俺にはそう見えたし、実際俺はそうだった。

 

 毎日、この波止場で釣りをするたび、オヤジのことが頭をよぎった。

 それでも毎日続けていれば習慣にもなるってものだ。だからそんな思いをわざわざ口に出す必要もなかったのに……。

 三つめのあくびはごまかしにも似た心境で。

 俺はどうやら相当に浮き足立っているらしい。昨日の件を思いのほかに引きずって――。


 昨日の杏ちゃんの、いかにもな不自然さ。探りを入れようと久々に誘った飲みも断られ、ワルツからはなにも聞き出せずにいた。

 しょうがないからこれまたいつもの一人酒。悶々とする気持ちを紛らすべく、手にした肴は花無仁知果博士からのプレゼント。携帯用のインカム、ソイツを弄り回しながら、ちびちびとビールを流し込む。

 折りたたみ式の右耳に引っ掛けるタイプのインカムは、側面に青色と赤色の小さな突起がついている。青色のものはボタンといって差支えのない形状で、押す度にカチカチ鳴ったが別にこれといった変化はなし。赤色のものは捻ることのできるツマミといった感じで、そっちも弄ってはみたが、やはりこれといった変化は起こらなかった。

 起動することのない機械はまるで俺を嘲笑っているみたいで、なおさらに悶々とさせる。鳴らないインカムは、変わらぬ世界を暗示しているかのよう。

 となれば、はかどるのはアルコールばかり。寝落ちのかたちで意識を刈り取られたのは朝方近く。安眠には程遠い。

 だのにそんな俺を叩き起こしたのは、こんな事態の張本人だった。

「――仕入れに行く時間だぞ」寝ぼけ眼の俺に、ワルツは冷徹にそう言い放った。

 

 そして、早朝からワルツは港近くの魚市場に仕入れに、それを待つ俺はいつものように波止場で釣り糸を垂らしている。

 昨日のモヤモヤと本日の不漁。そりゃ心の声も漏れるってもんだ。

 さっぱり引きの来ない水面とにらめっこを続けるのにも少し飽きて、気を取り直すように首を回す。

と、その瞬間、俺は不覚にも「ひやっ」と声を上げてしまった。

 微動だにせず俺を見る視線。それがすぐ隣にあった。


「あの……どうかしましたか?」


 バカみたいに気弱な質問をする俺を、ひとりの少女が見つめていた。彼女は糸の垂れる水面にはさっぱり目もくれず、俺を凝視している。


 少女は言った。


「人類観察を少々」


「はあ」


 少女は陽によく焼けた小麦色の肌をしていた。

 ツクリモノとは思えない、透き通るような銀色の髪は杏ちゃんにも似たショートヘアー(杏ちゃんのはツクリモノだけど)、それに額のホクロ……風のペイント。そして杏ちゃんたちと同じ北中のセーラー服を着ていた。

 柔らかに通り過ぎる海風にプリーツスカートが微かになびく。伸びた足にはハイカットのスニーカー、その直ばき。靴下は( 、 、 、)履いて( 、 、 、)いない( 、 、 、)


 明香里市には、エリアごとに東西南北を頭に付けた中学校があるが、詳しく言えばそれは明香里市になる以前の旧市を区分けしたという意味での話だ。

 明香里市は、近隣の町村と合併を繰り返したこともあって、市名が変わる頃には県下最大の土地面積を有するまでになっていた。そんなわけで町村の名を冠していた中学校は、もれなく明香里市由来の中学校となった。つまり明香里第一から第七までの中学校である。

 数字表記と東西南北、全部で十一ある中学校でも、三本ラインのセーラー服に黄色いスカーフといえば北中だけだと記憶している。まあ俺の母校なわけだから間違いようもない。

 そして、おそらく大人の事情に違いないだろうが、今日は十一ある中学校のすべてが開校記念日で休みのはずだった。


 メイデンジャーの活動のため、ひいてはこの町のため、杏ちゃんのスケジュールを把握していたつもりの俺は、ちょっとだけ慌てた。


「きみ、学校は?」


「学校――。うむ、学校とは教育のための建物、または幼児・生徒・学生その他に対して教育が行われる場所のことである」


「いや、そういうんじゃなくって。今日は休みじゃないの? その制服、北中だろ?」


「この服装はあなたの記憶、そのアーカイブ上の履歴で、直近によく表出するものをテキストとして貼り付けているに過ぎない」


 はあ、と困惑気味の相槌を打つ俺に向けて、


「これはつまりあなたの最近の記憶の大半を占めるヴィジョンであるからして、うむ、あなたはロリータコンプレックス、つまりロリコン的な気質があるものと判断する」


 真っ直ぐな瞳で少女は言い切った。

 気圧される俺。勝手に進行していくキャラ付けなんて、そう酷い話もないものだ。


「ところで聞きたいことがあるのだが」


 俺の設定を弄り終えた少女が、勝手に話を進行していく。そこに俺の同意なんて必要ないらしい。そうか、これが冤罪の始まりだな――なんて思っていると。


「手に入れたいものがあるのだ」


 言いながら、スカートを捲し上げる。

 呆気にとられる俺を置き去りに、


「それは、『感情』だ」


 少女は威風堂々言うや、ずらした下着の白い肌を覗かせる。

 小麦色の肌と白い肌、明と暗のコントラスト。まるで誇らしげに見せつけてくる。

 もはや何がなんだが分からずに、俺は混乱する。ただ頭の中で警鐘が――冤罪だ、完璧に冤罪パターンのヤツだ、と喚き散らしていた。


「あの、その、きみ、いったい、えっと、その」


 三十過ぎのおっさんが俯いて、耳まで真っ赤にしてどもっていると、


「……お前、また通報されんぞ」


 冷めた声が後ろから聞こえた。


 振り返った先で咥えタバコのワルツが立っていた。小粋にかぶったチャコールグレーの中折れ帽、その下で視線は明らかに訝しんでいた。


「中学生捕まえて、なんか変なことしてたんじゃないだろな」


「違うって、俺は無実なんだ。信じてくれ、これは冤罪なんだワルツ。むしろ変なことされてたのは俺の方っていうか、その、なあ、きみ」


 罪を犯した人間は大体そういうもんだ――、そんなワルツのジト目から逃げるように視線を移すと、少女はすでに離れた波止場にいた。

 潮騒に、空の青さにはたと気がついて時々目を留める姿は、初めて訪れた場所の散策にも似ている。目に映るもの、そのすべてが新鮮なような。ウミネコに誘われたから、とでもいった足取りで少女は行ってしまった。


「いや、まあ、なんでもないです」


 遠ざかる少女の背から視線を話して、俺は言った。

 言った後で、なんでワルツに敬語なんて使っているのか、と早々に軽い自己嫌悪。なんだか無性にむしゃくしゃする。こんな時は三年前にやめたタバコでも吸ってやりたいものだ。だがワルツのホープのライトだかピースのライトだかいうタバコは、名前のくせにちっともライトじゃないので手を伸ばしにくい。


「ハライチお前な、この間もここで職質受けたばっかりだろ。少しは自重してくれないと」


 紫煙と共に、溜息をワルツは吐いた。


「この間のは、ただ海に向かって叫んでただけのことだろ。みんなやってんだろうが、ヤッホーとかバカヤローとかってさ。それで職質って意味分かんねーし」


「ヤッホーは違うだろ。てか、なんでもかんでも海に叫んでいいってもんじゃないし」


「みーんなーやーってるってー」


「田舎の、田舎のくせに、田舎の方が、性が奔放( 、 、)過ぎるってどういうことだバカヤロー、ってどこのみんなが叫ぶんだよ」


「それは違うって、俺じゃないって。百歩譲って俺だとしても、口に出しちゃいないって」


「ほう。なら、いつの間にやら警邏のお巡りさんがエスパーな能力でも開花させたと?」


「そうっ! きっとそうっ! くそぅあの時だ! あの時、ヤスのヤツに読み取られたんだ‼ てことは、俺むしろ被害者!? だってあれはあくまで心の声……」


「――だとしたら、お前の心の声だだ漏れだよ」


 くっきり二重まぶたの瞳に、なんとも複雑な感情の色が灯る。潮騒の音も間近な波止場に立つワルツ。二時間サスペンスのラストにも似た面持ちで、犯行の動機を結論づけた。


「……お前のビョーキ、治ってなかったんだなぁ」


 俺は慌てて首を振った。この町の名士の一人息子の力でもって、入院でもさせられたら堪ったものじゃない。


「あのワルツさん、灰が落っこちそうですよ」へつらうように揉み手で話す俺。短くなったタバコへとワルツの視線と意識が移った瞬間、畳み込むようにまくしたてた。


「で、どうよ。なんか掘り出し物でもあったか?」


 苦し紛れにも似た言葉に、しかし「ん、ああ」とワルツが呟くのを見て、俺は内心で小さくガッツポーズを決めた。

 その時には、ワルツはうるさい小舅こじゅうとから、居酒屋わるはらの専属調理師の顔に戻っていた。


 居酒屋稼業に勤しむ日々も、平日は客の入りが悪い。

 だからどうしても、週末以外は卸しで残った安食材に頼らざるを得ない。それはそれでも、それなりのものをウチの一流シェフは用意するわけだから別に悪くはないだろう。こっちだってそれに( 、 、 、)関しちゃ( 、 、 、 、)ボランティアでやってる訳じゃあないのだ。

 なおいえば、そこそこ安定した収益を叩きだしているとはいえ、わるはらの利用客は良くいや常連。そうでなければ代わり映えのないメンツが主だ。居酒屋稼業にも、そしてそれ以上( 、 、 、 、)においても、新規のお客さんの開拓は必須なのだ。


「まあ、それなりに……」短くなったタバコを携帯灰皿に押し付けながら、ワルツは深々と紫煙を吐いた。その顔は美味さより、苦さが勝るような色が濃い。


「ハライチ……例のモン、入荷の目処が立ったぞ」


 ワルツの言葉に、俺の芯は熱くなっていった。興奮しているのが自分でもわかった。

 

 ――これで世界が変わる。


 だが、それは同時に、後戻りができないことも意味していた。

 世界を変えるのに、犠牲はつきもの――そのための起爆剤( 、 、 、)だ。俺はすべてを覚悟した上で、深く頷いた。

 

 しかし、ワルツはそれで満足できたようではなかった。


「なあ、ワルツ……」


 俺が気休めの言葉を掛けようとするのを遮って、ワルツは小さく首を振った。


「そうじゃない。それはもうここまで来ちまったことだ、不安はあっても揺らいじゃいない」


 その声に纏わりつく苦々しさ。それがタバコのせいでないことくらい、俺にも十分に察することができた。ワルツの不安は別のところにあった。

 ワルツは、俺の顔を見据えて口を開いた。


「さっき、蜜唾の姿を見かけたぞ」


 え――、俺の中で時間が止まる。そしてゆっくりと時計の針が巻き戻されていく。一年前のあの日へと……。


「見間違いじゃない、と思うぞ。写真とまったく同じ迷彩柄の帽子もかぶってたしな……」


 ワルツの言葉は途中から耳に入ってこない。意識は別のところにあった。国家の犬たるヤスには伏せられた、俺自身の過去へと。

 頭の奥でメッセージがちらつく。


 レインツリーより入電:革命の日は近い――。


「……ハライチ、お前、まだ連中と繋がってるわけじゃないだろうな?」ワルツの声は空に消えていく。

 俺はただ、その男のことを思い出していた。


 蜜唾憂志みつばゆうし――通称、『殺人蜂キラービー』のことを。



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